🏞134)─1─最後の成り上がり縁故旗本、新門辰五郎(下層民・煙管職人の子)。~No.517No.518No.519 

    ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 江戸時代後期から明治期の日本人は、語学堪能なグローバル人材を目指す現代日本人に比べて遙かに、高い志を持ち実行しようとしていた。
 つまり、同じ日本人といっても現代の日本人と昔の日本人は別人のような日本人である。
 反宗教無神論マルクス主義を真顔で語るリベラル派・革新派、一部の保守派、そして反天皇反民族反日本を叫ぶキリスト教の赤い神父・赤い牧師と仏教の赤い僧侶はそうだと言える。
 愚かな自虐的破滅的敗者の美学など、昔の日本にはなかった。
   ・   ・   ・   
 WEB歴史街道
 新門辰五郎徳川慶喜に信任された幕末の侠客
 #清水次郎長
 linkedin
 2017年09月19日 公開
 2022年08月09日 更新
 9月19日 This Day in History
 幕末の侠客・新門辰五郎が没
 今日は何の日 明治8年(1875)9月19日
 明治8年(1875)9月19日、新門辰五郎が没しました。幕末の火消し、侠客で、徳川慶喜とも親交があり、大坂城から家康以来の金扇の馬標を江戸に持って帰ったことでも知られます。
 辰五郎は寛政12年(1800、異説あり)、江戸下谷に煙管職人(飾職人とも)・中村金八の子に生まれました。初名は金太郎。幼い頃、火事で父が焼死。一説に弟子の火の不始末が原因であったため、父は「世間に申し訳が立たない」と火の中に飛び込み自害したのだともいいます。
 以来、火事が親の仇となった辰五郎は、16歳の時に浅草十番組「を組」の頭・町田仁右衛門の弟子となりました。そして見込まれて、仁右衛門の亡き息子の名・辰五郎を称します。火消しや喧嘩の仲裁などで頭角を現わした辰五郎は、文政7年(1824)、25歳の時に仁右衛門の娘・錦を娶って養子縁組し、「を組」の頭を継承しました。 また、町田の家が浅草寺僧坊伝法院新門の門番であったことから、辰五郎は新門辰五郎と呼ばれるようになり、浅草・上野界隈を縄張に、2000人ともいわれる子分を抱える侠客としての顔を持つようになります。そして「粋で、腕っ節が強くて、気風がいい」と、江戸っ子たちから慕われる存在となっていきます。
 弘化2年(1845)、火事の現場で「を組」の男たちが大名火消と大喧嘩を起こします。相手方18人を死傷させたことで、辰五郎は責任を問われ、罪人として石川島の人足寄場に送られました。しかし、辰五郎は瞬く間に人足をまとめ上げ、大火の火が寄場に迫った折には、人足たちを指揮して消火に活躍。荒くれ男たちをまとめ上げる胆力があったのでしょう。この働きが認められて赦免されます。その後、上野大慈別当覚王院義観の仲介で、辰五郎は一橋慶喜と知り合い、愛娘のお芳が慶喜の妾となりました。
 元治元年(1864)、慶喜禁裏御守衛総督に任命されて上洛すると、辰五郎を呼び寄せ、子分200人を引き連れた辰五郎は、京都二条城の警備などを任せられています。 慶応4年(1868)1月、前年に大政奉還を行なった前将軍の慶喜鳥羽伏見の戦いで敗れると、将兵を置き去りにして、大坂城から抜け出し、江戸に逃げ帰ります。この時、慶喜は城内に家康以来の金扇の馬標を置いたままでした。これに気づいた辰五郎は、大混乱の中、馬標を城内から運び出すと、子分たちを動員して、新政府軍がたむろする東海道を突っ走り、無事に馬標を江戸城に届けています。この時、「公方様が権現様の馬標を置き去りするたあ、あんまりじゃあございませんか」などと慶喜を叱ったりはしなかったのでしょうか。侠客の辰五郎が、慶喜の出所進退をどう見ていたのか、気になるところです。
