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2021年5月15日 MicrosoftNews AERA dot.「 神君・家康公の再来と期待された「徳川慶喜」は、なぜ大政奉還を決断したのか?
© AERA dot. 提供 十五代将軍・徳川慶喜/水戸藩主徳川斉昭の七男で一橋家を継ぐ。将軍継嗣問題では家茂に敗れ、安政の大獄で隠居・謹慎処分となる。桜田門外の変後に家茂の後見職となり、その死後、十五代将軍とな…
大河ドラマ「青天を衝け」でも話題の徳川十五代将軍・慶喜。「神君・家康公の再来」と期待されながら、徹底抗戦せずに幕府を終焉させた慶喜とはどんな人物だったのか。週刊朝日ムック『歴史道 Vol. 14』では、徳川将軍を大解剖。ここでは「王政復古の大号令」までを解き明かす。
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慶喜は、水戸藩主であった徳川斉昭の七男で、母は有栖川宮織仁親王の王女である吉子女王だった。江戸の小石川にあった水戸藩邸に生まれ、その後は、水戸城で育ち、藩校の弘道館でも学んでいる。若かりし頃から「聡明」で知られていたという。弘化四年(1847)には、十二代将軍・徳川家慶の意向を受けて一橋徳川家を相続。慶喜と名乗るようになったのも、この時に家慶の偏諱(へんき)を授かってからのことだった。
家慶の死後、家定が十三代将軍となるものの、家定には実子がおらず、慶喜は将軍継嗣争いに巻き込まれてしまう。
将軍の継嗣には血統が重んじられていたため、十一代将軍・家斉や十二代将軍・家慶との血縁にない慶喜は、不利であったのは間違いない。家斉の孫で南紀派が推す慶福に対し、利点となるのが「聡明」ということだった。家慶には実子の家定がいたものの、「聡明」な慶喜を継嗣にする意向もあったというが、実際のところはわからない。いずれにしても、一橋派は、「聡明」であることを根拠に将軍継嗣として推すしかなかった。このときは結局、大老となった井伊直弼の強権により、紀伊藩主の慶福が家茂と名を改めて将軍継嗣となっている。
家茂が十四代将軍になってから、慶喜は将軍後見職として朝廷との折衝にもあたり、主に京都において活躍した。元治元年(1864)三月に将軍後見職を辞任すると、朝廷から禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮に任命されている。これは、御所と大坂湾を防備する役職だった。
この年の七月に禁門の変がおこり、長州藩は朝敵とされる。第一次長州征討は長州藩の降伏で終わったものの、慶応二年(1866)の第二次長州征討では薩摩藩が長州藩に味方したため、幕府軍が敗北してしまう。しかも家茂が、大坂城で陣没してしまったのである。
そのため、幕府内では老中が中心となって将軍継嗣について議論がされ、慶喜に白羽の矢が立てられた。しかし、慶喜が二つ返事で受諾することはなかった。家茂との将軍継嗣争いにも巻き込まれていたうえ、名君と謳われた家茂ですら、結局、混乱を収束させることができなかったということもあったかもしれない。あるいは、できる限り受諾を引っ張ったほうが、発言力が増すと考えていた部分もあったろう。いずれにしても、慶喜は徳川宗家を継承することは了承したものの、将軍に就くことは受け入れなかった。そうしたなか、孝明天皇が慶喜に将軍への就任を命じたことで、十二月五日、慶喜に将軍宣下が行われた。慶喜は、孝明天皇の権威を背景に、事態の収拾に乗り出したのである。
■徳川家の存続を目指す慶喜と倒幕派との駆け引きが続く
将軍となった慶喜が進めたのが幕府の改革だった。それまで幕政は老中による合議という体制をとっていたが、陸軍、海軍、国内事務、外国事務、会計の部局を設け、その長官である総裁にそれぞれ老中をあてている。こうすることで、それぞれの老中が責任をもって対処することが可能となった。また、フランスの支援によって軍制の改編も行った。こうした一連の改革を、慶応の改革と呼ぶ。
こうした慶喜の動きに対し、慶応三年(1867)薩摩藩では諮問機関として四侯会議を提案し、慶喜の動きを牽制しようとした。四侯会議に参加したのは、薩摩藩主の父である島津久光のほか、前越前藩主の松平春嶽、前土佐藩主の山内容堂、前宇和島藩主の伊達宗城である。しかし、薩摩藩の思惑とはうらはらに、慶喜は逆に四侯を牽制した。
四侯会議で慶喜を牽制することができなかった薩摩藩の大久保利通や西郷隆盛らは、長州藩や朝廷内で幕府に批判的な公家と通じ、武力で討幕を計画するようになった。こうした動きを察知した慶喜は、前土佐藩主・山内容堂(豊信)の建白をうけ、慶応三年(1867)十月十四日、朝廷に対して大政奉還を上奏したのである。
大政とは、政治の実権を指す。これまで幕府は朝廷から統治を委ねられてきたわけであり、その権限を返上することを意味する。大政を奉還してしまえば、実質的に幕府は存在しないことになり、薩摩藩や長州藩の掲げる倒幕の大義名分を失わせることになった。
