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2022年10月13日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「「なぜ私たちは自殺をしてはならないのか?」、哲学・思想の歴史から導かれる「意外な答え」
「なぜ自殺をしてはならないのか」。この問いに導かれて、アメリカの歴史学者ジェニファー・マイケル・ヘクトが哲学の歴史の森に分け入り、思索し、著した『自殺の思想史――抗って生きるために』の邦訳が、このたび、みすず書房より刊行された。批評家のベンジャミン・クリッツァー氏が、同書の議論を紹介する。
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「自殺」の論じられにくさ
「自殺」は重大な問題だ。大半の人は、家族や友人が自殺をしようと考えていることを知ったらそれを阻止しようと努力するだろうし、親密な相手が自殺を検討したことがあるという事実を知るだけでもショックを受けるだろう。自分自身が自殺を考えていた時期がある人は、その時分の記憶を苦々しさや不安と共に思い返すはずである。そして、実際に家族や友人に自殺してしまい、心に傷を抱えながら生きている人は多々いる。
また、自殺は個人的にだけでなく社会的にも重大な問題と見なされている。自殺者が多い社会はそうでない社会よりも問題があり、改善の必要があるということは、とくに議論されるまでもなく当たり前の常識として共有されているのだ。
たとえば、日本が先進国のなかでもとくに自殺死亡率が高い国であることは国内でも問題視されているし、政府には経済や社会保障などに関する政策を通じて自殺率を減らすことが求められている。世界保健機関(WHO)も自殺予防が「世界の優先課題」であると明言しており、自殺予防のためのガイドラインを作成して各国に向けて公開している。
しかし、「自殺は悪いことである」とか「自殺は予防されるべきだ」とかいった価値判断は、哲学的には必ずしも自明のことではない。哲学者の森岡正博は、対談のなかで以下のように述べている。
私は「自殺を防がなくてはならない」という前提には、深掘りしていくと実は根拠がない、その底にはぽっかりと穴が空いているんだ、という気づきは、決して隠蔽すべきではないと思います。
社会的には重大と見なされている事柄でありながら、現代の哲学や倫理学で自殺の問題が直接的に論じられることは少ない。生命倫理学という学問領域では医療の現場などにおける「安楽死」や「自殺ほう助」について論争が続いており、多数の論文や著作が出版されている。
だが、それらの議論では、安楽死の対象となる患者本人についてではなく、自殺をほう助するという医療従事者の行為が認められるべきか否か、あるいは社会は法律や制度によって安楽死を許容するべきか否か、といった点が論じられることが多い。生命倫理学は医療や生命科学が関係する問題を扱う分野であるために、個人が他人の手を借りずに自分で実行する昔ながらの「自殺」については論じづらいのだ。
また、近年の日本では「反出生主義」に関する議論が注目を浴びている。しかし、反出生主義者の主張とは「生きること」ではなく「生まれてくること」に反対するものであり、具体的には「人生には生まれてくるだけの価値がない」や「生まれてくるよりも、生まれてこないほうが望ましい」といった主張になる。したがって、反出生主義では「新しい人間を生まれさせること」に関する議論は行われるが、自殺に関する議論が行われるとは限らないのである。
とはいえ、過去に遡ると、哲学者たちは自殺について大いに議論してきた。古代ギリシアでは、西洋哲学の開祖であるソクラテスが(死刑を宣告された後であるとはいえ)自らドクニンジンを飲んで死に向かいながらも、「自殺をしてはならない」と弟子たちに論じた。ソクラテスの弟子のプラトンやさらにその弟子のアリストテレスも自殺を否定する議論を行なっている。一方で、アリストテレスたちの後に古代ギリシアや古代ローマで活躍したストア派の哲学者たちは、しかるべき状況で自ら死を選ぶことを肯定した。
宗教に頼らず、自殺を否定する
このたび邦訳が出版された、アメリカの歴史学者ジェニファー・マイケル・ヘクトの著書『自殺の思想史――抗って生きるために』では、哲学を中心としつつ宗教や文学や社会学といった幅広い分野の文献を取り上げながら、西洋における自殺の是非についての論争の歴史が描かれている。
ただし、自殺を肯定する派閥と否定する派閥との議論を単に並列しているだけの本ではない。本書が書かれた背景には、著者の友人が二人、自殺をしたという事情がある。友人たちが亡くなった後、ヘクトは、彼女が住む現代の西洋社会には宗教的なものを除けば「自殺はまちがっている」とはっきり主張する人がほとんどいないことに気が付いた。そして、宗教に頼らない方法で自殺を否定する論拠を探求するために、彼女は思想史を辿ったのだ。このような姿勢がはっきりと打ち出されていることが、本書の特徴である。
本書の前半で強調されるのは、キリスト教の登場以降、西洋の思想には「自殺を否定する宗教」と「自殺を肯定する哲学」という対立軸が存在するようになったことだ。ごく初期のキリスト教では自殺は必ずしも否定されてはいなかったが、西ローマ時代のアウグスティヌスや中世のアクィナスといった神学者たちが自殺を明確に否定することで、自殺は単にまちがっているだけでなく、神の意思に反する「罪」であると考えられるようになったのである。
