🏞111)─4─歴史を動かした水戸学の水脈はルサンチマンであった。~No.437No.438No.439 ㊵

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 幕末から明治維新にかけて、日本全国でコレラなどの疫病が蔓延し、開国・開港によって物価が高騰し生活苦に陥った百姓は世直し一揆を各地で起こし、社会は混乱していた。
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 日本は国内の乱れと外国の侵略で滅びると警鐘を鳴らしたのが、思想では水戸学で、宗教では日蓮宗立正安国論)であった。
 現代日本には、両者の精神は受け継がれていない。
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 2021年5月6日・13日号 週刊文春スペシャル対談①
 斉昭・慶喜・栄一 歴史を動かした水戸学の水脈 
 明治維新起爆剤となったのは、不条理な現実を生きるために紡がれた思想だった・・・。
 鹿島茂×片山杜秀
 鹿島 大河ドラマ『青天を衝け』は、幕末をたっぷりとみせないと視聴率が取れないからかもしれないけど、渋沢栄一徳川慶喜の関係をしっかり描こうとしていますね。慶喜という人物を丁寧に掘り下げて描こうとするならば、その父親で水戸藩主だった徳川斉昭明治維新起爆剤となった水戸学というとんでもない思想を外すことはできません。今回のドラマはそれらの要素をうまく盛り込んでいると思いました。
 片山 もともと水戸学は、水戸藩の不遇な状況を自己正当化するために生まれた学問です。水戸は尾張藩紀州藩と並ぶ徳川御三家と呼ばれていましたが格が少し低かった。おまけに尾張紀州に比べて石高もかなり低い。でも、収入は少ないないのに負担は大きい藩でした。水戸藩主は参勤交代せずにいつも江戸に居なければならないから、家臣を水戸と江戸双方に持たなければなりませんでした。その上、江戸が攻められたときには将軍家の盾となることを求められました。そこで第2代藩主の徳川光圀は、なぜ自分たちだけが理不尽にも思える負担に耐えなければならないのかを哲学する必要に迫られた。
 鹿島 そのために光圀はアイデンティティ危機に陥るんですね。自分たちの藩の存在意識って何だろうと。
 片山 光圀がたどり着いた答えは『尊皇』です。同じ一族だから将軍を守るなんて理屈は弱い。なぜ将軍家を守ることが尊いのか。それは、将軍が天皇という特別な存在から信任されているからだと。将軍の権力、幕府の秩序を『副将軍』として保つことは、そのまま天皇を守り、日本の『世界に冠たる国柄』を護持することに直結する。光圀は尊皇によって水戸藩の思想的立場を確立しました。
 鹿島 光圀を筆頭に水戸藩は勉強熱心ですね。尊皇を歴史的に証明するために多大なお金がかかる『大日本史』の編纂事業を始めた。しかも、第3代藩主・綱條が豊かな土地でもないのに石高を嵩上げしてしまった。すると、石高に応じた負担を幕府から求められるため、極端な貧乏藩になってしまった。『大日本史』編纂の中心だった彰考館には、貧乏な学者がいっぱいいたから、ルサンチマンが渦巻いていた。
 片山 ただ、学問による人材登用が活発だったことは確かです。斉昭は三男で、藩主の後継候補としては弱かったのに、水戸学の学者や下級武士層が推戴した。そういう人たちの発言力が強い藩でした。
 鹿島 斉昭は幕末が生んだ怪物ですね。家庭教師だった水戸学者の会沢正志斎に尊王攘夷思想を叩き込まれた。肖像を見ると、ドラマで斉昭を演じた竹中直人さんにかなり似ている。
 片山 斉昭は強硬な攘夷論者であると同時に洋学に対する関心も旺盛でした。西洋式の軍備導入にも熱心で、兵器充実のために鉄を造る反射炉も建設しています。斉昭の改革は明治維新を先取りしているところもあった。でも、儒学に由来する水戸学は、天皇→将軍→水戸藩という縦の線は死守しなければなりません。この縦の意思を一致させようとしたのが斉昭の構想でしたが、将軍後継問題で頓挫してしまった。
