⚓363)─1─岩瀬忠震と井上清直はタウンゼント・ハリスと日米修好通商条約を締結した。88卿列参事件。安政のコレラ大流行。安政の大獄。1857年〜No.778No.779/@        

タウンゼント・ハリスと堀田正睦―日米友好関係史の一局面

タウンゼント・ハリスと堀田正睦―日米友好関係史の一局面

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   ・   ・   【東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博】・   
 幕府外交の現場で活躍していたのは、庶民から成り上がった直参旗本であった。
 井上清直…父吉兵衛は、甲斐国の身分低き庶民で、御家人株の御徒を買って幕臣となり、内藤歳由(内藤吉兵衛)と名乗った。
 幼名・松吉。家禄現米80石の幕府御家人・井上新右衛門の養子となる。江戸南町奉行勘定奉行外国奉行
 川路聖謨井上清直の実兄。幼名・弥吉。90俵3人扶持(石高105石に相当)幕府御家人・川路三左衛門の養子となる。勘定奉行外国奉行
 江戸幕府最後の西国郡代の窪田鎮勝(蒲池鎮克)は従弟。
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 庶民から成り上がった直参旗本達は、外国語が話せず、国際情報を知らず、国際法の知識もないのに、日本を清国の二の舞にしまいよう一心で悪戦苦闘しながら外交交渉をまとめていた。
 貧しい下級身分出身の彼らは、裕福な家庭の生まれで、最高学府の大学を卒業し欧米の有名大学に留学した現代日本の政治家や官僚、そして学者や知識人以上の才能・能力を持っていた。
 その実力差は、雲泥の差ほどであった。
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 外交交渉を行う成り上がの直参旗本達は、失敗すればその責めを負わされ切腹の恐れさえあったが、愛国心から切腹を覚悟で外交交渉に臨んでいた。
 彼らには、責任回避・責任転嫁や事勿れ主義そして前例踏襲主義や重要問題先送りもなかった。
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 1857(安政4)年 備後福山藩主阿部正弘が死亡して、下総佐倉藩堀田正睦が老中首座に就いた。
 幕政を行った大名とは、家柄もあるが、封建領主として自分の領地を持ち、自助努力で安定した領地経営をして家臣と領民を養った経験のある中小規模の譜代大名の中から選ばれた。
 日本の権力者は、中国や朝鮮の権力者とは違うのである。
 広大な領地を持つ外様大名や将軍家の親戚筋である親藩大名も、政治への参加を許されていなかった。
 小藩の老中は、将軍の親類筋であろうが、大藩の外様であろうが、将軍の権威を持って処罰でき、朝廷はもちろん天皇にさせ圧力を掛けて従わせる事ができた。
 だが、全てに於いて争い、いがみ合い、遺恨を残す事を嫌った為に、全ての事を適当な所でいい加減に処理して有耶無耶に片付ける事が多かった。
 大地主にして財産のある金持ちには、優れた才能があっても、政治など世俗の権力を与えず政治の場から排除するのが、身分格差社会としての幕藩体制であった。
 日本の社会は「ムラ」が基本で、大陸型の独裁的リーダーシップを嫌い、長老数人がムラ人の意見を聞き合議を行ってムラ人が納得する所で調整していた。
 長老は、ムラから長老手当など貰う事なく、ムラ人同様に自分の田畑を耕して生活していた。
 そこには、身分差や貧富の格差は少なく、公正・公平・平等が原則であった。
 物事をハッキリさせず、面倒な事はなるべく手を付けず、適当、いい加減、曖昧に水に流して忘れると言うのが「本音と建て前」の神道的解決法であった。
 絶対的価値観で白黒ハッキリさせる大陸的解決法は、優柔不断に逃げ隠れしようとする意志薄弱神道的解決法を許さなかった。
 神道原理主義とは、個性なくコソコソと逃げ回る神道的ひ弱さの事である。
