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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
外国人が引かれた日本の宗教性とは、昔ながらの古臭い伝統的既成宗教であって、真新しい現代の新興宗教・新新興宗教やカルトまがいのエセ宗教ではない。
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2023年4月27日 MicrosoftStartニュース 日刊ゲンダイDIGITAL「米国人はなぜ宗教から離れたのか ヨガ=ヒンズーに入信するわけではない【神秘的なモノに引かれる人たちの経済圏】
ウィル立入氏(提供写真)
© 日刊ゲンダイDIGITAL
【神秘的なモノに引かれる人たちの経済圏】#2
特定の宗教団体などには帰属しないが精神的な豊かさ(スピリチュアリティー)を求める「SBNR」層は、米国では4人に1人いるという。「Uber ウーバー革命の真実」「ソーシャルメディア革命」の著者で、米国の社会事情に詳しい作家のウィル立入氏(48、カリフォルニア州在住)は、宗教離れの原因について次のように話した。
「リベラル(自由主義者)が増えるにつれて、伝統的宗教から離れる人が増えているのは事実でしょう。ヨガをやっても、ヒンズー(教)に入信するわけではありません。また、イスラム教根本主義やテロリズムの報道は、逆に世界でイスラムヘイトを巻き起こす要因になった。オウム真理教事件によって宗教離れが進んだ日本の現象と構造的に似ています。ビーガン(完全菜食主義者)や動物愛護主義(主に犬)などは、(宗教離れではなく)環境派リベラルに近いところの筋からの流れでしょうね。多くの米国人は<なぜ宗教が必要なのか?>という問いに対して、<組織であること>以外に強い回答を見いだせていないのかもしれません。ビリー・グラハムみたいな有名牧師が国内にいなくなってきていることも指摘できます。
たとえばLGBTQを積極的に受け入れるような宗教団体って少数派です。肝心な精神的な支えを日常(非宗教)で求められるならば、個人的なスピリチュアリティーを高めた方が幸福になれると考えるのかもしれない。
また、マインドフルネスの隆盛、BLM運動(人種差別抗議運動)、9.11テロ、トランプ大統領の誕生、金融破綻、MeToo運動など米国で起きているさまざまな出来事は組織的な信仰を肯定する動きには必ずしもつながらず、個人的な防御を強める動きにつながっていると思います」
外国人が日本に引かれる理由
SBNR層を日本のインバウンドに活用している株式会社XPJP代表の渡邉賢一さん(51)は、外国人が日本に引かれる理由を次のように見ている。
「日本人には、自然と一緒という感覚が根底にあります。五感を使って森羅万象を体感するアニミズム(すべての物に霊魂が宿っているという考え)的な感じです。外国の方にはそこにスピリチュアリティーを感じるのでしょう。そもそも日本では、自然界と人間界に境目はありませんでした。しかし江戸時代末期まで『自ずと(おのずと)』という意味で使われていた言葉に、明治に導入されたネイチャーという感覚を『自然』という言葉で表現してしまったことで、日本では人間界と自然界が分離してしまいました」
日本人は元来、「自然と一緒」という感覚を持ち、一方で人間と自然が分離された歴史も知っている。反対に欧米では人と自然が分離されていたところから出発して、アニミズムに到着した人が多いのだろう。
渡邉さんは日本語の「聖地巡礼」を「Nature walking」、「祈り」を「Mental health」、「精進料理」を「Natural food」、そして「仏教」を「Philosophy」と訳すことを提案している。日本文化を欧米の文化に伝えやすい形にするためだ。
日本文化の特徴をアニミズムだけでなく、二元化された捉え方の世界とも両立しているという姿を見せることができれば、日本の価値はもっと高まるはずだ。
(石塚集)
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3月29日 MicrosoftStartニュース NIKKEI STYLE「気鋭の僧侶が説く自己肯定感の落とし穴 それって「自我肯定」じゃない?
