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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
日本民族が数万年かけて育んできた日本文化は、昔の日本では生きた文化であったが、現代の日本では死んだ文化である。
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日本文明・日本文化・日本民族神話には、愛(め)でる・愛(いと)おしむ・慈しむという内向きの秘めた「恋」はあっても、外向けで獲得する普遍的積極的攻撃的自己犠牲的崇高な「愛」はなかった。
日本の恋は、中国や朝鮮の恋や愛とは全然違う。
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2022年5月号 Voice「言葉のリハビリテーション 森田真生
繋がらずにいられる場所へ
過剰に繋がり合った現代の人間社会
思考に行き詰まったとき、憂鬱なとき、どうにも気分が晴れないとき、部屋で塞(ふさ)ぎ込んでいるより、外に出て、近くの河原を歩いたり、山を登ったりする。
山や川のありがたいことは、人間に無関心なことである。こちらが何に悩んでいようが、山も川も、石も水の流れも、いっこうに関心を示さない。だからこちらも、何の隠しだてをする必要もなく、ただ素直に心を動かすことができる。
人間はお互いに関心を持ちすぎてしまう。だから、人前では無闇に悩むことも悲しむこともできない。余計な心配をかけたり、思わぬ迷惑をかけたりしてしまうかもしれない。誤解を生み、変な噂を立てられることもあるかもしれない。過剰な反応を恐れて、ことらもつい心を閉ざしてしまう。
パンデミックの時代に『人と人との距離(social distance)』が叫ばれることの皮肉は、このメッセージを拡散しているメディアそのものが、人と人との距離を保つことを難しくしていることだ。私たちはSNSを介して、ほとんど常に誰かと繋がってしまっている。この過剰な繋がりが、ウイルスのように、恐怖や憎悪、怒りの感情をも増幅、拡散させていく。そうと気づかぬうちに、私たちは自分に似た思考や感情を持つ人たちと繋がり、他者と必要以上に連帯しようとしてしまう。共感しなくてもよかったはずの他者とまで共感し、自分自身の感情や思考のありかを見失っていく。
誰かと繋がらずにいられる場所はそれだけに貴重だ。河原を歩きながら、石を手に握る。石はこちらの感情に反応しない。この石の静けさが、どれほど心を自由にしてくれることか。
『ヒトの目、驚異の進化』(ハヤカワ文庫NF)などの著書で知られるアメリカの理論神経科学者のマーク・チャンギージーは、科学者として自立した思考をするために、あえて特定のコミュニティから『aloof(離れて、超然として、無関心)』であることの重要性を指摘している。
彼は、目の錯覚や音楽の起源などに関する独創的な研究の数々で知られる第一線の科学者でありながら、同業者が集(つど)うカンファレンスなどに出席しないポリシーを貫いてきたという。特別の学術的コミュニティに所属すれば、そこで何が重要とされ、何がとるに足らない問題とされているかがわかるようになる。その内容で重視されている問題を把握し、それに応(こた)える結果を出すことができれば、研究者としての評価は高まる。コミュニティに参加し、そのメンバーと深く繋がっていくことは、少なくとも短期的に見れば有意義なはずだ。だが、長期的にはそうでない可能性もある。
日本文化の底流をなす『無用者の系譜』
科学の探究は、仮説を立て、その仮説を検証していくプロセスである。仮説の検証は、科学的な方法に則(のっと)て行われる。だが、仮説を立てるプロセスそのものには、科学的に決められた標準的な手続きはない。
真に独創的な研究を行うとすれば、所与とされてきた仮説の妥当性そのものを疑い、新たな仮説を提起する必要がある。そのためにはこれまで人間が作り上げてきた思考の枠の外にいったん飛び出してみる必要がある。特定の学術的コミュニティに所属することによって犠牲になるものは、まさにこの逸脱の可能性だとチャンギージーは語る。
コミュニティの内部では、何が重要で何が重要でないかがあらかじめ共有されている。その『物語』の外にあるものはしばしば、暗黙のうちに軽視、あるいは無視されている。何が軽視され、無視されているかはしかし、コミュニティの内部にいる者には自覚しにくい。既知(きち)の仮説の外に出るためには、何が重要で何がそうでないかを決める思い込みの外にこそ出なければならないのだ。短期的な不利益を引き受けてでも、あくまで研究者として『aloof』であり続けることを選ぶと彼が宣言するのはこのためである。