 英国東インド会社は、インドを植民地にする為に排英運動を利用して、わざと大反乱を誘発させた。セポイの反乱である。
 イギリスはフランスと共謀して、インド・ムガール帝国の内紛を煽り、大反乱をそそのかし、社会を混乱させ、三世紀続いた帝国を崩壊させて植民地化した。
 イギリス軍は、「一つのキリスト教会を破壊されたら100のヒンドゥー寺院を破壊し、イギリス人兵士が一人殺されるたびに地元住民1,000人を殺害する」という報復方式を発表した。
 そして、数十万人のインド独立派を容赦なく弾圧した。
 インド人は、イギリスの残虐さに恐怖して、独立運動を諦めて植民地支配を受け入れた。
 キリスト教欧米列強の植民地支配は、容赦なく残虐であった。
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 10月 蒸気フリゲートポーツマス号が、アメリカから手紙を運んで来た。
 ハリスは、国書を将軍に直に奉呈する事を譲らず、要求を受け入れなければアメリカ艦隊を呼ぶと脅した。
 開国貿易派の堀田正睦は、国際慣行に従って江戸で受領する事に閣議の意見を統一し、ハリスの出府許可を決定した。
 10月14日 ハリスは、日本を研究し、準備万端整えて、通商条約交渉の為に江戸に到着した。
 10月21日 ハリスは、江戸城に登城して、国書を将軍家定に奉呈した。
 10月26日 ハリスは、堀田正睦を訪れ開国の必要性を演説した。
 演説は、英語をヒュースケンがオランダ語に訳し、幕府オランダ語通事の森山多吉郎が日本語に訳した。
 堀田正睦と外国交渉を担当する川路聖謨井上清直、岩瀬忠震、永井尚志、水野忠徳などが、ハリスの脅迫的熱弁を辛抱強く聞いた。
 堀田正睦は、開国を渋る他の老中など幕閣の説得に務めていた。
 11月25日 ハリスは、井上清直に脅迫的な言辞を用いて回答を督促した。
 12月2日 堀田正睦は、開国・通商は避けられないとして、ハリスに交渉に入る事を告げた。
 12月4日 ハリスは、仮想敵国・イギリスを出し抜いてアメリカに有利な外交を展開する為に、交渉に先立ち叩き台として草案を幕府に提出した。
 公使の江戸駐在、自由な交易の開始、開港地として神奈川・新潟・兵庫の追加、江戸と大坂と京の開市、居住地設定、領事裁判、協定関税制などを要求した。
 当時の西洋列強は、世界中の国を三つに分類していた。近代的法律を持つ西洋諸国は「文明国」、統一政権のもとで安定していても近代的法律を持たない日本や中国は「半文明国」、大国に依存して自主独立していない朝鮮や文化度の低い国は「未開」。 
 岩瀬忠震開明派は、横浜を開港して関東の特産物を輸出し、貿易による現金収入を増やして、国防に必要な軍備を強化すべきであると献策した。
 外国人の自由な行動を制限し、日本人との接触を監視し、攘夷派から外国人の生命財産を守る為に、横浜に新たな出島を建設するべきであると。
 日本が、最も警戒したのはアヘンの密輸による犯罪の激化であった。
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 12月11日 日米交渉が始まった。
 岩瀬忠震は、事前提案の内の開港地増設について回答した。
 「日本は国が狭いので、三港以上は開かぬ事に決めた。下田は閉鎖して、その代わり、もっと大きな港、横浜を提供しよう。当分は長崎、箱館及び横浜の三港に決めたい。そして我が国の大名全体が、貿易の結果に満足する様になってから、他の港を開く事にしたい」
 ハリスは、横浜開港には同意したが、日本経済の中心が大坂であり、貿易高が見込まれるとして大坂の開港を要求した。
 攘夷派の最重要拠点である京都に近く、大阪から京都・奈良周囲を外国人が自由に出歩くと襲われる危険があるとして拒否した。
 12月19日 第6回目交渉。問題は、京都の市場開放と大阪の開港に絞られた。