 その後、慶喜が上野寛永寺に謹慎すると辰五郎は寺の警備を行ない、また勝海舟に頼まれて、もし西郷吉之助との江戸無血開城の談判が決裂したら、市民を避難させた上で江戸中に火を放つ手筈であったといいます。明治に入り、辰五郎は慶喜に請われて旧幕臣たちが移住した静岡で暮らしますが、知己を得た清水の次郎長慶喜の警固を託すと、東京に戻りました。
 明治8年(1875)、最後まで幕府への義理を果たした辰五郎は、浅草の自宅で生涯を閉じます。享年76。
   ・   ・   ・   
 ウィキペディア 
 新門 辰五郎(しんもん たつごろう、寛政12年(1800年)? - 明治8年(1875年)9月19日)は、江戸時代後期の町火消、侠客。 実父は飾職人・中村金八。町田仁右衛門の養子となる。娘の芳は江戸幕府15代将軍・徳川慶喜の側室。「新門」は金龍山浅草寺僧坊伝法院新門辺りの責任者である事に由来する。生年月日は寛政4年3月5日(1792年4月25日という説もある)。「新門」は「しんもん」と読まれるが、当人は「あらかど」と名乗っていた、とする説がある。
 生涯 
 武蔵国江戸下谷山崎町(現在の東京都台東区下谷)に煙管職人の子として生まれる。幼少の頃に実家の火事で父が焼死、或いは自宅から出火し近辺を類焼した責任を取り、町火消になったと伝えられる。浅草十番組「を組」の頭である町田仁右衛門の元へ身を寄せ、火消や喧嘩の仲裁などで活躍する仁右衛門に目をかけられ婿養子となり、辰五郎の名を与えられた。
 人物
江戸開城の交渉が行われている最中、勝海舟無血開城以外にもいくつかの手を考えていた。徳川慶喜の海外亡命などと並び、新政府軍相手の強硬策のひとつとして一斉多発的放火による「江戸市街地の完全焦土化焦土作戦)」をも考慮していた、とする話が伝わる。その準備として辰五郎らに資金が与えられ、辰五郎を通して江戸中の町火消組、鳶職の親分、博徒の親方、穢多頭・非人頭らに対し、作戦実行の際の協力が求められた。
・辰五郎は明治になってから行われた祭礼で、祭礼の提灯の上側に日の丸、下側に葵紋が書かれていたのを見て激怒し、これを破り捨てた。激怒した理由は辰五郎が徳川家を天皇の上に考えていたからだとされる。
黒田清隆開拓使次官として北海道に渡る際、開拓地での揉め事の仲裁を侠客に任せようと新門を訪ねた。辰五郎は子分の本間鉄五郎(西門の鉄)に子分をつけ送り出すと約束。更に鉄砲洲の角島伝蔵に黒田を紹介した。角島は子分の阿部権四郎を角権と名乗らせ子分をつけて送り出すとした。明治の北海道やくざ社会は函館の丸茂一家、札幌の一丁一家が勢威を振るったが、本間、阿部は長老格として稼業の発展に貢献した。
   ・   ・   ・   
 新門辰五郎(読み)しんもん・たつごろう
 朝日日本歴史人物事典 「新門辰五郎」の解説
 新門辰五郎
 没年:明治8.9.19(1875)
 生年:寛政4(1792)
 幕末維新期の侠客。江戸町火消しの元締。本名町田辰五郎。錺職人の子として下谷に生まれ,上野輪王寺の寺僧町田仁右衛門の養子になる。鳶人足から人足頭,町火消十番組の頭になり,浅草寺の門番も勤める。江戸の火消しには幕府の定火消し,大名火消し,裕福な町衆が金を出しあって雇う町火消しの別があり,町火消しは下位に立たされていたが,辰五郎は浅草の香具師,大道芸人などから入る金を背景に勇み肌の男たちを十番組に配し,柳川藩の大名火消し相手の喧嘩で18名を死傷させて勇名をはせ,この罪で江戸所払になる。夜な夜な妻妾のところに戻るのが露見して捕まり,拷問されたが屈せず佃島人足寄場に送られる。弘化3(1846)年の本郷丸山火事で佃島に火が入ると,囚人を小金井小次郎らと指揮して消火に貢献,赦免される。 