どのコミュニティにも属さないことはもちろんさまざまなリスクを伴(ともな)う。特に、自分一人の思い込みばかりにとらわれてしまえば、かえって独創性を奪われてしまう可能性もある。自分の足で立ち、しかも正気でい続けることは難しい。だが、放(ほう)っておくと『繋がりすぎてしまう』人間の社会のなかで、あえて超然とあらゆるコミュニティから距離をとり、周囲に関心を持ちすぎない姿勢を貫きながら、数々の独創的な理論を生み出し続けてきたチャンギージーの生き方は、人は実際、独立して自分の足で立ち続けながら、それでもなお独創的であり続けられるのだと考えてくれる。
人と人がこれほど繋がりやすくなってしまった時代には、よほど自覚的に抵抗しない限り、私たちはある特定の人間集団が形成する物語に、思考を支配されてしまう。抗(あらが)うためには、『aloof』であること、つまり、超然として世間と一定の距離をとることが、ときに必要となる。
人間が一つの集団を形成すると、そこにはいくつもの物語が生まれる。みなが物語を共有しているという意味で、その集団全員にとって『共通』の物語が、いつしかしばしば、その集団のなかで『普遍的』な物語であるかのように受け止められるようになる。
著書『普遍的なもの、画一的なもの、共通のもの、そして文化間の対話について』(未邦訳)のなかでかつて、現代の世界にはまるで『普遍的なもの』であるような顔をして、『画一的なもの』や『共通のもの』ばかりが蔓延(まんえん)していると指摘したのはフランスの哲学者フランソワ・ジュリアンだ。閉じた集団のなかでは、普遍性がしばしば画一性や共通性に退化していく。全体を統(す)べる強大な権力などなくても、集団のなかの相互評価の自然な帰結として、いつしか『みんながそう言っている』だけの物語が、まるで唯一(ゆいつ)の真実であるかのように信じられるようになる。画一的な思考に屈することなく、狭隘(きょうあい)な共通性の安全圏に逃げ込むのでもなく、どうすれば私たちは自分自身の足で立って、普遍的なものを探し続けられるのだろうか。チャンギージーの『aloof』は、そのためのヒントになる。
唐木順三が『無用者の系譜』で描いた『無用』の概念も、チャンギージーの『aloof』の精神に通じるものがある。唐木はこの本のなかで、『身をえうなき者に思ひなして』(『伊勢物語』)京(みやこ)を捨て、東(あずま)の下(くだ)り、そこで万葉や記紀の時代の『直接具体の世界』とは別次元の文学空間を開いていった在原業平を筆頭に、念仏の一遍、、禅における一休、連歌の宗祇や、俳諧の芭蕉など、日本の文化の底流をなす『無用者の系譜』を描き出す。それは、世間における有用性の尺度をあえて離脱し、みずから『無用者』たることを選びとってきた者たちの歴史だ。従来の文化、文学、思想と質的に異なるものを生み出してきたのは、世間に対して『aloof』な姿勢を貫く、こうした無用者たちだった。
しかし、信じるべきものが地盤から崩れていく時代に、あえて無用者を貫くことは簡単ではない。無常を感じるときほど人は、強く、大きなものに頼りたくなるからだ。
原初的な繋がりを思い出す
唐木は別の著書『無常』のなかで次のように書く。
無常の無、ニヒリズムのニヒルにおいて不安と無根拠を感じるとき、ひとは有常、恒常なるものを求める。絶対的なもの、権威を探す。そしてその絶対的権威に頼って自己の安定化を計る。さまざまなる意匠(いしょう)がここに出現するわけだが、ひとはそれをさまざまなるものの一つとは考えたくないという傾きをもつ。即ち特殊なものが絶対化される。
不安と恐怖が蔓延するこの時代に、いかにして『特殊なものの絶対化』に抗(あらが)うことができるか。簡単な答えはないが、人は『繋がりしぎない』こと、感情と思考の速度を緩(ゆる)めていくこと、『aloof』であり続けることは、最初の一歩になるかもしれない。
世間の有用性の尺度からみずからを切り離した無用者は、旅人として、遊行(ゆぎょう)するものとして生きる。無用者にとっては、この空と大地こそが住処(すみか)だ。他人の顔色を窺(うかが)い、評判に汲々とするのではなく、月を見上げ、山の稜線を眺める。
私は京都で河原や山道を歩きながら考えに耽(ふけ)っているとき、同じ場所を歩きながら思考してきた学問の先達(せんだつ)のことを想う。岡潔が歩いた散歩道、西田幾多郎や九鬼周造が歩いた小径(こみち)を、彼らの存在を近くに感じながら歩く。
当時といまでは風景も変わっているが、大地の形そのものはほとんどかわらない。北と東西を山々に囲まれ、南は開けた京都盆地を、Y字型に北から南へ川が流れる。山や川が風景の規準となって、歩いていて方角を見失うことはない。