翌十月十五日の朝議において大政奉還は勅許され、幕府は実質的に消滅する。しかし慶喜は、しばらくは将軍にとどまることになった。この頃朝廷では、新たな政権構想を練っていたが、まだ計画段階だったためである。そのため、新しい政権に慶喜が首班として参加する余地は残されていたのであった。
新たな政権のひとつとして考えられていたのが、公議政体論に基づく体制である。これは、ヨーロッパの議会制に範をとったもので、諸侯や有能な藩士を議員とする政治体制をいう。慶喜がこの体制の首班に指名されれば、幕府が消滅したとはいえ、政治的な実権をそのまま握る可能性も残されていたわけである。
もちろん、討幕を図ってきた薩摩藩が、そのような体制を認めるわけもない。大久保や西郷は、倒幕派の公家である岩倉具視と通じ、慶喜を排除する政変を画策。その政変は、十二月九日に決行された。各藩の藩兵が御所を警固するなか、「王政復古の大号令」が発せられ、新政権の樹立が宣言されたのである。(次回へ続く)
◎監修・文
小和田 泰経/1972年東京都生まれ。静岡英和学院大学講師。主な著書に『天空の城を行く』(平凡社)、『兵法』、『戦国合戦史事典存亡を懸けた戦国864の戦い』(新紀元社)、『信長戦国歴史検定<公式問題集>』(学研パブリッシング)など。
※週刊朝日ムック『歴史道 vol. 14』から抜粋」
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幕末動乱の原因は、ロシアの武力侵略とキリスト教の宗教侵略から日本天皇・日本国・日本民族を如何にして守るかという体制選択戦争であった。
国家の防衛基本方針は、積極的自衛戦争として、対外戦争ができる近代的軍事体制(軍国日本)であった。
体制選択とは、「徳川家中心諸藩連合地方分権体制」か「天皇中心挙国一致中央集権体制」かである。
つまり、中国の清王朝かインドのムガル帝国かである。
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日本民族は、体制、秩序、権威、権力が好きである。
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ロシアに対する危機意識とは、江戸時代後期にロシア軍艦が蝦夷地(北海道)・北方領土で行った海賊行為にあった。
徳川幕府は、武力で母国を防衛する為に、東北諸藩に蝦夷地・北方領土・樺太への派兵を命じた。
水戸藩や吉田松陰ら過激な攘夷派は、戦争をしてでも「天皇が統べる神国日本」を守るべく蝦夷地や東北に向かった。
夷狄(外国勢力)撃退の鍵を握っていたのは、蝦夷地・北方領土・樺太に住んでいた数万人のアイヌ人で、防衛戦争に勝利するにはアイヌ人を如何にして日本の味方に付けるかであった。
ロシアは、日本の味方になる危険性のある千島列島のアイヌ人や土人らをカムチャッカ半島に強制移住させて無人島にした。
ロシア軍の対日戦略は、陸軍による日本占領ではなく、海軍による海上支配であった。
何故か、江戸時代の日本は世界七大帝国の一つと恐れられたが、それは武士による陸軍国であって大型軍艦を所有する海軍国ではなかったからである。
そして、大艦隊を持たない日本は四方を海に囲まれた無防備な列島国家で、如何に専守防衛として砲台・台場を幾ら造ろうとも海上からの艦隊攻撃優位という戦闘条件は変わらなかった。
幕末の端緒は、ペリーの黒船来航ではない。
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キリスト教に対する嫌悪感とは、戦国時代の中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人が日本人を奴隷として世界中に売って金儲けをした事が原因であった。
それ故に、心ある日本人はキリシタン弾圧に協力した。
豊臣秀吉と徳川家康そして歴代徳川将軍は、「神の御名」によって異教徒の人間を奴隷として金儲けするキリスト教を邪教と認定し、禁教として宗教弾圧を行い、非人倫的キリスト教勢力を日本から追放した。
自分の金・豊かさより人の命・自由を選んだ結果、日本は世界から取り残されて貧しくなり、慢性的食糧不足になり外国に頼れなくなった為に飢饉が起これば大量の餓死者を出す事になった。
つまり、数千人・数万人の少人数を助ける為に数十万人・数百万人の多人数を犠牲にした。
日本民族は、信仰宗教ではなく崇拝宗教から、全ての命は等しく神・神霊、仏・霊魂であるとして崇めていた。
それは、ウイグル人権・人命より日中貿易による利益・金・富みを選択する現代日本人とは正反対の選択であった。
現代の日本人が好んで良く口にする「一人は大勢の為に、大勢は一人の為に」は建前でウソである。
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