 岩瀬忠震「京都をアメリカ人に開く事は、絶対に不可能である。これは、日本人の宗教と結びついている。商用の土地柄ではない。京都を外国人に開くとなれば、謀反を引き起こす事になる。もし貴下の大統領が日本の親切な友人であるなら、無秩序と流血をもたらす様な事を主張するはずはない」
 ハリスは、日本人の心情に配慮して京都を諦めたが、大阪は譲らなかった。
 岩瀬は、大阪は京都に近く、開港すれば攘夷運動から内戦に発展する恐れがあると拒否した。
 「内乱が起こるのは、外国との戦争よりも恐ろしい。もし諸外国が、この件を理由に日本と戦争をしようというなら、我々も全力で応戦する覚悟だ」
 ハリスは、西洋の軍事力による恫喝・威嚇・脅迫に屈するどころか、「正論が通らねば戦争も辞さず」と気魄で答える日本側に気圧されて譲歩し、大坂開港を断念した。
 アメリカは幕府に莫大な富を保証する提案をして譲歩を引き出そうとしたが、幕府は日本全体の国益を優先して拒否した。
 日本がアジア・アフリカ地域で唯一近代化できた理由は、ここにある。
 アメリカ人は、国家の歴史が浅いだけに、歴史ある民族国家の伝統・文化・宗教・風習などに対する理解力はなく、自分の理想を振りかざして地元民の心情を無視して踏みにじり、軽蔑して尊厳を冒瀆する事が、ままある。
 その為。諸外国で、地元の宗教家や民族主義者とトラブルを起こす事が多い。
 当時のアメリカは、イギリスの様に海外戦争を行うほどの軍事力がなく、国力からして日本との戦争を望んではいなかった。
 幕府は、アメリカの本音を見極めていただけに、狂気に走る危険のある攘夷運動を逆手にとってアメリカに譲歩を強要した。
 アメリカとしても、イギリスの様に最後は軍事力で解決するるという勇気がなかった為に、血に飢えた狂人的サムライに取り囲まれたる恐怖感から、日本国内の事情に配慮して幕府側の提案に譲歩した。
 この頃のアメリカは、現代のアメリカの様に国益を前面に押し出し、相手の事情を考慮せず武力で言う事を聞かせたり、要求を受け入れて妥協しなければ「自由と民主主義の原則」を大義として攻撃するという、無法者に近い傲慢さはなかった。
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 ハリスは、地球上の大半を軍事力で植民地化してきているイギリスが来る前に、アメリカと有利な条約を結ぶ事が日本の為であると忠告した。
 幕府は、オランダからの情報で、アヘン戦争アロー号事件を引き起こしたイギリスやフランスよりも、今だ国力の弱い新興国アメリカと条約を交わした方が得策と判断した。
 堀田正睦は、幕府主導で開国・貿易を実施すれば海外貿易の独占は維持され、江戸の近くの横浜を主要港と定めれば莫大な利益が得られると算盤をはじいた。
 岩瀬忠震とハリスは、全14ヶ条からなる条約草案をまとめ上げた。
 主要な条項は、以下の5項目であった。
1,開港地は箱館、横浜、新潟、兵庫、長崎の5ヵ所と定めた。
2,指定された外人居留地での自由な貿易を認める。
 アメリカ側が京都・大阪を断念した事に対して、日本側は兵庫を譲歩した。
 外国人の日本国内自由旅行権は、トラブルのもとになるとして否定した。
3,通貨の同種同量交換を定めた。
4,開国して交易を受け入れた事に対する見返りとして、アメリカは幕府に利益を与える為に関税20%を認めた。
5,居留地内での外国人犯罪に対する裁判権は領事が持つ。
 幕府側は、開港地に新たな出島として外国人居留地を建設し、外国人を出島と限られた周囲に閉じ込めて遠出さず、日本人の自由な往来を禁止すれば、隔離した範囲内での外国人絡みの犯罪はそこに駐在する領事に一任した方が面倒なくて良いと判断した。
 領事裁判権が、外国人居留地と日本人が少ない限られた地域であれば問題ではなく、限定された範囲外に及ぶ時に不平等となる。つまり、外国人の活動範囲を領事館か外国船に置き換えれば分かる事である。
 ハリス「岩瀬は機敏で、反論が次々と出てきた。私は答弁に苦しんだばかりでなく、岩瀬に論破されていまい、修正せざるを得なかった条項が多かった」
 水戸藩徳川斉昭ら攘夷派は、妥当な内容の条約であっても許されないとして激怒し、条約調印に猛反対した。