研究室のほど近くの哲学の道を歩き、途中を東に折れてしばしば大文字山に登る。大文字山の火床に立つと、三方を山々に囲まれた盆地全体を見晴らせる。この盆地は50万年前は海だったという。北山の山並みは、持ち上げられた海底だ。
海も山もダイナミックに活動している。だが、その動きのスケールはあまりに巨大で、人間にはほとんど動いて見えない。大地は人間に対して『aloof(離れて、超然として、無関心)』だ。だからこそ、人の思考と感覚を支える拠(より)り所(どころ)となる。
人間同士で繋がりすぎること。それは、あらゆる繋がりを手放すことではない。生きている限り人はみな、大地が形作る風景の中にいる。人間の心は、石や水が刻(きざ)む静かな時間との原初的な繋がりのなかで育(はぐく)まれてきた。そのこと私たちはもっと想いだしていい。人間が設定する有用性の尺度だけに、心を縛ってはいけないのだ」
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社会の無用者として代表的人物は西行法師である。
西行法師の伊勢神宮参拝。《何事の おはしますをば しらねども かたじけなさに 涙こぼるる》
彼らは、過度に人と繋がる事を嫌い、社会から離れて、人の少ない山野を敗れた編み笠を被り一人孤独に歩き回って生きたいた。
現代の日本には、西行法師のように異能異才を放ちながら社会から無用者とされる逸材は存在しない。
何故なら、現代の日本人は、才能や技能を生かし、社会に役に立つ有用な人間として仕事をし金を稼ぎ地位を勝ち取り称賛で名誉を得たいと努力している、からである。
つまり、他人の権威は引きずり下ろして否定するが自分の権威は高めて守ろうとしている、からである。
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日本文明の源流は南方系長江文明にあって、北方系黄河文明の流れを汲む中華文明・中国文明や朝鮮文明とは違う。
そして日本文化は、中国文化や朝鮮文化ではなく、満州やモンゴルにあった中央アジア文化・草原文化の影響を強く受けている。
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現代の日本と昔の日本は全然違う。
昔の日本人がこうだったから現代の日本人もこうである、はウソである。
戦後民主主義教育を受けた現代の日本人には、皇国史観・愛国教育を受けた昔の日本人が当たり前の様に持っていた民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力はない。
つまり、昔の日本文化は生きて色香を漂わせていたが現代の日本文化は死んでいて死臭・悪臭を撒き散らしている。
そうした行為を行っているのが、リベラル派・革新派・一部の保守派そしてメディア関係者や学者・教育者である。
その傾向が表面化し始めたのが1980年代で、2000年には社会に広く浸透し、2020年代に蔓延し、そして現代にいたっている。
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日本の自然は、数万年前の石器時代・縄文時代から日本列島に住む生物・人間を何度も死滅・絶滅・消滅させる為に世にも恐ろしい災厄・災害を起こしていた。
日本民族・日本人は、自然の猛威に耐えて生きてきた。
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日本文化とは、唯一人の生き方を理想として孤独・孤立・無縁、わび・さび、捨てて所有しないを求める、「何も無い所」に時間と空間を超越し無限の広がりを潜ませる文化である。
それが、日本人が好む「色即是空、空即是色」である。
日本文化は、中国文化や朝鮮文化とは異質な独立した特殊な民族的伝統文化である。
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日本の宗教とは、虚空・虚無という理想の境地に入る為に自己や自我など自分の存在を肯定も否定もせず、ただただ「はかなく無にして消し去る=漠として死を見詰める」事である。
それ故に、日本文化や日本の宗教は男が独占していた。
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日本民族の伝統的精神文化は宮仕えする男性の悲哀として、行基、西行、一休、鴨長明、兼好法師、芭蕉、葛飾北斎など世捨て人・遁走者、隠者・隠遁者・遁世者、隠居、孤独人・孤立人・無縁人への、求道者として一人になりたい、極める為に一人で生きたいという憧れである。
如何なる時も、オンリーワンとしてナンバーワンとして我一人である。