 慶喜は尊皇オンリーの人 
 鹿島 13代将軍の家定が病弱だったので、慶喜を推す一橋派と慶福(後の家茂)を推す南紀派の間で将軍の跡目争いが起きる。斉昭は当然、自分の息子で一橋家の養子とした慶喜を擁立しようとしましたが、結局、14代は南紀派の家茂になってしまった。
 片山 幕政も井伊直弼大老に就任し、天皇を内政や外交に介入させない常道に戻ります。そこから、日米修好通商条約の締結(1858年)、安政の大獄(1858~59年)へとながれ込み、さらに桜田門外の変(1860年)で井伊直弼水戸藩の浪士に殺される。家茂でなく、慶喜が将軍になっていれば、孝明天皇慶喜→斉昭の縦の構想が、いったん実現したでしょう。しかし、それは現実にはならず、水戸藩は激しい内ゲバに明け暮れていきました。反体制運動の星としての水戸藩の輝きはここで失われ、当時の反体制思想の主役から、天皇と志士たちが直接繋がればいいという吉田松陰が唱えたような孟子国学経由の一君万民的思想になっていきました。
 鹿島 慶喜は父・斉昭が自分に将軍になってもらいたいと思っていることは重々承知していたでしょうが、本人は将軍になることに消極的でした。一橋派の人でさえ慶喜の思想はよくわからなかったようです。それで松平慶永が手紙で問い合わせると、『昨今の政治情勢に対して定見はない』という答えが返ってきた。慶喜に期待をかける周囲は、ついそこで深読みをしてしまうのですが、僕は実際、慶喜には何もなかったと思う。それが言い過ぎだとすれば、攘夷でも開国でもどちらでもよくて、尊皇攘夷から攘夷を引き算した尊皇オンリーの人だったと考えています。『本当は偉大だった嫌われ者リーダー論』(集英社)という本に詳しく書いたのですが、慶喜の一見不可解に見える行動は尊皇オンリーで読み解くと納得が行くんですよ。
 片山 私もそう思います。1860年に斉昭と井伊直弼が相次いで死んだ後、慶喜は京都に移りますよね。そこで孝明天皇との人格的な結びつきを深めていった。
 鹿島 1858年に家茂が将軍になって、慶喜将軍後見職に任じられます。『幕府国』と『朝廷国』があるとすると、将軍後見職は、『幕府国』の外務大臣として『朝廷国』と外交交渉をするのが職務です。ところが京都に行くと、孝明天皇とすっかり仲良くなっちゃった。それで将軍後見職を辞して、『禁裏御守衛総督』という『朝廷国』の外務大臣に任命されるんです。
 片山 幕府の代表で京都に赴任したと思ったら、天皇の代弁者となり、朝廷の軍隊の長官みたいになってしまった。幕府は頭を抱えたでしょうが、慶喜にとっては願ってもないポジションだったと思いますね。天皇の下にいて将軍家も操れるからです。慶喜は斉昭から仕込まれた水戸学の構想を実現したぞ、と思っていたことでしょう。しかも、慶喜は一橋家の養子だから、天皇→将軍→水戸の副将軍という旧来のラインにも縛られずに自由に動くことができた。
 鹿島 慶喜は実質的には孝明天皇に仕える実力派の『廷臣』です。この立場にいるから薩摩のような外様雄藩の影響を削ることもできた。慶喜はすでにこの時期に幕府が瓦解することを予想して、天皇を中心とした諸侯の集団指導体制を確立し自分が議長に収まることを目論んでいました。
 片山 ところが1866年に家茂が死んで、アテが外れてしまった。トップになる代わりがいないから、15代将軍にならざるを得なくなった。でも、幕府のトップになってしまったら、今までのように徳川家や幕府を外から操ることはできません。残された道は孝明天皇との人格的結合で突破することでしたが、その孝明天皇慶喜が将軍に就任してほどなく、1867年に崩御してしまった。ここで慶喜の戦略は行き詰まってしまいました。
 鹿島 そこが幕末史の大転換点ですね。あそこで死ななかったら、孝明天皇は間違いなく慶喜を内閣首班にした、政治の全権を任せ、幕府に代わる新体制を発足させていたでしょう。慶喜は弁の立つ人で、対面して議論すると誰も慶喜に勝てないから、この新体制はけっこううまく行ったと思う。
 栄一の背骨に儒学あり
