🌏11)─1─消された公議輿論派の明治維新。松平春嶽・横井小楠らの積極型開国論。~No.35 @ 

維新史再考―公議・王政から集権・脱身分化へ (NHKブックス No.1248)

維新史再考―公議・王政から集権・脱身分化へ (NHKブックス No.1248)

  • 作者:三谷 博
  • 発売日: 2017/12/23
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本を救ったのは、民族固有の伝統・文化・宗教の天皇制度であった。
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 歴史は繰り返されるのか?
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 勝者が歴史を書くのは、何時の時代でも、如何なる国においても、同じ事である。
 日本だけが例外ではない。
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 日本民族日本人は、民族宗教から死体と血を穢れとして嫌い、いがみ合って争う事嫌い、意味のない血を流す事を嫌った。
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 日本は、古代から、周辺諸国反日派敵日派で、親日派知日派は存在しなかった。
 中華(中国・朝鮮)世界との友好関係などはなかった。
 周辺諸国親日派知日派とは、中華帝国(中国)に滅ぼされた百済高句麗・古代新羅渤海などであった。
 日本にとって中華(中国・朝鮮)とは、敵もしくは仮想敵であった。
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 2018年4月号 中央公論「王政復古から150年 誤解だらけの明治維新
 政治
 対談 薩摩と長州だけが偉いのか 
 『佐幕』『勤王』の対立史観はもうやめよう  苅部直×三谷博
 ギャップの源はどこにあるのか
 三谷 昨秋、僕もメンバーの一人になっている高大連携歴史教育研究会が、日本史・世界史で大学入試に出す語彙を制限することを提案しました。そうしたら、『坂本龍馬が教科書から消える』と新聞報道されて大騒ぎになりました。
 苅部 歴史を冷静に眺めれば、龍馬なんて大きな政治運動の駒にすぎませんから、消して当然でしょう。みんな維新の志士が大好きですが、薩長土肥の志士が下から突き上げて王政復古お導いたという『維新』観がまず間違っている。
 三谷 その通りです。幕末に政治体制の改革を求めた最初のグループは下級武士などではなく、御三家の水戸や越前松平をはじめとする大大名たちです。幕府は老中から大大名を排除していたので、彼らは誇りと実力を持ちながら、発言権が与えられていなかった。
 苅部 一般に流布した歴史のイメージと、歴史学の常識とのあいだに大きなギャップがある。司馬遼太郎の小説に見えるような、俗流の『維新』史観が広く流布した始まりは、昭和初期の明治維新ブームでしょうね。昭和3(1928)年、明治維新60周年の年に、11月3日の明治天皇の誕生日が明治節として初めて大規模に祝われ、一週間後の昭和天皇の即位礼とあわせて、全国でイヴェントが続いている。高知の桂浜に坂本龍馬銅像が建ったのも同じ年です。
 三谷 子母沢寛の『新選組始末記』が刊行されたのも昭和3年ですね。維新の志士の敵役として新選組がクローズアップされました。その背景には、明治後期から政府による『維新史料』の編纂が進められていたことがあります。しかし、明治期は数多くの旧大名家にまだ発言権があって、正史を作れませんでした。ようやく正史『維新史』全5巻が刊行されたのは第二次世界大戦中のことですが、そのときですら、当時の執筆者たちは薩長の自慢話をいっぱい聞かされて辟易したらしい。この『維新史』を今、誰が参照しているか定かではありませんが、それでも僕たちの歴史観は影響を受けている。『維新史』に登場する藩の順は、水戸藩長州藩薩摩藩。でも、僕が『維新史再考』でも書いたように、幕末動乱の端緒といえば安政5年政変に長州は登場しません。それを吉田松陰の存在を理由に、薩摩より長州を先に持ってくる、この暴挙。こうして、現在の多くの人が信じ込んでいる枠組みができていったことがわかります。