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 安政の大流行。長崎に入港したアメリカ船で上陸した水夫がコレラ菌に感染していた為に、瞬く間にコレラが大流行して、多くの人が犠牲となった。
 日本のとって、良い事も、悪い事も、その多くが国外からもたらされた。
 神国日本を信じていた日本人達は、病原菌を持った不浄な異人によって国土が穢されたと激怒し、異人を追い出すべきとして攘夷運動に暴走した。
 狂信的攘夷運動は、コレラによる安政の大流行から始まった。
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 1858年 オズボーン「男も女も子供も、みんな幸せで満足そうに見える」
 「個人が共同体の為に犠牲になる日本で、各人が全く幸福で満足しているように見える事は、驚きである」
 清国とロシア帝国による、アイグン条約。
 宮古島島民は、薩摩藩に、過酷な人頭税を課す琉球王朝の不当を訴えた。
 王府は、差別している離島民の行為に激怒し、首謀者数人を処刑した。
 離島民を苦しめていた人頭税は、1902年に明治政府によって廃止された。
 1月25日 老中堀田正睦は、尊皇攘夷の急先鋒である水戸藩徳川斉昭の反対を抑え込む為に、孝明天皇の勅許を得るべく上洛した。
 2月26日 飛越地震
 幕府は、大災害が続いて疲弊した。
 平安の朝廷も、鎌倉幕府も、室町幕府も、打ち続く天災によって社会は混乱し、各政権は衰退して滅亡した。
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 3月12日 廷臣88卿列参事件。老中・堀田正睦は、関白・九条尚忠日米修好通商条約の議案を提出した。
 岩倉具視中山忠能ら88名は、条約案の撤回を求めて抗議の座り込みを行った。
 官務・壬生輔世と出納・平田職修ら地下官人97名も条約案撤回を求める意見書を提出した。
 ウィキペディア
 歴史的背景及び意義
 江戸時代、公家社会は禁中並公家諸法度以後の諸法令によって、江戸幕府が派遣する京都所司代による強圧的な統制下に置かれていた。更に、五摂家武家伝奏となったごく一握りの者以外、公家の大多数は経済面においても内職をして収入を得なければならないほど苦しい状況に置かれていた。
 条約の勅許を打診されたことを契機に、中・下級の公家たちの江戸幕府に対する政治的・経済的な鬱屈が、抗議活動の形で爆発することとなった。彼等の動きによって勅許阻止が実現したことは江戸幕府の権威失墜を招く結果となり、これ以降、朝廷が幕末において重要な役割を果たす契機になったといえる。
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 3月20日 孝明天皇は、攘夷派公家らの意見を聞いて交易を行う条約に反対し、勅許を与えなかった。
 当時の多数派は、条約反対の尊皇攘夷であった。
 幕府は、国際情勢が分かるだけに、民意に逆らって開国と交易を断交した。
 今後。一層、外国との交渉が増える事を見込んで、国益を守る為に有能な人材を育成するべく、国難にあたって国を救う志のある草莽有志の臣を身分を越えて人を集めようとした。
 だが。幕府内の保守派は、人材は幕臣から出すべきであり、諸藩の陪臣はもちろん町人までも集めるべきではないと猛反対した。
 天皇を中心とした親政を目指す草莽の志士が、草の根的に日本全国で活動を開始した。
 彼等は、防人的に、欧米列強に侵略され植民地とされない為に攘夷を主張した。
 4月 第13代将軍・徳川家定は、将軍継嗣と日米修好条約締結の問題を解決する為に、彦根藩主・井伊直弼大老に任命した。
 幕府内の開国派は、ハリスの要望を受けて即時日米修好条約調印すべしと主張していた。
 鎖国堅持の祖法派は、開国に反対するべく保守的な大老井伊直弼に期待をかけた。
