🏞111)─3─3万石の極貧朝廷が400万石の徳川幕府を威圧した。徳川斉昭と毀鐘鋳砲(きしょうちゅうほう)。~No.436 @ 

幕末の天皇 (講談社学術文庫)

幕末の天皇 (講談社学術文庫)

  • 作者:藤田 覚
  • 発売日: 2013/02/13
  • メディア: 文庫
   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 2018年1月号 WiLL「歴史の足音 中村彰彦
 第13回 孝明天皇はなざ幕府に威丈高だったか
 慶長20年(1615)5月に宿敵淀殿豊臣秀頼母子を滅ぼした大御所徳川家康は、二代将軍秀忠とともに上洛すると、7月13日、合戦の時代がおわったことを記念して元和(げんわ)と改元。17日には『禁中并(ならびに)公家諸法度』全十七条を定めて皇室・公家・門跡などへの統制を強化した。
 その第一条の冒頭にいう。
 『天子御芸能の事。第一御学問なり』(『台徳院殿御実紀』、原文の白文)
 天皇は学問だけしていればよいうというわけで、天皇家と文武百官の収入は合わせても3万石と弱小大名並でしかなった。関白以下の殿上人(てんじょうびと)たちが習字の手本を書いて小銭を稼いだり、出入りの商人たちに借金証文をわたしたりする時代がやってきたのである。しかも京の米価は上がる一方で、この年には1石につき銀25〜50匁(もんめ)だったのが、ペリー来航のあった嘉永6年(1853)には117匁以上になっていた(『近世米価一覧』、『日本史総覧』Ⅳ)。それでも『禁中并公家諸法度』は改訂(かいてい)されなかったから、皇室や公家の貧困の度合は深刻化する一方だった。
 しかし、弘化3年(1846)2月に即位した孝明天皇は、安政5年(1858)6月に幕府が日米修好通商条約に調印する前から妙に態度を硬化。老中首座・外国御用取扱(とりあつかい)の堀田正睦(下総佐倉藩主)が条約調印の勅許を求めて上京してきても、頑として勅許を与えなかった。
 そこで幕府の大老に指名された井伊直弼彦根藩主)が、無勅許調印を断行したことは周知の事実。それにしても孝明天皇は、いかに異人嫌いとはいえ、なぜここまで幕府に対して威丈高(いたけだか)にふるまうことができたのか。それを考えるには、極端な攘夷思想の持ち主だった水戸藩前藩主徳川斉昭の言動を頭に入れておく必要がある。
 『水戸のご隠居』斉昭は、ペリーが来航するや領内の諸寺の鐘を鋳(い)つぶし、青銅砲75門と球形の砲弾を造って74門までを幕府に献上した。これがいわゆる『毀鐘鋳砲』。
 ために斉昭は寺々から総すかんを食らってしまったが、『水戸の御隠居』はこんなことで懲りるタマではない。堀田正睦の前の老中首座阿部正弘(備後福山藩主、安政4年〈1857〉6月、39歳の若さで急死)から幕府海防参与に任じられると、またしても持ち出したのが毀鐘鋳砲。
 ただし今回は、朝廷を巻きこむ策となっている事に御隠居なりの工夫があった。水戸藩の歴代当主は公家や宮家の女(むすめ)を正室とし、斉昭夫人は有栖川宮織仁(おりひと)親王の姫君登美宮(とみのみや)である。斉昭はこれらのルートを頼って全国規模の毀鐘鋳砲策を朝廷に奏上し、勅命を拝してから、すなわち勅許を得てから幕府が実行すれば問題ない、と主張したのだ。
 阿部正弘がこの話に乗ると、頼られた孝明天皇も悪い気はしないし元からの攘夷論者だから反対はしなかった。そこで、朝幕両者はこの策を採用することに決定。安政2年(1855)3月3日、幕府は阿部正弘の名によって発令した。
 『海岸防禦のため。此度(このたび)諸国寺院の梵鐘。本寺の外(ほか)。古来の名器。および当節時の鐘に相用い候分相除(よ)け。その余は大砲小銃に鋳換えるべきの旨。京都より、仰せ進(まい)らせられ候。
 叡慮の趣。深く 御感載遊ばされ候事に候間。一同厚く相心得。海防筋の儀いよいよ相励むべき旨 仰せ出され候』(『?恭院殿御実紀』読み下しと傍点筆者)
 傍点(京都より 叡慮)を付したのは、阿部正弘政権が孝明天皇の権威を借りて物をいっている部分である。
 ではこの幕命はどうなったかというと、全国の僧たちの反対の大合唱に遭い、ついに実行されることなくおわった。
 これは幕権、すなわち幕府の権威が地に墜(お)ちたことを示す事態であった。
 一方、朝権すなわち朝廷の権威は失われて久しかったが、右の文書で孝明天皇の『叡慮』がもっとも重んじられたことから、朝権はにわかに回復された形になった。
 これによって幕権と朝権は相対立する概念へと育っていったが、『水戸の御隠居』の鼓吹した尊王攘夷論が幕末の流行思想となるにつれて、朝権は強まる一方となり、幕権は衰えつづけた。その結果、孝明天皇日米修好通商条約の調印に勅許を与えない、という前代未聞の行為に及ぶのである。
 尊王攘夷論は、そう深みのある思想ではない。しかし、この思想が武力討幕論へと進化する一方で岩倉具視の発案になる王制復古論とも合体し、さながら『双頭の蛇』のような姿を呈したとき、幕末はいよいよ最終ステージを迎えるのであった」


   ・   ・   ・   

幕末の朝廷―若き孝明帝と鷹司関白 (中公叢書)

幕末の朝廷―若き孝明帝と鷹司関白 (中公叢書)