🏞63)─1─名門譜代大名本多利長は不行跡や過酷な藩政を布いたとして改易された。~No.264No.265No.266 

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 2024年4月19日 MicrosoftStartニュース ダイヤモンド・オンライン「「将軍の命日」に吉原遊郭で豪遊、参勤交代も遊女同伴!?闇落ちしたエリート大名の末路
 小林 明
 元禄時代の絵師・菱川師宣が描いた『元禄画巻吉原之図』は、本多利長が通っていた時代の吉原遊女の姿を今に伝えている 国立国会図書館所蔵
 © ダイヤモンド・オンライン
 江戸時代には、10代の若さで藩主に就任したにもかかわらず「闇落ち」した大名がいる。その人物とは本多利長(ほんだ・としなが)だ。戦国時代から徳川家康に仕えた名家の子孫だが、圧政や女性問題が取り沙汰され、最終的には領地を取り上げられた。真偽は定かではないが、「参勤交代に吉原の遊女を同伴させた」などの疑惑もある。エリートから転落した利長は、いったいどういう男だったのかを追ってみた。(歴史ライター・編集プロダクション「ディラナダチ」代表 小林 明)
 地味ながら徳川家康
 支えた譜代大名の子孫
 「本多」の姓を持つ武将・大名といえば、忠勝(ただかつ)と正信(まさのぶ)が有名だ。二人は徳川家康に長年仕え、昨年のNHK大河ドラマ『どうする家康』でも主要人物だった。
 だが、同じく「本多」の姓を名乗っている大名の中から、のちに“問題児”が出た。それが本多利長だ。
 本多利長/国立国会図書館所蔵
 © ダイヤモンド・オンライン
 利長は遠江国静岡県西部)の横須賀藩を治めていたが、1682(天和2)年に改易処分(=領地を取り上げられること)を受けた。理由は「不行跡」(ふぎょうせき)、すなわち武士としての品性に欠けた行いが目立ったからだった。
 不行跡は13カ条とも23カ条とも諸説あるが、いずれにしても数が多い。文献に共通して見られるのは「圧政」と「女性関係」である。
 利長の系図をたどると、先祖は本多広孝(ひろたか/1528・大永8年〜1597・慶長元年)に行き着く。広孝は正信の分家筋にあたり、家康の父・広忠(ひろただ)に仕え、その後は家康に忠節を尽くした。忠勝・正信と比べ地味な存在だったが、三河一向一揆の鎮圧や三方ヶ原の戦いなどに出陣した記録もある。
 広孝の4代あとに生まれたのが、“問題児”の利長である。「エリート」と言える家柄の大名は、どのようにして転落していったのか? 次ページ以降で詳しく解説する。
 重税による領民の苦しみを
 理解できなかった若き殿様
 江戸時代に入ると、広孝の本多家は岡崎藩主を務めるようになった。
 岡崎は家康の生誕地である。徳川からの信任が篤い者でなければ入部(=治めるために入ること)する権利さえない重要な地だ。そこに1601(慶長6)年に赴くよう命じられたのが、利長の高祖父だった。石高は5万石だった。
 44年後の1645(正保2)年、利長は数え年11歳で家督を継ぎ、岡崎藩主となった。
 だが、わずか1年後に遠江国横須賀藩への転封(=配置換え)を命じられる。転封の理由を記す文献はないが、おそらく下記のような理由だと筆者は考える。
・本多家の後任として岡崎に入った水野家が「家康のいとこ」(母方)の末裔だったため、岡崎藩主としてはより適任だったから
・前横須賀藩主だった井上正利の妻が利長の父ときょうだいで、正利と利長は叔父と甥の関係にあり、横須賀藩主には適任だったから
 つまり、利長に落ち度があったわけではない。事実、横須賀藩も岡崎藩と同じ5万石であり、石高は維持されていた。
 まだ幼かった利長はその後数年、江戸にいた。横須賀に国入りしたのは1653(承応2)年、19歳のときが初めてだった。ここから異変が生じ始めた。
 名門の本多家は家臣が多かった。そこで利長は新たに武家地を造成し、同時に城の大々的な改造を断行した。書物『横須賀三社縁起私記』には、近世城郭としての横須賀城は利長の時代に整えられたと記されている(※)。