 苅部 伊藤博文山県有朋は、昭和初期にはその功罪の記録がまだ生々しかったでしょうね。だじゃら早く死んでいる吉田松陰高杉晋作が持ち上げられた。
 三谷 吉田松陰なんて、幕府から見れば、田舎に怪しげな奴がいるから一応糾問しておくか、という程度の存在で、黙っていればいいのに、自分から間部詮勝暗殺計画を口にするから殺された。殺されてからすごい人ということになった。
 大きな誤解と言えば、時代を少し下りますが、慶応3(1867)年、幕末最後の年ですが、この頃の対抗関係が『佐幕』対『勤王』の二項対立で語られていて、これが大きな間違いです。実際には、大政奉還の後、王政復古を徳川中心で行こうという勢力と徳川排除で行こうという勢力の二つに分かれ、競争したのです。それに、『公武合体』とい言葉も誤解を招きやすくて、僕が昨年『維新史』全5巻を通読してわかったのは、尊王攘夷尊王倒幕グループ以外のあらゆる勢力を、すべて『公武合体』派と名づけていることです。構成の仕方が実にいい加減。
 苅部 徳川と朝廷との協力を否定する勢力などいませんからね。
 三谷 僕はこの時代の重要なスローガンがもう一つあるとしたら、『公武合体』ではなく、『公議輿論』『公議公論』だと思いますね。
 苅部 政治の政権中枢にいる少数の集団が専決するのではなく、より広い範囲の人々が加わり、議論して進めるべきだという考え方ですね。
 三谷 大大名の政権参加を求めるスローガンとして登場しますが、これはやがて明治の立憲君主制を経て、現在のリベラルデモクラシーにつながっていくのです。
 先駆者・橋本左内横井小楠
 苅部 先生は橋本左内の役割を以前から強調されていますね。
 三谷 僕が明治維新のイメージを作ったのは、岩波の日本思想体系で佐藤誠三郎先生が編纂された『幕末政治論集』です。佐藤先生のフレームワークから出発して、自分なりに史料を読んでいったのですが、同じ思想大系に『渡辺崋山 高野長英 佐久間象山 横井小楠 橋本左内』という5人で十把一絡げの巻がある。この巻の橋本左内のところに掲載されている安政4年11月の村田氏寿宛ての手紙を読んだときはショックでした。これからの日本をこうしたい、という未来像が具体的に示されていたのです。将軍の跡継ぎを決め、水戸藩徳川斉昭福井藩松平慶永(春嶽)、鹿児島藩島津斉彬を国内事務宰相、佐賀藩鍋島直正を外国事務宰相にして、その補佐に旗本だけでなく日本全国から藩士・庶民を登用するなど、大名領国制のまま、身分を問わず、優秀な人材を抜擢し、集中することによって、政府の機能を飛躍的にアップさせる、と書いている。これは明治新政府が最初に統治機構について定めた『政体』第三条そのままです。誰も橋本左内が最初に考えたとは知らないわけですが。
 苅部 吉田松陰などよりもずっと先見の明がある。
 三谷 政界の中枢で、西郷隆盛と組んで一橋慶喜の将軍継嗣擁立工作を展開し、そのために安政の大獄で処刑されてしまった。こんな偉い人をどうして無視するのか。
 苅部 横井小楠は熊本の出身ですが、嘉永4年に各地を遊歴するあいだに大坂で、適塾に学んでいた橋本左内と会っています。そして安政5年、松平春嶽のブレーンになる。その直後に安政の大獄で処刑された左内と入れ替わりのような形です。小楠はその3年前に開国論に転じ、『公論』に基づく政治という理念のもとで、西洋の議会政治を高く評価し、日本への導入を論じるようになっていました。村田氏寿は小楠もまた親しく交流した人物で、小楠と左内のあいだに文通もありましたから、二人の議論の中の中で、広い範囲の『公論』に基づく政治のの構想がしだいに肉づけされ、それ以外の政治勢力にも広がったのではないでしょうか。
 三谷 横井は、世襲制を否定しなければならない、と書いていますね。これは幕末史ではまことに稀有の発言です。僕は松浦玲先生の『横井小楠』を三十数年ぶりに読み返して、松浦先生がすでにこれを指摘されていたことに気づいたのですが、君主の世襲を否定するということは天皇制の否定につながりかねない。