「正解がない」といわれるVUCA(ブーカ=変動性、不確実性、複雑性、曖昧性)の時代に力を発揮するのは「答えがない問いを考え抜く」禅的な思考法。言葉の意味にこだわって自らに問う、他者に問う。答えが出ようが出まいが問い続ける、問い抜く。突き詰めれば「我を忘れる」境地に至るこのプロセスが、自分の枠を取っ払い、心の幅を広げ、発想の自由度を高め、人生を豊かにします。新刊『忘我思考 一生ものの「問う技術」』で、「答えは1つしかない」という正解主義から距離を置く生き方、問い抜くことの大切さを、僧侶・伊藤東凌さんが提案します。
■「自我」を肯定しようとして「自己否定感」に苦しんでいる
最近、気がかりなのは「自己肯定感」という言葉がさかんに使われていることです。インターネットで検索すると「自己肯定感を高める方法」「自己肯定感が低い理由」といった文字列が次々にヒットします。自己の肯定も否定も主観的な行いですから、たいていの場合、そこに明確な根拠はありません。多くの人が単なる自分の思い込みによるネガティブな感情に苦しんでいるのです。
問題の根っこをどこまでもたどると、多くの人が心の柔軟性を失っていること、そして自己の捉え方が凝り固まっていることに行き着くのではないかと思います。「心にシコリを抱えている」といってもいいでしょう。思考回路が硬直すれば、視野も発想の幅も狭まり、他者を思いやる余裕がうせ、時には排他性が芽を吹きます。
目の前の閉塞状態を打ち破るアイデアも、パワーもなかなか湧いてきません。「自己肯定感の低さ」も、原因はそこにあるのではないでしょうか。今までにやってきたこと、守ってきたこと、信じてきたことを、練るだけ練って固めた何ものかを、頭の真ん中に据えて、それを「自己」だと決めつけていませんか。極めて狭いスペースに閉じ込めた、まるで梅干しの種のようなそれは「自己」というより「自我」といったほうがしっくりきます。
2023年2月に発売された『忘我思考 一生ものの「問う技術」』(日経BP)
© NIKKEI STYLE
私は、凝り固めた「自我」を肯定するか否定するかという問いの設定自体が間違っているのではないかと思います。「自我」という言葉は、どちらかというとネガティブなイメージ(我を張る、わがまま、エゴイズム……)をまとっていますから、容易に肯定できません。10人いたら9人までが自動的に否定するでしょう。多くの人が「自己否定感」にさいなまれるのも、自然な成り行きではないでしょうか。
■禅的な思考法の核心は「問う」ことにある
こういう時代にこそ、禅的な心との付き合い方、思考回路の回し方が有効なのではないか? 僧侶の端くれの私は、そう感じています。「禅」イコール「坐禅」とお考えだとしたら、それは違います。坐禅は禅の精神を身体を使って実践するものの一つに過ぎません。禅はもっと広い概念です。いうなれば生き方、世界と人生に向き合う態度。その営みには、人生を「よく生きる」ための智慧(ちえ)と技術が詰まっています。
ビジネスも私生活も充実に導くたくさんの要素が、そこにはあります。瞑想(めいそう)に代表される「心の安定」といったものも大切ですが、私がフォーカスするのは、心の安定の「その先」への導きという側面です。
すなわち、禅的な思考法の活用です。その核心は「問う」ことにあります。言葉の意味にこだわって、自らに問う、他者に問う。答えが出ようが出まいが問い続ける、問い抜く。突き詰めれば「我を忘れる」境地に至るこのプロセスが、自分の枠を取っ払い、心の幅を広げ、発想の自由度を高め、人生を豊かにします。
伊藤さんが副住職を務める両足院(京都市)では、坐禅体験ができる。詳細は両足院のホームページで(写真=PIXTA)
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■禅が時代を超えて続いている理由
論理性と合理性、そして定量的なデータを偏重する現代的思考の限界が、閉塞状態を招いている――そうした文脈で、禅的な思考やアート思考の有効性が叫ばれることがあります。賛意を表すると同時に、一つ補足したいのは、禅を「非論理的」と断じることの誤りです。禅の態度は矛盾を特別に排除せず、見ようによっては放置します。そこに非論理性ばかりを見るのは、少しばかり近視眼的に過ぎるのではないでしょうか。
矛盾を包み込みながら、論理のみに縛られず、全体をしっかり見守るのが禅的な態度。ささいな食い違いに目くじらを立てず、むしろそこに豊かな可能性の芽を見る柔らかさ、優しさにこそ、禅が時代を超えて続いている理由があります。
(構成 手代木建、日経xwoman編集部)
伊藤東凌
1980年生まれ。建仁寺派専門道場にて修行後、2005年から両足院での坐禅指導を担当。現代アートを中心に領域の壁を超え、伝統とつなぐ試みを続けている。アメリカFacebook(当時)本社での禅セミナーの開催やフランス、ドイツ、デンマークでの禅指導など、インターナショナルな活動も。20年に心を整えるアプリ「InTrip」をリリース。20〜22年にグローバルメディテーションコミュニティ「雲是」を主宰。海外企業のウェルビーイングメンターや国内企業のエグゼクティブコーチも複数担当する。最新刊は『忘我思考 一生ものの「問う技術」』(日経BP)。
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