 井伊直弼は、開国は避けられないものの準備不足で拙速的に開国をする事は日本に好ましくないとの考えから、即時調印を求める開国派をおさえる為に、天皇の勅許が必要であると反対した。
 天皇と朝廷は、開国には猛反対であった。
 アロー号事件における天津条約。イギリスとフランスは、貿易を優位にし利益を拡大する為に、上得意の漢族自警軍との戦闘を避け、海軍力のない正規軍が守る華北・天津を攻撃した。
 遊牧民帝国清国は、アヘン戦争の敗北を切っ掛けとして海防強化の必要性を感じ、海軍の育成に取りかかろうと矢先であった。
 西洋列強は、清国が大海軍を建設して制海権を握る前に、既得権益として通行権を確保しようとしたのである。
 漢族将軍等も、満州族大臣や将軍等の政治力を奪い、正規軍の軍事力を回復不能な状態に追い込むべく北京救援を渋った。
 彼等には国家意識は皆無で、国家の安定的発展と国民の幸福よりも自分一人の利益を優先していた。
 それが、正統派儒教の真実である。
 清朝の衰退と内戦は、日清戦争の敗北から始まった。
 敗北した清国は、国益を損ね不利と分かっていてもイギリスやフランスの要求を全て受け入れた。
 敗戦国には如何なる権利も認めないのが、世界常識であった。
 プロテスタント教会による布教が本格化した。
 ヨーロッパ人は、科学的な人種偏見で、中国人を人間以下として徹底的に差別した。
 イギリスは、自国民保護の自衛行為としてインドに軍隊を派遣して反乱を鎮圧し、全インドをビクトリア女王の名の下に直轄統治した。
 1526年以来の世界帝国であるムガル帝国は、味方の裏切りでいとも簡単に滅亡した。
 国家は、身内を平気で敵に売る裏切り者の為に、内部から崩壊した。
 イギリス政府は、インドを完全支配し、アヘン取引の莫大な利益を国家で独占する為に英国東インド会社を解散させた。インドにおける祖国奪還の反英蜂起には、軍隊を派遣し、インド人内通者(藩王・マハーラージャ)の協力を得て独立派の民族主義者を大弾圧した。
 植民地支配に反対する民族主義者は、イギリス支配に協力する同胞に裏切られて虐殺された。
 キリスト教に改宗したインド人達は、イギリスに協力して支配階級となり、同胞から搾取して富を蓄えた。
 裏切り者には、国への愛着はなく、国を守ろうという気もなかった。あるのは、自分一人の幸福のみであった。
 イギリスはフランスと共謀して、インド・ムガール帝国の内紛を煽り、大反乱をそそのかし、社会を混乱させ、三世紀続いた帝国を崩壊させて植民地化した。
 アメリカは、「天から与えられた明白な使命」を掲げて、インディアンを虐殺し、生き残ったインディアンを不毛の保留地に強制移住させて土地を奪った。保留地で多くのインディアンが餓死したが、政府は救済する事なく放置した。
 キリスト教会は、彼等を救済し、半強制的に改宗させ、祖先からの宗教を捨てさせた。こうして、多くの民族宗教が消滅した。
 インディアンの組織的抵抗は、1890年のウーンデッドニーの虐殺で終結した。
 アメリカは、領土拡大の為に戦争を繰り返していた。
 欧米の大陸史とは、平和ではなく、植民地と奴隷を獲得する為の戦争と略奪の歴史であった。
 普遍宗教であるキリスト教の伝道史は、民族宗教の撲滅を使命としていただけに、戦争と略奪史と切っても切れない密接な関係にあった。
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 5月 ハリスは、体調を崩して寝込んだ。
 通訳ヘンリー・ヒュースケンは、下田奉行に、ハリスの世話をする日本人看護婦の斡旋を依頼した。 
 下田奉行は、下田芸者・お吉(17)に「異人部隊召使として奉公せよ」と命じた。
 ハリスは、3日間でお吉は解雇された。
 お吉は、異人と交わった女として好奇な目に晒され、身を持ち崩し、物乞いにまで落ちぶれ、1890(明治23)年に下田・稲生沢川門栗ヶ淵に身投げして自殺した、
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 岩瀬忠震は、ハリスに条約調印に当たって一つの提案をした。
