💄26)─1─鎖国時代の長崎は蘭学者と遊女による自由で豊かな町であった。〜No.54No.55 ④ 

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 2021年12月号 Hanada「西山清史の今月この一冊
 『長崎丸山遊廓 江戸時代のワンダーランド』 赤瀬浩著 講談社現代新書
 江戸時代、長崎は狭く貧しい港町だった。外国との貿易港としてにぎわったものの、その富は京、大阪の大商人の手に渡り、地元に落ちるのはわずかな手数料のみ。かくてはならじと、江戸草創期にあみだされたのが丸山遊廓だった。頭の上を通り過ぎていく富のいくばくかを遊女によって奪い取り、長崎の町を潤(うるお)そうと考えたのである。そんな事情もあって、長崎の遊女たちは遊廓内に囲い込まれることもなく、外部との出入りは自由、親元にも通え、何より、地域社会の一員としての意識が顕著だった、と著者は指摘する。
 だから遊女は長崎の出身者でなくてはならず、市中、近郊の貧家から集められた。10歳から25歳まで100万円(以下、現在の金額で記述)の身代金を背負って奉公し、年季があけたら実家に帰り、結婚し子育てもした。地域の住民たちも彼女たちに対しては非常に寛容だったという。
 本書のなかで刮目(かつもく)するのは彼女たちの稼ぎっぷり。そりゃ、みんな寛容だったろうよ、と思うような豪快なエピソードがいろいろ書かれている。遊女たちがターゲットに狙い定めたのは、当然ながら貿易で大稼ぎしている唐人(とうじん)とオランダ人。元禄元年のころには、5万人の住民以外に1万人の唐人が長崎に住んでいた。唐人屋敷に住む彼らのもとに遊女たちは通い、揚代({あげだい}遊び代)以外にたくさんのプレゼントを貰った。
 通常は日用品や着物や生地などだが、唐人のなかには砂糖を大量に贈るつわものもいた。それも10キロや20キロではない。貿易船はバランスをとるためにバラストという重しを積むが、東南アジアで砂糖をしこたま安く買い込んでバラストにして長崎にやってくる。遊女『夕梅』と『萩ノ戸』がそれぞれ、1.2トンの砂糖を贈られたことが記録に残っている。大陸的というかなんというか。換金して915万円の収入になったという。身代金など一挙に返済できる額である。唐人たちの散財が遊女だけでなく、長崎全体を潤したであろうことがよく分かる。
 史料によると、1731年の1年間でのべ2万738人の遊女が唐人屋敷に呼ばれ、2億5,000万円の売上があったという。
 オランダ人も負けてはいない。リンギスなるオランダ人は1年に290回、出島に遊女を呼び、450万円を支払った。1755年の史料に記されている。金力も精力もなかなかのものである。また、ある商館長は遊女20人ばかりを引き連れて茂木(もぎ)海岸へ遊びに行き、裸で泳いだ。その費用数百万円。大田南畝がこの大尽(だいじん)遊びを書き残している。
 もっとすごい話がある。幕府に献上しようと、わざわざ船に載せて連れてきた雌雄(しゆう)のラクダ2頭。しかしそんあものはいらん、と幕府が断ったため、ブロムホフ商館長はなじみの遊女『糸萩』にこの2頭を贈ったのである。糸萩も困惑しただろう。結局、香具師(やし)がラクダを買い取ることになり、1,000万円近くが彼女の手元に転がり込み、一躍憧れの女性になったという。
 当然ながら、遊女が子供を産むことも少なくなかった。あのシーボルトは子供を産ませた遊女『其扇』に3,000万円渡し、その運用金が毎月30万円入るように手はずを整え、またある商館長は息子・丈吉に預け、成人後は役人に取り立ててもらうように頼み込んでいた。
 そんな丸山遊廓も、残念ながら明治維新を契機に雲散霧消(うんさんむしょう)。いまでは影も形も残っていない。本書は様々な史料を縦横に引用しながら、まことにユニークな存在だった丸山遊廓の様子を詳細に再現して見せてくれる。」
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 江戸時代。男女の性交渉(セックス)は、愛情ではなく、秘め事ではなく、夫婦の信頼関係の証であり、子供を産み事、生きている喜びの証であった。
 つまり、男女の性交渉(セックス)には愛も恋も関係なかった。
 ただし、武士社会では、不義密通・不貞行為は許されず、発覚すれば「死(切腹・上意撃ち)」が強要された。
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 日本の遊女・花魁や芸者は、朝鮮の妓生や中国の娼婦・踊り子とは違い、明るくそして逞しかった。
 当然、世界の売春婦・コールガールとも違い、石を投げられて逃げ惑う汚れた職業の売女(ばいた)ではなかった。
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 戦国時代。北九州から、日本全国から奴隷として集められた日本人は、中世キリスト教会や白人キリスト教徒商人によって船に詰め込まれて輸出されていた。
 中世キリスト教会は、キリシタン大名から寄進された長崎を教皇領として日本から分離独立させる為に東洋一の要塞軍港都市を造り、数十万人の日本人キリシタンで神聖騎士団を組織して異教徒の攻撃から教皇領長崎を防衛しようとした。
 豊臣秀吉は、長崎を取り戻すべくキリスト教禁教令を発し、奴隷として売られた日本人を可能な限り日本に連れ戻すように中世キリスト教会に命じた。
 中世キリスト教会は、キリシタン大名や日本人キリシタンでは秀吉には勝てないと判断し、日本のキリスト教化より明国(中国)への布教を本格化する為に秀吉の軍事力を利用するべく、長崎教皇領化断念・日本人奴隷交易中止・キリシタン弾圧黙認を受け容れた。
 豊臣秀吉は、中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人から武器弾薬を購入して唐入り、朝鮮出兵を行った。
 徳川幕府は、鎖国令でキリスト教を禁教として国外退去を命じ、奴隷交易とキリスト教布教を行ったポルトガルとスペインを国外追放とし、国内に潜伏した宣教師と日本人キリシタンを探し出して弾圧した。
 すべては、天皇民族宗教、そして日本国と日本民族を護る為の正当防衛であった。
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