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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
日本民族日本人は蜂の巣である。
蜂は、巣に対して手を出さず放置すれば攻撃しないが、巣を破壊もしくは破損させようとする手に対しては死を覚悟して攻撃する。
蜂は、女王蜂を中心にして巣を作り、友好的に共存を求める相手は攻撃せず巣の出入りを許すが、敵対的で共存を嫌う相手は巣に入れず攻撃し巣の外に追い出すか殺した。
日本民族日本人は、攻撃性の強い獰猛なスズメバチではなく、攻撃性の少ない穏和なミツバチである。
日本民族日本人にとっての母なる女王蜂とは、天皇である。
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国と民を守る為に。
日本の攘夷とは開国開放志向であった。
中華(中国・朝鮮)の攘夷とは排他的閉鎖志向であった。
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現代日本人には、歴史議論で勝つ歴史力は弱い。
リベラル派・革新派・エセ保守派には、絶望的なほど乏しい。
リベラル派・革新派・エセ保守派さらに反戦平和市民団体、マルクス主義者(共産主義者)に、江戸時代後期、幕末、戊辰戦争、明治維新、近代化(富国強兵・殖産興業・近代教育)を話しても無駄であり、意味もなく、しょせん徒労に終わる。
彼らには、自分が思い込んだエセ真実歴史観を持っているが、動かしがたい事実の歴史観はない。
事実と真実は違う。
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水戸学は、日本ナショナリズムを軍国主義の思想に改編し、軍国日本をつくり、大陸進出を正当化した。
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現代日本人は、歴史があまり好きではない、というよりむしろ嫌いである。
好きなのは、時代劇である。
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百姓・町人などの庶民と下級武士は、戦争を忌避する中級以上の武士に代わって天皇を中心とした日本国を守る為に兵士となって戦おうとした。
日本民族日本人は、戦争を厭わない民族であった。
そして、日本民族日本人が選んだのは、外国侵略勢力による日本の支配ではなく、天皇を中心とした自主独立国であった。
日本民族日本人は、二度と奴隷にされる事を拒否し、奴隷にされない為に武力で抵抗する事を選んだ。
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天皇と皇室を命を捨てても守ろうとした、賤民と部落民達などの下層民や貧困民であった。
熱狂的な尊皇派や勤皇派は、下層民や貧困民など社会的弱者であった。
日本の天皇制度を富士山に例えれば、天皇・皇室は富士山の頂上であり、日本の社会的弱者は富士山の裾のであった。
日本民族日本人は、富士山を見上げる事で、そこに天皇・皇室を見る。
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反天皇反日的日本人は、天皇制度を廃絶する為に、天皇を守ろうとした勤皇派・尊皇派を殲滅しようとした。
彼らは、日本民族日本人を奴隷として外国勢力に献上する事に決めた。
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ウィキペディア
