🌏10)─7─尊皇ファーストの徳川慶喜が自己犠牲で日本天皇・日本国・日本民族を救った。~No.33 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 弥生時代後半から日本国を動かしているのは、日本天皇と尊皇派・勤王派日本民族であった。
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 第121代孝明天皇 天保2(1931)年7月22日 仁孝天皇の第4皇子として誕生した。。諱は統仁(おさひと)。称号は煕宮(ひろのみや)。
 攘夷派、佐幕派
 弘化3(1846)年3月10日 15歳 践祚、即位。
 嘉永3(1850)年5月19日 「万民安楽、宝祚長久」の祈りを七社七寺に命じた。
 慶応2(1866)年1月30日 36歳で崩御平安神宮祭神。
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 徳川慶喜
 天保8(1837)年9月29日 御三家水戸藩の藩主徳川斉昭の7男として誕生。
 弘化4(1847)年9月  11歳で御三卿のひとつ一橋家を継ぐ。
 安政5(1858)年    22歳。安政の大獄
 文久2(1862)年7月  26歳で将軍後見職に就任。
 慶応2(1866)年7月  30歳で将軍家茂が死去した為に徳川宗家を相続し、12月に第15代将軍に就任した。
 慶応3(1867)年10月 31歳。二条城で大政奉還して徳川幕府を終焉させたが、一大名として徳川家を存続させ、ロシアに対する後攘夷を実行する為に新国家建設、殖産興業・富国強兵・近代教育普及という近代化に邁進する決意を示した。
 慶応4(1868)年1月  32歳。鳥羽伏見の戦い
 明治元年2月           上野寛永寺、次いで水戸、静岡で謹慎生活。
 明治2(1869)年9月  33歳。謹慎解除。
 明治31(1898)年3月 62歳。天皇・皇后に拝謁して「逆賊」の汚名が晴らされた。
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 日本民族は、石器時代縄文時代から農耕漁労を生業とする海洋民で、土地を神聖視し、土地と共に生きてきた。
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 2021年6月18日/25日号 週刊ポスト「大論争 徳川慶喜
 『切れ者』か『臆病者』か
 放送中のNHK大河ドラマ『青天を衝け』で草薙剛が好演する徳川慶喜。おそらく彼についての一般的な認識は、『徳川15代目、最後の将軍』『大政奉還をした人』の2つではないだろうか。
 もちろんそれは事実で、江戸から明治という難しい時代の転換点の舵取りをした英傑であることは間違いない。
 ただ一方で、実は長らく彼は『臆病者』という誹(そし)りをうけた、評価の分かれる人物だった。
 その背景には、彼の複雑な性格と『天皇』への思いがあった。
 生まれた年に飢饉を背景にして幕府への反乱『大塩平八郎の乱』が発生。数え17歳の年に黒船が来航。徳川慶喜は日本社会が大転換を迎えるそんな『内憂外患』の時代に生まれた。
 彼が育った水戸藩には、『水戸黄門』として知られる第2代藩主・水戸光圀が歴代天皇を記した『大日本史』の編纂を初めて以来『尊皇』の伝統があり、とりわけ高いカリスマ性を持つ父・斉昭は強硬な尊皇攘夷主義者だった。しかも母は有栖川宮家の出で、天皇とも血が繋がる。そのため彼は『生まれながらにして尊皇家であることを運命づけられていた』(歴史学者・家近良樹氏)。
 英邁との評判を聞いた第12代将軍・家慶の意向もあって、数で11歳で一橋徳川家を継ぎ、やがて政治の舞台へ躍り出る。周辺の大きな期待を一身に背負い、激動の時代の舵取りを託されたが、ある事件を境にその評価が一変することとなる。
 鹿島茂
 すべての根源にあった『尊皇』思想
 幕府に愛着も未練もなかった徳川将軍
 日本の近現代史徳川慶喜ほど毀誉褒貶(きよほうへん)相半ばし、評価の定まらない人物はいない。一見したところ、行動や決断に一貫性がないと思えてしまうからだ。