娘が将軍徳川慶喜の妾になっている縁で慶応年間(1865~68),子分300人を連れて将軍警備で京都に行く。京都では河原町,大坂では堂島に居を構え,妾も置いて,将軍お抱えの江戸の親分として羽振りをきかせた。鳥羽伏見の戦に敗れて開陽丸で江戸に敗走する慶喜から,大坂城に忘れてきた馬印の大金扇を取ってくることを命じられ,これを持って子分と共に陸路東海道を江戸に着いた。慶喜が水戸に謹慎になった際,2万両の甲州金を輸送し,徳川家の駿府(静岡県)移住にも付き従い,最後まで佐幕派の義理を守った。浅草の自宅で没。<参考文献>勝海舟『氷川清話』,白柳秀湖『親分子分・侠客編』
(平岡正明)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
   ・   ・    ・   
 百科事典マイペディア 「新門辰五郎」の意味・わかりやすい解説
 新門辰五郎【しんもんたつごろう】
 幕末の江戸の侠客(きょうかく),町火消下谷に生まれ,浅草寺の新しい門の防火を預かり新門と称す。配下の人足が有馬家の大名火消と争ったことがもとで人足寄場に送られたが,1846年の大火の際,寄場の囚人を指揮して消火に活躍,赦免(しゃめん)された。侠名が高まると幕臣に取り立てられ,子分を率いて市中警備にあたった。1862年一橋慶喜に従い上洛,禁裏(きんり)警衛についた。慶喜の身辺警護は駿府移転まで務めている。その侠気は後に脚色されて歌舞伎・講談などで有名。
   ・   ・   ・   
 note
 浅草の侠客・新門辰五郎から江戸っ子や非人を考える
 かわかわ
 2022年11月22日 23:54
 先日は浅草の穢多(えた)頭・弾左衛門について記しました。その後、その支配下にあった同じく浅草の、非人(ひにん)頭の車善七についての書籍を読んでみたんです。
 ネットでも書籍でも、弾左衛門や車善七についての多くは、幕末について記されています。それで、ふと思いだしたのが、幕末の著名な侠客(きょうかく)、浅草の新門辰五郎です。
 目次
■江戸の貧民窟・下谷の山崎町とは
新門辰五郎と幡随院長兵衛の共通点
■最後の将軍との信頼関係を構築する侠客・新門辰五郎
■新門(しんもん)辰五郎と、穢多頭や非人頭は知り合いだった
渋沢栄一と非人の関係
■非人は、そんなに差別される存在ではなかった(という仮説)
■非人のことから、SDGsを考える
■江戸の貧民窟・下谷の山崎町とは
 新門辰五郎は、浅草一帯の町火消「を組」の頭でした。江戸時代の火消しは、現在の消防士とは大きく異なります。消防士は、基本的に火事があれば駆けつけて、水を掛けて消火します。一方の江戸の火消しは、火を消すというよりも延焼を防ぐのが主でした。燃えるものがなければ火は消えるもの。そのため、火が向かう先を、燃え広がる前に壊していくんです。まぁ良い悪いではないのですが、荒っぽい人たちだったでしょう。さらに普段は、侠客や博徒、的屋や香具師などの元締め的存在だったとも言います。
 なんで思い出したか……と言えば、浅草界隈の面白そうな人たちということで、以前から3人は、頭の中で同じようなファイルに収納されていたんだと思います。
 それで先述した非人頭・車善七についての本に、乞胸(ごうみね)という当時の大道芸人について記されていました。この乞胸ごうみねは、非人ではないけれど穢多えたの支配下にあって、被差別職種だったのだと。そしてこの乞胸(ごうみね)が住んでいたのが、下谷の山崎町(一丁目)だと言うんです。