 片山 岩倉具視のように『天皇は道具』と割り切れば、慶喜は次の明治天皇を戴けばよかったのでしょうが、水戸学を叩き込まれた慶喜にとって、天皇から直接信用を得て、その意思を体現して行動することが何より重要でしたから、孝明天皇崩御が大変なダメージになってしまった。
 鹿島 慶喜の将軍就任、大政奉還鳥羽伏見の戦いという一連の流れは、慶喜に仕えていた渋沢栄一にとっても、大誤算だったはずです。幕府の外にいて、新体制の主柱になるのが、慶喜と渋沢が共に抱いていた政治構想でしたから。しかもタイムングが悪いことに渋沢は慶喜が将軍になり、予想外の展開が始まって間もなく日本を離れることになります。慶喜から弟・昭武に随行してパリ万博に行くよう命じられたからです。渋沢が帰国したのは1868年で、すべてが終わった後でした。
 片山 だから、渋沢は将軍就任後に慶喜が取った政治的行動がことごとく腑に落ちない。慶喜鳥羽伏見の戦いの後すぐに大坂城を離れて、江戸に戻ってしまった。敵前逃亡ですね。
 鹿島 江戸に戻っても、幕府には榎本武揚の艦隊があるんだから、巻き返すことはできたでしょう。沼津か清水港あたりに上陸させて、官軍の補給路を断ってしまえばよかった。渋沢はパリや帰りの船でこう考えていた。ところが、慶喜は江戸でも主戦論に耳を貸さず、江戸城を出て上野寛永寺で謹慎生活に入ってしまった。渋沢が帰国したときのは、静岡の宝台院に籠もっていました。
 片山 渋沢が帰国後、静岡に赴いて慶喜との再会をはたす場面ですね。
 鹿島 ドラマでもハイライトシーンになるでしょう。再会した渋沢は慶喜に『どうしてこんな情けない境遇になられたのか』と思わず尋ねるのですが、慶喜は『いまさらそのことを言うな』と、話題を変えてしまった。渋沢はその後も謎を引きずっていきます。ようやく明治20年を過ぎた頃、慶喜が口を開き始め、渋沢は真相を知ります。鳥羽伏見の出兵は本意でなく、戦争を続けたら日本は大混乱に陥る。事態を紛糾させないために、謹慎を通したのだと。
 片山 そのころから渋沢は慶喜の伝記を書き残したいと思う始め、最終的に自分の私財も投じて『徳川慶喜公伝』を刊行します。慶喜復権を意図しての伝記だから、都合の悪いことは載せないようにしているのでしょうが、あれがなかったら、ますます薩長土肥中心でしか幕末維新が語られなくなっていたでしょうね。その意味で、本当に貴重な史料です。
 鹿島 『徳川慶喜公伝』と、やはり渋沢が中心となって慶喜へのインターネットをまとめた『昔夢会(せきむかい)筆記』は、幕末史を知るには最高の史料ですよ。『昔夢会筆記』で渋沢は、将軍職を受けた理由について尋ねています。慶喜は明快に答えていないけれども、幕府を終わらせるためだったと僕には読めます。
 片山 その頃は、老中政治が復権していますからね。幕藩体制の息の根を止めるには、自分が最後の将軍となって大政奉還をし、内戦もすべてやめる。そこまで考えての将軍職受諾と捉えると筋が通ります。
 鹿島 史料を読んでいくと、慶喜の深慮遠慮によって、明治政府がスムーズに成立したことがよくわかります。僕は、慶喜こそ明治維新の第一の功労者だと思うし、渋沢も『徳川慶喜公伝』を完成させて、その結論に達したように思います。
 片山 大河ドラマですでに描かれたように渋沢は若い頃、水戸学由来の尊王攘夷思想にかぶれて、テロリスト一歩手前まで行きました。同じ人間が近代日本の資本主義をつくりだしたところが興味深いですね。
 鹿島 パリに行った渋沢が学んだ資本主義が、アングロサクソン型の自由放任・弱肉強食型のものではなくて、銀行や鉄道など社会的な制度やインフラを上から整えて、ヒト・モノ・カネを回していくサン゠シモン主義に基づいた資本主義だったことも、日本にとっては幸運でした。しかも、渋沢は各人が自己利益だけを追求すると、結局は社会が成り立たなくなることまでわかっていた。これもパリの社会見学で学んでいる。社会福祉にも熱心で、東京養育院の運営や資金繰りに尽力したのは有名な話しです。養育院の経費を捻出するために、鹿鳴館でチャリティーバザーを開催しました。
