🏞81)─6・A─水戸学の三傑・幽谷、正志斎、東湖が大成した後期水戸学。~No.337 

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 江戸時代後期。後期水戸学は、ロシアの軍事侵略とキリスト教の宗教侵略から神国日本を守る為に尊皇攘夷思想を作って広めた。
 吉田松陰尊王攘夷派は、ロシア軍を撃退する為に蝦夷地・北方領土樺太防衛の為に奔走し、若き情熱を燃やし、志の為に命を落とした。
 後期水戸学が、対外戦争の好戦的イデオロギーとして近代日本を軍国主義国家へと暴走させた。
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 現代の日本人は、起きた事実に基づいた歴史が理解できない。
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 2023年4月26日 YAHOO!JAPANニュース JBpress「水戸学の三傑・幽谷、正志斎、東湖が大成した後期水戸学が日本人に遺したもの
 弘道館正庁 写真/フォトライブラリー
 (町田 明広:歴史学者
■藤田幽谷の『正名論』
 今回は、「水戸学の三傑」について、その代表的著作を中心に据えて紹介していこう。最初に、藤田幽谷(1774~1826)であるが、寛政3年(1791)に後期水戸学の草分けとされる『正名論』を著した。その中で、「幕府、皇室を尊(たっと)べば、すなはち諸侯、幕府を崇とび、諸侯、幕府を崇べば、すなはち卿・大夫、諸侯を敬す」と述べている。
 【写真】弘道館正堂内にある「弘道館記」の模写
 つまり、幕府(将軍)が皇室(天皇)をうやまって大切にすれば、それを見た諸侯(大名)は幕府を尊重し、諸侯が幕府を尊重すれば、それを見た家臣(藩士)は諸侯を尊敬すると説いた。こうした秩序体系に基づき、初めて臣として守るべき道義と節度を説く名分論に基づき、秩序安定の道徳を唱えたのだ。
 幽谷は幕府の存在を肯定しており、朝廷から幕府への大政委任論を補強した。尊王を前面に押し出しながらも、巧みに幕藩体制を擁護しており、封建制の存続を志向したことは間違いない。
■会沢正志斎の『新論』
 時代は下り、文政7年(1824)、イギリスの捕鯨船員12人が水戸藩内の大津浜に上陸し、水や食料を求めた大津浜事件が起きた。幕府の対応が薪水給与を命じるものであったため、水戸藩では征夷大将軍職掌を放棄した弱腰外交と非難した。これを契機にして、過度な攘夷論が藩中に拡がることになったのだ。批判を受けた幕府は、翌年には無二念打払令を発布した。
 この事実を踏まえ、会沢正志斎(1782~1863)は尊王攘夷の思想を理論的に体系化した『新論』を著した。この『新論』は幕末最大のベストセラーとなり、尊王志士に重大な影響を与えたが、そのエッセンスは以下の冒頭部分で説明することが可能である。
 謹んで按ずるに、神州は太陽の出づる所、元気の始まる所にして(略)固より大地の元首にして、万国の綱紀なり。誠によろしく宇大に照臨し、皇化の曁(およ)ぶ所、遠邇(えんじ)あることなし。しかるに今、西荒(せいこう)の蛮夷、脛足(けいそく)の賤を以て、四海に奔走し、諸国を蹂躪(じゅうりん)し、眇視跛履(びょうしはり)、敢へて上国を凌駕せんと欲す。何ぞそれ驕(おご)れるや。
 これによると、日本は神の国であり、太陽が昇る国で元気が生じる国である。天皇は、日本はもとより世界の元首であり、天皇政治は万国が規範とする政体である。天皇の威光は世界に輝きわたり、皇化が及ばないところはないと、会沢は説く。
 しかし、今や欧米蛮夷は卑賤でありながら、世界に威を張ろうとして世界中を奔走し、諸国を蹂躙して大過を招くとも知らずに、我が日本を凌駕しようとしていると警鐘を鳴らす。ここには、より激しさを増す尊王論攘夷論を見て取ることができ、武士層にナショナリズムの勃興を促したのだ。
■『新論』の真髄とは
 さらに、会沢は『新論』の中で、どのような強敵大敵であっても、我が国を侵略できないように、万事手落ちなく準備しておかなければならないと主張する。しかし、いまだに何も策を立てることなしに、西洋蛮夷に対して、ただ周章狼狽して機を逸していると、幕府を痛烈に批判する。御三家の水戸藩の臣下でありながら、思い切った言説である。
 こうした幕政批判は、『新論』のそこかしこに見られ、大きな特色をなしている。とは言え、会沢はいたずらに幕府を批判したのではなく、むしろ幕府を鼓舞し、挙国一致で外圧に対抗することを企図した。しかし、会沢の主張は幕政批判には相違なく、結果として会沢の意思に反して、幕府廃止論に与することになったのだ。
藤田東湖の『弘道館記述義』
 最後に、徳川斉昭側用人として、政治家としても大活躍した藤田東湖(1774~1826)である。後期水戸学を単なる学問で終わらせず、政治の実践の場面で活用し、学問と政治を融合することに成功した。そして東湖は、全国の尊王攘夷運動の中心的人物として活躍した。
 東湖の活躍によって、水戸は後期水戸学の聖地となり、全国に勃興する尊王志士のコミュニケーションの中枢的役割を果たした。まさに、その中心にいたのが東湖であったのだ。
 なお、斉昭は東湖をブレーンとして藩政改革にあたり、西洋式軍備を導入し、また、民政を重視して藩財政基盤の再建に努め、藩校弘道館を興して藩の文武を奨励した。斉昭は、東湖なくしては、その治績は不可能であったとしても過言ではなかろう。
 東湖の会沢を継承する思想は、『弘道館記述義』において明らかにされた。水戸学の思想を簡潔に表現し、その中で「尊王攘夷」の語を初めて用いたが、全国に伝播して尊王志士のスローガンに昇華した。また、東湖の自叙伝的詩文『回天詩史』は、志士たちに大いに朗吟され、深い感銘を与え続けたのだ。
■東湖後の後期水戸学
 こうして後期水戸学は、幕末を迎える思想的準備を果たしたが、東湖が安政地震(1855)で圧死したことで指導者を失い、途端に迷走を始める。また、幕府権威の失墜もあいまって、尊王のみならず、敬幕的志向を持っていた後期水戸学は、あきらかに時代から乖離を始める。水戸藩自体も内訌に内訌を重ね、幕末時点で人材は払底してしまった。
 しかし、後期水戸学が持つナショナリズムは明治時代になっても尊重され、太平洋戦争まで生き続けた。つまり、後期水戸学は尊王志士のみならず、その後の日本人の心に棲みついていたと言えよう。
 町田 明広
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