🏯11)─1─幕府の大名支配。御家騒動と家臣の主君への叛逆。大名の養子縁組制度。高須4兄弟。~No.19No.20 * ② 

   ・   ・   ・
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 幕府の大名支配、参勤交代と天下普請。
 御家騒動。家臣の主君への叛逆、押し込め、暗殺、強制隠居。 
 大名の血筋より家名を残す為の養子縁組制度。娘の為に婿養子をとる。他家の子供をもらって跡継ぎとする。
   ・   ・   ・   
 サムライは、家名、体面、名誉、品格、気概、志を守る為に『死する事を覚悟』した。
 男系の武士社会が定着するや、女性は単なる跡取りの男子を産むだけの存在とされ。
 女性は、「腹は借りモノ」と軽蔑された。
   ・   ・   ・   
 サムライは、主君への忠誠として「私」を捨て、「公」の為に「個」を貫いた。
 家名と名誉を守る為に、「あっさり」と切腹し、介錯人によって首を切られた。
 介錯を拒否した者は、息絶えるまで苦痛に悶えながら死んだ。
 サムライの名誉は、一人で、自分で自分の命を断ちきって「死」ぬ事であった。
 「死ぬ」、それがサムライである。
   ・   ・   ・   
 武士とは、孤独であった。
 不始末の責任を全て背負って、一人、切腹しなければならなかった。
 孤独死するのが、武士の生き方、サムライの美学であった。
   ・   ・   ・  
 頭山満「一人でいて淋しくない人間になれ」
   ・   ・   ・   
 中国は、文を尊び、自分だけの「面子」を守る為に他人の命を奪った。
 日本は、武を貴び、武士の一分という「体面」を守る為に自分の命を捨てた。
   ・   ・   ・   
4、家臣によって、座敷牢に押し込められ隠居させられた大名。
 大名が、重圧に耐えきれず乱心したり、自己満足に悪行や暴政を行った時、重臣達は上意討ちを覚悟で繰り返し諌言や異議を申し立てた。
 大名の傲慢で百姓一揆や暴動が起きれば、幕府は他への見せしめに責め問い処罰した。
 重臣は、藩・御家を守る為に主君を押し込め反省を求め、それでも回心しなければ強制隠居させた。
 隠居させられた元大名で復権を狙う者は、味方の家臣を集めて重臣と対立を深めて御家騒動を起こした。
 親戚筋の大名が集まって、御家騒動を穏便に収めようとして失敗するや、重臣は最後の手段としてかっての主君を殺害して急死と届け出た。
 家臣にとって、生活の場である藩が取り潰されては無職の浪人になるしかなかったから、主君より御家を優先した。
 家臣は、主君の横暴な命令をご無理ごもっともと従ったわけではない。、
 幕府は、自浄努力として御家騒動が収まらなければ裁定をくだしたが、不平浪人を出しては戦乱の原因となるとして藩を存続させた。
 「武家諸法度」に従って、内紛の当事者の弁明を公平に聞いた。
 だが、日本独自の「喧嘩両成敗」の原則に従い、元大名は藩主失格として他家に預けられ、重臣の数人が公儀の秩序を乱した太罪として切腹させられ、その家族は不忠者の家族として流罪か領地から追放させられた。
 江戸中期以降の大名には、思ったままに藩政を指導する実権もなければ、家臣の意見を聞かずに行動する自由もなかったといわれている。
 家臣にとっての理想的大名とは、頭脳明晰な英明な名君ではなく、世間知らずの操りやすいうすら馬鹿な暗君であった。
 歴史に名を残すような主君は、家臣にとって有り難迷惑であつた。
 政治に興味がなく、出世の野心を持たない、文化大名か、美女に溺れる色ボケ大名が、理想的主君であった。
・家臣に殺害された大名   … 相良頼央。丹羽長貴。有馬忠義。鳥居忠春。その他。
   ・   ・   ・   
・家臣に押し込められた大名 … 伊達綱村津軽信義。水野忠元。蜂須賀重喜。徳川宗春。その他。
   ・   ・   ・   
・家中不和で減俸された大名 … 松平忠弘。板倉重種。仙石久利。その他。
   ・   ・   ・   
・家中不和で改易された大名 … 本多重益。奥平昌能。蒲生忠知。松平直矩。鳥居忠則。その他。
   ・   ・   ・   
・領地返上した大名  … 加藤明成。その他。
   ・   ・   ・   
   ・   ・   ・   
5、御家を存続させる為に養子を迎える。
 武家は、男子の後継者を失った時、娘がいれば一族か他家から婿養子をとって跡取りとした。