 たとえば、元々慶喜は水戸学の弟子筋にあたる長州の尊王攘夷派にシンパシーを抱き、主要敵は薩摩と思い定めていた。だから、元治元年(1864年)、長州藩兵が大挙上洛したとき、禁裏御守衛総督(御所を警備する責任者)だった慶喜は、朝廷の会議で『長州が朝敵とならないよう理を尽くして説得し、京から退去させるべきだ』と主張していた。ところが、途中で長州を掃討する方針に転じ、薩摩藩にも協力を求めて御所を死守することにし、長州が市街戦を起こすと見事な指揮で鎮圧した(禁門の変)。
 最大の謎は鳥羽・伏見の戦いにおける行動だ。慶喜の側近中の側近だった渋沢栄一も、25年の歳月をかけて編纂した『徳川慶喜公伝』(大正7年=1918年刊)の序文で次のような疑問を呈している。『大政奉還したのになぜ鳥羽・伏見で戦闘をおこなったのか』『大軍で上洛すれば薩摩軍との戦闘が避けられないことは覚悟していたはずなのに、なぜ大阪から江戸へ軍艦で帰ってしまったのか』。
 こうした謎は『徳川慶喜公伝』を精読すると解ける。結論から言えば、慶喜は徹底した尊皇第一主義者なのである。慶喜に大きな影響を与えた父・徳川斉昭と異なり、慶喜の思想の第一は『尊王攘夷から攘夷を引いたもの』であり、開港から攘夷かは二の次三の次。しかも、頭で考えた抽象的な尊皇ではなく、生身の天皇に対する尊皇なのだ。自分の考えが天皇の意向に反しているとわかったときは必ず天皇に合わせる。それゆえ禁門の変のとき、孝明天皇明治天皇の父。1831~67)が長州に怯えて征伐の勅命を下すと方針を一転させたのである。
 大政奉還も純粋な尊皇第一主義のなせる業だった。慶喜には幕府に対する愛着、未練がない。
 尊皇第一主義者ゆえの敵前逃亡
 鳥羽・伏見の戦いは当初は薩摩側と旧幕側の私戦のはずだった。ところが、旧幕側に対する征夷大将軍に任命された嘉彰親王に朝敵討伐の錦の御旗が与えられ、官軍VS賊軍の戦いにされてしまった。これは慶喜にとって耐えられない事態である。だから総大将の敵前逃亡という、日本の歴史において前代未聞、空前絶後の珍事を起こしてしまった。
 慶喜江戸城に戻ると、フランスの援助で軍隊の近代化を手掛けた小栗忠順をはじめとする旧幕臣が次々と慶喜主戦論を唱えた。フランス公使レオン・ロッシュも何度も登城して慶喜に再挙を促した。旧幕側は最新鋭の多数の艦船や万単位の銃を保有し、歩兵部隊も近代化し、十分に戦える戦力を有していた。
 だが、慶喜はついに首を縦に振らなかった。『自分こそ本物の尊皇主義者だ』という信念があったから『君側の奸を討つ』という理屈を掲げても良かったはずだが、尊皇第一主義ゆえに慶喜にはそれができなかった。
 仮に慶喜が江戸で挙兵していれば歴史は変わっていたに違いない。実際の戊辰戦争以上の激しい内乱になった可能性があり、新政府軍は箱根を越えて侵攻できず、箱根を挟んで旧幕軍と新政府軍が睨み合う状況になったかもしれない。東西分裂である。内乱ないし膠着状態が長引けば、南北戦争を終えて外に向かう余裕の生まれていたアメリカの介入を招き、状況はさらに複雑になっていただろう。
 そうした事態にならず、戊辰戦争は短期で終結し、日本は近代化の道を走り始めることができた。そう考えると、近代日本の運命を決めた『明治維新の最大の功労者』は慶喜なのである。」
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 もし徳川慶喜が、如何なる手段を使っても薩摩・長州を中心とした倒幕派・官軍・新政府に勝つ決断をすれば、蝦夷地(北海道)・南樺太北方領土をロシア、フランス、イギリスに売り、その大金を軍資金として最新武器を装備した軍隊と強力な艦隊をつくり、足利尊氏に先例に習って輪王寺宮を新帝と奉じ錦の御旗を押し立て、京都を攻めれば勝利は間違いなかった。
 その場合、幕藩体制下で領地とされなかった琉球小笠原諸島など多くの島嶼が欧米列強に占領されて日本領土ではなくなった。
 事実、戊辰戦争時、財政難で追い詰められていた佐幕派奥羽越列藩同盟は軍資金を得る為に蝦夷地を西洋列国に売る計画を進めていた。
 徳川慶喜の失敗は、天皇を政治・戦争の為の便利な道具として使わなかったからである。
 対して、薩摩や長州、倒幕派、新政府は天皇を単なる使い勝手のいい道具として利用したがゆえに勝利した。
 「天皇は便利な道具」という考えは、大正デモクラシーにおける「天皇機関説」となり、戦後の「天皇は統合の象徴」という日本国憲法にハッキリと残っている。