 苅部 小楠の漢詩にある『ああ血統論、是(これ)れ豈(あ)に天理の順ならんや』ですね。たしかにこれは世襲制に対する批判を述べたものです、人間の道徳能力が本来は平等だと説く朱子学の理想をつきつめた、小楠のラディカルをよく示しています。ただ、皇室制度を否定したかどうかは微妙でしょう。やがて新政府に参与として加わり、明治天皇の資質を礼賛する言葉を書簡に残していますから、天皇自身が世襲制に安住せず、立派な君主になろうと努力することを求めるという姿勢だったと思われます。
 三谷 なるほど、僕がつくづく不思議に思うのは、明治維新というのは、身分にかかわず人材を『引き上げる』ことに眼目があって、上を『引きずり下ろせ』ではないことです。同じ革命でも、フランス革命のような王制打倒といった動きをとらない。
 明治維新の中で真に重要な改革と言えば、僕は身分制の解体に尽きると思うのです。生まれた家によってライフコースが違ってしまうことを面白くないと感じた人は、潜在的にせよ、たくさんいたはずです。ただ、歴史家として困るのは、幕府がなくなるまで、そういうことを公に語った人がいない、あるいはそういう史料が残っていないということです。明治になってからなら、福澤諭吉の『門閥制度は親の敵』もそうですし、渋澤栄一回顧録で、農民の身として領主の代官に辱められ、それを機に倒幕運動を企てたと明かしています。でも、先ほどの横井小楠のように当時の史料としてそれが残っているのは非常に稀で、実証主義の立場から言えば、史料がない以上、身分制への不満があったとは断言できない。でも、どう見ても不満はあったに違いないと思うのです。少しさかのぼると、中国の科挙制度に関心を持っている人が少数ながらいたことがわかっています。寛政年間に朝鮮通信使が来て、京都の大きなお坊さんと会談したときの筆談記録が残っていて、その中でお坊さんが『科挙とは何ですか』と聞いている。有能を自負しながら地位に恵まれないと思っている人は、中国の制度のほうがいいと思ったに違いありません。
 苅部 福澤諭吉の『文明論之概略』も、明治維新をどう理解するかを大きなテーマにしていますね。我々は王政復古から廃藩置県まで、予定されたコースをたどったように考えてしまいますが、福澤はこの二つを連続したものと捉えていません。言い換えれば、尊王攘夷論が一連の政治変革の原因だったと考えていない。社会の上から下まで、身分制に対する不満が爆発寸前の状態になったところに『開国』問題が飛び込んできて、幕府が失態をさらすことで、そこに火がついた。そういう理解です。
 三谷 当時の武士たちは、子どもの頃からお上に楯突いてはいけないと教育されていたから、言いたくても言えない、ではなくて、言いたいということすら意識できなかったのでしょう。それくらい抑圧されていたところに外圧が来て、幸いにも上ではなく、横に爆発した。尊王も攘夷もいくら言っても構わなかったけれど、心の中にあったのは身分制の打破だったのではないか、そんな気がします。尊王は現実化しますが、そうならなかった攘夷は、実際には道具にすぎなくて、本当はどうでもよかっらんだと思う。本当『に』どうでもよかったと考えると、そこがまた大問題ですが。
 攘夷と開国
 苅部 『維新史再考』で、攘夷派だった長州の周布政之助も、実はいったん西洋と戦争したあとに開国すべきだと考えていたことを指摘されていますね。尊王攘夷のスローガンは、具体的に何をするのかわからないことで、かえってエネルギーを得たのかもしれません。
 三谷 イデオロギーとしての攘夷論は、水戸藩が源ですが、これには最初から開国への道筋がついていました。藤田東湖に『常陸帯(ひたちおび)』という回想録があります。書かれたのは1844年頃ですから、ペリー来航の10年ほど前になります。東湖はちょうど藩主斉昭の失脚にともなって幽閉・蟄居中でした。この回想録の中で、斉昭と我が藩の幹部は3種類の対外論を議論した、と。3種類とは、攘夷論と消極型の開国論と積極的の開国論です。斉昭も持論は攘夷論だったが、この3種類の中で一番良くないのが消極型の開国論で、外国とトラブルを起こすまいと、少しずつ譲歩する。これは臆病者の言いぐさであり、武士の風上にも置けない。これに対して、積極型の開国論、つまり日本から外国に船を出し、交易するのは本当は良いことだ。しかし、今の日本にはそれだけの力がない、だからまずは攘夷論だ。国力が高まったら、堂々と外国に出て行こう。水戸の攘夷論頭目がそう言っているのです。水戸藩の思想は、日本の武勇が世界中に知れ渡ることなのです。東湖の先輩・会沢正志斎は、日本をとにかく『必死の地』、戦場にすべきだと書いています。太平の世、ぬくぬくと生きていては駄目だ。ショック療法として、いったんは西洋と戦争をしなければ、日本は強くならない、と。
