⚔39)─1・B─徳川家康が整備した東海道は大阪・西国を攻撃する目的の軍用道路であった。~No.165  

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 徳川幕府が整備した天下の五街道は、戦争目的の戦略的軍用路であった。
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 江戸時代の幕藩体制とは、武士による臨戦態勢である為に、幕府や諸大名が行った諸政策は平和の為ではなく戦争の為であった。
 その故に、職業軍人であった武士・藩士には自由はなかった。
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 2022年3月22日 MicrosoftNews Merkmal「東海道はかつて「軍用道路」だった! なぜインフラ整備は歴史から学ぶべきなのか
小林明(歴史ライター)
 道路の基礎は「街道」にあり
 日本は6世紀頃から、当時の首都である京都から全国へ続く道の整備を行っていた。この道が現在、私たちが「街道」と呼ぶ幹線道路の基礎である。
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 1603(慶長8)年、徳川家康が江戸に幕府を開くと、日本の拠点は江戸へと移り、家康は日本橋から京都・木曽・甲斐(山梨)・日光・奥州(東北)の各方面に至る道をさらに拡充した。これが東海道中山道甲州街道日光街道奥州街道の「五街道」だ。
 五街道という言い方は明治時代に入ってから生まれたもので、江戸時代は「道中(どうちゅう)」といわれていた。東海道中山道は当時の言い方と同じだが、他は「甲州道中」「日光道中」「奥州道中」だった。
 モビリティ業界が学ぶべき街道・宿場町の歴史
 © Merkmal 提供 五街道表(画像:小林明)
 明治時代に入ると、街道に番号を付けて呼ぶようになる。東海道国道1号線と15号線にほぼ相当する。中山道は17号線だ。
 番号で呼ばれても、ルートが大きく変わったわけではない。日本の幹線道路は、何百年も前に造られた道をほぼそのまま踏襲している。また車がない時代は、荷車などに荷物を載せ人と馬で運んでいたが、人馬は疲弊する。最初から最後まで、同じ人馬をずっと使役することはできない。
 そこで、人と馬を交代させるシステムが必要だった。これを「伝馬制(でんませい)」といい、人馬の引き継ぎである。引き継ぐ場所として発展したのが、宿場町だった。
 宿場町は荷物の集積地でもあった。運ばれた物資は宿場町を経由し、脇往還(わきおうかん/五街道の脇道)を通って全国に運ばれた。現在も荷物の集積所は主要道路沿いに立地しているが、これもかつてのやり方に倣っているといっていい。
 先人たちが考案し創り上げた流通・輸送システムは、現在の日本に脈々と息づいているのである。
 何気なしに通っている道や町の成り立ち、由来を知ることは、交通・運輸・モビリティ産業で働く人たちにとって重要だろう。なぜなら、街道と宿場町は人と物の交流をうながし、日本を形づくるうえで大きな役割を果たしてきたからだ。昔と現代とを、時空を超えて結びつける架け橋なのである。
 街道と宿場町が果たした役割
 © Merkmal 提供 「東海道五拾三次之内 藤枝 人馬継立」。継立とは引き継ぎのこと。人足と馬が荷物を引き継いでいる様子を描いている(画像:国立国会図書館
 東海道を例に、街道と宿場町が果たした役割を具体的に見てみよう。
 前述の通り、東海道の拡充・整備を指示したのは徳川家康である。浮世絵でもおなじみの「東海道五拾三(五十三)次」、つまり53の宿場町も、家康が命じて以降、順次誕生していった。
 箱根など、難所とされる峠が五つあるものの、太平洋沿岸の比較的平たんな道である。今に至るも主要幹線道路なのは、ルートの多くが沿岸部にあることと関係している。山岳列島の日本では、平野部は沿岸に集中しているからだ。
 東海道新幹線が愛知県熱田と滋賀県草津間を除き、ほぼ東海道に相当するルートを走っているのも、線路建設地が平たんな地にあったことと関係あるだろう。
 また、家康が東海道整備にいち早く着手したのは、関西に派遣した軍隊が素早く行軍できるようにするためだった。実は東海道は、そもそもは軍用道路なのである。
 徳川幕府が開かれた当初は、まだ戦国時代の乱世は終わっていない。そこで幕府は、道幅を場所によって最大約14mまで広げ、戦(いくさ)が始まった際には、速やかに軍が通過できるよう備えたわけだ。道の整備は、一面には戦争をにらんだものだったことも否定できない。
 江戸時代に入り世の中が平和になると、今度は参勤交代行列が街道を歩いたが、大名行列も武器を携えた一種の軍事パレードである。
 一方、参勤交代のような大人数での旅には、大規模な宿泊地が不可欠となる。そこで、宿場町には本陣(ほんじん)、旅籠(はたご)といった宿が次々と誕生していく。本陣は殿様や幹部が滞在する宿、旅籠は下級武士らの宿泊所だった。
 宿場には伝馬制が常時用意されていて、大名行列もここで人馬を交代したのである。
 宿場町に見る過去の遺産
 © Merkmal 提供 五街道の宿場町を全解説した「日本街道総覧」の小田原宿。江戸時代は小田原藩の領地で、藩主は大久保家。石高は約10万石。かまぼこなどの名産品は、藩にとって貴重な財源だったろう。個人所蔵(画像:小林明)
 東海道では、
・小田原宿(神奈川県)