 娘もいなければ、一族か他家から夫婦養子をとって家名を継がせた。
 一族の家臣達は、御家を存続させる為に養子の身分は問わず、養子となった赤の他人を身内として受け入れ、主君と認めて忠誠を誓った。
 それが、サムライの「御奉公」である。
 藩も、主家の大名家を断絶させる為に、娘に一族か他家から婿養子をとり跡継ぎとした。
 適当な候補者がいなければ、血のつながりのない他家から養子をとって新たな大名とした。
 幕府は、正統な後継者を無くした事で大名家を取り潰すと、大量の浪人が発生して騒動の原因になるとして、大名間での養子縁組を求めた。
 ただし、御三家・御三卿以外の大名を将軍にしなかったのと同様に、家臣を大名として主家を継がせた事はない。
 家来にとって重要なのは、血筋や爵位ではなく、主家である「御家」の存続であった。
 何れの婿も、主家の娘には頭が上がらず、肩身の狭い境遇に置かれていた。
 日本民族においては、男性よりも女性の方が誕生する数がわずかに多く、女性は腕力がなかったが知恵があり健康で長生きであった。
 故に、日本は儒教的男尊女卑社会ではなかった。
上杉綱憲 … 高家吉良上野介の長男、名門・上杉家の養子となる。
上杉鷹山 … 小藩・日向高鍋藩主秋月氏の次男から、名門・上杉家の婿養子となる。
松平容保 … 小藩・美濃高須藩松平義建の六男から、大藩・会津松平家(旧保科家)の養子となる。
伊達宗城 … 旗本山口直勝の次男から、伊予宇和島藩主伊達宗紀の仮養子となり宇和島藩家臣・伊達寿光の養子となったが、宗紀が嗣子に恵まれなかった為に宗紀の五女・貞と婚約して婿養子となった。貞は早世してしまい婚姻はしなかったが、第8代藩主となる。宇和島鎮座の鶴島神社(現在の南予護国神社)の御祭神となる。
 祖父の山口直清は、宇和島藩5代藩主伊達村候の次男であったが、山口家の養嗣子となっていた。
   ・   ・   ・   
 高須4兄弟。
 高須藩第10代藩主松平義建には子が多く、次男は尾張藩第14代藩主徳川慶勝、三男は石見浜田藩主松平武成、五男は高須藩第11代藩主から尾張藩第15代藩主、さらに後には御三卿一橋家当主となった(名乗りも松平義比→徳川茂徳→徳川茂栄と変遷)。七男が会津藩松平容保で、九男が桑名藩松平定敬と幕末に活躍した藩主となった。十男の義勇は高須藩第13代藩主となっている。
  ・  ・   
 ウィキペディア
 高須藩 親藩・御連枝3万石 1700年 - 1870年
 高須藩は、江戸時代、美濃国石津郡高須(岐阜県海津市)付近を領有した藩。藩庁は高須陣屋(初期は高須城)。一時期、駒野館(宝暦13年(1763年)- 安永7年(1778年))。江戸中期以降は尾張藩支藩
 尾張藩主の子が立藩しており、宗家に嗣子が絶えたときこれを相続し、尾張藩を輔弼する役割を果たすなど支藩として機能した。しかし、所領は幕府より与えられたものであり、尾張藩からの分知ではないことから、完全な支藩であるとは言えない。ただし、第3代藩主の松平義淳は徳川宗勝として尾張藩第8代藩主となり、第5代藩主の松平義柄も徳川治行として第9代藩主徳川宗睦の養子となった(相続前に早世)。また、第10代藩主松平義建には子が多く、次男は尾張藩第14代藩主徳川慶勝、三男は石見浜田藩主松平武成、五男は高須藩第11代藩主から尾張藩第15代藩主、さらに後には御三卿一橋家当主となった(名乗りも松平義比→徳川茂徳→徳川茂栄と変遷)。七男が会津藩松平容保で、九男が桑名藩松平定敬と幕末に活躍した藩主となった。十男の義勇は高須藩第13代藩主となっている。
 藩政で特筆すべきことは、第4代藩主松平義敏が水害が起こることを考慮して、幕府に嘆願して駒野へ館を移し、第6代藩主松平義裕の時代に高須に戻したことくらいである。 明治2年(1869年)の版籍奉還で、最後の藩主であった松平義勇は高須藩知事に任じられる。明治3年(1870年)、尾張藩に併合され廃藩となった。
   ・   ・   ・ 
6、幕府による恐怖の大名支配。
 幕府は、大名への支配を強化するべく、大名を合法的に改易する大義名分を探していた。
 忍者は、その為に各大名領に忍び込み、各藩の情報収拾をおこなっていた。
 将軍は、大名を恐怖で支配する為に、情報を重要視し、あらゆる情報を掻き集めていた。
 江戸時代に改易された大名家は約260家であり、直参旗本は数が多くて実数不明である。