 それが、近代的天皇制度の正体である。
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 ウィキペディア
 奥羽越列藩同盟
 会津庄内藩の動向
 容保は謝罪状を提出したものの、仙台・米沢からの降伏勧告を受け入れなかった。新政府軍は会津がなお抗戦を諦めていないと見ていた。
 会津は南摩綱紀を庄内藩に派遣、4月10日に庄内藩重役の松平権十郎らと会合を持ち、会庄同盟を結成する。なお、松平権十郎米沢藩が同盟に加われば仙台藩も同盟に加わると意見を述べており、この時期に「奥羽列藩同盟」構想の萌芽が現れていたと言える。そのころ庄内藩は、当時日本一の大地主と言われ藩を財政的に支えた商人本間家の莫大な献金を元に商人エドワード・スネルからスナイドル銃など最新式兵器を購入するなど軍備の強化を進めており、それが会津藩を勇気づけることとなった。
 また、両藩はプロイセン代理公使・マックス・フォン・ブラントを通じて、領有する蝦夷地(現在の北海道)の根室や留萌の譲渡と引き換えにプロイセンとの提携を模索していた。しかしプロイセン宰相・オットー・フォン・ビスマルクは中立の立場から会庄両藩の申し出を断っている。一方でプロイセン戦争大臣兼海軍大臣・アルブレヒト・フォン・ローンは日本の混迷が続けば、領土確保を考慮するべきではないかと意見を述べている。
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 徳川幕府は、オランダからの外国事情書簡で欧米列強の強欲な動静を知っていた。
 それ以上に深刻な問題は、ロシアの侵略から如何にして日本を守るかであった。
 その為には、開国と軍事力強化しかない事は薄々わかっていたが、踏ん切りが付かずにいた。
 徳川幕府の国防方針が定まらぬ間、日本国内で下層からの尊王攘夷運動が過熱化し流血事件が多発した。
 ロシアの日本侵略が停滞したのは、ナポレオン戦争とトルコ戦争が原因であった。
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 西洋列強は、国家を分裂するほどの激しい内戦を起こすように、幕府・佐幕派と官軍・倒幕派に大量の武器弾薬を法外な値段で売り込んでいた。
 そして、日本を植民地とし、日本人を奴隷にしようと企んでいた。
 つまり、日本人を奴隷として売る買い為ていた中世戦国時代の再演である。
 白人キリスト教徒にとって、日本人は文明度の低い野蛮人・獣・黄色い猿(イエローモンキー)にかわりがなかった。
 それは、現代でも息づいている。
 日本は世界で信用され、日本人は世界で愛されている、は馬鹿げて話で、ウソである。
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 徳川慶喜の尊皇主義は、明治以降の日本では否定され、当然の事ながら現代の保守派や右翼・右派・ネットウヨクにもない。
 もし徳川慶喜の尊皇主義を標榜する日本人が現れたら信用しない事である、何故なら本心は反天皇反日本であるからである。
 つまり、現代日本には尊皇第一主義は存在しないし、復活する下地はないし、そもそも天皇家・皇室はそれを望まない。
 昭和・平成・令和の皇室は、「弱者・障害者に寄り添い、国民に親しまれ信用され、国家に安心と安定をもたらす」立場を堅持しているからである。
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 イギリスは、ムガル帝国内の親英国派を味方につけ、中立派を沈黙させ、国内混乱を理由にして皇帝派・反英派・民族派を殲滅した。
 イギリス王国ヴィクトリア女王は、インド皇帝に即位し正当な統治者となりインドを植民地化した。
 イギリスは、ムガル皇帝を流罪にして追放し、男性皇族を虐殺し、女性皇族をイギリス兵士、インド人庶民、ビルマ人などの外国人と結婚させて高貴な血筋・血統を断絶させた。
 そして、宗教対立・民族対立・地域対立を煽って合理的な植民地支配を行った。
 同じような事をビルマ(現ミャンマー)王国征服後、ビルマ王家にも行い王家の血筋を消滅さ、親英派を使って宗教対立や民族対立をつくり出して効率のいい植民地支配を行った。
