⚔37)─2─徳川家康の国防策。一国一城令。~No.160 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 現代日本人は、史実に近いトンデモない小説家時代劇は好きだが史実に基づいた故人の公文書歴史は嫌いである。
 特に、現代日本は公文書を軽視して後世の為に記録を残そうという使命感が稀薄である。
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 2020年8月12日 読売新聞「磯田道史のをちこち 
 慎重居士・家康の築城観
 お城についての徳川家康の考えは面白い。家康は単純に『堅固な城を作ればよい』とは言わない。『城は敵に取られるもの』と考えていたふしがある。家康は、まことに用心深い。織田信長のように、手薄な本能寺に泊まって殺されるのは、まっぴら御免と考え、関ヶ原合戦で勝つと、京都に宿泊用の城を作らせ始めた。二条城である。
 とこが家康は完成した二条城をみて『大き過ぎる』と怒ったらしい。1650年以前成立の『安国殿御家譜』に、いささか怪しいが、逸話がある。家康はこういった。
 『ワシがここ(京都)にのぼり、5~7日逗留する時、小敵ならば、2間半(4メートル55センチ)の堀さえあれば防ぎやすい。1両日もすれば近国の味方が馳(は)せ集まる。10日たてば関東から大軍が馳せのぼる。そうなれば敵は踏みとどまれない。3~5日の要害(要塞)だから、それでよい。平たい屋根でもいい。それでも信長公のような不慮のこともあるので、それを逃れるためだ。ワシは上方の処置さえすれば(すぐに)関東に下る。そのあとに、この城を敵に奪われたら、また取り返す時、むつかしい。(敵は城が堅固だと)敗れるまで立て籠もるものだ。それを考えず、こんなに(大きく)良く築くのは思慮が足りない』
 家康は本多忠勝にこういって怒ったいう。慶長6(1601)年のことというから、完成時ではなく、二条城の建設段階で、家康は家来と、この種のやり取りをしたのかもしれない。
 遠方に堅固な城を築くと、敵に取られた時に困る。家康以来、徳川幕府がそんな思想を持ったからか、お城を持たせてもらえない殿様が出来てしまった。北海道(蝦夷地)の松前氏と五島列島の五島氏である。異国から日本を防備するには、真っ先に、北海道や五島列島に城が必要。ところが、松前氏や五島氏は公式には居所が『館』のままで、異国船の脅威が深刻になる幕末期まで、なかなか本格的な築城が許可されなかった。
 その事情をペリー来航の1853年に書かれた『千代田問答』は、こう記す。『御神将(=家康公)は、ある時、おっしゃった。松前・五島には城地を経営させないようにしろ。万一、外国人に攻め取られた時は、とりも直さず、(侵略の)足がかりになる。そのため、城地は無用ということだ。(松前・五島は)いずれも海を隔てた土地ゆえ、海から侵略が来て襲われるのが急で、自国の援兵が到(いた)るのが遅い時は落城するだろう。その時は、たちまち外国人の巣窟になり取り戻すのは難儀だろうから』。家康の言葉に仮託(かたく)して、幕府が松前氏や五島氏への築城許可を渋った理由が語られている。
 家康は豊臣氏を滅ぼすと、すぐに『武家諸法度』で、大名の新規築城を禁じた。ただ例外もある。17世紀半ば、幕府は西国大名を抑止する前線『境目』を今の岡山・兵庫県境に引こうとしていたふしがある。1645年、幕府は浅野長矩の祖父に『城を新築していい』と赤穂の地を与えた。さらに1672年、脇坂安政を赤穂の隣りに封じ、龍野城を再建築させた。幕府は巨大な姫路城に徳川の譜代一門を入れ、その西隣に赤穂城龍野城を築かせ、防衛ラインとした。偶然か現在も、この線が関西弁アクセントの境界である。
 赤穂城の新築工事を13年もやったせいで『境目の大名』浅野家は藩風がすっかり臨戦的になった。その勇ましさが『吉良邸討ち入り』につながったのだが、その話は拙著『殿様の通信簿』に書いていたので繰り返さない」
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 かつて力のある武士は館を所有しそこに住んでいましたが、時代が南北朝時代に入ると山城とよばれる山中の城を築くようになります。そのようにして築かれた城は平山城や平城として次第に平地へと移動し巨大な物となり、織田信長の築城した安土城に代表されるように立派な天守が備わった城へと変容していきます。戦国時代に入ると築城数はピークを迎えますが、その時代に終止符を打ったのが徳川幕府の公布した一国一城令でした。