そのため、中世の西洋社会には自殺者の死体を「拷問の刑」に処して傷付けるという慣習が存在した。ダンテの『神曲』でも、自殺者たちが死後に地獄で責め苦を受けている様子が描かれている。
ヘクトが宗教による自殺否定論に満足しない理由としては、まず、宗教を信じない人には宗教に訴える議論は通じないという根本的な問題がある。また、自殺を「罪」とする主張は実際に自殺してしまった人に対してあまりに冷淡で苛烈な態度を生み出すことも彼女は懸念している。
罪や死後の世界といった概念に訴えて脅すことや、自殺してしまった人の遺体を傷付けて見せしめにすることは、自殺を検討している人を尻込みさせる効果が実際にあったようだ。それでも、多くの人は、脅しに頼らない人道的な議論が存在してほしいと望むだろう。
自殺を肯定する思想
哲学に目を向けると、先述したように古代ギリシアの哲学者たちの多くは自殺を否定していたが、ローマ時代にはストア派による自殺肯定論が普及した。中世になるとギリシアやローマの哲学は忘れ去られていったが、ルネサンスの時期にアリストテレスやストア派が再発見されて、人文主義が登場する。
この時代にシェイクスピアやモンテーニュは、戯曲や随想を通じて、自殺についての非宗教的な考えを表現した。彼らの表現は複雑なニュアンスを伴う両義的なものであるが、どちらかといえば自殺を否定するものだとヘクトは判断している。
自殺をはっきりと肯定する哲学が登場したのは啓蒙思想の時代であり、とくに代表的な著作がデイヴィッド・ヒュームによる『自殺論』である。また、本書のなかでは、ややマイナーな哲学者であるポール=アンリ・ドルバック男爵の議論もヒュームと並んで取り上げられている。
ヒュームやドルバック男爵が自殺を肯定した背景には、キリスト教の権威や教条主義を否定して合理主義的な議論を重視する啓蒙思想家としての姿勢が存在していた。「宗教vs. 合理主義」という構図は、現代の生命倫理学における安楽死についての議論においても再現されている。
ただし、ヘクトは、ヒュームたちの議論はあまりに冷淡だと批判する。彼らの議論には自殺を検討している人に対する同情や共感が見受けられず、「宗教の権威を否定する」という目的ありきのものとなっていたのだ。そのため、彼らは「社会の役に立たなくなった人物や社会にとって有害な人物が排除されること」という点すらも自殺を擁護する根拠に持ち出している。
また、ドルバック男爵は「自殺を擁護する哲学を公的に論じたところで、自殺する人が増えるとは限らない」と論じていた。だが、自殺を肯定する啓蒙思想の登場が実際に自殺を増加させた可能性は、当時から指摘されていたのである。
自殺を否定する「二つの議論」
ヒュームたちの議論は現在の哲学にも影響を与えており、自殺肯定論は否定論よりも目立っている。この状況についてヘクトは、啓蒙思想の時代と同様に、現代でも「自殺を肯定する議論が認知されること」自体が自殺の増加の影響しているのではないか、と危惧している。このような懸念から、彼女は、自殺を否定するための二つの議論を提出している。
一つめは「わたしたちは生き続ける責任を共同体に対して負っている」という議論だ。ここにおける共同体とは、家族や友人・恋人といったミクロな親密圏と、社会・国家・人類といったマクロな集団との両方が当てはまる。
端的にまとめると「自分が自殺をすると残された家族や友人はショックや悲しみを抱き、自分とは関係のない人にも悪影響を与えるおそれがあるから、他人や社会に危害を与えないために自殺はするべきでない」という主張だ。共同体への影響を根拠にした自殺否定論は、アリストテレスやソクラテスにまで遡ることができる。
また、ヘクトは、自殺は普遍的な道徳原則ではなく自己愛に基づく行為であるから人間が互いに負う義務に反する、としたカントの議論も「共同体への責任」を根拠とした自殺否定論の一種に分類している。
そして、本書では自殺が他人に与える影響についての社会科学的な知見や統計についても、一章を割いて紹介されている。たとえば「有名人が自殺したという事実が報道されると自殺率が急増する」という現象はよく知られている。有名人でなくとも、親が自殺してしまった子どもは後に本人も自殺する危険性が高く、同じ集団の仲間が自殺することは「群発自殺」という現象を発生させる。
つまり、自殺は「伝染」するのだ。「自分が自殺することは、他人を自殺に誘うかもしれない」という可能性は、自殺を思い留まる理由になり得るだろう。
未来の自分への責任
写真:現代ビジネス
二つめの議論は「自殺は未来の自分に対する責任に反する」というものだ。生きている間に何が起こるかはだれにも予見できず、現在の自分が死にたいほどに苦しんでいたとしても、将来には幸せになれるかもしれない。
さらに、現在の苦しみこそが、自分を成長させて、将来に感じる幸福の糧になるかもしれない。このタイプの自殺否定論の代表は、ショーペンハウアーの『自殺について』である。自殺未遂した人の多くが後に「あのときに死ななくてよかった」と語っていることも、この議論を補強するだろう。
また、「自由」や「自発性」をとくに重視するカミュやサルトルなどの実存主義者たちが自殺を否定して、不条理な人生に耐えて生き続けることの重要性を説いたことは注目に値する。自由主義者であるJ・S・ミルも「自由を放棄する自由は認められない」として自分自身を奴隷として売り飛ばす自由を否定しているが、ヘクトは、このミルの議論は自殺の問題にも援用できるとしている。倫理学においては「危害」と「自由」は重要なキーワードであるが、自殺という問題を通じてこれらの概念についても新たな角度から考察を深められることを、本書は示唆しているのだ。