 ※『横須賀城学術調査研究報告書』(平成2年)を参照。
 だが、こうした「領地の整備」には負の側面があった。
 日本古城絵図『遠州横須賀城図』/江戸中期から末期の制作だが、二の丸など利長が整備した近世城郭が描かれている。この城郭を築く費用に領民は苦しんだ 国立国会図書館所蔵
 © ダイヤモンド・オンライン
 「自分は何も悪くない!」
 幕府の追及に徹底抗弁
 当然、費用は莫大だった。領民が労働に駆り出され、かつ重税を課せられたのは想像にかたくない。
 また、領内が水害に悩まされていたため、利長は大規模な堤防工事も行ったのだが、これも領民の負担になっていたと思われる。この工事に関しては防災上、評価する意見もあるが(※)、民にとっては労役と徴税を意味し、過酷だったはずだ。
 ※静岡県掛川市が2017(平成29)年に策定し、翌年に国土交通大臣などから認定された「掛川市歴史的風致維持向上計画」の資料には、この工事を高評価する旨が記されている。
 そんな折、幕府の巡検使が横須賀にやって来た。『寛政重修諸家譜』(寛政年間/1789〜1801年に江戸幕府が編纂した大名・旗本の記録)は、「さきに巡見使封地に至るのときも其はからひ御むねに違ひし」と記している。利長の巡検使への対応が適切ではなかったという意味である。
 『寛政重修諸家譜』の利長の条。青枠に「利長」の名がある 国立国会図書館所蔵
 © ダイヤモンド・オンライン
 巡検使とは、当時の5代将軍・徳川綱吉が、大名を監視するため諸国に派遣した役人である。そして不適切な対応とは、領民が利長の強引な政策を巡検使に訴え出たのを、「自分は何も悪くない」と抗弁したことを指していると考えられる。
 領民が「苦しい」と訴えているのに、利長は「そんなことはない」と突っぱねたのである。民の苦痛が、名門の若き殿様には見えていなかった。これが後々、改易のかっこうの口実を幕府に与えることになる。
 参勤交代にまで
 吉原の遊女を同伴!?
 加えて、利長自身の素行も問題視された。女性問題である。
 年齢を重ねて壮年期を迎えても不行状は治らず、特に吉原の遊女との醜聞が幕府の耳に入り、「武士にあるまじき」人物と警戒されていたようだ。
 利長の吉原遊びを記す文献は少なくない。
 『元禄画巻吉原之図』で描かれた吉原遊女 国立国会図書館所蔵
 © ダイヤモンド・オンライン
 「先祖の功をもって栄華に暮らすが、苛法を出して民を苦しめ、かつその性は淫胤にして、吉原の遊女に精出し、帰国の時は家来の妻と称し、参勤(交代)のときも連れてくる」(古今武家盛衰記)
 「陰で色町へ通い、そのうえ遊女を受け出した(身請けした)」(信陽城主得替記)
 「成長のあと行い正しからず」(西頚城郡[にしきびきぐん]郷土史料)
 遊女を身請けし、参勤交代だろうが帰国のときだろうが、つねに帯同させていたというのである。
 さらにはこんな一文もある。
 「延宝八年(1680)五月八日、家臣二人を連れ吉原に遊び、家綱公の薨去(こうきょ/死去)も知らず日を暮らし、夜になって知ったが登城もならず」(古今武家盛衰記)
 6代将軍・徳川家綱が亡くなった日、その死は在府(江戸にいた)の譜代大名に伝えられ、江戸城への登城令が発せられた。
 しかし、吉原で遊びほうけていた利長には、訃報が届かなかった。ようやく夜になって知ったが、もはや登城するには遅かったという。事実なら、すでに若くもない、40歳を超えた大名にあるまじき失態だった。
 なお、この登城しなかった件をはじめとした吉原の問題は、最も古い史料である『寛政重修諸家譜』には載っていない。ということは、後世に話を盛った可能性もある点に注意する必要があるだろう。
 『元禄画巻吉原之図』で描かれた吉原遊女 国立国会図書館所蔵
 © ダイヤモンド・オンライン
 利長が最後に移封された
 「ナゾの藩」とは?