 一国一城令とは
 大坂冬の陣大坂夏の陣を経て1615(慶長20、元和元)年5月に大坂城は落城します。これにより豊臣家は滅びることになりました。すでに天下を統一し江戸幕府体制を敷いていた徳川家ではありますが、その基盤を盤石にするためにこの年の閏(うるう)六月に一国一城令を公布します。「一国一城の主」と言うと現在ではマイホームなどを所有しているといった肯定的な意味で用いられていますが、諸大名にとっては決して肯定的に受け止められるような布令ではありませんでした。なぜならひとつの国がひとつだけの城を持つことができるとすると言うことは、それまですでに築城されていた各大名の持ち城が、ひとつを除きすべて不要の物となるからです。ひとつの国を複数の大名で治めている伊予国(現在の愛媛県)のようなケースでは、大名家の数に応じて藤堂高吉の今治城伊達秀宗宇和島城脇坂安治大洲城加藤嘉明松山城といったように複数の城が残されることになりました。しかし毛利藩のように周防と長門の2国を領地としているといった場合には、国そのものを手離さなければならず、結局長門国の萩城だけが毛利藩に残されることになりました。
 一国一城の目的
 一国一城令により廃城となった城の多くは西日本の物でした。外様大名の多い西側の大名たちの戦力をできるだけ削り、徳川家による全国統治を盤石にすることが大きな目的だったからです。その目的をさらに推し進めることになったのが同年7月に公布した武家諸法度でした。そのなかの城に関する項目には、今後新たに築城することを禁止し、城の修復をする際には幕府に届け出るようにするといった内容が記されています。これにより増築や改築はもちろん修復さえも困難になりました。戦国時代から徳川体制にいたるまでの諸大名にとって、城がいかに戦における脅威となっていたか、この2つの布令によって知ることができます。そして徳川体制が盤石になるにつれ、軍事施設としての城の機能は徐々に失われていくことになりました。
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 一国一城令
 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
 江戸幕府の大名統制策の一つ。一領国一城という趣旨のもとに、大名の本城(居城)を除くすべての支城を破壊することを目的としたもので、大坂の役後の1615年(元和1)閏(うるう)6月、武家諸法度(しょはっと)に1か月先だって発布された。江戸初期の大名領国は、戦国大名の領国を受け継ぎ、大名の本城のほか領内各地に支城が設けられ、大名の一族や有力家臣が城番として配置されるとともに、その下に付衆(つけしゅう)が分駐したが、それがそのまま城番を組頭とし、付衆を組の構成員とする軍事的組織によって編成された。
 一国一城令は、こうした大名領国における臨戦的な軍事体制の否定をねらいとしたもので、それによって、番方(ばんかた)の組織が改組されるとともに、藩の地方(じかた)支配は、城番にかわって役方(やくかた)層の郡奉行(こおりぶぎょう)―代官が担当することになった。ここに大名領国は、臨戦体制より農民支配を基軸とする藩体制に転換し、いわゆる「元和偃武(げんなえんぶ)」が開始された。[藤野 保]
 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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 日本の城 Japan-Castle
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 お城の歴史 江戸時代③ 一国一城令で95%のお城が消滅!!
 2018年6月10日 / 2020年6月26日
 今回は「大坂の陣が終わって、戦がなくなって以降のお城」について解説します。
 1615年の大坂夏の陣の後は江戸幕府による支配も安定してきて、諸大名に対する規制を強めていく時代。
 そんな時代にお城はどうなっていったのでしょうか?大名それぞれが自由にお城を立てることはできたのでしょうか?
 ではさっそく見ていきましょう。
 一国一城令とは?
