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2021年9月18日 MicrosoftNews JBpress「江戸時代、幕府に「鎖国」という言葉は存在しなかった
玉木 俊明
© JBpress 提供 1824~1825年頃に描かれた出島の鳥瞰図(アイザック・ティッチング, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で)
江戸時代の日本は、一般に「鎖国」政策をとっていたと言われます。じつはこの「鎖国」という用語は、五代将軍・徳川綱吉の時代に2年ほど出島に滞在していたドイツ人の医師エンゲルベルト・ケンペル(1651〜1716)が著した『日本誌』のなかで使った言葉だとされます。
より正確には、1801年にケンペルの著書の中の一部をオランダ語版から翻訳した蘭学者の志筑忠雄が、それを「鎖国論」という題にしたことが、「鎖国」という言葉の始まりでした。
つまり、江戸幕府が「鎖国」という言葉を使ったり、公式に「他国との貿易をやめ、国を閉ざす」などと宣言したりしたことは一度もありませんでした。鎖国という言葉が一般に知られるようになるのは明治時代になってからのことでした。
日本の鎖国と中国の海禁政策、違いはどこにあったのか
「鎖国」という言葉には、なんとなく海外諸国と完全に断交したようなイメージがありますが、当時の日本は完全に国を閉ざしていたわけではありませんでした。
日本は、長崎、対馬、薩摩、松前の「四つの口」を通じて海外とつながっており、そこを窓口に幕府の管理下で貿易が行われていました。
対外交易を一部の場所だけに限定する「海禁政策」は、実は当時のアジアでよく見られたものでした。要するに、民間の自由な貿易を禁じ、国家が貿易を管理する体制だったのです。たとえば中国では、明朝~清朝の時代に海禁政策がとられていました。その時々によって厳格化されたり緩和されたりしていましたが、1757年、清朝の乾隆帝の時代には、外国との貿易を広州一港に限定し、貿易は特許を与えられた商人だけに認められ、政府が貿易の管理をする体制にしました。これは、日本の鎖国体制下の貿易と似た側面を持っていました。
国家が貿易を管理するとは、考えてみれば当然のことです。そしてそれが可能だったのは中央集権体制が進んでいたからです。
すでに日本の律令制度を論じたときに(連載第72回)、中国では皇帝の独裁政治による中央集権体制が整っていったと述べました。
(参考)中国の最新鋭国家運営システム「律令制」はなぜ日本で消滅した
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/65928
それに対し日本で中央集権体制が整い始めるのは、織田信長(1534〜1582)と豊臣秀吉(1536/37〜1598)の時代になってからのことでした。
家臣の功績や力量に応じて領地や領民を与えていくのが信長が築いたシステム
信長は、家臣の個々人の力量に応じて、領地・領民・城郭を預けるという政策をとりました。家臣はこれらを私有しているのではなく、信長から「預かって」いるにすぎないという関係です。こうして、家臣と領地との関係は中世と比較して薄くなりました。これは、本来なら封建制の否定といえるほどの事態です。
信長は容易に家臣の領地を替え、自身が征服した土地を家臣に預けることができました。この政策を踏襲したのが、秀吉でした。秀吉が家康を駿河から関東に移動させることができたのは、信長のこの政策を受け継いでいたからでしょう。
秀吉は政策面でも信長の後継者と言えました。逆に言えば、秀吉の政策は信長の発想と似ています。もし本能寺の変がなく信長が天下を統一していたなら、おそらく秀吉の朝鮮出兵と同様に海外遠征を実行していたことでしょう。
秀吉の失敗を見て家康が新たに創出したシステム
家康がつくった徳川幕府もまた、信長の政策を継承し、国替えを実施しました。国替えされた大名は、そのたびに力を削がれます。幕府に牙をむく可能性がある大名は江戸から離れた地に国替えさせられますし、わざと力のある大名の領地と隣接する地に封じられました。こうして徳川幕府は、反乱の芽を事前に摘み取っていったのです。
この「国替え」によって、中世ヨーロッパでは当たり前だった領主と領地が結びついた封建制とは様相の異なる日本独自の封建制が築かれます。
「海禁」という政策は、このような状況において実行されたのです。
秀吉や家康が天下統一を成し遂げる前の戦国時代、各武将の国家運営は、領地がどんどん大きくなるという拡大のシステムに基づいていました。戦いで功績を挙げた武将はより広い領地が与えられる。信長や秀吉といった権力者は、配下の武将に分け与える領地を確保しなければなりません。しかし、国土が一定である以上、このシステムはどこかで必ず行き詰ります。
そして秀吉は、実際に武将たちに配分する土地がなくなってしまったのです。そこで目をつけたのが朝鮮半島でした。部下に分け与える土地を求め、秀吉は朝鮮に大規模な出兵を行いました。ところがこれが大失敗でした。秀吉は朝鮮出兵で大量の人命と巨額の資金を失ってしまったのです。
この失敗を目撃した家康が、自らの天下統一後に創出しなければなかったのは、戦国時代とは異なる、拡大を前提としない統治システムでした。帝国主義的拡大を前提としていたヨーロッパのシステムとは異なるこの仕組みは、国替えや参勤交代などを駆使して、大名が突出した力を持つことを抑えつつ、功績のあった者には報いるというものでした。そしてまた「海禁」も、徳川幕府の拡大を前提としないシステムの一環だったと言えるのです。