 いずれにせよ、前述の圧政と巡検使の一件だけでも処分に値する。1682(天和2)年2月、ついに改易が言い渡され、横須賀の領地は召し上げとなった。
 ただし、そうはいっても家康に功のあった譜代の子孫である。お家お取り潰しは免れ、出羽国山形県)村山藩に移封(=他の領地へ移されること)となった。石高は5万石から1万石に減らされた。
 一方、移封された村山藩は、詳細が不明な藩だ。利長が改易された1682(天和2)年から1699(元禄12)年までのわずか17年間だけ存在し、消滅している。城もない。陣屋(=城を持たない大名の省庁)が実在したとしても、どこにあったかさえ分からない。利長が、本当にその地にいたかも定かではない。
 1690(元禄3)年頃に大名の評価を記した『土芥寇讎記』(どかいこうしゅうき)には、村山藩主・本多利長の名があり、横須賀藩主時代と違って民にも心を寄せたと記している。だが村山藩は、本多家の面目に鑑みて、幕府が「便宜上」立てた可能性がある。藩としての実態はなかったのではなかろうか。
 それゆえ利長死去(1692/元禄5年)の7年後、あっけなく消滅した――最初からそうした目的の藩だったと考えた方が理屈に合う。
●参考文献
 『本多越前守利長家之覚書(書籍集覧第二百二十九)』国立国会図書館
 『古今武家盛衰記(国史叢書)』/国立国会図書館
 『信陽城主得替記』/国立国会図書館
 『寛政重修諸家譜』/国立国会図書館
 『掛川市歴史的風致維持向上計画』/掛川市
 『横須賀城学術調査研究報告書』/大須賀町教育委員会
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 水上の礎
 磐南平野の金字塔
 icon太田川と原野谷川の合流
 今も残る旧原野谷川の跡
 図3:1686年に描かれた
 古図による浅羽の推定図
 (参考:浅羽郷土資料館・近藤記念館のパネル)
 農民にとって最も恐ろしいのは何と言っても洪水でしょう。しかし洪水を避けて高い土地に水田を造れば、(ポンプでもない限り)水を引いてくることは不可能です。利水(水を引くこと)と治水(洪水から守る)は矛盾するのが常でした。
 この地に大規模な大地の改良が始まるのは、1604年に行われた太田川と原野谷川の合流からです。
 指揮した代官は徳川家康の家臣・伊奈備前守忠次。伊奈忠次は、家康とともに江戸に移ってからは、利根川の付け替え、運河や水路の開削など、当時、利根川の氾濫原に過ぎなかった関東平野を沃野に仕上げた天才技術者であり、今も関東各地には備前堀備前堤(忠次の官名)といった現役の水利施設がたくさん残っています。
 忠次は大きく蛇行していた原野谷川と太田川(前頁図1参照)をほぼ直線化し、この2つの川を合流させたのです。さらに仕切った川をため池として利用し、周辺や下流の村々の用水としています(図3参照)。
 浅羽大囲堤
 続いての改良は大堤防の築造です。
 この地域には「延宝の高潮」(1680年)と呼ばれる大惨事が伝えられています。このときの死者・行方不明は300人とも4000~5000人(『長溝村開発由緒書』)とも言われており、民家6000軒が流されたというも伝承もあります。大水害でした。
 当時の横須賀藩主であった本多利長は普請奉行の柳原十内に命じ、領内である浅羽をぐるりと取り巻く延長14キロの大堤防を造らせ、松も植えて道路として整備します(図3)。
 この浅羽大囲堤は昭和の土地改良事業によって次々と姿を消してゆきますが、近年までところどころにその痕跡が残っていました。