 外様大名への見せしめの意味もあって、身内である親藩や幕府に貢献した譜代への監視は厳しかった。
   ・   ・   ・   
 島社会は、大陸社会と違って、他人よりも身内に厳しい掟を設けて秩序を維持し、権力に近い身分が上位な者ほどその自由は極端に制限されていた。
 権力を持つ者には俸禄が少なく、責任が重く、些細な不祥事でも責任を取らせ、「切腹」を含む厳罰を与えた。
 出世して役職に就くには家柄と一定の家禄を必要としたが、一般的には権力を持たない者には家禄が多く支給された。
 武士にならず町人や百姓の身分を受け入れた者には、武士以上に私有財産を貯める事を許した。
   ・   ・   ・   
 武士の本音を言えば、明日の命も分からないお城務めなど早く辞めたかった。
   ・   ・   ・   
島原の乱で減封され後に改易された大名 … 板倉勝家(譜代)。寺沢堅高(外様)。
   ・   ・   ・   
武家法度違反で改易された親藩・譜代の大名 … 松平忠輝キリシタン)。本多正純松平忠直。徳川忠長。松平光長。松平綱昌。その他。
   ・   ・   ・  
 幕府は、大名の財政を疲弊させる為に、1年交替での参勤交代と天下普請などの諸役を命じた。
 大名は、貧困化して、財政の遣り繰りに苦慮した。
 一方、街道筋の宿場は大金を落としていく大名行列で潤い、そこに農産物や生活必需品を供給していた周辺農村にも現金が行き渡った。
 これが、日本型の産地消費経済である。
 年貢で搾取された以上の現金が、百姓の手に入った。百姓はそれを貯蓄したが、道楽好きな馬鹿亭主はその金で酒を飲み博打で散財した。
 田舎の女達は、男に金を持たせるとろくでもない事に散財するとして鬼の様に怒り、逃げ惑う男から容赦なく金を取り上げた。
 いくら日本の男が亭主関白とすごんでみても、肝っ玉の座った日本の女性のカカァ天下には叶わなず頭が上がらなかった。
 金に余裕が出来た庶民は、整備された街道や航路を使って、各地の温泉や名所旧跡や神社仏閣をめぐる観光旅行に出かけた。
 特に、お伊勢参りは人気があり、各地の遊女や犬までが伊勢詣でしたといわれている。
 江戸時代を通じて、庶民の間で各種の旅情報紙が飛ぶ様に売られた。
 大名行列がひっきりなしで行き交う為に、街道が領地を通る各大名は体面にこだわって治安は守った。
 日本の街道は、世界一安全で、子供や女性でも一人で安心して旅が出来た。
 江戸時代は、サムライの時代というよりは、百姓や町人らの庶民の時代であった。
 彼等の旅行は、わいわいと騒々しいほどに賑やかであった。
 よく酒を飲み、よく笑い、よく喧嘩し、そして、よく泣いた。
   ・   ・   ・   
☆威張っても自由のないサムライは、責任問題として切腹という重い義務を負わされていた。
 サムライは、言い訳や弁護や抗弁は女々しいとして否定され、体面を保つ為に自己責任で自決を強要された。
 サムライは、中国の士大夫や朝鮮の両班とは全く違い、割の合わない損な身分であった。
 武士道は、日本だけのものであって、中国や朝鮮には断じてない。
 武士道精神は、日本人のみの精神であって、中国人や朝鮮人には無縁の心である。
 サムライは、日本人であって、中国人でもなければ、朝鮮人でもない。
 武士は、日本の大地にのみに根付き、中国や朝鮮の土地には根付かない。
   ・   ・   ・   
 サムライは、職業軍人として戦う事が仕事である以上、日常の労働を免除され、非常召集に備えて俸禄を貰っていた。
   ・   ・   ・   
 サムライと天皇は、不可分である。
 天皇を否定する事は、サムライを否定する事である。
 天皇を廃止する事は、サムライを抹殺する事である。
 天皇あっての、サムライである。
   ・   ・   ・  
 サムライの系図は、天照大神の子孫の天皇か天兒屋命(アメノコヤネノミコト)の子孫の藤原氏(旧中臣氏)である。
 天孫降臨の際、藤原氏の祖先神はニニギノミコトの家来として日本に降り立った。
 三貴子月読命須佐之男命は、サムライの祖先神・氏神ではない。
 もちろん、伊邪那岐命伊邪那美命もサムライの祖先神・氏神ではない。
 藤原氏氏神である天兒屋命は、高天原天照大神の臣下である。
 高天原神話の中で天照大神と対等か上位にある神は、存在しない。
 日本の系図で、皇統にかわって日本の支配者になれる家系はない。
 神代で定まった家系で、天皇になれる日本人はいない。