ただし、ヘクトによる二つの自殺否定論が実際に自殺を検討している人を説得できるようなものであるかどうかについては、疑問の余地があるだろう。
過去に本サイトでも紹介した自殺予防を専門とする心理学者のトマス・ジョイナーによると、「自分が孤独であるという感覚」は人を自殺に導く主な要因だ。 つまり、自殺を考えている人は「自分は身近な人たちや共同体から切り離されてしまった」という認識を抱いている可能性が高い。そのような人にとっては、「共同体への責任」を根拠とした自殺否定論は有効でないかもしれない。
また、「未来の自分への責任」を根拠とする議論も「生き続けていれば、いつかきっといいことが起こる」といった前向きな人生観が前提になっている。ここで問題になるのは、自殺を考えるほどに抑鬱状態にある人は「マイナス思考(物事の明るい側面よりも暗い側面のほうに注目する)」や「破局視(未来は悪くなるに決まっていると思い込む)」などの「認知の歪み」にとらわれている可能性が高いことだ。「自殺をするほどの苦しみが長期間続くとは限らず、将来には自分の周囲の状況や精神状態は改善する可能性が高い」ということが未来予測として現実的であったとしても、自殺を検討している人がそれに納得してくれるとは限らないのである。
とはいえ、自殺を考えている人を直接的には説得できないとしても、ヘクトの議論には意味がある。「自殺を肯定する議論が認知されることで自殺者が増える」ことが真実だとすれば、その逆も成立するだろう。つまり、自殺を否定する議論のほうが認知されやすくなる状況をつくることで、間接的に、自殺者を減らすことができるかもしれない。
自殺に反対する議論は大切だ。命を救うだけでなく、人生をより幸福にする。本書で見てきたように、自殺の誘惑に駆られながら生きるのはつらいことを多くの思想家が経験から著している。抑鬱状態にある人はあまりに苦しくて、生き続けるべきかどうかを判断するのは自分だとさえ感じる。そうした人々にとって、哲学の領域には、生き続けるようわたしたちを励ます議論の系譜が二五〇〇年前から続いていることを知るのが慰めになるのを願う。
(p.246)
ベンジャミン・クリッツァー(批評家)」
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軍国日本にとって対米英戦争・太平洋戦争とは、勝てない事が分かっていて始めた名誉と体面と意地を守り貫く為の武士道的自殺(自死・腹切り)戦争であった。
つまり、日本以外で何処の国でも始めないバカげた戦争であった。
その好例が、絶望的戦争を避ける為にナチスドイツに屈服して国土を割譲し国民を献上し、遂には消滅した平和国家チェコスロバキアである。
軍国日本が戦争を避ける唯一の手段は、「公」の名誉と体面と意地より「私」の命を優先させる、自らの手で国家を解体し民族を消滅させる「自死=自殺」であった。
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日本の自殺
トランキールは「アベルタスマンと日本」で、1849年に出版された『ルーチェハストのアベル・ヤンスゾーン・タスマンの旅と探検』から日本に関わる部分を紹介していますが、そのⅣに切腹についての記述があります。
日本人の死の意識について、現代オランダの哲学者が考察した論文があります。ヘンク・オースターリング著「日本の死の倫理と意識 無の肯定」で、『理性の危機? 文化の観点』(1992年 Van Gorcum出版)に収められています。著者はロッテルダム生まれ。ライデン大学、エラスムス大学で哲学・日本語を修め、大学での哲学・美学の教授や数多くの著作活動の傍ら、様々な委員会で活躍されています。一方、氏は日本で剣道を学び、剣道のオランダチャンピオンにもなっています。
オースターリング氏は、剣道を通した日本の伝統的世界の経験に基づき、日本の文化にとてもユニークな視点を持っておられます。以下、氏の論文を要約して紹介します。
<要約>
現代日本は先端技術を駆使する一方で、古い儀式や習慣を持続しており、西洋の基準からすると文化の折衷主義、経済の便宜主義とみなされますが、それはより深い根を持つものです。
これは日本が、ペリーによって開国を、マッカーサーによって民主化を、強いられたためで、700年かけて西洋が形成してきた「普遍的」価値を、日本は100年で消化しなければなりませんでした。その消化不良の短い期間は、社会文化的な精神分裂症状を引き起こしました。
そのトップにあるのが、日本の二度のアポカリプス、集団としての死の体験です。一つは「天皇の人間宣言」で、もう一つは広島と長崎での原爆体験です。
ローマ法王が「私はもはや神の地上での代理人ではない」とCNNで宣言した場合の熱心なカトリック教徒の反応を想像すれば、前者による日本人の精神的打撃が理解出来るでしょう。虚無的な無気力、無力感に陥ったことは間違いありません。
日本で死は核心をなす事柄です。日本には切腹という儀式的な自殺の方法があり、これは西洋の自殺の認識とは全く異なった価値観を表しています。
又、日本の自殺者数は世界の他の地域と変わらないのですが、周囲からの圧力の下にある非生産者、若者や老人の割合が、不釣合いに高くなっています。