 ちなみに、この下谷山崎町は歴史的な経緯もあってか、江戸時代が終わった後の、明治大正時代も、貧しい人たちが暮らす街として有名だったようです。特に落語の「黄金餅」の舞台が下谷山崎町なので、このあたりを聖地巡礼する多くの落語ファンが、ブログを書いています。なお、かつての下谷山崎町に現在は、民家…マンション等がほとんどありません(半分は地下鉄の整備場。半分はオフィスビルや雑居ビルです)。
 そして下谷山崎町を古地図で見ていると、もう一人、思い出さずにはいられない人がいます。新門辰五郎の大先輩とも言える、侠客きょうかくの元祖とも言われている幡随院長兵衛です。その長兵衛が縁があったという(どんな関わりだったかは諸説あり)幡随院という寺院が、ちょうど下谷山崎町に隣接する場所にありました(現在は東京都小金井市)。
 画像
 現在の上野駅前(浅草口・入谷口)周辺の切絵図。丸で囲った部分が下谷の山崎町。その横に点線で囲ったのが幡随院。地図の上部が東叡山寛永寺(今の上野公園)
 幡随院長兵衛は、歌舞伎などの芝居、おそらく講談などでも語り継がれてきました。詳細は知りませんが、旗本と対決して江戸市民(町人)から喝采を浴びて、大人気だった人というくらいは知っています。最後には、その喧嘩相手の旗本に殺されて、伝説の人となりました。
 画像
 歌川国芳国芳もやう正札附現金男・幡随長兵衛」(Wikipediaより)
 下谷であれば近所です。どこだろう? と古地図で探したら、上野駅のすぐ近くでした。知らなかったのですが、この下谷山崎町の一丁目と二丁目あたりを、まさにズバッと縦断横断する道を、ここ十年以上、わたしは毎日のように自転車で通っていますし、時々は、かつての幡随院の敷地内を通っていることを知りました。
 それで「あれぇ…この下谷山崎町で生まれた人が、ほかに誰だったかいたよなぁ…」と半日くらい頭の隅に置いといたら、「そうだ、新門辰五郎さんが、ここの生まれだったな」と思い出したんです。
新門辰五郎と幡随院長兵衛の共通点
 新門辰五郎さんの実父の中村金八さんは飾(かざり)職人です。なんで苗字を名乗っているのか知りませんが、もしかすると武家だったのかも……。弟子がいたという話が伝わっているような方なので、わたしは、新門辰五郎下谷山崎町の生まれ育ちだというのは、怪しいなと思います。下谷山崎町に住むほど、貧しかったとは思えないからです。
 この新門辰五郎(当時は金太郎)が12才の時に、実父が火事で亡くなりました。その後に、18歳の時に預けられたのが「浅草十番組の組頭町田仁右衛門」だと、株式会社“新門”のホームページには書かれています(新門辰五郎の後裔です)。こちらの町田さんも町人っぽいのに、名字を名乗っていたんでしょうかね。ただ、別のサイトには「(上野寛永寺の)輪王寺の衛士だった」とあるので、そうした関係で名字を名乗っていたのかもしれません。
 その後の新門辰五郎は、江戸随一の侠客と呼ばれるようになります。前述の町田仁右衛門の娘婿となり、浅草十番組「を組」を継いだのです。配下は213人だけれど「彼の息がかかった子分は約3000人に及んだといわれている」そうです(株式会社新門HPより)。
 そんな新門辰五郎は、火事の現場で、町火消しのライバルとも言える大名火消しと何度かトラブルを起こしています。大名火消しとは、新門辰五郎のような町人火消しとは異なり、大名の家臣たち、つまり武士で構成される消防団です。当然、仲が良いわけもありません。何度か喧嘩しつつ、新門辰五郎が武士を相手に一歩も引かなかったことで、町人のヒーロー、人気者となっていったんです。
 誰かと似ていますよね? そう……幡随院の長兵衛さんとです。だから新門辰五郎は、この幡随院長兵衛と自身を重ねるために、いわば「下谷山崎町」ブランドを借用していたんじゃないか……とも推測しています。「やべえ……新門辰五郎は、伝説の男が居た場所で育ったのかぁ!」ってな具合だったんじゃないかなと。