・宮宿(愛知県)
・大津宿(滋賀県
などが特に重要な宿場町だった。
 小田原宿は旧国名相模国さがみのくに)」にある。相模国は東に江戸を置く「武蔵国(むさしのくに)」、西に「駿河国(するがのくに)」に隣接し、関東と他エリアを結んでいる。その中核都市として、小田原は有数の交通拠点だった。
 小田原の重要性は、昭和に入っても変わらない。高速道路と新幹線で真っ先に建設・開通されたのは東名高速東海道新幹線だが、小田原には駅とインターチェンジがある。当地が関東と関西を結ぶ交通の要所であることを物語っている。
 また、小田原の名産品といえば、かまぼこが有名だが、これは歴史が古い。江戸時代の天明期(1781~1789年)にはすでに商品化され、小田原宿に宿泊した参勤交代の武士に好評だったという。武士たちはかまぼこを地元に持ち帰り、さらに評判は広がった。かまぼこ製造・販売で小田原は潤った。街おこしの模範といっていいだろう。
 東海道で最大規模の宿場町といわれた宮宿と、琵琶湖沿岸の大津宿は、前者は美濃路岐阜県大垣方面への脇往還)、後者は北陸道(北陸方面への街道)への分岐点だ。
 こうした分岐点を「追分(おいわけ)」というが、追分は各地方へ荷物を運ぶ中継地、つまり流通の拠点であり、人と物が行き交うという、地方が発展するファクターを、現在に至るまで途切れずに残してくれた。さらに宮宿は熱田神宮、大津宿は比叡山に近い。地の理を生かし、今も観光拠点として盛況だ。
 このように、東海道と宿場町には数多くの遺産がある。過去に学び、今後さらに育成・発展させていくことを考えるのも、モビリティ産業の役割ではないだろうか。そのヒントは、街道と宿場町が歩んだ歴史にこそ潜んでいる。」
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 近代日本の主敵は、白人キリスト教のロシアとロシア人であった。
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 日本の近代化の目的は、対外戦争を戦う為の軍国主義化であった。
 日本の開国・幕末・明治維新戊辰戦争・近代化・軍国主義化の発端は、ロシアの軍事侵略とキリスト教の宗教侵略で、その歴史的事実が、中世キリスト教会の日本人奴隷交易、寛政日露交渉(1792年)と攘夷運動、文化露寇事件(1807年)と蝦夷地・北方領土派兵(約4,000人)、攘夷派が激怒した対馬事件(1854年)の弱腰交渉、などであった。
 日本をロシアから救ったのは、戦争も辞さずのイギリスの軍事力・海軍力であった。
 軍事を否定し信用しない国家・国民・民族には、現実世界で生きる資格はなかった。
 熱狂的天皇主義者(現代の右翼・右派・ネットウハ、一部の保守派とは無関係)である尊皇派・勤皇派による攘夷運動は、間違った愛国主義民族主義ではなく、正しい軍国主義国粋主義・好戦主義、正義の戦争・聖戦であった。
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 神国日本を守る為の攘夷対象は、軍事侵略を企むロシアと宗教侵略を繰り返すキリスト教であった。
 徳川幕府の経教分離の原則を受け入れて交易を行っていたオランダは、排除すべき攘夷の対象ではなかった。
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 日本には、大航海時代の中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人による日本人奴隷交易(被害者として)と日本軍部・陸軍・A級戦犯によるポーランドユダヤ人難民(数万人)をホロコーストから守ったという人道貢献(実行者として)を世界記憶遺産に申請する資格・権利がある。
 これは、日本国家ではなく、生きている日本民族日本人としての責務である。
 日本人奴隷交易とA級戦犯の人道貢献には、その事実を証明する・裏付ける公文書・古文書・キリスト教会報告書など歴史的証拠が国内外に数多く残っている。
 もし、日本の申請が認められないというのならば、ユネスコとイコモスによる世界遺産世界文化遺産・世界記憶遺産には存在意義はない、無意味・無価値という事である。
 日本人奴隷交易の責任の一端は、乱取りで捕らえた日本人を奴隷として外国人に売った日本人にもある。
 A級戦犯が有罪となって見せしめ的リンチ縛り首で処刑にされた罪状は、政治家・官僚・軍人として戦争を始めた平和に対する罪であって、拷問・虐待・惨殺・虐殺を行った人道に対する罪ではなかった。
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 西洋キリスト教文明国からすれば、日本人はアフリカ人同様に奴隷もしくは人間以下の家畜、自由に殺してかまわない獣であった。
 バチカンローマ教皇は、改宗した日本人キリシタンを奴隷にする事は禁止したが、改宗を拒む異教徒日本人を奴隷とする事は認めた。
 宣教師達は、日本人を救う為に布教活動を行い、多くの日本人をキリシタンに改宗させた。
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 武士は、敵が自分より強者・巨大で戦えば必ず負けると分かっている絶望的状況にあっても、体面・名誉・プライドの為に戦うと決断したら「勝敗は時の運」と思い定め、死を覚悟し、「肉を斬らして骨を斬る」の捨て身の戦いを「正々堂々」と奇策や奇兵を駆使しておこなった。