西洋では、自殺は病理学的衝動によるものと見なされます。超越神に基づく道徳は、自殺に肯定的な評価を許しません。しかし、日本の神道は道徳に基づいてはいません。審美的な価値としての「清らかさ」がその中心にあり、邪悪は儀式による清めで取り除かれます。華道から日常の礼儀正しさまで、この清められた礼儀作法、この儀礼的な態度に帰しています。
日本では「美しくあること」が最重要で、演技、形式としての「建前」が存在します。暴力行為も、道徳的な悪として拒絶されることはありません。犯人に対する判断基準は、純粋であったかどうかです。
神道と並んで、日本の武人階級(武士/侍)の禅仏教が自殺の観念に影響を及ぼしました。日本の国民的シンボルの桜の花は、短いけれど極めて美しい命を象徴しており、それぞれの命が、美しいけれど強いられた死の中で完成します。日本人は今も儚さを意識しています。
個人という観念がないことは、日本で個人の決断はいつも集団の和、調和を考えて為されるということを意味しています。日本人は、家族を基盤に天皇を頂点としたピラミッド型に構成された多くの義務の輪の中で巧みに生きます。それぞれの義務は、礼儀にかなった返済「義理」を要求しています。日本人の誇りは「和」と「義理」のための自己犠牲の上に形作られています。日本人にとって、西洋の個人の良心に基づいた自尊心は、エゴイズムの最たるものです。
この背景において「切腹」は集団の名誉のための儀式的な自殺で、「義理」の究極の形と言うことが出来ます。そのような捧げられた死は、倫理的な共同体を示しています。キリスト教でこの儀式は、キリスト受難の伝統の延長である殉教者に関してだけ、考えられ得ます。
切腹は1870年に公式には禁止されましたが、その肯定的な評価は今も存続しています。三島由紀夫や谷崎潤一郎は、自滅的な態度を敬愛しています。彼らの生き方は「死の願望」の証拠となるものです。この死の意識は、確かに日本文化に不可欠な構成要素です。そして酔っ払いへの寛容さも又その表れと考えることが出来ます。
死の肯定的な経験を内側から理解しようとする時、西洋の思考のための定義、自律と他律、個人と社会、内面と外面、存在と無のような対立物は崩れ去ります。西洋人が「個人の良心」を見出すところに、東洋人は集団で決められた「義務」が及ばぬ限りない「無」を見出しているのかもしれません。
西洋での分析でいつも前提とされる個人と集団の二分法は、日本の伝統の中には存在しない方法的前提であることは、明らかです。
*この論文(オランダ語)の全文は: ここをクリックしてください。
戦後に生まれた私たちは、個人の尊厳や民主主義などの言葉をよく口にしますが、実際の行動は集団で決められた義務に基づいているのかもしれません。時々はそのような義務から離れた無礼講が必要だと、人々が容認しているのかもしれません。もしかしたら、私たちは、そのような「義務の輪」から自由になることを「死への願望」として、どこかに抱いているのかもしれません ...
宮本政於著『お役所の掟 – 英文版』のタイトル『Straitjacket Society(拘束衣社会)』が示しているような身動きの取れない社会からの脱出が、無意識の「死への願望」なのでしょうか?
もしそうなら、おおらかに力強く生きる日本人の原像は、どこに求めればよいのでしょうか?どこかに存在していたはず、と強く信じているのですが ...
>>Henk Oosterling(オランダ語)
氏の日本に関する著作リストはここをクリックしてください。
© 2010 Trankiel
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NヘルスUP 日経Gooday 30+
医師が語る 自殺する人と、踏みとどまる人の違い
自殺について考える(上)
2018/3/14
個人のパーソナリティーを形成するものには、家庭や学校、友人・仲間といった要素がありますが、その根底には、その人の信念や宗教観、自殺を含めた生死に関する文化・社会通念があります。
無宗教の国は自殺率が高い
――確かに、自殺を罪とする宗教もあるので、そうした信仰を持つ人は、自殺を思いとどまれるのかもしれませんね。
そうなんです。これについても、WHOが興味深いデータを公表しています[注1]。世界の国や地域の自殺率を宗教圏別にまとめたデータで、これによると無宗教と見なされる国や地域の自殺率が圧倒的に高く、次いで仏教、キリスト教、ヒンズー教で、最も低いのがイスラム教の順になっています。自殺というデリケートな死因のため、そのすべてが報告されているわけではないことが考えられますが、教義で明確に自殺を禁じている宗教圏では自殺率が低い。一方、無宗教の次に自殺率が高い仏教は、自殺を明確には禁止しておらず、「極楽浄土」「輪廻(りんね)転生」といった思想から、自殺を誘発する懸念があることが指摘されています。
※A global perspective in the epidemiology of suicide:suicidologi 2002掲載のグラフを基に作成
こと日本に関しては、無宗教もしくは仏教の方も多く、自殺を含めた生死に関する文化・社会通念にも、自殺を誘発しやすいベースがあると考えられます。私はこの生死に関する文化・社会通念が、自殺に対する心理的な閾値(いきち)に最も影響するのではないかと思っています。
――それはどういうことでしょう?