■最後の将軍との信頼関係を構築する侠客・新門辰五郎
 面白いのは、そんな新門辰五郎の男意気に感心した、上野の坊さんがいたということです。それが上野の大慈別当・覚王院義観ぎかんという、上野寛永寺のお偉いさんです(大慈院は大阪から逃げ帰った徳川慶喜が謹慎した、寛永寺の子院の一つ。のちに義観ぎかんさんは、新政府に対して徳川家の助命嘆願を行ないます。それが受け入れられず、その後は彰義隊を強力に支援)。義観ぎかんさんから、「浅草寺界隈の掃除方(地域一帯の取締)を依頼」されたと言います(当時の浅草寺は、寛永寺の管理下にありました)。さらに「前寛永寺座主の舜仁しゅんにん法親王が浅草新門あたりに隠棲した際、幕府より周辺の警護を命じられた」とWikipediaにあります。それ以降、辰五郎さんは「新門(しんもん)」を名乗るようになったそうです。
 そんな新門辰五郎に興味を示したのが、のちに最後の将軍となる徳川慶喜よしのぶ(当時は一橋慶喜だったでしょうか)です。短い期間ではありますが、新門辰五郎の無敵時代ですよね。一介の町人なのに……つまり、将軍に直接謁見できるお目見えの資格もないのに、親しく話が出来て、最も信頼されていた1人になったのですから。
 もう徳川慶喜からすれば、唯一の友達だったかもしれません。新門辰五郎も、以降は文字通り命を賭して徳川慶喜に仕えます……町人のままでです。娘は徳川慶喜の妾(側室と言われることも)の一人にもなっています。つまり、そんな意識はなかったかもしれませんが、義理の親子ですよ。
 また徳川慶喜が上洛した(京都へ行った)際には「子分250名を率い、同じく60人を率いた息子の松五郎と共に東海道を上洛して、二条城の警備などを行った」そうです(Wikipediaより)。さらに鳥羽伏見の戦いでも手伝って、多くの配下を失っています。何度も言いますが、町人なのにです。
 あくまで俗説ですが……大阪城を密かに出て、軍艦・開陽丸で江戸へ逃げ帰った徳川慶喜は、家康以来の馬印を、大阪城に忘れてたそうです(あくまで忘れたのは側近たちですけどね)。それを知った徳川慶喜が、新門一家に命じて、馬印を無事に江戸城へ送り届けた……という話もありますが、これはフィクションだそうです。
新門辰五郎と、穢頭や非人頭は知り合いだった
 新門辰五郎について、十五代将軍となった徳川慶喜よしのぶが(京都へ)上洛した際に「子分250名を率い、同じく60人を率いた息子の松五郎と共に東海道を上洛」と先述しました。
 またもっと前に「配下は213人だけれど彼の息がかかった子分は約3000人に及んだといわれている」とも記しました。
 誰かから怒られそうですけど、この数字にですね……非人頭・車善七の配下も入っているんじゃないかなと思ったりしています。
 というのも、非人の仕事は様々ですが、その一つに、火事の際に手伝いに行くことも含まれていたらしいのです。誰の手伝いなのかが問題ですが、分かりません。火事の現場で、例えば穢多頭の弾左衛門が、配下の穢多や非人を引き連れて、消防活動をしていたという可能性もあります。ただし、穢多の仕事に、消火活動は見かけないんですよね……今のところは…ですけどね。非人が独自に火消し団を結成するのも想像できません。そうであれば、浅草であれば、新門辰五郎の「を組」の配下に入ったんじゃないかと思います。
 だいたいですね、新門辰五郎弾左衛門と車善七は、顔見知りじゃないはずがないんですよね。新門辰五郎は「侠客や博徒、的屋や香具師などの元締め的存在」ですよ(Wikipediaによる。ちなみに株式会社新門によれば、辰五郎は博打はしていないそうです)。これらの人たちは、前者はヘタしたら下手人です(ちなみに穢多は、取り締まる町奉行の側に人を送っています)。後者は、穢多頭・弾左衛門の影響下にあった可能性もある職種の人たちです。つまり、地域的にも職種的にも縄張りがかぶってしまっています。先ほどの火消しの件もですしね。
