🏞87)─3・B─江戸時代。庶民に一番人気の街道が東海道ではなく中山道だった。~No.365 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 2022-03-23
⚔39)─1・B─徳川家康が整備した東海道は大阪・西国を攻撃する目的の軍用道路であった。~No.165 
   ・   ・   ・   
 参勤交代で東海道を通る大名は150家だったのに対し、中山道は約30家と少ない。
   ・   ・   ・   
 2023年3月12日 MicrosoftStartニュース ダイヤモンド・オンライン「江戸時代、庶民に一番人気の街道が東海道ではなく「中山道」だった理由
 浅井建爾 
 道をたどれば、歴史と文化が見えてくる。地理・地図研究家の浅井建爾氏の文庫新刊『日本の道・道路がわかる雑学』からの一部抜粋で、知っているようで知らない、日本各地の道にまつわる意外な事実、トリビアを紹介していく。
 現代の中山道奈良井宿の街並み Photo:PIXTA
 © ダイヤモンド・オンライン
 徳川家康の「五街道」整備は、
 江戸幕府を開くよりも早かった
 戦国時代、織田信長は統治した諸国で統一された道路の大改修を行った。その後を継いだ豊臣秀吉も、道路整備に大きな功績を残している。しかし、広域にわたり本格的な道路整備に着手したのは徳川家康である。
 秀吉によって関八州への国替えを命じられた家康は、江戸の街づくりと並行して江戸に通じる街道と宿場の整備に着手した。それが、東海道中山道日光街道日光道中)、奥州街道奥州道中)、甲州街道甲州道中)からなる五街道である。
 東海道中山道は1590年代前半からルート選定や宿場町の整備が始まり、東海道では1601年に、中山道ではその翌年に宿駅伝馬制が敷かれた。朱印状によって各宿場に伝馬(駅馬とは別に公用に使わせた馬)の常備を義務付けたのである。日光街道および奥州街道甲州街道についても江戸幕府が開かれる前の1602年には開設されていた。
 © ダイヤモンド・オンライン
 2代将軍秀忠に代替わりした1605年には、五街道の標準幅員を5間(約9m)、1里(約4km)ごとに塚を築くと定められ、並木も植えられた。また、1630年代には砂利や砂を敷いて路面が平らに固められた。
 東海道は江戸日本橋から京都三条大橋までの五十三次・約495km、大坂までの4宿も加えて五十七次ともいった。中山道は高崎、下諏訪、木曽路を経て草津までの六十七次・508km、それに草津、大津2宿を加えて六十九次。日光街道は千住、宇都宮、今市を経て日光までの二十一次・130km。奥州街道陸奥白河までの二十七次・190kmで、宇都宮までの17宿は日光街道と重複していた。甲州街道内藤新宿、八王子、甲府を通り、下諏訪で中山道に合流するまでの四十四次・220kmだった。
 江戸時代の五街道と宿場数
 © ダイヤモンド・オンライン
 東海道は天下の大動脈として、幕府が最も重視した幹線道で、とりわけ取締りも厳しかった。「入鉄砲出女」には特に目を光らせた。入鉄砲は、江戸に武器が入ってくることの取締りだ。出女は諸大名の妻子たちの、江戸からの脱出を監視することである。徳川幕府が参勤交代の制度をとったのも、諸国の統制と国家の安泰が最大の目的だった。参勤交代とは、諸国の大名を一年江戸に参勤させ、次の一年を在国させるというもので、大名の妻子たちは人質として江戸に常住させられた。徳川幕府が300年近くも続いたのは、参勤交代の制度があったからだといわれている。
 参勤交代は宿場をはじめ、街道筋を発展させるという大きな経済効果をもたらした。五街道およびそれに付属する脇街道は、参勤交代など公用目的に整備されたものだが、やがて庶民の寺社巡りや温泉旅行にも利用され、街道筋はますます栄えた。
 庶民に一番人気の街道が
 「中山道」だった理由
 東海道に次ぐ幹線道は中山道である。当初は「中仙道」と書かれていたが、1716年、新井白石の進言により公的には「中山道」に統一された。
 中山道は江戸日本橋から京都三条大橋までの六十九次、距離にして約526km。これは東海道より30kmほど長く、宿場は16宿も多い。中山道には険しい山道が多く、寒さも厳しい。当然、一日で歩ける距離も短くなる。宿場が多かったのはそのためだといえる。
 それに比べ、東海道は海沿いをたどるコースで険しい山道は少なく、気候も温暖。街道もよく整備されていた。中山道に比べれば快適な旅ができるはずだ。にもかかわらず、東海道を避け中山道を歩く旅人も多かった。最大の理由は、東海道には難所が多かったからである。
 東海道中山道の宿場町(人口上位)
 © ダイヤモンド・オンライン
 橋も渡船もない川越し、
 関所の厳しい取締り
 「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」といわれたように、東海道には行く手を阻む大きな河川が何本もあった。
 最も有名なのが大井川だ。江戸防衛の目的から、大井川には架橋も渡船も許されず、川越人足に頼るしかなかった。だが、上流で雨が降るとたちまち増水する。水位が増すごとに川札代もつり上げられた。この料金がまた馬鹿高い。宮(熱田)から桑名までの、七里の渡しの船賃より高かったという。しかも、一定の水位を超えると川止めを食らう。1日、2日の川止めで済むとは限らない。一定の水位まで下がらなければ、何日間でも川止めを食わされる。この間の宿代が大きいのだ。東海道での歩行渡しは大井川ばかりではない。安倍川や酒匂川でも歩行渡しが唯一の交通手段だった。
 関所も、旅人にとっては難所で、東海道の取締りはどの街道にも増して厳しかった。そのため、少々大回りしても険しい山道があっても、安心して歩ける中山道の方がましだということなのだろう。
 一方、中山道は山深いルートだったとはいえ、箱根峠ほどの険しさではなかった。それに、中山道の大きな魅力は、宿賃が安いことである。東海道の旅篭より2割ほど安かったというし、もてなしもよかったらしい。風景もよく、東海道のように人の往来も多くなかったので、のんびりした旅が楽しめた。
 ちなみに、参勤交代で東海道を通る大名は150家だったのに対し、中山道は約30家と少ない。この面でも気分的に気楽だったのだろう。冬の寒さは厳しいが、夏は涼しく、東海道よりはるかに快適な旅ができた。東海道に松並木が多かったのは、真夏の炎天下に涼をとるための道路施設だったともいえる。
   ・   ・   ・