 日本人が守るべき道徳秩序は、日本神話と民話や逸話の中に存在する。
 日本の全ての家系図は、高天原神話に支配されている。
 日本の系図を持つ日本人は神代からの臣下である以上、系図を持つ日本人は宗家である皇室を廃止できないし、天皇にはなれない。 
 日本神話とは、民族・国家として、現代に生きている唯一の古代神話である。
   ・   ・   ・   
 サムライは、いつ何時、身に覚えのない理由で、主君から切腹を命じられるか分からない絶望的武士社会に生きていた。
 絶えず「死」を意識させられ、今にも発狂しそうな環境ゆえに、「死に狂い」できる狂気の武士道を生み出し、絶対に叶わぬ憧れの対象あるいは絶対に達成できない剣聖という境地への「忍ぶ恋」に淡い希望を抱いた。
 武士道とは、「死」という不幸を受け入れ不合理を覚悟する為の哲学である。
 そこにあるのは、「希望」を求めて死に狂うという「狂気」である。
 サムライの狂気が方向性を持って爆発したのが、幕末である。
   ・   ・   ・   
「武士は食わねど高楊枝」
 封建時代のサムライは、身分が低い百姓町人よりも貧困に喘いでいた。
   ・   ・   ・  
 平和な時代に入ると、日本人は、主役として全軍を指図し戦に勝つ偉大な総大将よりも、有能であるが地味で目立たない人の良い脇役を好んだ。
   ・   ・   ・   
 2016年2月26日号 週刊朝日「子孫が綴る
 400年後にみのった家康公の夢 徳川宗家19代目 徳川家広
 将軍と大名の本当の関係とは?
 元和偃武(げんわえんぶ)──。徳川の平和の二つ目の柱は。実は家康は、独裁者というのとはほど遠い存在だった。中国攻略、四国征伐九州征伐、北条攻めと全国各地を転戦して強敵を次々と打倒した豊臣秀吉こそが、戦国時代を終わらせた覇王であり、じっさい彼はその実績を背景に独裁者、専制君主として振る舞っている。
 実は家康にも、独裁者になりうる瞬間はあった。
 慶長3(1598)年、秀吉死没の直後である。この時、日本、特に西日本は、その6年前に秀吉が始めた『唐入り』つまり中国攻略作戦の失敗によって、疲弊しきっていたのだ。豊臣恩顧の西日本の大名たちは重い財政負担に喘ぎ、敗戦によって威信を失していた。秀吉没後、豊臣政権の最高実力者となった家康としては、弱った大名たちを口実を設けて次々と取り潰し、その家臣団と領土領民を吸収していくという道をとることも可能だった。
 だが家康はそうしなかった。その代わりに起こったのが関ヶ原の戦いで、そこで自分の側についた西国大名たちに家康は存分に報いている。詳細は別に記すことになるが、『天下分け目の戦い』は朝鮮出兵の後始末だったのだ。仮に西軍が勝利するという事態になっていれば(そうならないための仕掛けは十分に凝らしてあったのだが)、第3次の朝鮮出兵が行われていただろう。
 家康が豊臣恩顧の大名たちに大封を与えて処遇したのは、関ヶ原の戦いというか豊臣秀吉が亡くなるまでの間に、彼らとの間に友情が芽生えていたからであろう。細川幽斎浅野長政黒田如水島津義弘も、家康としては共感できる、同格の人物たちだった。
 ただし、そのような感傷だけでは家康は動かない。これは子孫として、血が私に教えているわけではない。政治家というのは、そういうものだという事実を記しているだけである。家康が大名たちを厚遇し、その力を温存したのは、豊臣秀吉という怪物を間近に見て、さらにいえば、織田信長という、秀吉がその手法を真似た一人の天才を間近に見て、独裁者の危うさをよく理解していたからだろう。
 徳川の天下を、そして徳川の平和を長続きさせるには、物事が容易には将軍の思い通りにいかないほうがよい。これが幕藩体制の根っこにある考えである。
 武家諸法度にしろ、大名たちが遵守するのが難しい法制ではない。また、徳川家臣団を無数の中小大名に分けて、指揮系統をわざわざ複雑にしているのも、豊臣恩顧の大名たちを安心させるためだった。
 では、大名たちが取り潰されることをいつも恐れていたという、幕藩体制を語る際の決まり文句は、いったい何なのだろう?
 それは、将軍・幕府と各大名家の間に緊張関係があると思わせておいたほうが、各大名による家臣団の掌握が楽だったから、と考えるとわかりやすい。
 戦時体制が完全に終わったわけではないという緊張感が武士の統制を強化し、そのことが平和の維持を容易にしたという逆説である」

 


   ・   ・   ・