そして日本で女人禁制や女性立ち入り禁止が多いのは、宗教的社会的人類的民族的な理由によるジェンダー差別・女性差別・性差別ではなく、精神力が弱い日本人男性による煩わしい女性の拘束・束縛からの逃避願望である。
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女性は、子供を産み、子供を育て、末代まで子孫を増やしていく、つまり「命を喜びを持って育み、有を生みだす」存在である。
日本における女性差別は、「死を見詰めて無を求める男」と「命を生み有りに生き甲斐を感じる女」、ここから生まれた。
つまり、男尊女卑と一口で言っても現代と昔とは全然違う。
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日本民族中心神話において、最高神は天皇の祖先神である女性神の天照大神で、主要な神の多くも女子神である。
日本民族は、あまた多くの女性神に抱かれながら日本列島で生きてきた。
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日本民族は、石器時代・縄文時代からいつ何時天災・飢餓・疫病・大火などの不運に襲われて死ぬか判らない残酷な日本列島で、四六時中、死と隣り合わせの世間の中で生きてきた。
それ故に、狂ったように祭りを繰り返して、酒を飲み、謡い、踊り、笑い、嬉しくて泣き、悲しくて泣き、怒って喧嘩をし、今この時の命を実感しながら陽気に生きていた。
「自分がやらなければ始まらない」それが、粋でいなせな江戸っ子堅気の生き様であった。
江戸時代は、自助努力のブラック社会であった。
田代俊孝(仁愛大学学長)「『人は死ぬ』という厳然たる事実を、誰しも普段の生活では見て見ぬふりをしているものです。しかし、自分がいずれは『死すべき身』だということを意識すれば現在の生への感謝が生まれ、生きる気力が湧いてくる。つまり天命、死というものを知ることによって人生観が変わる。祖父母、父母、そして自分と、連綿と続く流れのなかで思いがけず命をいただいたのだ、と気づくのです」
植島敬司(宗教人類学者)「人生は自分で決められることばからりではありません。不確定だからこそ素晴らしいのです。わからないなりに自分がどこまでやれるのか、やりたいことを追求できるのかが大事で、それが人生の豊かさにつながるのだと思います」
平井正修(全生庵住職)「コロナ禍に襲われるずっと以前から人類は病に悩まされてきました。病気やケガで自由な身体が動かなくなり、人に介抱してもらうと、当たり前のことのあるがたさに気づきます。何を当たり前として生きていくのか、それは人生でとても大切なことであり、すべての人に起こる究極の当たり前が、死なのです」
「現代では死というものが過剰に重たく受け止められていますが、そもそも死はもっと身近にあるものです。考えようによっては、現世に生きているいまのほうが自分の仮初(かりそめ)の姿とさえ言える。
最終的には、誰もが同じところへと生きます。みんなが辿る同じ道を、自分も通るだけ。そう思えば、死も恐れるものではありません」
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諫山創「人はいずれ死ぬ。ならば人生には意味がないのか?死んだ仲間もそうなのか?あの兵士たちも、無意味だったのか?いや違う‼あの兵士に意味を与えるのは我々だ‼あの勇敢な死者を‼哀れな死者を‼想うことができるのは生者である我々だ‼我々はここで死に、次の生者に意味を託す‼」(『進撃の巨人』)
同じ自殺行為といっても、カミカゼ特攻とイスラムテロリストの自爆テロとは根本的に意味が違う。
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映画・スペック「生と死を峻別する事に意味はない。
他者が認ずれば死者とて生命を持ち、
他者が認ずる事なければ生者とて死者の如し」
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イザベラ・バード「わたしは死んだ過去の時代の霊魂が私の背後に近づいてくる、と感じた」(伊勢神宮参宮して)
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H・P・ラヴクラフト「人類の感情の中で、何よりも古く、何よりも強烈なのは恐怖である」
人類は、恐怖に打ち勝つ為と真理を究める為に宗教を編み出した。
最強の恐怖とは「死」であり、究極の真理とは「生」である。
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マンガ「アシュラ」 原作 ジュージ秋山
私は お前に教えられた。
それは