将軍継嗣問題は、江戸幕府13代将軍徳川家定の後継を巡って生じた政争。
概要
江戸幕府12代将軍徳川家慶の嫡男・家祥(後の家定)は病弱で言動も定かではなかった(脳性麻痺とも言われている)。そこで、家慶は水戸藩主徳川斉昭の子で一橋家を継いでいた徳川慶喜(一橋慶喜)を養子とする事を考えたが、老中阿部正弘の反対で思いとどまり、家定に不測の事態が起きた際に慶喜を後継とすることとした(ただし公式に確定されてはいなかった)。
黒船が来航の直後、家慶が死去した混乱の中、日本は日米和親条約締結を余儀なくされる。しかし、家慶の後を継いだ家定は将軍就任後、更に病状を悪化させて時には廃人に近い状態となり、政務が満足に行えなかった。しかも子はなく、その後継者問題が急浮上した。
これを憂慮した島津斉彬・松平慶永・徳川斉昭ら有力な大名は、大事に対応できる将軍を擁立すべきであると考えて斉昭の実子である一橋慶喜擁立に動き、老中阿部正弘もこれに加担した。これに対して保守的な譜代大名や大奥は、家定に血筋が近い従弟の紀伊藩主徳川慶福(後の徳川家茂)を擁立しようとした。前者を一橋派、後者を南紀派と呼んだ。
ところが阿部正弘が急死すると、阿部による安政の改革に反発する譜代大名の巻き返しが始まり、「大奥の粛正」を唱える斉昭に反発する大奥もこれに加担する。更に条約勅許問題を巡る開国派と攘夷派の対立も加わって事態は複雑となった(一橋派では島津斉彬は開国派、徳川斉昭は攘夷派に属し、互いに自己の外交路線実現のために一橋慶喜擁立を目指した。これは南紀派も同様であった)。
だが安政5年(1858年)、家定が重態となると、南紀派の譜代大名は彦根藩主井伊直弼を大老に据えて、6月に家定の名で後継者を徳川慶福とすることが発表された。これについては南紀派による画策であると言われているが、家定自身も廃人もしくはそれに近い重態ではあったものの、完全に意思能力が失われていたわけではないため、本人の意向で自分の対抗馬である慶喜を嫌って個人的に気にかけていた慶福を指名したとする見方もある。
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2018年6月号 新潮45「水戸学の世界地図 片山杜秀
35 蝦夷地幻想
水戸藩主はなぜ蝦夷地に拘泥したか? ついに桜田門外の変に至る幕府との食い違いとは。
……
アイヌの指導者のひとり、シャクシャインは、松前藩の搾取的な交易の仕方に怒り、アイヌ全体の結束をはかりつつ武装蜂起。松前藩は単独で鎮圧できず、幕府の助力を求め、諸藩連合軍とアイヌとの正面戦争に発展した。ほぼ2か月の戦闘ののち、和平交渉が行われ、和議は成立するかに見えたが、すべて松前藩の陰謀で、シャクシャインは和睦を祝う宴席で謀殺される。松前藩の強圧的なアイヌ支配の体制がそれで固まった。
この戦乱は1669(寛文9)年の出来事。そのとき徳川光圀は40代……
巨船・快風丸は蝦夷地へ
1688(貞享5)年のことである。水戸藩領の那珂湊から一隻の船が出航した。快風丸という。当時の日本の船としてはとてつもない巨船であった。全長37間と伝わる。60メートル以上ということになる。幅は9間、深さは6間、帆柱の高さは18間とされる。それだけの巨船には当然巨費が投入されていた。藩主直々の意向でなければこんなことは起きない。光圀がこだわった建造させた。
快風丸の出帆までには長い紆余屈折があった。光圀は1671(寛文11)年に水戸藩として最初の大型船を建造した。快風丸の半分ほどのサイズであったという。だが有効活用に至らず、続けて1685(貞享2)年により大きな船を建造し、伊豆諸島へと試験航海に出した。だが帰らなかった。遭難したようである。