例えば、時代劇では切腹のシーンがしばしば見られますよね。あれも自殺の一種ですが、美化されて描かれることが多いので、自死に対して罪悪を感じるよりも、むしろ自死をもって責任を取ることへの称賛や憧れのような気持ちを抱くことがあります。そうしたいわゆる「切腹文化」の名残が、自殺に対する心理的な閾値を低めているように思うのです。
というのも、日本では自殺に対して、「そうなってしまったことは気の毒だけど、最終的には本人が決めたことだから仕方がないよね」という考えを持つ人が少なくありません。しかし、繰り返しになりますが、自殺者のほとんどは、精神科で診断がつくレベルのうつ状態になっていて、客観的な判断ができなくなっていますから、本人が冷静に自殺を決意したわけではありません。だからこそ、自殺に至ってしまう前に、サポートすることが重要なのです。
かつての日本ではこのことがあまり理解されず、自殺予防対策がなかなか進まない現状がありました。しかし、1998年に前年の自殺率を35%も上回り、自殺者が3万人を超えたことをきっかけに、国を挙げての自殺予防対策が進められることになりました。
◇ ◇ ◇
後編「自殺を防ぐために 知っておきたい『TALKの原則』」では、日本で自殺予防対策の取り組みが進んできた背景と、身近な人が「死にたい」と口にしたときに、それを防ぐ「ゲートキーパー」の役割を果たすための対応の仕方を解説する。
[注1]A global perspective in the epidemiology of suicide:suicidologi 2002
(ライター 田村知子)
張賢徳さん
帝京大学医学部附属溝口病院精神神経科教授。1991年東京大学医学部卒業後、帝京大学医学部附属市原病院・本院で臨床研修に従事。97年英国ケンブリッジ大学臨床医学系精神医学博士号取得。同年帝京大学市原病院精神神経科講師、99年同大学溝口病院精神科神経科長・講師、2004年同科長・助教授、08年同科長・教授。川崎市や横浜市の自殺対策事業など公的活動に積極的に参画。日本自殺予防学会理事長。」
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YAHOO!JAPANニュース
「死んでおわび」の心理学:切腹とは?潔い死とは?責任をとるとは?:大失敗後の自殺を予防するために
碓井真史新潟青陵大学大学院臨床心理学研究科 教授(社会心理学)、SC
2015/8/7(金) 21:54
(写真はイメージ)(写真:アフロ)
自殺する人は、多くの場合、まじめで自分を責めるタイプの人です。責任を強く感じることは必要です。しかし、そこから破滅的行動を生まないためには、どうしたら良いのでしょうか。
■「本当に申し訳ない。死んでわびたい気持ち」
人は、人生の中で、様々な失敗をします。会社に大きな損害を与えることもあれば、心ならずも人に危害を加えてしまうこともあります。オリンピックで良い結果が残せず自殺してしまう人もいれば、大きな過失による死亡事故の加害者で自殺してしまう人もいます。
大失敗をして、「本当に申し訳ない。死んでわびたい気持ち」と語る人もいます。しかし、本当に死なれたら困ります。その方は、とてもまじめに自分を責めているのでしょうが、尊い命が、また一つ奪われるだけです。
■日本人と「死んでわびる」の思想:切腹の文化
死んでわびるのは、日本だけのことではありません。聖書の中でも、イエスを裏切ったユダの自殺が描かれます。ユダは、イエスを裏切った後に激しく後悔し、ローマ軍からもらった銀貨を投げ捨て、首をつって死にます。ただし、聖書の中では、ユダの自殺は否定的に描かれます。
日本には、「死んでわびる」切腹の文化がありました。刑罰としての切腹もありましたが、誰にも命じられなくても、切腹して死んでわびることも、戦国時代や江戸時代の武士にはありました。藩の政策上の失敗を、一人の武士が背負って切腹することもありました。
切腹は、武士道精神による名誉ある死とされました。物語の中では、切腹のシーンが一つの見せ場にもなったりします。ただし、自分で腹を切ることは大変なことであり、目撃者によると、決して映画のようなきれいなものではないといいます。
キリスト教の宣教師たちは、切腹を否定的に考えていました。キリシタン大名の有馬晴信は、死罪となりましたが、切腹による自害を選ばず家臣に首を切り落とさせたと伝わっています。
江戸時代だけではなく、近代日本でも切腹は見られます。
明治時代の乃木将軍は、世界から評価された大軍人ですが、明治天皇に対し、「自刃して天皇陛下の将兵に多数の死傷者を生じた罪を償いたい」と語り、天皇に止められています。そして、明治天皇大葬が行われた日に、切腹して自決しています。
第二次世界大戦終戦時の陸軍大臣、阿南惟幾(あなみ これちか)は、戦争継続を主張しましたが、天皇の聖断によるポツダム宣言受諾が決定され、8月15日朝、陸軍大臣官邸にて切腹してに自害しました。遺書には、「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル」(自分が死ぬことによって大きな罪を謝罪申し上げる)とありました。
日本人の心の中には、死んでわびることは最高のわび方であり、死んでわびた人は立派な人であり、潔いことだとする感情が、今も残っているのではないでしょうか。
切腹は、自殺学の研究からは「制度自殺」の一つとして考えられ、通常の自殺とは異なります。切腹した人たちは、たしかに生前立派な方であり、その時代の制度として考えるべきこともあるでしょう。しかし現代においては、たとえどんなに功績のある人格者だとしても、自殺はとても残念な死です。