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 日本が近代化で歴史的教訓とすべきは、衰退した清国の中国ではなく滅亡したムガル帝国のインドである。
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 アメリカは、ハワイ王国を自国領に知る為の陰謀をめぐらし、宣教師とアメリカ人移民を大量に送り込んでハワイの政治・経済・軍隊を支配し始めていた。
 アメリカのアジア侵略は着々と進み、その先で障害物として横たわっていたのが日本である。
 つまり、日米戦争は避けられない運命であった。
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 明治新政府は、対ロシア戦に備えて徳川幕府の後攘夷戦略を踏襲し、民生より軍事優先として、殖産興業・富国強兵・近代教育普及という近代的軍国主義政策を反対派を弾圧してまでも強権を持って暴力的に推し進めた。
 大陸における積極的自衛戦争の為の近代天皇制度と近代的軍国主義化を否定する日本人には、歴史を語る資格はない。
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 何時の時代でも、国難から日本を救ったのは10代・20代・30代の血気盛んな青少年達であった。
 40代上の世代は、経験が乏しい若輩な青少年達の決定に不平不満を言わず従い、青二才に命じられるままに武器を取って戦場に赴き命を捨てて戦った。
 何故か、壮年・中年や老人は今・現代を生きるが、青少年は未来・将来を生きるからである。
 その為に、進んで壮年・中年や老人は変化・進化・進歩を続ける青少年の犠牲となった。
 日本の自然において、森林の命を繋ぐ為に、倒れた老木は次世代の新芽の苗床になり、若木が大きく育つ栄養となった。
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 現代日本に急増した醜悪・卑猥な壮年・中年や老人は、石器時代縄文時代から続く日本民族の歴史で初めての異常現象である。
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 江戸時代後期の日本の危機は、北から侵略してきたロシアであった。
 徳川幕府は、東北諸藩に蝦夷地(北海道)、南樺太北方領土防衛の派兵を命じていた。
 ロシアの日本侵略という存亡の危機が目の前に存在する以上、国を二分する内戦を起こすわけには行かなかった。
 もし、徳川幕府佐幕派と新政府・倒幕派がイギリス、フランスそしてロシアの軍事支援を受けて激烈な戦争を続ければ、日本は衰退した清国(中国)ではなくムガル帝国(インド)の様に滅亡した。
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 江戸時代後期。日本が直面した国際情勢は、白人キリスト教列強による帝国主義植民地拡大時代であった。
 そんな残虐無比時代で日本を救ったのが、日本国と天皇・皇室を一心に無私無欲と尊皇・勤王を貫いた徳川慶喜であっか。
 徳川慶喜の無私無欲とは、名誉も名声も地位も、領地も大金・資産も何もかもいらないという、強欲の塊のような分別を捨てた現代の日本人には考えられない・思いも寄らない事である。
 徳川慶喜の哲学・思想、志向・思考を突き詰めれば、天皇家・皇室を身命犠牲にした護り安泰を謀り弥栄を祈る事であった。
 そこには、くだらないマルクス主義共産主義)の様な血に飢えた醜悪なイデオロギーは存在しない。
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 現代日本で、徳川慶喜に匹敵する日本人はいない、その足元にも及ばない愚鈍・愚昧な高学歴な知的インテリや進歩的インテリが掃いて捨てるほど跋扈している。
 特に、リベラル派戦後民主主義世代とその薫陶を受けた優秀・有能なグローバル的次世代に多い。
 現代の日本人は、民族的な武士・サムライではないし庶民(百姓や町人)でもない。
 それは、左翼・左派・ネットサハの反天皇反日的日本人達やジェンダーの女系母系天皇擁立派・女性宮家設立派にもいえる。
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