光圀はそれに懲りなかった。そうしてついに誕生したのが快風丸である。櫓は設計上は60丁、実際は40丁で運用されたらしい。漕ぎ手だけで40人も必要だったわけだ。そんな大船で、光圀は貞享5に何をしたのか。いや寛文11年以来、何をしたかったのか。長年、したくてならなかったことは何だったのか。蝦夷地探検である。光圀が最初に大船を建造した寛文11年とはシャクシャインの反乱の2年後であったことが、ここで注意されてよい。光圀は蝦夷地に深甚(しんじん)なる興味を抱いた。松前藩が海産物等の大きな利権を確立しようとし、先住民とのいさかいを巻き起こすに至った、蝦夷という土地と、そこで生み出される魅力あふれる富に関心を寄せた。そのように想像される。北方の国防について考えていたということも、もちろんあるけれど。
貞享5年、快風丸は蝦夷地に向かった。光圀本人は乗り込まなかった。水戸黄門は海を渡らなかった。だが彼の命を受けた快風丸は無事蝦夷地に至り、石狩平野を探索して、やがて那珂湊へと帰還した。
光圀が蝦夷地に船を差し向けることには、松前藩が抵抗している。光圀が北方探索を志しながらなかなか果たせず、長い時間を要したのは、松前藩との調整に手間取ったゆえだろう。
まだ17世紀の後半の話である。もうロシアはシベリアからオホーツク海沿岸に進出し、中国の新たな支配者、満州族の清朝と国境を巡って対立していたが、ロシアの北方進出が日本にとって脅威と思われるようになるまでは、まだ約1世紀、間があつた。とはいえ、明にとって代わった北方民族の征服王朝、清の方は、日本の新たな脅威と認識されていた。清は、やはりかつての北方民族の王朝、元のように日本に攻めてきかねない。そうした危機感が日本の対外情報通には共有されていた。明からの亡命者で清を憎んで呪ってやまない朱舜水を、学問の師にして世界情勢指南の顧問としている徳川光圀には、その思いはひとしおだった。
清が日本に勢力を伸ばしてくるとすれば、南や西の方からかもしれないが、北からの可能性もある。光圀が蝦夷地にこだわる理由のひとつはそこである。国防上の関心である。だが、光圀が蝦夷地に魅惑されたもっと大きな理由は、やはりお金である。水戸徳川家は江戸の将軍家、徳川幕藩体制を守る軍事的な主役と徳川家康や秀忠に期待されて、東海に面する常陸の地を与えられた家柄である。仮想敵は徳川に反旗を翻す可能性のある国内の大名でもあるが、差し迫った外国である。ところが残念なことに、水戸徳川家の所領は国防の核心的軍事力を担うには僅かすぎる。平時の藩の財政すらままならない。じゅうぶんな軍備ができようはずもない。貧しいのである。
そこで蝦夷地が喉から手が出るほどに欲しくなる。松前藩ではなく水戸藩にこそ、北の大地を任せて貰えれば、国防上の要地を直接守護し、殖産興業にもいそしめて、一石二鳥。その願望の先に、巨船快風丸の、大枚をはたいての建造と蝦夷地探検行があったのだろう。光圀はその夢を先に伸ばし育ててゆくことはできなかったけれど。
そのあと、東アジアの情勢はしばしば安定した。国内で幕府に対する反乱勢力が大きく育つこともなかった。水戸藩の財布も、いつも逼迫しているとはいえ、国防のための多大な出費が新しく襲うかかることは、幸いにしてなかった。光圀の切迫した危機意識は忘れられた。それはつまり天下泰平である。
『軍事大国化』を切望する水戸
が、徳川斉昭が水戸藩主となった文政の終わりには、すっかり事情は変わっていた。ロシアとイギリスが日本の脅威としれ意識されるようになった。斉昭の世は光圀の世に引き戻された。斉昭は水戸の『軍事大国化』を切望する。そのとき斉昭は光圀の夢を反復せざるを得ない。お金がまったく足りない。そこで光圀のモティーフが蘇る。蝦夷地を水戸藩に賜われないか。海の向こうから来るのを待っているだけでは真の国防は果たせない。巨船の建造、強力な海軍の建設を、水戸藩主導で推し進められないか。