 1615年5月に大坂の陣豊臣氏が滅亡すると、さっそく江戸幕府は6月に「一国一城令」を、7月に「武家諸法度」を公布しました。
 一国一城令とは、「一つの国(土佐とか越後とか)にお城を一つだけ正式に認めるよ」という大名を取り締まる法律。
 お城を一つだけ認めるかわりにその他のお城はすべて壊さなければいけませんでした。
 そのため、それまで全国に約3000ものお城があったのが、約170にまで減少。
 しかし、例外があって一国を複数の大名(藩)が領有していた場合は、一藩につき一城が認められます。
 例えば伊予国(現在の愛媛県)は今治城松山城大洲城宇和島城が残されていました。
 次の例外が一藩で複数の国を領有していた場合。
 この場合は一国につき一城が認められていました。なので一藩で二つ以上のお城を認められる藩もありました。
 現在の三重県を治めていた津藩は伊勢と伊賀の二カ国を領有していたので、津城と伊賀上野城を認められていました。
 津藩と同じように長門と周防の二カ国を領有していた長州藩は、それまで萩城と岩国城を持っていたけど江戸幕府に遠慮して岩国城を壊しています。(なので二カ国で一城になる)
 さらに例外で外様大名の中でも特に大きな領地を持っていた伊達政宗仙台藩と島津氏の薩摩藩はそれぞれ仙台城と鹿児島城以外にも複数のお城を持っていました。これらはお城といっても戦国時代から使われてきたもので石垣などは備えていませんでした。それらをお城とは呼ばずに「砦」や「要害」と呼んでいました。
 一国一城令のよかったところ
 一国一城令は各大名・藩の軍事力を制限するものだったけど、悪いことばかりでもありませんでした。
 壊されたお城は大名の家臣が持っていたお城だったものもあり、お城を持つことは大名の特権となったのです。
 そのため、大名と家臣との身分が明確に分かれ、家臣の統制がしやすくなりました。
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 豊臣秀吉は、バテレン追放令と大名キリシタン棄教で日本人奴隷交易を止めた。
 徳川家康は、キリシタン禁止とスペイン・ポルトガル追放で日本人傭兵契約を止めた。
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 徳川家康は、戦をして勝てなかった敵の名将武田信玄甲州軍略を採用していた。
 甲州軍略の要諦は「人は石垣、人は城」で、領民こそが国の基(もとい)という思想である。
 武田信玄を支えたのは豊富な甲州金で、交易は相手に依存しなければならなかったが、甲州金は自力で領内で採掘すればよかった。
 徳川家康は、武田信玄の土木工事を学んで荒れた関東を切り拓き、北条早雲の土木工事を学んで湿地帯に江戸を造り、国内の鉱山開発を行い銀を輸出して富を得た。
 徳川家康が行った銀輸出は、オランダ・アムステルダムを通じて国際金融・貨幣システムに影響を与えていた。
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 徳川家康は、歴史書を読み、国際情勢を吟味して、スペイン・ポルトガルバチカンイエズス会などのキリスト教勢力と中国・朝鮮の中華儒教勢力の侵略を恐れていた。
 徳川幕府は、オランダ一国との交易を許す鎖国令を布告し、長崎の唐人、島津の琉球対馬の朝鮮、松前のエゾなどは特定地域での許可制とした。
 ロシアの侵略に対抗する為に、エゾ利権を松前から取り上げ蝦夷地・北方領土を一時幕府領とし、東北諸藩から集めた総勢数千人の兵士を防衛警備として各地に配備した。
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 江戸時代の武士・サムライと現代日本の高学歴出身知的エリートとは違う。
 現代日本には、武士・サムライはいないし、武士・サムライの志を受け継ぐ子孫もいない。
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 徳川家康は、短期間で勝敗が付く野戦を好み、長期化しやすい攻城戦を好まなかった。
 豊臣秀吉は、その逆で、金はかかっても犠牲者が少ない攻城戦を好んだ。
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 徳川幕府が命じた「一国一城令」は、大名統制策という政策ではなく、大名を攻め滅ぼしやすくする為の軍略あった。
 江戸時代、幕府・大名、武士・サムライは戦時として生活し、庶民(百姓や町人)は平時として生きていた。
 参勤交代の大名行列とは、江戸に参陣する為の臨戦態勢による行軍であって、物見遊山の気楽な旅行ではなかった。
 それ故に、大名行列で不祥事が発生すれば責任者は責任を取って「切腹」しなければならなかった。
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