命喰らわずして生きられぬ人の性(さが)である。
海に生まれた命を奪い
野山に育つ命を奪い
人は生きて行く。
罪を背負い
それでも与えられた命の限りを生きようとあがく。
だからこそ
この世は美しい。
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日本民族の祖先は、アフリカで誕生した下等な猿である。
つまり、日本人を軽蔑して見下す偏見と差別の蔑称である「イエローモンキ」あるいは「ジャップ」は正し呼び名である。
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日本列島には、自然を基にした日本神話・民族中心神話・高天原神話・天孫降臨神話・天皇神話が滲み込み、その上に石器時代・縄文時代、弥生時代・古墳時代と日本民族が住んできた。
日本民族は、石器人・ヤポネシア人、縄文人・日本土人、弥生人(渡来人)、古墳人(帰化人)が乱婚して混血して生まれた雑種である。
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日本民族の生き方は、仲間・友と一緒に小さな櫂(かい)を漕ぐ丸木舟生活である。
つまり、日本の集団主義とは海で生きる船乗りの集まりである。
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ヤポネシア人とは、東南アジアの南方系海洋民と長江文明の揚子江流域民が乱婚して生まれた混血した雑種である。
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ロバート・D・カプラン「揺るぎない事実を私たちに示してくれる地理は、世界情勢を知るうえで必要不可欠である。山脈や河川、天然資源といった地理的要素が、そこに住む人々や文化、ひいては国家の動向を左右するのだ。地理は、すべての知識の出発点である。政治経済から軍事まで、あらゆる事象を空間的に捉えることで、その本質に迫ることができる」(『地政学の逆襲』朝日新聞出版)
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日本文化とは、明るく穏やかな光に包まれた命の讃歌と暗い沈黙の闇に覆われた死の鎮魂であった。
キリシタンが肌感覚で感じ怖れた「日本の湿気濃厚な底なし沼感覚」とは、そういう事である。
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柏木由紀子「主人(坂本九)を亡くしてから切に感じたのは、『誰もが明日は何が起こるからわからない』というこよです。私もそうですが、私以外にも大切な人を突然亡くしてしまった人が大勢います。だからこそ、『今が大切』だと痛感します。それを教えてくれたのは主人です。一日一日を大切にいきたい、と思い、笑顔になれるようになりました」
神永昭夫「まずはしっかり受け止めろ。それから動け」
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日本の文化として生まれたのが、想い・観察・詩作を極める和歌・短歌、俳句・川柳、狂歌・戯歌、今様歌などである。
日本民族の伝統文化の特性は、換骨奪胎(かんこつだったい)ではなく接木変異(つぎきへんい)である。
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御立尚資「ある禅僧の方のところに伺(うかが)ったとき、座って心を無にするなどという難しいことではなく、まず周囲の音と匂いに意識を向け、自分もその一部だと感じたうえで、裸足で苔のうえを歩けばいいといわれました。私も黙って前後左右上下に意識を向けながら、しばらく足を動かしてみたんです。これがびっくりするほど心地よい。身体にも心にも、そして情報が溢(あふ)れている頭にも、です」
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日本の建て前。日本列島には、花鳥風月プラス虫の音、苔と良い菌、水辺の藻による1/f揺らぎとマイナス・イオンが満ち満ちて、虫の音、獣の鳴き声、風の音、海や川などの水の音、草木の音などの微細な音が絶える事がなかった。
そこには、生もあれば死もあり、古い世代の死は新たな世代への生として甦る。
自然における死は、再生であり、新生であり、蘇り、生き変わりで、永遠の命の源であった。
日本列島の自然には、花が咲き、葉が茂り、実を結び、枯れて散る、そして新たな芽を付ける、という永遠に続く四季があった。
幸いをもたらす、和魂、御霊、善き神、福の神などが至る所に満ちあふれていた。