徳川斉昭が幕府に請願し建言することといったら、藩主の座に就いたばかりの天保期から、大老の井伊直弼とことごとく対立してついには幕府から永蟄居を命ぜられる安政の終わりまで、ひたすらにずっと、蝦夷の話と巨船の話が二本柱だった。斉昭はこの2つのテーマを執拗に繰り返した。斉昭が製鉄のための反射炉建設に強くこだわったのは、とりあえずは沿岸防備用の高性能の大砲を大量に鋳造したいがためだったが、その大砲の究極の活用目的は、沿岸の配備にとどまらず、軍艦に積んで西洋列強と海戦を行い、さらに西洋諸国の沿岸まで軍艦を進めて、火力で彼らを威圧し、畏怖させることにあった。
たとえば徳川斉昭は1838(天保9)年、幕府に『戊戌封事』と呼ばれる建言書を提出している。そこでこう述べる。
『神国は四面皆海に候へば海船の製作心を用ゆべき事御座候。むかし相応の大船も有之、外国迄渡候ものも有之へ共、邪宗門御禁制に付、大船も御禁制に相成候』
邪宗門とはキリスト教のこと。日本でも鎖国以前は、当時の世界の水準に達する、外洋の航海の可能な大船が建造されていた。しかし、キリスト教の禁止に合わせて、大船建造も禁じられてゆくことになった。そう斉昭は歴史を理解している。なぜ邪宗門と大船の禁令がセットになるのか。斉昭は、大船があって日本人の外国との往来が容易にできる環境が残されれば、渡海してキリスト教にかぶれ、帰国してそれを広める人間が絶えなくなるせいと推測する。それで大船を作ることを日本はやめてゆき、徳川光圀の快風丸のあとは本当に絶えてしまい、技術も失われ、ついに今日では荒天の大海を渡る船の建造が自力では困難な次第に至った。それどころか、日本近海の航路でも頻繁に難破している始末である。
『阿蘭陀人等は数万里の海上を乗切り、年々期日をたかへず長崎に入津致し候。然る処日本人は海国に生まれながら、十里二十里の海上さへ日数を定めて乗り候事は出来不申』
このような事態に至り、最近では日本近海にオランダ以外の西洋諸国の船舶の侵入をたやすく許して手をこまねくばかりである。これはひとえに『手薄き船』しか作られないように誘導してきた幕府の政策が時節に合わなくなったからであり、ただちに『御制禁』を緩めて大船の建造に幕府も乗り出し、水戸を含む諸藩にも同じことを認めるべきである。
幕末に至る斉昭の海軍建設についての幕府への意見具申の、これが始まりであった。けれどなかなか認められない。斉昭が『戊戌封事』から5年後に『堅牢な船艦』を作るべしと再び意見した際の、水野忠邦、堀田正睦、土井利位、真田幸貫の4老中の回答をつまんで意訳すればこうなる。
『幕閣において、再三相談したけれども、堅牢な軍艦を作ることは、現在のこの国の技術では不可能であるから、西洋の技術を学んで真似て作るということになろう。それを御法度である。斉昭公の主張するよう、日本人が外国に自ら出かけてキリスト教徒となって帰ってくることを恐れ、大船の建造を禁止したり、鎖国政策をとっているというのは、ひとつの理由ではあるけれども、キリスト教が入ってこなければいいわけではない。鎖国を続けてきた「深遠之尊慮」とはそれだけではない』
『深遠之尊慮』とは何か。両者の相容れなさはどこに由来するのか。そのへんを解けば、徳川斉昭と彼に知恵を授けている会沢正志斎や藤田東湖ら水戸の学者たちの思想と、大老井伊直弼に至る幕府の基本的態度との長い食い違いの歴史も見えてくるだろう。なぜに水戸の人々が中心となって井伊直弼を桜田門外で討ち果たしてしまうのかまで含めて。
一橋慶喜を将軍に!