 そうであれば、三者でなんらかの話し合いがあって、しかるべきなんですよね。そうじゃないと、闘争に発達しかねないでしょう。
 そして特に新門辰五郎弾左衛門は、交際していた人脈が、かなり近いんです。
 例えば、代表格は勝海舟です。
 新門辰五郎勝海舟も、公私の別はあるものの、徳川慶喜の側近と言っていいでしょう。実際に勝海舟の著書『氷川清話』の中で、新門辰五郎について触れているそうです。
 その勝海舟新撰組近藤勇とは知り合い……上司部下の関係です。大政奉還後ですが、近藤勇を旗本に取り立てたのは勝海舟ですし、甲州鎮撫を命じたのも勝海舟です。甲州鎮撫隊には、弾左衛門の配下も参加。当然、非人も一緒に出かけたことでしょう。そして逃げ帰った新撰組は、弾左衛門の本拠地で数日を過ごしています。
 と……ここまで推測していったら、それを裏付ける記述が、あっさりとWikipediaに載っていました。
 {江戸開城の交渉が行われている最中、勝海舟無血開城以外にもいくつかの手を考えていた。徳川慶喜の海外亡命などと並び、新政府軍相手の強硬策のひとつとして一斉多発的放火による「江戸市街地の完全焦土化焦土作戦)」をも考慮していた、とする話が伝わる。その準備として辰五郎らに資金が与えられ、辰五郎を通して江戸中の町火消組、鳶職の親分、博徒の親方、穢多頭・非人頭らに対し、作戦実行の際の協力が求められた。}
           Wikipediaより
渋沢栄一と非人の関係
 話はそれますが、かの渋沢栄一も、明治になってからは、彼らと会っている可能性が低くありません(絶対に会ってるとも言えません)。

 まず旧幕府側と新政府の間での最初の戦いとなった、上野戦争です。この時に、新門辰五郎寛永寺を火の手から守るために、上野の山へ行っています。その際に旧幕府側、彰義隊上野戦争前のリーダー的な存在の一人だったのが、渋沢栄一の従兄弟である渋沢成一郎(喜作)です。(結局、渋沢成一郎(喜作)は上野戦争には参加せず、地元の上州へ退却しています。その際に、渋沢栄一の養子が戦死)
 また明治になり、実業家として活躍した渋沢栄一は、同時に慈善活動……窮民救済活動も活発に行なっています。特に東京養育院ですね。これなどは、江戸時代の非人や溜を、引き取った形だったのではないでしょうか? そもそも非人は、単に差別する政策だったわけではなく、金銭的だったり病気だったりの窮民救済という側面もあったのです。その点で、東京養育院の運営に、車善七(明治以降は長谷部善七)や配下が協力し、経験を活かしていたそうです。まだ読んでいませんが、下記に詳しく書いてありそうです。
 https://www.jstage.jst.go.jp/article/jila1934/57/5/57_5_55/_pdf
 ちなみに渋沢栄一は、上野戦争でほとんどを焼失してしまった、上野の東叡山寛永寺の復興にも力を入れています。と同時に初期の東京養育院は、その寛永寺の敷地だった、今の東京藝大の土地にあったそうです(最初は元加賀藩邸……つまり現在の東京大学……その後、現在の東京藝大……神田や本所、大塚などを転々とした後に、板橋に定着)。
 渋沢栄一新門辰五郎……さらに渋沢栄一と非人頭の車善七(明治後は長谷部善七)……きっと会ったことがあったはずです。
■非人は、そんなに差別される存在ではなかった(という仮説)
 かなり脱線しました……。
 ここまで書いて、何が書きたかったか、忘れかけています。