日本民族の日本文明・日本文化、日本国語、日本宗教(崇拝宗教)は、この中から生まれた。
日本は、極楽・天国であり、神の国であり、仏の国であった。
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日本の自然、山河・平野を覆う四季折々の美の移ろいは、言葉以上に心を癒や力がある。
日本民族の心に染み込むのは、悪い言霊に毒された百万言の美辞麗句・長編系詩よりもよき言霊の短詩系一句と花弁一枚である。
日本民族とは、花弁に涙を流す人の事である。
日本民族の「情緒的情感的な文系的現実思考」はここで洗練された。
死への恐怖。
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2022年3月号 Voice「言葉のリハビリテーション 森田真生
何もしない勇気
最適化された世界の窮屈さ
……
太陽がのぼるのも、雲が動くのも、鳥が鳴くのも自分のためではない。だからこそ、目に見えるもの、耳に届く音に、素直に感覚を集めることができる。
……
『浅はかな干渉』が生み出す害
……
『注意の搾取』が奪い去ったもの
私たちはときに、浅はかな理解や理論に基づく性急な行動で安心を手に入れようとする前に『何もしない』という知恵を働かせてみることも考えてみるべきなのだ。
だが、人間の設計したもので溢れかえる現代の世界において、『何もしない』ことはますます難しくなっている。
……
物思いに耽(ふけ)って電車を乗り過ごし、都会の真ん中で月を見上げて立ち止まる。スマホを横に置いて窓の外を眺め、ただ理由もなく鳥の鳴く声に耳を傾ける。……」
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日本の本音。日本列島の裏の顔は、甚大な被害をもたらす雑多な自然災害、疫病蔓延、飢餓・餓死、大火などが同時多発的に頻発する複合災害多発地帯であった。
日本民族は、弥生の大乱から現代に至るまで、数多の原因による、いさかい、小競り合い、合戦、戦争から争乱、内乱、内戦、暴動、騒乱、殺人事件まで数え切れないほどの殺し合いを繰り返してきた。
日本は、煉獄もしくは地獄で、不幸に死んだ日本人は数百万人あるいは千数百万人にのぼる。
災いをもたらす、荒魂、怨霊、悪い神、禍の神が日本を支配していた。
地獄の様な日本の災害において、哲学、思想、主義主張そして奇跡と恩寵を売る信仰宗教(啓示宗教)は無力であった。
日本民族の「理論的合理的な理系論理思考」はここで鍛えられた。
生への渇望。
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日本の甚大な被害をもたらす破壊的壊滅的自然災害は種類が多く、年中・季節に関係なく、昼夜に関係なく、日本列島のどこでも地形や条件に関係なく、同時多発的に複合的に起きる。
それこそ、気が休まる暇がない程、生きた心地がない程であった。
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仏とは、悟りを得て完全な真理を体得し正・善や邪・悪を超越し欲得を克服した聖者の事である。
神には、和魂、御霊、善き神、福の神と荒魂、怨霊、悪い神、禍の神の二面性を持っている。
神はコインの表裏のように変貌し、貧乏神は富裕神に、死神は生神に、疫病神は治療神・薬草神にそれぞれ変わるがゆえに、人々に害を為す貧乏神、死神、疫病神も神として祀られる。
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日本の自然は、人智を越えた不条理が支配し、それは冒してはならない神々の領域であり、冒せば神罰があたる怖ろしい神聖な神域った。
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日本の宗教とは、人智・人力では如何とも抗し難い不可思議に対して畏れ敬い、平伏して崇める崇拝宗教である。
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現代の日本人は、歴史力・伝統力・文化力・宗教力がなく、古い歴史を教訓として学ぶ事がない。
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日本を襲う高さ15メートル以上の巨大津波に、科学、哲学、思想、主義主張(イデオロギー)そして奇跡と恩寵を売る信仰宗教・啓示宗教は無力で役に立たない。
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助かった日本人は、家族や知人が死んだのに自分だけ助かった事に罪悪感を抱き生きる事に自責の念で悶え苦しむ、そして、他人を助ける為に一緒に死んだ家族を思う時、生き残る為に他人を捨てても逃げてくれていればと想う。