徳川斉昭ら、水戸の立場は、天皇を頂点とする神国日本の唯一無二を護持したいということに尽きる。そのために西洋の艦船を日本に近付けたくない。上陸させたくない。なぜなら西洋諸国の『国教』でありイデオロギー的核心であるキリスト教のこの世を超越してそれ以外の神を認めない概念が、この世を超越せずに万世一系で現前し続ける現人神としての天皇概念と絶対的に矛盾すると、考えているからである。ひとたびキリスト教が侵入し、布教が進んでしまえば、神国日本の唯一無二性を疑う日本の民が増えて国軆が護持されない。だからどうしても大船が要る。西洋を寄せ付けないようにするための海防論は、近海でなく遠洋で、敵の艦船を撃退することを要求する。大砲や砲台や要塞を海岸に用意するのは当座の方便であり、真の海防論ではない。西洋の海軍に対抗出来る自前の海軍を鍛えることしか道はない。
水戸学の求める尊皇攘夷とは、天皇の君臨する日本の国を将軍以下が守る専守防衛の思想ではない。日本が真の中華であり、世界最高位の国家でることを西洋にまで認めさせるのが尊王思想の極意であり、攘夷とは日本に来た夷を攘って追い払うことにとどまらない。西洋の勢力の日本上陸を阻止するのは攘夷の大構想のほんの手前の一部分に過ぎない。世界中の夷を日本から夷の国まで攘ちに行って従えるのが、攘夷の最終目的である。この目標の達成のためには手段を選ばない。西洋式の軍艦が必要なら、その建造に必要な科学技術を習得しなければならない。
ところが幕府は全然違う。幕府の常なる目的は、将軍が先頭に立って世界に冠たる皇国日本の価値を四海に認めさせることではない。日本の独立の保全と幕藩体制の維持である。天皇への将軍の服従が当為という考えは、幕府本来のものではない。水戸学が、儒教の持つ主君への忠誠義務の思想を、日本の神話と歴史の中にアレンジして勝手に作り上げたものにすぎない。
少なくとも天保期の幕府が阻止したかったのは、国交を持たない西洋諸国の船の近海への接近よりも、国内における蘭学の深化と普及の方であった。大船を作るために蘭学の知識がよりいっそう必要とされ、蘭学者が増え、社会への影響力を拡大すれば、将軍を頂点とする武家の世の崩壊につながりかねない。水野忠邦の腹心、鳥居耀蔵は、西洋兵術が鉄砲を持った歩兵こそ戦争の主役との考えを広めれば、馬や刀と槍に支えられた侍の美学が軽視され、武家の日本社会での名誉ある存立が危ぶまれると危惧した。蘭学が広まれば広まるほど、士農工商の身分秩序、封建道徳が疑問視されるようになる。そんな悪夢への本能的恐怖が水野忠邦から井伊直弼までの幕閣にはある。西洋式の大船の建造を推進して武家の優位を崩すきっかけを自ら作るくらいなら、西洋の艦船のために限られたいくつかの港を開放して、そこで商売して幕府も儲けられればその方がずっとよい。井伊直弼の対米交渉とはそういうものだろう。
ところが、徳川斉昭ら、水戸の人々は、西洋人を長崎以外のあちこちに上陸させれば、なに防御しようとしても必ず戦国期から徳川初期のようにキリスト教が民衆に入って、日本の精神が毒され、天皇中心の国体が崩壊することを、第一義的に心配する。将軍中心の武家の世よりも天皇中心の日本国家の方が、水戸では上位概念になっている。水戸学は士農工商の身分制度を強烈に守りたいのであって、決して四民平等を目指してはいないが、皇国を守ることに比べれば、身分制度はやはり二の次だ。究極の忠義の対象としての天皇が日本人にとっての永遠であり、将軍や士農工商の仕掛けはかりそめのものだ。
軍備で西洋に対抗するためには、蘭学・洋学者がこの国で力を持つ状況を認めるしかない。だが、その状況に於いてもキリスト教を認めず、蘭学・洋学の知識を和魂洋才の『才』の域にとどめておけば、武家が朽ちるとも国体は不滅である。それによって西洋人の日本上陸を食い止め、キリスト教思想の侵入を防げれば、日本の民衆が日本の国柄を疑問視して相対化するリスクは低減できる。
徳川斉昭の率いる水戸藩は、そこまで割り切っていたからこそ、他藩の藩士を招き、彼らに水戸の内情をさらけ出しても、武備の充実に努め、士農工商の工に属する大工を士分にとりたてて他藩に留学させることも平気でやれた。この水戸の『先進性』あってこそ薩長土肥や越前や宇和島であろう。
けれど、繰り返せば、水戸に決定的に欠けていたのは財力である。薩摩藩が南島の経営で余力を得ていたように、蝦夷地を得て軍事予算を獲得したかった。はやく強力な海軍を創設して東アジアでの制海権を確立したかった。お金が欲しかった。幕府からも多額の経済援助を引き出したかった。