海外との貿易に熱心だった家康だったが・・・
江戸幕府を開いた徳川家康は、当初、外国との貿易に非常に積極的でした。明やタイ、カンボジアやベトナムとの通商にも積極的でしたし、スペイン人が運航するマニラ船に対して関東に寄港するようかなり熱心に誘致したようです。
江戸時代が始まった頃の日本では、中国から綿、砂糖、生糸、茶などを輸入しており、貿易収支は赤字でした。それを補填するため、日本は銀を輸出せざるを得ませんでした。17世紀前半の日本の銀産出高は、世界の3分の1を占めていたとも言われています。
これは日本に大量の銀があるうちは問題なかったのですが、あまりに大量の銀が流出し、また国内の金山・銀山の産出量が大きく減少してきたため、国内で使用する銀が不足する事態に直面することになりました。
そこで徳川幕府は、金や銀の海外流出を完全にストップさせることにしました。同時に日本経済は「大転換」を余儀なくされることになりました。
すなわち、銀輸出量が減少し、海外からの輸入が難しくなったため、日本は、中国から輸入されていた綿、砂糖、生糸、茶、さらに朝鮮から輸入されていた朝鮮人蔘などを国内生産に切り替えるようになったのです。いわば、輸入代替産業を発展させることになったのです。長期的にみれば、これは日本の産業革命に大きく貢献することになりました。
これらの商品作物の栽培に日本の気候は適しているとは言えませんでしたが、徐々に綿、砂糖、生糸、茶、朝鮮人蔘などの国産化に成功していきます。朝鮮との貿易は、朝鮮人蔘の国産化により大きく減少したのです。
時代が下がって明治時代になると綿、砂糖、生糸、茶は、日本の主要な輸出品にまでなります。江戸時代、銀産出量減少に伴い、やむなく国産化に取り組んだことで、結果的に日本は重要な輸出品を獲得することができたと言えるのです。日本は江戸時代のうちに、欧米経済に追いつくための潜在力を身に付けていたという見方も成り立つのです。
銀の流出を抑制するのが「鎖国」化の狙い
このように、銀の産出量の減少に伴い、日本の対外貿易は縮小されました。日本の「鎖国」化は、キリスト教布教を名目に日本を植民地化することを狙っていた西欧諸国を排除するという目的もありましたが、幕府が貿易を管理し、銀の流出を防止するというのも大きな狙いでした。第一、各地の大名が勝手に外国と貿易をし始めると、幕府を脅かす力をつけることにもなりかねません。それは絶対に避けなければならない事態でした。
このような状況のもと、日本の海禁政策は進んでいきました。
一方、同じ海禁政策と言っても、中国のそれはずいぶん違っていました。中国では明朝や清朝が管理する正式な貿易以外に、実は民間の貿易もかなり発展していたのです。
スウェーデン人の歴史家リサ・ヘルマンの研究によれば、海禁政策をとっていた当時の中国政府は、広州に4〜5名の通訳しか置いていなかったそうです。中国人商人と外国人商人は、この政府から派遣された通訳を介してコミュニケーションをとらなければなりませんでした。しかし、これでははっきりいって人数が足りません。唯一の外国貿易港である広州の貿易量が増大すると、役人たちはアシスタントを雇うほかありませんでした。
「外国語を話せる中国商人はほとんどいなかったので、英語ないしポルトガル語を話すことができる人を雇っていた。だから、フランス人、オランダ人、デンマーク人は、このどちらかの言語を話す必要があった」というイギリス人の記録もあります。通訳を介すると、商売の条件などが役人に筒抜けになります。中国の商人も、ヨーロッパの商人も、本心ではこの通訳の介在を喜んではいませんでした。
そのうちに、中国の役人の干渉を避けるために、中国商人とヨーロッパ商人は共通の「言語」を創出するようになりました。これは、中国語やマレー語、ポルトガル語、英語などを合成した、人工的な言語でした。この言語でのコミュニケーションなら通訳は必要ありません
商人たちは自力で国家の干渉を受けない言語をつくり、独自の貿易ネットワークを形成し、ビジネスを続けていったのです。
ヨーロッパ人は、このような工夫をして中国との自由な貿易を確保しました。しかし、同じような工夫は日本に対してはしていません。それは、ヨーロッパ人にとって、中国は日本よりはるかに重要な取引相手だったからです。貿易をめぐって、二国の海禁の実情は大きく違っていたのです。
日本は、しょせん極東の島国でした。一方、中国は世界一豊かな国であり、ヨーロッパ人は何としてでも中国での貿易で利益を得ようとしました。西欧諸国の中では唯一、日本との独占的貿易を続けていたオランダにとっても、この商売はそれほど利益の出るものではなかったようです。
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われわれ日本人は、「鎖国」という対外政策を非常に重要な意味を持つものとして教わってきました。そして、対外的に閉ざされていたこの時代に、西欧諸国で唯一貿易を続けていたオランダの関係を非常に重要なものと捉えがちです。
しかしそもそも徳川幕府が対外貿易を縮小させる方向に舵を切っていましたし、「四つの口」の存在が示すように、必ずしも外国に対して閉ざされていたわけではありません。そして、出島で日本と接点を維持し続けたオランダにとっては、実は中国のほうがより大事な貿易相手でした。
江戸幕府による鎖国と、明朝・清朝の海禁政策。一見、極めて似た政策でしたが、その狙いはずいぶん違うものでした。そこには、当時の日本と中国の「国力の差」が反映されていたと言うべきなのかもしれません。」
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