 「日米条約を調印すれば、イギリス・フランスが何を言おうともアメリカが間に入る事を契約して欲しい」
 ハリスは、国内の反英感情から日本側の提案に同意し、ヨーロッパ列強との間に揉め事が発生した場合はアメリカが日本側に立って仲介するという契約書に署名した。
 大老井伊直弼は、条約締結は現場の判断に一任した。 
 6月19日(新暦7月29日) 日米修好通商条約調印。
 開国派岩瀬忠震井上清直は、アメリカ総領事タウンゼント・ハリスと交渉を重ねて、貿易協定や治外法権を含むアメリカ型保護貿易思想に基づいた日米修好通商条約を結んだ。
 アメリカは、イギリスから独立して、ヨーロッパとは一歩離れた行動をとろうとした為に、同条約に独自の規定を盛り込んだ。
 日本と欧州諸国との間に問題が発生すれば、アメリカは日本から要請があれば仲介の労を執る(第二条)。日本には、アヘンを持ち込まない(貿易章程第二則)。幕府の関税収入を確保する為の、高率関税の規定(付則第七則)。
 アメリカは、自国産業の保護育成と関税収入による国家財政の維持から、高関税による保護貿易政策を採用していた関係から、日本にも高率関税によるアメリカ型保護貿易を勧めた。
 幕府側は、食糧など一部の輸入品には5%の低率関税とされたが、酒類など多くの輸入品には35%の高関税が認められた。
 アメリカ側は、日本からの輸入品に20%の関税をかけた。
日米修好通商条約
 第十条 日本政府は、合衆国より軍艦・蒸気船・商船・捕鯨船・大砲・軍用器・並びに兵器の類、その他要需の諸物を買い入れ、又は製作をあつらへ、或いは其の国の学者、海陸軍法の士、諸科の職人並びに船夫を雇う事、意のままたるべし」
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 岩瀬は、開国消極派の大老井伊直弼に、英仏連合艦隊が迫っているとの情報を伝え、直談判に関する全権委任の言質を取り付けていた。
 ハリスは、岩瀬の求めに応じて、日米修好通商条約に日本に万が一の時はアメリカが助けるとの条文を書き加えた。
 岩瀬忠震は、進んだ西洋文明を吸収し、開国して貿易を盛んにして、近代的軍事力を付ける富国強兵策を主張していた。
 幕府が貿易の利益を得る為に、開港場を神奈川から江戸に近い横浜村に変更した。
 ハリス「井上、岩瀬の諸全権は綿密に逐条の是非を論究して余を閉口せしめることありき。……懸かる全権を得たりしは日本の幸福なりき。彼の全権等は日本の為に偉功ある人々なりき」
 幕府は、日米修好通商条約と同じ内容の条約をイギリス・フランス・オランダ・ロシアとも結んだ。世にいう、安政五ヶ国条約である。
 幕府が定めた「10両盗んでも死罪」という自国法は、国際法にそぐわない為に、相手国の法律で自国民を裁く領事裁判権を認めた。
 外国人の行動を開港場から10里以内(約40キロ)と制限し、それ以上の立ち入りを不可として自由を制限すれば、日本人との接触は避けられ、文化風習の違う外国人との事件は防げると判断しての事であった。
 横浜を川と堀で囲い巨大出島として、長崎・出島の様に外国人居留地内に閉じ込めれば問題はないと踏んだ。
 ハリス「第6条は、日本にあるすべてのアメリカ人に治外法権を設定したものである」
 アメリカは、自国の国益を最優先として行動していた。
 条約付属の「貿易章程」で、日本の輸出税は5%の一律課税とされ、輸入税は必要品は5%で贅沢品は最高税率の35%でそれ以外は20%関税と定められた。
 アメリカ製品の多くは生活の必需品として低率関税品とされ、イギリスやフランスの製品の多くが贅沢品かその他に入れられて高関税が課せられた。
 アメリカ資本は、国内産業の発展の為に、安定して輸出できる独占市場を必要としていた。
 関税自主権はなかったが、税関における輸出入品の価格決定権は日本に認められた。
 ハリスは、関税の撤廃の自由貿易主義者であった。
 日本には国際交易に通用する商法がない為に関税自主権を主張したが、日本の経済状況に鑑み、日本に比較的有利な税率20%を設定した。