しかし、天皇の国を奉じる水戸藩と、将軍の国を当然とする幕府では、あまりに思想が隔たっていた。徳川斉昭が国を憂えれば憂うるほど、水戸の経済は破滅してゆく。幕府は水戸に冷淡であり続ける。そこで水戸の人々の考えたことは何か。邪魔者の幕府機構を一挙に味方に変じさせることである。徳川斉昭の意のままに動く人間が将軍職に就けばよい。水戸家から将軍を出せばいい。だが、同じ御三家といっても尾張や紀伊よりも格下で将軍を出せないのが水戸の宿命。いやいや、起死回生の一手が残されていた。斉昭の実子の慶喜が将軍を出せる御三卿のひとつ、一橋徳川家の養子になっていた。慶喜を将軍に!」
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江戸時代後期・幕末、戊辰戦争・明治維新における「日本の大義」とは何であったのか?
現代日本に「日本の大義」は存在するのか?
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江戸時代初期の徳川光圀は、中華帝国の日本侵略は西だけではなく北の蝦夷地からもあり得ると警戒した。
水戸学は、徳川光圀の北方脅威論を受け継いだ。
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水戸学の攘夷とは、桃太郎が悪さをする鬼を鬼ヶ島にまで出かけ行って退治し、今後は悪さをしないと悔悛させるという事である。
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幕末の動乱は、排他的な攘夷ではなく、ロシアの侵略に対応する幕府の「徳川将軍中心の穏健な開国」か水戸学の「天皇中心の過激な開国」かの国防方針を巡る対立が原因であった。
国防においては、「敵が上陸した所を撃滅する水際の消極的専守防衛」と「敵を領海・領土の外、遠洋・遠地で撃滅する遠征の積極的専守防衛」であった。
つまり、幕府は対外戦争を避けようとし、水戸学は対外戦争を目指していた。
海洋国家日本の最良の国防戦略とは、後者の「遠征の積極的専守防衛」であった。
海に囲まれた日本では、消極的専守防衛としての水際誘い込み撃滅作戦は不可能であった。
軍国日本の対外戦略思想は、水戸学の流れを汲んでいた。
幕府が目指した「徳川将軍中心の穏健な開国」は、ロシアの侵略のまでは、幕府と諸藩による地方分権が強い集合体制の為に失敗する事は自明の理であった。
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幕府が定めた諸禁制の祖法を、対外防衛戦争ができるように全面改法するか、戦争を避ける為に改法せず解釈で対応するかの、外交政策闘争でもあった。
つまり、規制緩和・改法派と規制継続・護法派との対立が幕末・明治維新である。
日本の護法派は、中国や朝鮮の中華儒教を墨守する頑迷固陋の守旧派とは違う。
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日本の保守派は、西洋を完全排除しようとした硬直な中国や朝鮮の守旧派とは異なり、西洋の進んだ学問や技術を積極的に柔軟に取り入れようとしていた。
ゆえに、日本の攘夷と中国・朝鮮の攘夷とは根本的に違う。
日本民族日本人の戦術戦略は、「敵を知り、敵に学び、敵の優れた所を進んで取り込む」という事である。
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水戸学の過激な開国論は、長州や薩摩に受け継がれ、幕末・明治維新の原動力となった。
水戸学の危機感は、寛政・日露交渉(1792年)、ロシア海軍の文化露寇事件(1807年)、イギリス捕鯨船員の大津浜事件(1824年)、ロシア海軍の対馬不法占領事件(1859年)などによって深まっていった。
ペリ−の黒船艦隊来航(1853年)以前に国防危機が始まっていた。
攘夷派は、神の裔・天皇と神国日本を夷狄から守るべく、ロシアが迫っている蝦夷地・北方領土に目を向け行動を開始した。
ロシアの侵略を無視してペリ−の黒船来港にこだわる現代の日本史では、江戸時代後期・幕末、戊辰戦争・明治維新、そして富国強兵・殖産興業・近代教育という軍国主義化は理解できない。
幕末をペリーの黒船艦隊来航と日米和親条約締結から見る限り、幕末は決して理解できない。
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尊皇派や勤皇派とは、下級武士・浪人などのサムライや庶民(百姓・町人)さらには町中の非人・エタなどの賤民や地方の山の民・川の民・海の民などの部落民であった。