 苅部 そして強くなったあとで開国に持っていくのです。
 三谷 攘夷から開国への道筋は、トップリーダーたちのあいだで、あらかじめ考えられていた。長州藩が二度にわたって決行した攘夷戦争も同じ発想です。面白いのは文久3(1863)年5月の攻撃とほぼ同時に、伊藤博文井上馨がイギリス留学に出発していることで、矛盾しているようだけれど、後に備えて準備を始めていたわけです。
 苅部さんが『「維新革命」への道』で書かれたように、当時の大名たちは我々が思っている以上に、世界をよく見ている。たぶんあの時代は、みんな退屈していて、何か面白いことがないかと探していた。そうしたら日本の外で、歴史が動いていた。
 苅部 ヨーロッパ諸国の情勢も、『オランダ風説書』などで知っていますからね。アヘン戦争で中国が負けると、ああなってはまずいと真剣に論じている。
 三谷 ペリーが来たときのことを、よく『巨大な蒸気軍艦を怖れて』云々というでしょう。あれは嘘で、あんなちっぽけな船が何隻か来たって、怖れるわけがない。
 苅部 『太平の眠りを覚ます蒸気船』という、当時流布したとされる狂歌が有名ですが、それを詠んだ庶民にとってはたしかに驚きだったかもしれません。しかし公議の当局者はペリーが日本に向かっていることをすでに知っていて、対応を協議していました。もちろん長期的には、ペリー来航によって政局が動くことにはなりますが。
 三谷 当時の知識人も幕府の役人たちも、だからこそ、下手な戦はできないとわかっていた。でも、ここで興味深いことが一つあります。安政5年に老中・堀田正睦が対米条約の勅許を求めて京都へ行きます。これは失敗に終わるわけですが、このとき、勅許に反対していた岩倉具?が天皇に捧げた長大な意見書に、ここで戦争になっても日本は負けない、とあるのです。もちろん戦争になれば、あちこちが痛む。外国軍が日本に上陸して荒らし回るかもしれない。たとえそうなっても、外国は日本全体を支配することはできない。なぜなら、日本は大名の連合国家だから、一つ大名が負けても、他の大名が抵抗を続けられる。一カ所潰されてもそれで終わりにならない。楠木正成千早城のように戦争が長引くと、攻めている側が仲違いして、そのうちに引き上げるだろと。こういう理屈です。後にフランスやアメリカが朝鮮と江華島で戦ったとき、両国ともに戦闘では勝利を得ながら、結局引き上げましたから、岩倉の推論は確かなものでした。岩倉の場合は、こういった見通しがあって、条約反対とか攘夷とかを唱えたのだと思います。それを僕みたいに戦後教育を受けた人間は、ペリーをマッカーサーと同じだと捉えさせられてね。たまさか立ち寄った軍艦7、8隻と実際のオールマィティじゃ、比べようもないのですが。
 苅部 戦争をやっても大丈夫という自信は、日本が『武国』だという、徳川時代によく見られた自国意識に基づくでしょう。実際、東アジアで唯一の軍人政権でしたから。岩倉のような公家もそう考えているのが面白いですね。
 三谷 当時の侍たちは、負ける戦争はやりたくない。幕府としても、できるだけ争乱を避けたいと思っている。
 苅部 横井小楠安政2年に、中国の世界地理書『海国図志』を読んで西洋の政治・社会制度について知り、それを高く評価して開国論に転じました。しかし今のお話のように、最初から攘夷と開国を組み合わせて議論されていたのなら、その転換は当人たちにとって、それほど大きなものではなかったかもしれません。
 復古と進歩