 余談ですが、この工事は長溝村(袋井市長溝)で中断されています。藩主の本多利長が「領内の政事よろしからず」という理由で改易されてしまったからです。
 柳原十内は「十内圦」など領内の整備に大きな功績を残していますが、大囲堤築造の中止の命を受け堤の上で切腹したと伝えられています。
 浅羽の掟杭堤
 現在の磐南平野
 この大囲堤は確かに高潮被害の防止には効果的でしたが、その後の浅羽地区の大きな紛争の種となります。
 浅羽の中ほどには「中畦堤」という東西に伸びる小さな堤防があり(図3参照)、この堤を境に上輪の村・下輪の村と分かれていました。この堤によって下輪の村は上流からの洪水を防げましたが、田や飲料水の水源を失うことになります。
 対して、上輪の村々は水の便は得ても、この中畦堤があるため常に悪水(排水不良)に悩まされ続けることになります。
 したがって、この堤の存在をめぐっては、過去に何度か争いがあり、江戸での裁判を仰いでいます。堤の高さは上流の集落と同じ高さになるよう決められ、堤防沿いに高さを記す26本の杭が設置されました。以来、この堤は「掟杭堤」と呼ばれるようになりました。古くなった杭の取替えは、12年ごとに上下集落の代表が集まり儀式のように厳密に行われました。
 昭和28年の水路工事で「掟杭堤」を取り払うことになった際にも、数百年という伝統を破るものとして紛糾し、新たな覚書を交わしています。
 浅羽地方は「浅羽一万石」と言われるほどの米どころでしたが、こういう農民の過酷な労働で支えられていたのです。
 命山
 大野命山
 図3には浅羽大囲堤の外に2つの村が描かれています。大野村と中新田村。地形的に堤防の内側に入れるのは無理だったのでしょう。
 「延宝の高潮」で大水害をこうむった2つの村は、独力でそれぞれの村に大きな人工の山、通称「命山」を造ります。
 大野命山は高さ3.5mの長方形で、頂上には270人が避難可能。また、より海に近い中新田村の命山は高さ5m。頂上には130人が確保できたとのことです。
 その後の高潮では命山に避難し、舟で対岸の横須賀から食料を運んだり、潮が引くのを待ったりしたことが記録に残っています。
 いずれにせよ、平野下流に生きる農民は、何百年にわたって筆舌に尽くしがたい苦難を強いられてきたのです。
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 ウィキペディア
 本多 利長は、江戸時代前期の大名。三河国岡崎藩の第4代藩主、遠江国横須賀藩主、出羽国村山藩の初代藩主。官位は従五位下・越前守。広孝系本多家4代。
 生涯
 岡崎藩の第3代藩主・本多忠利の6男として誕生。正保2年(1645年)、父の死去で跡を継ぐ。このとき、岡崎藩6万石のうち、5万石を継いで、残りの1万石は兄・助久と弟・利朗に分与した。同年6月27日、遠江横須賀へ移封される。しかし天和2年(1682年)2月23日、不行跡や過酷な藩政を布いたとして改易された(本多政利の改易に連座したとも)。後に改めて、出羽村山郡内に1万石を与えられている。
 村山移封後の利長について『土芥寇讎記』では、「昔の統治は悪かったが、今はいい」「領地召し上げ(村山移封)のあと行状が良くなった」と記されている。
 元禄5年(1692年)12月16日、58歳で死去し、跡を甥で養嗣子・助芳(本多助久の次男)が継いだ。
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