つまり、中流以下の日本人が死を覚悟して天皇家・皇室を守ろうとしたのである。
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当時の日本人は、現代日本人特にリベラル派や革新派やエセ保守派が馬鹿にし軽蔑するような愚民ではない。
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日本の軍国主義化は、ロシアの侵略から天皇制度と神国日本を軍事力で守るという目的であった以上、正しい判断であって間違ってはいない。
それを世界に説明し、国際世論を納得させられない現代日本人の歴史力、外交交渉力がない証拠である。
現代日本人のグローバルな高学歴出身知的エリートの知能・知性・見識が、当時のローカルな日本人よりも「ない」という事である。
特に、リベラル派や革新派やエセ保守派などに際立っている。
現代日本人の高学歴出身知的エリートと当時の日本人の決定的な違いは、日本国語力と外国語会話力である。
現代日本人の高学歴出身知的エリートは、優秀なグローバル人材として、外国語会話力を優先して日本国語力を切り捨てた。
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現代日本人の高学歴出身知的エリートには思想も哲学も無いか有っても脆弱であるが、当時の日本人は命を賭けるほどの強烈な哲学や思想を持っていた。
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日本が教訓とすべきは、無智無能近かった愚かな清国(中国)や朝鮮王国(韓国・北朝鮮)ではなく非力が故に哀れなムガル帝国(インド)やビルマ王国(ミャンマー)であった。
世界は、生物の弱肉強食の原則で動いていて、弱い国は侵略・征服され、弱い民族は奴隷として牛馬のように使役され殺された。
それが、生物の生き方であり、人類の歴史である。
清国や朝鮮にこだわりムガル帝国やビルマを無視する者には、当時の世界情勢は理解できない。
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日本は、全ての面でマジョリティーではなくマイノリティーである。
中国は、アメリカ、ロシア、イギリス、ドイツなど同様にマジョリティーである。
日本は、世界の中で孤独であり、取り残され、置いて行かれる運命にある。
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キリスト教価値観の西洋世界は、神聖な使命感から日本国を滅ぼし天皇制度を廃絶しようとした。
昭和初期の日中戦争から太平洋戦争までの戦争は避けられなかったし、日本の敗北とキリスト教国家による日本占領も避けられない事であった。
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キリスト教歴史観とマルクス主義(共産主義)歴史観が、平和と自由・民主主義の大義で、戦前の伝統的民族の歴史を改竄し、捏造し、日本悪意を子供達に植え付けた。
そして、中国共産党政府と韓国・北朝鮮が内政干渉で押し付けた、1980年代以降の日本人凶悪非道の重犯罪史観が日本の歴史を醜いほどに歪に固定化した。
日本の歴史教育とは、日本人の愚民化と日本民族の希薄化を促進する洗脳教育である。
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洗脳歴史教育とは、根っからの反日派敵日派である中国共産党・朝鮮を知日派と言いくるめ信じ込ませる事である。
そして、日本人は中国人(漢族)や朝鮮人と同じアジア人で兄弟であると嘘を信じ込ませる事である。
さらに、日本儒教と中華儒教(中国儒教・朝鮮儒教)は同じで、日本も同じ儒教国家であると嘘を信じ込ませる事である。
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蝦夷地(北海道)・北方領土は、ロシアの侵略から日本を守る最前線であった。
深刻な問題は、アイヌ人が、日本に味方して一緒にロシアと戦ってくれるのか、ロシアに走って日本を攻めてくるか、であった。
そこが、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵などで日本が最も憂慮した点である。
中国・朝鮮は、ロシアよりも反日敵日感情が強かったからである。
