⚔16)─1・B─南蛮貿易が日本に持ち込んだのはキリスト教、火縄銃、梅毒・疫病である。~No.60 

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 徳川幕府鎖国政策とキリスト教弾圧には、宗教・健康そして安全保障上の正当な理由があった。
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 2023年8月5日 MicrosoftStartニュース PRESIDENT Online「進行すると鼻が落ちて顔が崩れる…家康は南蛮貿易で上陸した「性病」を恐れて遊女には近寄らなかった
 本郷 和人
 岳亭作『妓王』(写真=CC0 1.0/Wikimedia Commons)
 © PRESIDENT Online
 教科書の年表に載っていることだけでは歴史の真実はわからない。日本史研究者の本郷和人さんは「日本における恋愛文化、性愛文化はどんなものだったか。例えば中世から近世の入り口である戦国時代にかけては、遊女の立場がある性病の登場によって転落し、家康の息子ら戦国武将の運命をも変えてしまった」という――。
 ※本稿は、本郷和人『恋愛の日本史』(宝島社新書)の一部を再編集したものです。
 鎌倉時代までの遊女は天下人の母にもなれた
中世における女性の力というものを考えたとき、より外部的な存在でありながらも、ある種のワイルドカードのような力を持っていたのが、遊女たちでした。母親の実家、つまり母親の出自が重視された時代にありながら、遊女たちは出自に関係なく、権力者に気に入られれば、こうした身分秩序を一足飛びにして、大きな影響力を持つことができたのです。そのため、貴族の跡取りで、母親が遊女だったという例は少なくありません。
 源義朝の長男である源義平は、いわゆる「悪源太義平」と呼ばれる武士で、彼の母親は三浦半島の橋本宿にいた遊女だと言われています。
 そうなると、頼朝の兄弟たちというのは、長男の悪源太義平の母は橋本宿の遊女。次男・朝長の母は相模国の有力武士の娘、そして三男の頼朝の母は熱田大宮司の娘、というように、遊女・武士・貴族とそれぞれ違う身分の母を持っていたということになります。この場合、結局、貴族の娘を母に持つ頼朝が、三男ながら後継に選ばれているのですから、遊女を下に見る向きもあったとも言えますが、それでも遊女の子が跡取りとなった事例もあります。
 たとえば、従一位太政大臣にまで出世した、れっきとした貴族である徳大寺実基は、母が遊女(白拍子)だったとされていますし、平清盛に至っては、白河法皇白拍子の間に生まれたご落胤だったという説もあります。
 このように近世以前の遊女というのは、現代で言えば芸能人に近い存在で、歌や踊りに秀でて、その上、美貌を持っているという特別な才能を有する人たちだと考えられています。いわば、実力でのし上がってきた女性たちなのです。
 平清盛白拍子をチェンジした有名なエピソード
 『平家物語』のなかでは、平清盛祇王という遊女を世話して、屋敷に住まわせている様子が描かれています。そこへ仏御前という別の遊女がやってくるのですが、清盛としては自分にはすでに祇王という愛人がいるわけで、仏御前を屋敷から追い出そうとします。
 しかし、同じ遊女の祇王が情けを見せて、そんなことを言わずに歌を聴いてやってくれ、踊りを見てやってくれと懇願したので、清盛は仏御前に芸を披露させたのです。すると、その素晴らしさに清盛は心変わりして、仏御前を屋敷に置き、今度は祇王に対して「出て行け」なんて言う、とんでもないエピソードです。
 中世の遊女には現在の芸能人に近いステイタスがあった
 そうして、祇王は泣く泣く清盛の屋敷を出ていくわけですが、そんな祇王を周囲の貴族たちが次々に口説きにかかるわけです。ところが祇王にはもうそんなことはたくさんだと、貴族たちの申し出を断ってしまう。やはりそこには清盛に対する一途な思いがあったのかもしれません。
 あるいは「平家にあらずんば人にあらず」とまで称されるほどに栄華を誇った、平家の長である清盛の寵愛を一度は受けた自分であるから、そこらの貴族に靡(なび)くわけにもいかないという女のプライドもあったのかもしれません。そこで祇王は仏門に帰依したのでした。
 それだけ、やはり当時の遊女というのは、遊女としての誇りを持っていたのだろうと思います。
 中世の遊女は社会的な認識においても、自己認識においても、ある種の高貴さを漂わす存在としてあったわけですが、それが近世以降になってくると、どちらかといえば蔑まれる職業・対象としての色合いが濃くなってきます。
 西洋から梅毒が入ってきて、遊女は蔑まれる存在に転落
 中世の遊女と近世以降の遊女を隔てる決定的な違いは何かというと、中世の頃にはまだ生命に関わる性病、具体的には梅毒が存在しないことが、非常に大きかったと思われます。
 梅毒がヨーロッパにもたらされたのは、コロンブスアメリカ大陸に到達した1492年以降のことです。その後、戦国時代に入って南蛮貿易を通じ、西洋人の往来が始まると、たちまちに日本でも梅毒が広まっていったのでした。