 三谷 攘夷というスローガンと似ているのが復古という主張です。一方の側に振っておいて、いざとなったら逆に切り返す。これは革命のときには結構起きることで、攘夷と言っておいて開国、復古と言っておいて進歩。いったんは復古と言わないと人々が納得しない時代だったのだと思うます。理想の過去がかつてあったのだから、そこに戻ろう、というところに説得力があった。たとえば文久2年に幕府が軍制改革を行って西洋式の軍隊を作りますが、このときの将軍家茂の改革宣言は、江戸時代の初めに戻ろうというものでした。
 苅部 『王政復古』の号令も『神武創業の始め』に戻るというかけ声で、実質上は国家を一からやり直すという意味ですね。その改革の手段は西洋化でもありうる。
 三谷 理想の世といっても、神話的な世界を考えているわけではない。日本社会を具体的に西洋からの圧力に耐えられように変えていくために身分制を解体し、努力次第で誰もが偉くなれる世の中を作ろうとした。そのための道具は西洋から輸入したって一向に構わない。まあ、国学者たちは怒るでしょうが。でも、この復古が文字通り古代の制度に戻ることだとしたら大変で、神武創業がどんなものだったか、誰もわからない。イスラム圏のハディースのように具体的な規律があったら身動きがとれなかったでしょう。
 苅部 未来への進歩というスローガンは、改革のかけ声としての効果を、実は及ぼしにくいのかもしれませんね。未来はどうなるかわからないという常識が邪魔をしてしまうから。マルクス=エンゲルの『ドイツ・イデオロギー』でも、来たるべき共産主義社会の姿は妙に牧歌的です。『神武創業』のように、かつてあった状態への復帰を掲げたほうが、改革を強く正当化できるのかもしれません。
 三谷 昭和天皇も昭和21年の元旦に発表した詔書で、『五箇条御誓文』を引用しました。公論はGHQの押しつけではない、明治の初めから我々が行ってきた伝統なのだと。
 苅部 それで戦後の民主化の改革を納得した人も、少なくなかったでしょうね。
 注目すべきはどこか
 苅部 2018年に明治維新150年を記念するのではなく、むしろ2021年に廃藩置県150年を大々的に祝うほうが、日本の近代を考える上で有意義なのではないでしょうか。明治維新の重要な成果である身分制の解体を決定的にしました、近代国家としての中央・地方政府の枠組みも、廃藩置県によってできあがった。
 三谷 そうですね。二百数十もの小さな国家がそれぞれいがみあう状態だったのを一つにまとめたのは相当の力業です。廃藩の後、再雇用された武士は3分の1にすぎませんから、3分の2が失業したことになります。仮に今の日本で公務員の3分の2が失業したとしたら・・・。
 苅部 大変なことですね。
 三谷 廃藩ができたこと自体、運が良かったと思うのですが、それにしても廃藩が」なぜ可能だったのか、僕はいまだに説明に困ります。戊辰内乱という戦争がずいぶん貢献しているのだろうとは思います。ほとんどすべての大名がこの戦争に動員されて、資金繰りに困ったようになった。統治責任を逃れられるとホッとした面もあったのかもしれません。
 苅部 一種の革命のあとの反動として、大した争乱が起きなかったのも特筆すべき点です。いちばん大きなものは西南戦争ですが、やはり人心を広く揺るがすには至らない。
 三谷 まさにその通りで、フランス革命の場合、後のナポレオンの登場を、革命の延長と見るか、反動と見るかでも変わってきますが、その後、王政復古と共和革命が繰り返され、政治的に安定したのは第三共和制が始まってしばらくしてからになります。革命の発端から数えると、100年が経っています。その点日本は、1858年の安政5年政変から、77年、明治10年の西南戦争までを明治維新期と考えても、ちょうど20年間ですから、非常にスムーズに新体制に移行し、元に戻ることはなかった。なぜかと考えるときに、僕は幕末から公論というものが当たり前になっていて、しかも薩長だけでは人材が足りないから、他の大名、他の藩の出身者の意見も聞かざるを得なかったという、きわめて多元的な国家がもともとあったことに依存していると思うのです。西南戦争後に巻き起こった自由民権運動を政府が結果的に受け入れることができたのも、そのせいだと思います。
 もう一つの特徴は、革命の犠牲者が圧倒的に少ないということです。維新全体で3万人程度ですから、フランス革命の200万人とは二桁違う。そこにはいろいろな事情が考えられますが、当時の政治家ができるだけ暴力を回避しようとしながら行動しているのは間違いありません。西郷隆盛だってもちろん、ただの戦好きではないのです。