 今、全要求をを撥ね付けて外国と戦争して敗北して占領されるよりも、不平等条約といわれても一歩下がって屈辱に耐えて、皆が頑張って将来に挽回すればよい。
 岩瀬や井上ら海防係担当役人は、国内で不満を持つ者が内戦を引き起こそうとも、清国の様に外国の侵略を受けるもましであると覚悟した。
 とにかく、日本の独立を守る切る事が最重要任務であった。
 江戸幕府は、清国ほど私利私欲で腐敗堕落してはいなかったし、自己過信で新たなものを学ぶ事を怠るほどの無能無策でもなかった。
 幕藩体制の役人は、中国や朝鮮の様に儒教教育を受け科挙(官吏登用試験)に合格した者がいなかっただけに、両国の様な無分別で強欲な貪官汚吏は生まれなかった。
 日本の民百姓は、儒教支配下に置かれた両国の人民の様に重税を課せられ生き地獄の様な悲惨な生活を送る事はなかった。
 正統派儒教は、「個」の利益を最優先する貪官汚吏を育成する学問であって、「公」として身分卑しく肉体を酷使して生きる人々を幸福にする学問ではなかった。
 理性や良心や善意を圧殺する教育の現状は、昔も、今も、将来も、変わる事は全くない。
 中国や朝鮮では、サムライ日本の様に自分を殺す様な道理は通用しない。
 サムライ日本は、現実を直視し、今何が重要であるかを見極め、どう行動すべきかを模索して前に進んだのであって、アヘン戦争を教訓としたわけではない。
 よって、日本は中国に感謝する必要は全くない。
 神道国日本にとって、中国は底が見えない漆黒の闇であり、近寄るべきなきでない魑魅魍魎の不気味な大地であった。
 それは、朝鮮でも同じであった。
 イギリスは、関税が20%〜35%に設定された事が不満であった。
 世界の金を支配するロンドンのユダヤ系国際金融資本は、ジャパンのゴールドを手に入れるべくイギリス政府を動かしていた。
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 岩瀬忠震は、優秀な外交官であっても、国際経済なかんずく国際通貨についての経済・金融知識は暗かった。
 ハリスは、その無知ぶりに唖然とし、持論の自由貿易論から日本に不利にならない通貨方法での交渉を試みた。
 だが。岩瀬忠震は、中国貨幣を室町時代までと南蛮貨幣を江戸幕府初期まで日本で流通させた前例を踏まえて、日本の貨幣の自由輸出と全ての外貨を国内で自由に流通を認めると宣言した。
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 日米修好通商条約において、最大の問題は通貨の交換比率であった。
 ヒュースケン「(天保)一分銀3枚は1ドル(洋銀1枚)より目方が軽いのだが、日本人は当地では1ドルと銀一分が等価であると主張する。そこでわれわれは買い物の値打ちの3倍以上も支払っている」「日本人はわれわれがいままでの3分の1しか支払わないので、アメリカ商品の値段も同率で下がると思っていた。彼等は3倍も高く請求していたのであって、アメリカ品はつねに正当なドル価で売られていることを理解できなかったのである」
 洋銀は、メキシコ産の銀貨で27グラム=7.2匁、品位89.9%であった。
 天保一分銀は、2.3匁、99%であった。
 純銀の量ではハリスの主張が正しかったが、問題は金銀交換率であった。
 日本:金一両  = 銀四分(銀9.1匁)
 米国:金一両分 = 洋銀4枚(銀25.6匁)
 銀三分=洋銀一枚にすると、洋銀を日本銀と交換し、さらに日本の小判に交換して、それを上海に持って行って洋銀に交換すると3倍になった。
 幕府側は、金の海外流出を懸念して、「銀一分=洋銀1枚」を主張した。
 だが、ハリスに押し切られて「銀三分=洋銀一枚」で条約を結んだ。
 懸念した通り、日本から大量の金流出が始まった。
 日本商人は、洋銀を信用しなかった為に日本国内では流通しなかった。
 外国商人は、貿易する事なく通貨の交換だけでボロ儲けした。
 日本の金保有率は急速に低下して、日本国内は大不況に見舞われた。