 片山 社会からはじかれた人をどのように包摂するかを常に考えていた人ですよね。大正時代ぐらいになると、米騒動や焼き打ちを見て、資本家も慈善事業の必要性に気づくわけですけど、渋沢は明治初期から福祉に取り組んでいました。他にそういう人はなかなかいないですよね。
 鹿島 水戸学が説いた王道に基づく政治が背骨にちゃんと入っている。
 片山 水戸学はファナティックな国粋主義と捉えられがちですが、後期水戸学には国防というリアリズムもありました。渋沢はそのための富国を担った人とも考えられます。慶喜に仕えていたときも明治政府の大蔵省で働いていたときも、その後、野に下って実業家になったときも、一貫して天下国家を考えながら、国を豊かにしようとした。
 鹿島 革命を成就させるためには、必ずカネと銃を調達する優秀な実務家が必要になるのですが、渋沢は一橋家でも幕府でも、それを任されていました。明治政府に取り立てられてからは 銃には関わっていないけれども、とにかく実務家として超優秀で、お金の帳尻を何とか合わせてしまうから、いつもどこからか助けてほしいと声が掛かる。渋沢が大きな志とそれを実現する実務能力をともに持てたのは、武士でも単なる農民でもなく、経営農民だったからでしょう。
 片山 同感です。もともと持たざる農家だと、最初から革命を起こすか、おとなしくしてるか、どっちかしかない。武士だと集めた年貢をいかに節約して使うかという清貧の思想になりがちです。渋沢は商売で財を築いていた豪農だから、水戸学を学んでも、武士とは違う発想ができた。
 鹿島 渋沢には、金儲けは決して否定されるべきではないという冷徹な認識があちます。これは資本主義を考える際に、最も重要な論点です。利潤の追求を否定したシステムは決してうまくいかないから。江戸時代は、武士階級が利潤追求を否定する朱子学を採用したため、金儲けを卑しいことだと見るようになった。でも『論語』では、『不義にして富む』ことを否定しているだけで、孔子は金儲けそれ自体は否定していない。正しく稼ぎ、正しく使うというのが渋沢が説いた『道徳と経済の合一説』の核心です。
 片山 豪農出身であることに加えて、『論語』を読み、水戸学の思想から刺激を受けたことが渋沢をつくったのでしょう。江戸の豪農や商人階級だと、勉強しても町人哲学や国学に向かいがちです。それだと、自分の心に素直に生きるとか、自然に身を任せるという発想だから、社会秩序の建設や維持は視野に入ってこない。他の豪農にはない儒学の教養を持っていたことが、渋沢の大きな特徴になっています。だから、渋沢の中では天下国家を考えることと金儲けをすることは両立している。でも、現代の資本主義は渋沢とは逆方向に進んでませんか。
 鹿島 もう限界まできているでしょう。もし、資本主義を続けるのなら、正しく経済的であろうとすれば道徳的たらざるを得ず、道徳的であろうとすれば正しく経済的でなければいけないと渋沢の思想に戻らなければなりかせん。
 片山 大げさではなく、人類が生き延びる道はそれしかないですね。」
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 徳川幕府は、朱子学を官学とし奨励し、朱子学を批判する異端な山鹿素行らを弾圧した。
 幕末になると、私学として陽明学国学が流行った。
 庶民の間に広がっていたのは道徳重視の論語儒教であった。
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 明治新政府の国家理念は、皇国史観の水戸学が元になっている。
 水戸学が目指した理想国家とは専制君主制の中華帝国で、その為に廃仏毀釈の宗教弾圧が起き、皇民教育・高等官登用試験(日本式科挙)が実施され、教育勅語軍人勅諭などが作成された。
 表向きは「和魂洋才」であったが、土台には漢才の朱子学・中華儒教が隠れている。
 そこには、武士道は存在しなかった。