 しかし、明治維新の海外での評価がどうしてこれほど低いのか。
 苅部 海外といっても、アメリカと韓国・中国の日本研究に限られるのではありませんか。革命をやって近代化しても、君主が残っているのが理解できない。ヨーロッパだと受け止め方は違うでしょう。
 三谷 天皇制を帝国主義の源泉と捉え、1945年の結果をベースに歴史をさかのぼって、明治維新を批判するパターンもある。ただ、こういう発想は外国人だけを批判できません。最初に話したように、日本人だって、昭和初期の枠組みで明治維新を見てしまっている。
 苅部 天皇制国家の出発点という、明治以降の政府が流布させてきた『維新』イメージを、左翼の歴史学者も、昭和初期から共有してきました。そこが今の教科書にも残り、維新の志士や新選組が大好きな善男善女の『維新』観を支えているんですね。これを前提にすると、維新から昭和の戦争までが一直線につながってしまいます。
 三谷 明治維新はもう150年も前のことなのだから、もっと突き放して、分析的に見た上で、いいところがあれば学べばいいし、問題点を取り出して反省の糧にしてもいい。
 苅部 さらに言えば、1868年の『維新』だけ限定して興味を持つのはおかしいと思うのです。むしろ、その年から150年に及ぶ近代史の全体を見わたした上で、何を批判し、何を次の世代に残すべきなのかを議論していったほうが実り多いように思えませね。
 三谷 僕は戦後改革とあわせて議論したいし、各国の革命とも比較研究を続けたい。年齢からいって時間との勝負ですが。」
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 現代日本で第九条の平和憲法を奉ずる知的エリートは、武士・侍失格の武士道なき臆病者、幕末の消極型開国論者に似ている。
 嫌中国嫌韓国嫌北朝鮮現代日本人は、乱暴に言えば、幕末の排他的攘夷論者と言うところかもしれない。
 消極型開国論や排他的攘夷論は、国を失い民族の生存を危うくする亡国の道である。
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 明治維新が、単なる開国による近代化であるならば、徳川将軍幕藩体制で十分対応できた。
 遠く離れたイギリスやアメリカの脅威に対する祖国防衛であれば、徳川将軍を中心とした新たな雄藩連合体制に改変すれば十分間に合った。
 問題は、北方領土蝦夷地(北海道)・樺太に迫ってきた隣国ロシアの脅威であった。
 ロシアの侵略から母国日本を守るには、国力を軍事に集中できる中央集権体制に急いで改革し、貧困と文弱で戦えなくなった1割弱の武士階級を諦め全ての国民を兵士に狩り出せる徴兵制を敷くしかなかった。
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 軍国日本の本土決戦思想は、幕末の京都で生まれた。
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 中国や朝鮮が採用した中華儒教科挙制度は、身分に関係なく国民全てに開かれた官僚登用試験ではなく、特定の身分、中国なら読書人階級、朝鮮であれば両班階級だけに与えられた権利であった。
 つまり、聖人君主になる素質のある家に与えられた権利であった。
 中華儒教では、家が属す身分や階級は超えられない絶対的な存在であった。
 日本の身分制度の崩壊に伴う下層民出身の政治家・高級官僚・上級軍人に対し、中国は理解を示して受け入れたが、朝鮮は生理的に拒否反応を起こして拒絶した。

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明治維新を考える (岩波現代文庫)

明治維新を考える (岩波現代文庫)

  • 作者:三谷 博
  • 発売日: 2012/11/17
  • メディア: 文庫
戊辰の内乱―再考・幕末維新史

戊辰の内乱―再考・幕末維新史

  • 作者:星 亮一
  • 発売日: 2006/07/01
  • メディア: 単行本