 まず、「を組」頭領の新門辰五郎と穢多頭の弾左衛門(弾 直樹)、そして非人頭の車善七(長谷部善七)は、幕末から明治にかけて、交流していただろうこと。三者の身分的な上下関係を考えると、町人である新門辰五郎がトップで、その次が穢多えたの弾左衛門、そして最後が非人頭の車善七ということなのかもしれません。
 ただし、町人と穢多頭のどちらが上か? というと、微妙ですよね(あくまで江戸……東京での話です)。特に大政奉還後の幕末期とはいえ、穢多頭の弾左衛門は配下65名とともに幕臣に取り立てられています。新門辰五郎の幕府もしくは徳川家の中での正式な身分が分かりませんが、町人と幕臣とで考えれば幕臣が上座に座ることになるでしょう。
 そうなると、先にWikipediaから引用した「辰五郎を通して江戸中の町火消組、鳶職の親分、博徒の親方、穢多頭・非人頭らに対し、作戦実行の際の協力が求められた。」というのもおかしな話だなということになります。まぁ「命じられた」わけではなく「求められた」だけですけどね。
 以上のようなことから、穢多や非人、特に非人は、言うほど差別されていたわけじゃないんじゃないか? ということ(あくまでも江戸エリアでの話です)。穢多は世襲された気配が濃厚ですが、非人に関しては、前述の通り、社会のセイフティネットのような制度だったのでは? という仮説です。
 理由としては、非人の子は非人だったわけではないこと……もちろん、教育や環境に起因して、非人の子が非人になるケースは少なくなかったと思います。ただし非人身分から逃れたいと思い、生計が立てられれば、非人からは脱けられたということ(それが難しいんだろうに……と言われれば、まぁ難しい人がほとんどだったんでしょうね)。
 金沢の話ですが、非人小屋で暮らす有名な刀工がいました。「非人清光」という人です。その刀を、領主の前田綱紀が買い取っていたとも言います。もし非人が、出生や居住地によって差別されていたとしたら、藩主が、非人が作った刀剣を買うこともなかったでしょうし、作り話でも伝わらない気がします。
■非人のことから、SDGsを考える
 前項で、穢多と非人は、それほど差別されていたわけじゃないんじゃない? という仮説を記しました(あくまで江戸エリアでの話です)。
 ただし現在では、穢多と非人は、一般的に江戸時代の身分制度士農工商の最下層にあった人たち、ということで認識されることが多いでしょうし、それが全くの間違いとも思いません。特に、わたしが教育を受けた昭和の後期には、中学の歴史の時間に、そう習いました。また、その昭和後期の学校では、士農工商の武士を除く農工商民に対して「もっと貧しく、もっと下層の人たちがいるんだよ」ということで、穢多えたと非人ひにんという身分が設けられたと教えられました。でも、それは誤りに近い……今は、そう思います。
 そういえば、昨今ではSDGsという言葉が氾濫しています。小学二年の息子は、学校で「SDGsの歌を歌うんだよ」と言っていました。NHKで流れている、あの歌です。
 この歌の歌詞にもありますが、SDGsとは「Sustainable/Development/Goals」の略です。この意味を分かる人がいるでしょうか。直訳であれば簡単です。「持続可能な開発目標」ということです。ただし「では、その“持続可能な開発目標”というのは、なんですか?」と言えば、その目標は17に別れているといいます。
 先日、NHKの番組を見ていたら、このSDGsについての話題に触れていました。そして「江戸時代はSDGsが実践されていた時代だった」という意味合いで、「紙くず拾い」について語られていたんです。紙が貴重だった江戸時代は、街中を歩き回って、紙を拾って歩く人たちがいました。その紙を集めて、漉き(すき)直して鼻紙などにしていたそうです。(上記した番組の他にも、同じNHKの『ぶらタモリ』でも同様の紹介をしていましたね……たしか江戸東京博物館を紹介する回ででした)