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 朱子学・中華儒教は、人殺しの武士・サムライを軽蔑し、金儲けの商人や金勘定の算盤武士を差別し、職人・農民を教養なき小人と侮蔑していた。
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 水戸学が、日本国と日本民族を日本人に再認識させ日本国土に定着させた。
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 水戸学が攘夷思想を世間に訴えたのは、ロシアの軍事侵略が現実味を帯びた寛政の日露交渉からである。
 そして、天皇を中心とした尊皇思想を押し出したのはキリスト教による宗教侵略がロシアの陰に見えたからである。
 外敵の侵略に対する日本国・日本民族という運命共同体、つまり皇国思想は水戸学から生まれた。
 皇国思想は関東から西に広がり、長州の吉田松陰や肥後の宮部鼎蔵ら皇国思想信奉者は天皇と日本を守る為に北へ走った。
 彼らは、狂信的なテロリストではない。
 つまり、開国・幕末はペリー黒船艦隊来航ではなかったのである。
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 戦国時代、中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人は神の使命で日本を神の王国に変えるべく日本人を奴隷として世界中に輸出していた。
 ローマ教皇は、絶対神の愛によって日本人キリシタンを奴隷にする事を禁止したが、絶対神の懲罰として異教徒日本人の奴隷は認め、神社仏閣への宗教弾圧を奨励した。
 キリスト教会が絶対に滅ぼすべき悪魔王とは、異教の祭祀王・天皇であった。
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 徳川幕府は、蝦夷地・北方領土を日本領と定め、東北諸藩に防衛の派兵を命じロシアの侵略に備えた。
 当時の日本人、多くの下層庶民(百姓や町人)や賤民(非人・穢多)、部落民は武士化して、武器を持って侵略者との戦争を覚悟した。
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 問題は、如何なる体制で侵略してくる西洋列強に対して祖国防衛戦争をするかであった。
 佐幕派は、幕府を徳川家を中心とした諸大名連合体制につくり替えようとした。
 倒幕派は、天皇を中心とした一君万民の中央主権体制を新たに築こうとした。
 戊辰戦争とは、徳川家中心もしくは天皇中心をとした体制選択戦争であった。
 もし、諸大名連合体制を選択すれば、日本はインドのムガル帝国のように滅亡しキリスト教国家に大改造された。
 歴史的事実として、ハワイ王国は滅亡し、ハワイ王家は消滅し、ハワイはキリスト教の土地になった。
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 現代の日本人には、民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力そして哲学や思想がなく、あるのは無味乾燥に近い民族否定のイデオロギー(主義主張)だけである。
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 現代日本人、特に高学歴の知的エリートや進歩的インテリが当時の日本に行っても当時の日本人のように活躍できなどころか、邪魔で、お荷物になるだけの愚物である。
 たぶん、現代の実業家・企業家・経営者も、当時の日本では会社を興すことも商売することもできないだろう。
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 昔の日本人と現代の日本人は別人のような日本人である。
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