 イギリスの領事オールコック「かれらは突如として富くじで2万ポンドの賞金が当たってわめき暴れる狂乱状態になり……それはなにも貿易商にかぎったことではなかった入港したアメリカのフリゲート型艦が、これとおなじ流行病にとりつかれた。一士官は、ただちに退職して一隻の船を借り、会社を設立した。また同艦の他の士官の大半は、税関の好意で無制限に一分銀を供給されることを知って、(日本の)使節アメリカにつれてゆく任務などはそっちのけのありさまで、銀を金に換える有利な取引におおわらわであった」
 ハリスは、金の流出が結果的に対日交易を妨げる事になるとして、金銀交換比率を国際標準に近付ける事を幕府に勧告しました。
 反井伊大老の一橋派や尊皇攘夷派は、「違勅調印」であるとして日米修好通商条約に猛反対した。
 9月(〜59年) 安政の大獄。井伊大老は、将軍継嗣問題で、一橋慶喜を将軍に擁立しようとした水戸斉昭や故島津斉彬松平春嶽開明改革派を攘夷派として弾圧した。 
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 歌川広重(1797年〜1858年9月6日)本名・安藤鉄蔵。江戸の定火消しの安藤家に生まれ家督を継ぐ。
 広重の浮世絵は、ゴッホやモネなどの印象派画家に影響を与えた。
 辞世の句「東路に筆をのこして旅の空 西のみくにの名所を見む」
 辞世の歌「我死なば 焼くな埋めるな 野に捨てて 飢えたる犬の腹を肥やせよ」
 日本人の死生観・人生観は、般若心経の「色即是空、空即是色」で、物質的な世界には関心が薄く、物に対する執着もなく、有る物や眼に見える物は一切が空・無と割り切っていた。
 神道・仏教による宗教観から、死後の肉体・遺体・遺骨を粗略に扱う事を嫌がったが、それ以上に魂や霊魂を大事にした。
 町人は、祖先から受け継いだ土地や財産を持っていなかっただけに、武士や百姓とは違って遺骨を納める墓に対する関心が薄く、敢えて祖先を弔う墓や位牌も持とうとはしなかった。
 百姓は、定住者として、祖先から受け継いだ家と田畑を所有し租税を払っていた。
 定住者でない町人は、土地を持たず租税を納めないだけに御上の助けを得られず、自分が身に付けた才覚や技能で家族を養って生活していた。
 包丁一本を晒しに巻いて、日本各地でを巡って修行を積んで一人前の板前になった。
 庶民の、8割が土地に拘る百姓で、1割が土地に拘らない職人・町人であった。
 町人にとって、「ゼロで生まれてゼロで死ぬ」のが当たり前で、所詮、無縁仏としてこの世から消え去り、人々の記憶から忘れ去られるだけでると諦めていた。
 そうした庶民の「人生への諦め」が、一度の人生、日々の暮らしを楽しんで笑い飛ばそうという底抜けに明るい脳天気な日本の文化や芸能を生み出した。
 庶民は、自分達はたいして賢くも偉くもなく、面倒な事よりも易気に尽きやすい事を知っていた。
 ゆえに、正義の人でも義理堅い人間でもない事を自覚していた。
 その分だけ、なるべくなら正しい事をして悪さをしない事をしないように心掛けた。
 庶民生活では、中国や朝鮮のような祖先崇拝という儒教価値観もキリスト教のような絶対神の奇跡も無縁で、自分と家族の現世利益の信仰のみが存在していた。
 人はもちろん全ての生き物は、輪廻転生し、新たな命を得てこの世に生まれ来ると信じていた。
 新たな肉体を得て生まれ変わる以上、年をとり使い物ならなくなった肉体に関心がなく、その後の遺体や遺骨にも関心がなかった。
 死に当たって恋人や夫婦や親子は、死んでも来世、別の世の何処かで生まれ変わってまた会おうと誓う。
 キリスト教が日本人の間に広まらなかったのは、死後の世界への恐怖から極楽浄土を夢見たが、死後に絶対神の恩寵で永遠の命を得て永遠に存在するという事が理解できなかったかである。










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ヒュースケン日本日記 1855~1861 (岩波文庫)

ヒュースケン日本日記 1855~1861 (岩波文庫)