日本がロシアと戦っている時に背後の中国と朝鮮がどう動くか、味方になるのか、敵に回るのか、それは恐怖であった。
中国と朝鮮が親日派知日派となり日本と同盟を組んで一緒に戦う、それは絶対にあり得ない事であった。
故に、日本を敵と定める国内外勢力は反日派敵日派の中国や朝鮮を味方に引き込む。
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日清戦争では朝鮮が、日露戦争では朝鮮と中国が、シベリア出兵では朝鮮が、日本が国外で戦争をしている時にその背後で彼らは反日的敵日的行動を取って日本を危機に追い込んでいた。
それに対して、アイヌ人や沖縄県民は日本を守る為に共に戦った。
日本人にとって、アイヌ人・沖縄県民そして台湾人は生死を共にした戦友であったが、中国人・朝鮮人は後ろを安心して任せられる戦友ではなかった。
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西洋・白人キリスト教徒の日本での交易は、人を殺す火薬を日本人に売り込み、日本人を奴隷として買う為であった。
火薬・日本人奴隷交易の通訳をしたのは、宣教師達である。
宣教師達は、海外に奴隷として売られる日本人が、キリスト教世界で生きていけ得るようにキリスト教徒に改宗させた。
何故なら、キリスト教教徒にならねば奴隷として役に立たないどころか生きていけないからである。
中世キリスト教世界は、異教でも、ユダヤ教やイスラム教は我慢して容認しても、日本神道や仏教は嫌悪して排除した。
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古代ローマ帝国やギリシア・エジプト・ペルシャなどの古代文明を滅ぼしたのは、原始キリスト教原理主義であった。
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キリスト教会は、日本人奴隷交易を認めていないし、当然、謝罪も反省もしていない。
それどころか、キリスト教を禁教にし、キリシタン弾圧をした事を激しい言葉で非難し、謝罪と反省を強要している。
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現代日本人は当時の日本人とは違う。
現代の高学歴出身知的エリートは当時の武士や知識人とも違う。
現代日本には、武士・サムライはいないし、武士道・士道もなく、当然のことながら武士道精神・サムライ根性も残っていない。
特に、リベラル派・革新派・エセ保守派と名乗る現代日本人にはその欠片すらまったくない。
保守派にも、真の保守派とエセ保守派がいる。
右翼・右派・ネットウヨクも同様である。
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日本は古代から、中国・朝鮮を存続の脅威と認識していた。
そこに、新たな深刻な脅威として北のロシアが現れた。
中国・朝鮮・ロシアは、日本の脅威であった。
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中国共産党・中国軍には、日本に亡命し帰化した朱舜水等のような高度な知識と教養を持った人格者は誰もいない。
中国共産党・中国軍は、反日派敵日派である。
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現代日本人は、金儲けの為なら、見境なく国土を売る人々である。
反日派敵日派を隠した中国資本は、日本人協力者の手を借りて、日本国内で土地や建物そして企業を大金を出して爆買いしている。
現代日本人は、その事実を知りながら止めようとしない。
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現代日本は、水戸学が最も恐れていた状況へと坂を転げ落ち始め、利益・金儲けしか考えない日本人の増加で民族国家崩壊への早さが年々加速化している。
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- 作者:安藤 優一郎
- 発売日: 2014/05/09
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- 作者:家近 良樹
- 発売日: 2014/02/11
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