 つまり、中世においては梅毒の心配は全くない。性愛を謳歌するという意味では、病気の恐れがないという点は非常に大きなことだったろうと思います。また、梅毒は末期になると梅毒の菌が体を侵し、鼻が落ち、顔が崩れてしまいます。見るからにひどい姿になってしまう。だから遊女のような職業に就いている人間は罰当たりなんだというふうに差別意識を持って言われるようになったのは、梅毒が日本にやってきた戦国時代以降、とりわけ近世に入ってからのことなのです。
 用心深い徳川家康などは、病気を恐れて遊女との接触を自らに禁じていたといいます。逆に言えばそれ以前、中世の遊女には、梅毒によって顔が崩れたりということはありません。それゆえに、男女は性を謳歌し、遊女は高貴な人間たちから慕われ、氏素性が知れないにもかかわらず、玉のこしに乗るなんていうこともあったわけです。そして、そうした遊女というのは、自らに対してある種の誇りを持っていた存在だったと言えます。
 梅毒は家康の次男・結城秀康ら戦国武将の運命を変えた
 戦国武将は男色ばかりでなく、遊女とも関係を持ったことでしょうけれども、南蛮貿易の始まる戦国時代以降、日本に梅毒がもたらされています。そのため、戦国武将でも梅毒が原因で亡くなった者も少なからず存在します。
 たとえば、徳川家康の次男である結城秀康は最終的には梅毒で亡くなったとされています。梅毒の末期症状である鼻が欠けるところまで、病は進行してしまったそうです。先述したように、家康自身は梅毒を恐れて、決して遊女には近づかなかったと伝わります。
 また、私が驚いたのは、豊臣秀吉の軍師であった黒田官兵衛(如水)も梅毒だったのではないかとされていることです。軍略に優れた天才的な武将であると同時に、キリスト教を信仰し、茶を嗜む文化人で、極めて合理的な思考の持ち主でした。キリスト者なわけですから、一夫一婦制を守り、側室は持たずに正室だけを生涯大切にした、現代的な教養人だと私は考えていました。
 頭脳明晰な黒田官兵衛も実は梅毒に冒されていたか
 ところが、どうやら彼は梅毒持ちだった。頭巾を被った肖像画が残されていますが、これは梅毒の腫れ物を隠すために被っていたのではないかとも言われています。
 ご存じのように梅毒は病気が進行するとやがて、脳が侵され、錯乱して怒りっぽくなったりするなど感情の起伏が強くなり、情緒が不安定になるというような症状が現れると言われています。仮に黒田官兵衛が梅毒だったとすると、晩年の黒田官兵衛のエピソードも納得させられてしまうのです。
 官兵衛は晩年、非常に怒りっぽくなり、家臣を突然叱責したりしたそうです。以前の官兵衛はむしろ、合理的に物事を指摘したり、優しく諭したりするようなタイプだったので、まるで人が変わったかのようになったのです。
 家臣たちは官兵衛の異変を、息子の黒田長政に訴えます。長政は父に、「いったいどうしたのですか」と尋ねたところ、官兵衛は自分がわざと乱心することで、家臣の忠義が現当主である長政に向くよう芝居を打ったのだと答えました。あえて家臣に冷たくあたり、代わりに長政を守り立てるように仕向けたというわけです。
 黒田官兵衛から手紙をもらった前田利長も梅毒患者
 優れた策士であった官兵衛ならではのエピソードなのですが、これが梅毒に冒されていたのであれば、話は変わってきます。つまり、梅毒性の錯乱によって、怒りっぽくなっていただけだったということになるわけです。また、官兵衛は梅毒の治療に水銀を服用したことで、水銀中毒にかかっていたという話もあります。
 前田利長(利家とおまつの方の長男。この人も梅毒を患っていた)に宛てた手紙のなかに、近頃は水銀を服用しているので調子がよい、という文言があるのです。
 加賀藩の初代藩主となった前田利長は、織田信長の娘を正室にもらっています。つまり、主君の娘を嫁にする形になるわけです。その場合には、側室は持てないという暗黙のルールがあり、前田利長には側室がいませんでした。それも利長が世継ぎに恵まれなかった要因のひとつだったのかもしれません。
 しかし、どうやら利長は側室を持てない鬱憤を遊女で晴らしていたようで、結局、梅毒をもらってしまったようなのです。その病気を理由に結局、利長はその後は女性と関係することができなかったようなので、やはり世継ぎは生まれなかったのではないかとも言われています。

                    • 本郷 和人(ほんごう・かずと) 東京大学史料編纂所教授 1960年、東京都生まれ。東京大学・同大学院で日本中世史を学ぶ。史料編纂所で『大日本史料』第五編の編纂を担当。著書は『権力の日本史』『日本史のツボ』(ともに文春新書)、『乱と変の日本史』(祥伝社新書)、『日本中世史最大の謎! 鎌倉13人衆の真実』『天下人の日本史 信長、秀吉、家康の知略と戦略』(ともに宝島社)ほか。 ----------

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