■なぜ死んでわびるのか:臨床社会心理学の研究から
近年の臨床社会心理学の研究によれば、人が大きな失敗をして自分を責めるときには、「恥意識」か「罪意識」の感情を持つとされています。
恥意識は、「自分はとんでもないことをしてしまった、ああ、なぜこんなことをしてしまったのだろう。自分は最悪の人間だ」という激しい後悔と自己否定です。この意識は、自分を恥ずかしい人間と考え、「穴があったら入りたい」という思いを生み、人間関係から退却させます。
この感情が強くなりすぎると、破滅的行動が生まれます。自殺を考えたり、時にはやけを起こして、周囲を破壊するような行動まで起こします。
一方罪意識は、「自分は本当に悪いことをしてしいました」という強い反省です。自分が犯した行為は強く反省し、自分を責めますけれども、自己否定はしません。健康的な罪意識からは、「つぐない」の思いがわいてきます。たとえ許してもらえなくても、謝意罪を続けようとか、賠償金を払い続けようとします。人間関係から退却せず、建設的な行動が生まれます。
心理学では「罪意識」は長年悪者でした。罪の意識で自分を責めることが、心の病ともととされました。しかし現代の心理学では、そのような不健康な感情は、歪んだ恥意識と言えるでしょう。これは、さまざまなトラブルのものです。
しかし健全な罪意識は、むしろ人間関係を良くするという研究が行われています。友人でも、上司でも、「俺は悪くない」という言う人は嫌われます(責任転嫁)。「どうせ私が悪いんでしょ」とすねたり、やけを起こす人も嫌われます(恥意識)。しかし、きちんと反省し、責任を取り、問題解決のために一生懸命努力する人は、友人からも部下からも好かれるでしょう(罪意識)。
■現代における死んでわびる自殺
戦後の高度成長時代になっても、仕事上の失敗の責任を一人で背負い、会社の屋上から飛び降り自殺するようなことがありました。このような感覚は、現在も年配の人を中心に残っているでしょう。
日本の自殺者数は、この数年3万人を割っているとはいえ、高止まり状態です。その理由の一つに、切腹のように自殺を美化する文化もあるでしょう。
じたばたしないで、きれいに死ぬことは良いことだといった発想は、若い人にもあるでしょう。
しかし「死んでわびる」などと、本心から思えるのだろうか、「死んでわびる」は「泣き」が入った心理状態ではないかと、述べる人もいます。
自殺者の多くは、本当は幸せを願っていますが、事態を打破する方法が自殺しか思い浮かばなくなっているとも言えます(心理的視野狭窄)。
自殺は、心理的に追い詰められた末の死です。大失敗をした人々の心に歪んだ「恥意識」が生まれ、「死んでおわび」の思想が寄り添ったとき、自殺への思いが強くなるのだと思います。
大失敗をした人が自殺すると、関係者は喜ぶでしょうか。多くの人々は、決して喜ばないでしょう。しかし、自殺を考えるほど追い詰められた人々は、そのような冷静さを失っています。
私たちは、大失敗した人を時に激しく責め立てます。「死ね」とののしる人もいるかもしれません。しかし、大失敗した人々に必要なことは、歪んだ恥意識ではなく、健全な罪意識をもつことではないでしょうか。
私たちは、どんな大失敗のあとも、生きていくのです。
■BOOKS
ロビン・M. コワルスキ 著「臨床社会心理学の進歩:実りあるインターフェイスをめざして」
八切 止夫 著 「切腹論考 八切意外史」
山本博文 著 「切腹:日本人の責任の取り方」
高橋 祥友 著 「あなたの「死にたい、でも生きたい」を助けたい」
碓井真史
新潟青陵大学大学院臨床心理学研究科 教授(社会心理学)、SC
1959年東京墨田区下町生まれ。幼稚園中退。日本大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(心理学)。精神科救急受付等を経て、新潟青陵大学大学院臨床心理学研究科教授。新潟市スクールカウンセラー。好物はもんじゃ。専門は社会心理学。テレビ出演:「視点論点」「あさイチ」「めざまし8」「サンデーモーニング」「ミヤネ屋」「NEWS ZERO」「ホンマでっか!?TV」「チコちゃんに叱られる!」など。著書:『あなたが死んだら私は悲しい:心理学者からのいのちのメッセージ』『誰でもいいから殺したかった:追い詰められた青少年の心理』『ふつうの家庭から生まれる犯罪者』等。監修:『よくわかる人間関係の心理学』等。
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NewSphere 世界の宗教が自殺をタブーとする理由 -
Society
世界の宗教が自殺をタブーとする理由
Jun 29 2018
著:Mathew Schmalz(ザ・ホリー・クロス大学、Associate Professor of Religion)
ファッションデザイナーのケイト・スペード氏と有名シェフ兼作家のアンソニー・ボーディン氏が、最近相次いで自殺した。二つの事件は、たとえ富裕層であっても人生が耐え難いものになりうるという事実を私たちに再認識させた。
悲しむべきことに、アメリカでは自殺率が上昇しており、過去10年間で30%近くも増加した。特に女性と十代でその傾向が顕著だ。
だが、それは何もアメリカに限った話ではない。自殺はどこでも増えており、それは世界の至るところで人々を捉え、その家族にも大きな苦しみを与えている。
自殺の倫理は、歴史を通じて、今も昔も変わらず世界の宗教にとって重大なテーマだ。
◆命は誰のもの?