自分は自分、他人は他人、自分は他人の為ではなく自分の為の生きるべき、と日本人は考えている。
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日本民族は、命を持って生きる為に生きてきた。
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日本で中国や朝鮮など世界の様に災害後に暴動や強奪が起きないのか、移民などによって敵意を持った多様性が濃い多民族国家ではなく、日本民族としての同一性・単一性が強いからである。
日本人は災害が起きれば、敵味方関係なく、貧富に関係なく、身分・家柄、階級・階層に関係なく、助け合い、水や食べ物などを争って奪い合わず平等・公平に分け合った。
日本の災害は、異質・異種ではなく同質・同種でしか乗り越えられず、必然として異化ではなく同化に向かう。
日本において、朝鮮と中国は同化しづらい異質・異種であった。
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日本民族の感情は、韓国人・朝鮮人の情緒や中国人の感情とは違い、大災厄を共に生きる仲間意識による相手への思いやりと「持ちつ持たれつのお互いさま・相身互(あいみたが)い」に根差している。
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松井孝治「有史以来、多くの自然災害に貴重な人命や収穫(経済)を犠牲にしてきた我が国社会は、その苦難の歴史の中で、過ぎたる利己を排し、利他を重んずる価値観を育ててきた。
『稼ぎができて半人前、務めができて半人前、両方合わせて一人前』とは、稼ぎに厳しいことで知られる大坂商人の戒めである。阪神淡路大震災や東日本震災・大津波の悲劇にもかかわらず、助け合いと復興に一丸となって取り組んできた我々の精神を再認識し、今こそ、それを磨き上げるべき時である。
日本の伝統文化の奥行の深さのみならず、日本人の勤勉、規律の高さ、自然への畏敬の念と共生観念、他者へのおもいやりや『場』への敬意など、他者とともにある日本人の生き方を見つめなおす必要がある。……しかし、イノベーションを進め、勤勉な応用と創意工夫で、産業や経済を発展させ、人々の生活の利便の増進、そして多様な芸術文化の融合や発展に寄与し、利他と自利の精神で共存共栄を図る、そんな国柄を国内社会でも国際社会でも実現することを新たな国是として、国民一人ひとりが他者のために何ができるかを考え、行動する共同体を作るべきではないか。」
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昭和・平成・令和の皇室は、和歌を詠む最高位の文系であると同時に生物を研究する世界的な理系である。
武士は文武両道であったが、皇室は文系理系双系であった。
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徳川家康は、実理を優先し、読書を奨励し、経験を重視し、計算の数学と理・工・農・医・薬などの理系の実利で平和な江戸時代を築いた。
が、馬車や大型帆船は便利で富をもたらすが同時に戦争に繋がる恐れのあるとして禁止し、江戸を守る為に大井川での架橋と渡船を禁止した。
つまり、平和の為に利便性を捨てて不便を受け入れ、豊よりも慎ましい貧しさを甘受した。
それが、「金儲けは卑しい事」という修身道徳であったが、結果的に貧しさが悲惨や悲劇を生んだ。
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日本で成功し金持ちになり出世するには、才能・能力・実力が必要であった。
日本で生きるのは、運しだいであった。
日本の運や幸運とは、決定事項として与えられる運命や宿命ではなく、結果を予想して自分の努力・活力で切り開く事であった。
それは、自力というより、神か仏か分からない他者による後押しという他力に近い。
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左翼・左派・ネットサハ、右翼・右派・ネットウハ、リベラル派・革新派そして一部の保守派やメディア関係者には、日本民族ではない日本人が数多く含まれている。
彼らには、数万年前の石器時代・縄文時代と数千年前の弥生時代・古墳時代から受け継いできた日本民族固有の歴史・文化・伝統・宗教はない。
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