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 日本の戦争史において、小国・少勢・小部隊・弱者・不利な者が大国・多勢・大軍・強者・有利な者に対して行う、油断を突く・虚を突くという奇襲・騙し討ち・不意打ち・夜襲は卑劣な戦術ではなく道理にかなった戦術である。
 日本軍が戦った対外戦争である、日清戦争日露戦争、シベリア出兵そして満州事変、日中戦争、太平洋戦争はすべてそうといえた。
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 鎖国下の江戸時代、日本の文化はあるがままでの共存と共生であり、日本の生き方は身の回りでの絆と繋がりであり、日本の生活は目の前の地産地消であった。
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 鎖国政策とは、中国や東南アジアから疫病を入れない水際政策であったが、それでもコレラ、ペスト、梅毒、インフルエンザなど日本にはなかった伝染病が侵入して大流行を引き起こしていた。
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 対中国・対朝鮮交易は、富をもたらしたが同時に疫病を引き入れる事になった。
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 日本の総人口は、江戸開府の1600年頃では約1,200万人~1,800万人で明治5(1872)年には約3,295万人(琉球人とアイヌ人を除く)に増加していた。
 人口増加は、慢性的な乳幼児死亡率が高い中で起きていた。
 江戸時代の人口増加を支えていたのは、伝承としての継続的変革と一新する破壊的イノベーションであった。
 江戸時代は人口が微増して、人生50年といわれ、年齢的人口構成は若者が多く老人が少なかった。
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 徳川幕府は、ロシアの軍事侵略から戦争をしてでも蝦夷地・北方領土南樺太を防衛する為に東北諸藩に出兵を命じた。
 東北諸藩は、戦争を覚悟して約4,000人を蝦夷地・北方領土南樺太に送って防衛任務に当たった。
 尊王攘夷派は、神国日本と蝦夷地や北方領土をロシアの軍事侵略から守る為に北に向かっていた。
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 徳川幕府内の開国・国防派は、ロシアの軍事侵略から日本を守る為に清国(中国)や朝鮮との三国軍事同盟を模索していた。
 戦争を嫌う現代の日本人には考えられない事を、江戸時代の日本人は戦争をする為に考えていた。
 古代から朝鮮や中国の侵略で苦しめられた長州などの北九州・中国地方の日本人達は、敵である朝鮮や中国を攻め取ってロシアに対抗すべきだと主張していた。
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 明治日本にとって国家存亡の危機とは、ロシアの軍事侵略とキリスト教の宗教侵略であり、ロシアが侵略してきた時に隣国の清国(中国)と朝鮮が日本に味方してくれるのかロシアに協力して敵になるかであった。
 が、清国(中国)と朝鮮は日本の淡い期待を裏切ってロシアに味方したのである。
 日本の大陸侵略政策とは安全保障が最優先課題で、北のら侵略してくるロシア・ソ連共産主義勢力に対抗する為に、敵対する中国と朝鮮から反日・敵日・侮日勢力を武力で追放して友好に変え親日・知日の政権を樹立して攻守軍事同盟を結ぶ事であった。
 その意味に於いて、日本の対外戦争は全て積極的自衛戦争であった。
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 明治維新とは、ロシアの軍事侵略から如何にして神国日本を守るかという体制選択であった。
 伝統的な徳川将軍家を中心とした諸国・諸藩連合の地方分権体制か、革新的な天皇を中心として一国中央集権体制かである。
 佐幕派は前者であり倒幕派は後者であった。
 つまり、日本の生き残りを賭けた、佐幕派の継続的変革か倒幕派の破壊的イノベーションかの選択戦争であった。
 何れにせよ、世界が大きく激変する時代において、戦争を避ける話し合いによる外交での継続的変革には未来はなく滅亡し、戦争を覚悟した外交での破壊的イノベーションのみが未来で生き残る正解の選択であった。。
 それは、現代でも変わる事のない普遍的大原則である。
 日本の近代的軍国主義政策は、ロシアの軍事侵略、キリスト教の宗教侵略、そして最も恐ろしいマルクス主義共産主義イデオロギー侵略が原因であった。
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 弱小国日本、財政赤字で破綻していた明治新政府の国際的信用の根拠は、天皇の存在であった。
 天皇の存在で、近代日本は普通の国家として世界に受け入れられた。
 それが、天皇国家元首としての統治権であった。
 欧米列強は、殺しのプロである武士集団ではなく、日本民族の主権者であり祭祀王の天皇の存在ゆえに日本を侵略しなかった。
 そこが、日本国とムガル帝国の違いである。
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