世界の宗教の多くが、伝統的に自殺を戒めてきた。その理由は、人間の命は原則的に神のものだという信仰に基づいている。
ユダヤ教の伝統で自殺がタブーとされるのは、「創世記」の9章5節が根拠となっている。そこには次のように書かれている。「また、あなたたちの命である血が流された場合、わたしは賠償を要求する」(新共同訳1987)これはつまり、人間は自らが下した選択に対して神から責任を問われるという意味だ。この観点からすると、人間の生死は神に属するものであり、人間が勝手に決めてよいものではない。ユダヤの民法であり宗教法でもあるタルムードには、自殺者に対して、ユダヤ人墓地への埋葬をはじめ、通常ならば死者に対して施されるはずの儀式や措置を拒絶してきた過去がある(ただし、もちろん今日ではそのようなことはない)。
カトリックの教えでも、自殺については同様の視点をとっている。初期キリスト教の司教であり哲学者でもあったヒッポのアウグスティヌスは、「自らを殺す者は殺人者である」と記した。実際、20世紀初頭の規範的なカトリック信仰の集大成であるピウス十世のカテキズム(教理問答書)には、自殺した者にはキリスト教徒としての埋葬を拒否すべしと書かれている(この禁止措置は、現在は実施されていない)。
イタリアの詩人ダンテは、代表作「神曲」の第一部「地獄」の作中で、伝統的なカトリック信仰を基に想像を広げ、自殺を犯した罪人達は地獄の第七階層で樹木としての存在を与えられ、そこで伐採や剪定を受けて血を流して苦しむ、と描写した。
伝統的なイスラム教の解釈でも、自殺した人々の運命はやはり恐ろしいものだ。預言者ムハンマドに関する伝承をまとめた「ハディース」では、自らを殺す者達は地獄の業火に焼かれるとして、イスラム教徒に対して自殺を戒めている。さらに地獄では、その自殺の方法に従って、自分自身に痛みを与えて苦しみ続けるのだという。
ヒンドゥー教では、自殺はサンスクリット語で「アトマトヤ」、つまり「魂の殺戮」を意味する言葉で呼ばれている。このアトマトヤは、カルマの連鎖を生み出して魂の解脱を妨げるとされる。実際に、インドの民話には自殺した人々の話が数多くある。誕生と再生に関するヒンドゥー哲学によれば、自殺者は転生できずにその魂は地上にとどまり、時として生者に災いもたらすということになっている。
仏教でもやはり、自殺と自殺の幇助および教唆を禁じている。その理由は、そういった自傷行為は苦しみを和らげるどころか、さらなる苦しみの原因となるからだ。また、根本的なところでは、自殺は最も基本的な仏教の道徳戒律である「不殺生戒」に反している。
◆利他的自殺
このように、多くの宗教が伝統的に自殺を禁止してきたのは事実だ。ところが、人生に絶望しての自殺と異なり、コミュニティのため、あるいはより大きな善のために為されるある種の自殺は、場合によっては許容され、賞賛されることすらある。
フランスの社会学者エミール・デュルケームは、その代表作「自殺論」の中で、より高次の原則やより優れたコミュニティを実現するために自分を殺す行為を「利他的自殺」と名付けた。確信をもって神やその他の宗教的目的のために自らの命を捧げる行為は、歴史を通じて、「利他的自殺」のもっとも優れた形態と見なされてきたのである。
現ローマ教皇のフランシスコ法王は最近、「聖人」の枠を新たに拡大し、他者を救うために自らの命を放棄した人々、「オブラーティオ・ヴィタイ」をそこに加えた。言うまでもなく、キリスト教もイスラム教も、「殉教」の概念を強く持つ宗教であり、その概念は、戦いの中で自らの命を犠牲にする行為にも拡大適用されてきた。一例をあげると、「狂信のユーグ」の名で知られる十字軍兵士は、敵に包囲された城塞において、塔の上から自ら地上に身を投げ、自らの肉体でもって眼下に集うトルコ兵を圧殺した。
そこにある暴力と圧制に対する世界の関心を喚起する目的で、仏教の僧侶が焼身自殺するという事件が、ベトナムで、さらにはチベットにおいても過去に起こっている。またヒンドゥー教では、悟りを得た後に断食苦行によって死に至るという伝統も一部に存在する。また歴史的に見ると、死んだ夫の後を追って妻が焼身自殺する「サティ」と呼ばれる風習や、戦争において敗色濃厚となり、奴隷に落とされることが確実に予想される状況で、コミュニティの女性すべてがそろって自死する「ジョウハル」という風習も、古い時代のヒンドゥー教には存在していた。
今ここに挙げた例はすべて、人命よりも重要な原則や目標があるという考えが根底にある。つまりそこでは、自己犠牲と自殺とは別のものと見なされる。信仰に則って自分自身の命を手放す行為は、希望を失って死を選ぶ行為とは一線を画するというわけだ。
◆自殺について再考する
生命の神聖さを根拠に自殺を戒めるアプローチは、伝統的な宗教がもっとも普遍的に行ってきたことである。だが現実には、このアプローチが自殺を真剣に考えている人々にとっての救いになるケースはまれである。ましてや、そのあとに残される家族にとっては何の慰めにもならない。
明るい要素を述べるとすれば、どのように自殺を防げばよいのか、その議論に役立つリソースが今日どんどん増えてきていることだ。また、最も重要なところでは、世界の主要な宗教が、過去に比べると自殺を考える人々に対して同情的で、彼らの心を理解しようと努めるようになってきたことも見逃せない。ユダヤ教、カトリック、イスラム教、仏教、ヒンドゥー教―― そのどれもが、自殺を視野に入れて苦しむ人々に対する包括的できめ細やかな援助プログラムを確立してきている。
そういった状況を見ると、絶望の暗がりの中で苦しむ人々を、神はことさらに愛している、という見方も可能だ。もしもそうであるならば、自殺はもはや神罰を招く行為ではなく、それは誰にでもふりかかるきわめてありふれた脅威であり、またそれは同時に、人生の希望は神から贈られる貴重な恩寵なのだと、改めて我々が学べるきっかけなのかもしれない。
This article was originally published on The Conversation. Read the original article.