 画像
 『今様職人尽歌合』文政8(1825)刊・東京国立博物館
 では、街中を紙くずを集め歩いたり、その紙を漉き(すき)直していたのは誰か? と言えば、前述した車善七(くるまぜんしち)をリーダーとする非人ひにんたちでした。NHKの番組では、そのことには触れられていませんでした。
 でも思うのですが、この紙くず拾いをしていた非人たちは、どんな生活をしていたと、この番組制作者は思っているんでしょう。SDGsには「貧困をなくそう」や「質の高い教育をみんなに」とか「人や国の不平等をなくそう」などのゴールが設定されていますが、江戸時代に紙くず拾いをしていた人たちは? なんて思いながら番組を観ていました。
 わたしの父は、いまわたしが住んでいる場所からもほど近い、東京の下町で生まれ育ちました(同じ区内です)。わたし自身は、東京近郊のベッドタウンで育ったため、夏休みや正月などに行く、父の実家周辺の景色は、一種異様な感じがしました。小さい頃に父の実家へ行くと、いつも曇っていたイメージがあります(実際に空気が汚れていたなどの理由があったのかもしれません)。
 父の実家から近い全国的にも知られたターミナル駅へ行くと、その頃はまだ、多くの物乞いの人たちがいました。最近は激減しましたが、リアカーにダンボールを山盛りにして運んでいる人も、数年前まで多かったです。また、今でも夜中になると、住んでいるマンションのゴミ捨て場から、空き缶を拾い集めている人たちもいます。現代版の非人と言ってもいいでしょう(怒る人もいるかもしれませんが……)。
 全国の都市の中にも、もしかするとあるかもしれませんが、わたしの住む下町のいたるところに、弾左衛門や車善七のような雰囲気が残っているんですよね。おそらく、歴史的背景があることから、そうした方たちに比較的に寛容(というと使う言葉が間違っている気がしますが……)なのだと思います。
 よく「江戸っ子とは?」という話があります。「江戸っ子と言えるのは、少なくとも3代前から江戸に暮らしていた人たち」というのを何度か聞いたことがあります。わたしの家は祖父母の代だから、江戸っ子と名乗れません(笑)。ただし、3代前まで遡っても、「江戸じゃなかったよね? その頃は、もう東京市だったでしょ?」という疑問が残ります。
 ではなぜ3代前からと言うのかといえば、関東大震災が大きく関係していると思います。
 下町のほとんどを焼き尽くした関東大震災を経ている家なのかどうかが、江戸っ子なのかどうかに深く関わっている気がするんです。そうした家は、当然、太平洋戦争の下町の大空襲も経験しているんです。
 ほとんどの家が焼き尽くされ、もしくは親族や親戚の誰かをうしない……そして、多くの家が仕事も失い極貧生活を送りました。誰も彼もが、自分たちだけでは生きていけない……つまりは非人のような生活を体験しているんです。
 そうしたこともあり、今でも、ある場所へ行けば、街中にはブルーシートでテントを張って生活している人たちがいます。例えば東京国立博物館(トーハク)の前にある歩道がそうです。またそのトーハクの前の上野公園では、炊き出しが行われることも、よくあります。まぁだから、とても住みやすいエリアなんですよね。

 noteプレミアム note pro 法人向けサービス よくある質問・noteの使い方 マガジン ユーザー ハッシュタグ 安心安全ガイドライン プライバシー ご利用規約 特商法表記 クリエイターへのお問い合わせ フィードバック クリエイターの推薦
   ・   ・   ・