Translated by ConyacThe Conversation
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MULTI-TASK LABO by Ryota Akedo
2020年9月27日 / 最終更新日時 : 2020年9月27日 akedo
潜在的に自殺に近い文化を抱える日本人
自殺者が減少傾向にあるも令和元年度二万人越え
竹内結子さんが自宅マンションで亡くなっているのが発見されました。
現場の状況から自殺と報道されています。
続く有名人の自殺。何が起きているのでしょうか。
日本の自殺者はここ10年では減少傾向にあります。
ピークは平成15年の34,427人、その後ゆるやかに減少し令和元年には20,169人。
ではこの数字は本当に「少なくなった」と言ってよいのでしょうか。
また同時になぜ日本人は毎年二万人以上の人が自ら命を絶ってしまうのでしょうか。
人生を悩んでいる人は自殺に対して「その選択肢しかない」と言う人もいるでしょう。
しかし、自殺という不幸を減らしていくためには感情論だけではなく、その要因をひとつづつ検証していかなくてはいけません。
そこで、数値化されたデータをもとにあらゆる角度から自殺について考えていきます。
無宗教である日本は自殺が多い?
David MarkによるPixabayからの画像
日本は無宗教の国です。
個人で特定の宗教を信仰している人はいますが、国民の約8割が宗教(キリスト教)を信仰しているアメリカと比べると格段に宗教といった文化が根付いていないのは皆さんご存知の通り。
そして多くの宗教では「我々の命は神のもと」という教えを説いているため、徹底して自殺を禁止しています。
(逆説的に焼身自殺などが命を懸けた抗議として用いられるケースがあるが、これは日本の自殺とは根本的に意味合いが異なります)
そこで宗教を重んじている他国と日本の自殺率を比べてみましょう。
(A global perspective in the epidemiology of suicide:suicidology 2002レポートを図化)
上記の通り無宗教の国は突出して自殺率が高いことが数字として見えてきます。
仏教が自殺率が高いグラフとなっていますが、仏教はイスラム教、ヒンドゥー教、キリスト教と異なり、生命活動が停止しても生まれ変わりや極楽へ行ける(輪廻転生や極楽浄土)といった思想が関係していると考えられます。
宗教圏の国と比べて、日本では「命は自分のもの」といった意識が古来より受け継がれています。
その為、「命を賭して責任を果たす」=「切腹」という文化が過去には存在しており、その名残がDNAとして残っているのではないかと考えます。
では日本の自殺原因を見てみましょう。
日本の自殺原因は「健康問題」が最も多い
自殺には様々な要因があります。
アメリカでは経済悪化による自殺が最も多く、薬物の過剰摂取による若者の自殺が増加傾向にありますが、日本では健康問題が自殺原因のおよそ半数を占めています。
経済は政治が大きく関与する分野ですが、健康は政治が関与しづらい分野ともいえるでしょう。
先述した通り、無宗教の日本では過去に「自殺=自己の責任の解消法」といった文化を持っており、宗教圏のような「しかし私の命は神のものだから」といったストッパーが効かないということです。
その為、潜在的に自殺への距離が近い文化ともいえるのではないでしょうか。
最後に職業別自殺者数の年次推移を見てみましょう。
無職者の自殺率は約2/3まで減少、しかし被雇用者・勤め人、要するに労働者の自殺率は3/4と減少率から見ると増加していることがわかります。
先ほど健康面の自殺は政治が関与しづらいと書きましたが、健康を害する要因は労働環境にあることが推測できます。その視点を持って検証すると、経済への手厚いフォローが結果として自殺防止に繋がると考えます。
日本人の ”責任感” は世界的に見ても特異だと言われています。
そしてその責任感の結果、現状の労働環境に押しつぶされ健康を害してしまうことが自殺の大きな原因と考えられます。
芸能人という影響力のある人々の自殺が相次ぐ中、ボクらは改めて労働と責任、そして命について考える必要があるのではないでしょうか。
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