💄25)─1─江戸文化とは女郎屋の遊女やお座敷の芸者による風俗文化であった。〜No.52 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 戦国時代の遊女の多くは、合戦場で行われた乱取りで連れ去られ奴隷として売られた女性であった。
 奴隷として売られた女性には、戦場近くに住んでいた百姓や町人はもちろん、戦に敗れた武家の女性もいた。
 奴隷とされた日本人は、中世キリスト教会や白人キリスト教徒商人によって外国に輸出された。
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 遊郭には、梅毒や淋病など性病=花柳病が蔓延していた。
 花柳病に罹る事は、いっぱしの遊び人の証とされ男達は自慢していた。
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 儒教は、男尊女卑、不純不潔は忌避すべきという教条概念から、身体を売る卑しい職業を生業とする遊女は「売女(ばいた)」であるという偏見と差別を日本社会に植え付けた。
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 日本の伝統的絵画の一つに「春画」があり、世界的に有名な浮世絵師や日本画家は技法を競いながら春画を制作し、新しい春画が売り出されたら人々は争って買っていた。
 親は、嫁に行く娘に春画を贈った。
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 2021年10月23日・30日号 週刊現代「江戸・吉原、京都・島原、長崎・丸山・・・
 本当に人権無視の世界だったのか、最新研究でわかった
 遊郭と日本人
 その豊饒な世界に分け入る
 武士は刀を預け、商人の権威も通用しない。桃源郷では、つねに三味線の音が響き、絢爛豪華な美女たちが微笑みかけている。そこでは、肉体的官能のみならず、今に通ずる日本文化もまた咲き乱れていた。
 肌うるわしく暖かく
 『江戸時代の遊郭は、現代にも影響を与える文化の基盤でした。遊女は高い教養を持ち、歌や三味線、生け花をたしなみ、年中行事も行い、豊饒な日本文化を継承してきた。大正、昭和のイメージから、単なる娼婦の集まる場所と考えるのは、誤解です』
 法政大学前総長で、10月20日に『遊廓と日本人』(講談社現代新書)を刊行する田中優子氏がそう語るように、江戸期の遊郭はいわゆる風俗街とは異なり、多様な文化の発信地・継承地となった。
 遊郭の世界に分け入ることは日本人が培ってきた文化を学ぶことである。最新研究の知見も交えつつ見ていこう。
 風俗は世界最古の職業とも言われるが、日本でも古くは万葉集に遊女が登場する。各地に点在していた遊女たちを集めて遊郭をつくり、それを公認するという考え方が生まれたのは、江戸時代のことである。
 『江戸幕府が開かれて30年ほど経つと、鎖国や参勤交代などの独特の支配体制が整えられますが、遊郭の文化と様式もそのころにつくられました。幕府公認の遊郭は、大坂の新町、駿河の府中、安芸の宮島など全国に25ヵ所以上もあったんです』(田中氏)
 数ある遊郭の中でも最大の規模を誇ったのが、新吉原遊郭だった。日本橋から移転して置かれた区画(東京都台東区)には現在、風俗店が百数十軒ほど並んでいるが、その基盤目状の区画割りは当時からほとんど変わっていない。
 『畑の中に人工的につくられた、270m×360mの小さな町でした。吉原大門(おおもん)1ヵ所からしか入れず遊女たちを抱える遊女屋、客が予約や食事をする茶屋などが建ち並んでいました。客は茶屋で着替えや宴会をした後、遊女屋の2階に案内されて、遊女と床をともにしたのです』(田中氏)
 遊女屋(妓楼)には最上級の大見世から中見世、小見世という格の違いがあり、1軒の大見世は60~70人ほどの遊女と禿({かむろ}童女)を抱えた。
 吉原で働けるのは最長10年、27歳までという原則があった。遊女は1700年前後には2,000人ほどだったのが、文化・文政年間(1804~30)には5,000人ほどに増えたという。
 遊女は昼12時ごろまでに身支度を調えて待機する。そこから客を迎え始め、16時に一度休憩を取ると、日没後から再び客を取る。客と一晩をともにした場合は、夜明け前に見送った後に二度寝するという1日を送る。
 遊女が売れっ子になる要素はまずもって、『床上手』であることだった。
 たとえば、井原西鶴の『好色一代男』(1682年)に登場する野秋(のあき)という遊女──。
 『肌がうるわしく暖かく、髪が乱れるほどに夢中になり、腰が畳を離れて浮き、それがわざとらしくなかった。声をあげながら男が達しようとするところを9度も押さえつけ、どんなに精力強靭な男でも乱れに乱れてしまう。そして別れるときには優しい声で「さらばや」と言う。これが「床上手」の意味でした』(田中氏)
 また、大坂・新町遊郭を舞台にした『色道諸分難波銅鉦(しきどうしょわけなにわどら)』(1680年)には、『尻(けつ)を締めて、わが身を左右へゆる廻しさします。尻をしむれば、玉門しまる故により』と、肛門を締めて膣口を操る秘技を持つ遊女もいたという。
 客にも流儀があります
 客を惹き付ける遊女の技術は『手練手管』と呼ばれたが、高い教養もまたその一つであった。
 『遊女たちは着物の着こなしもうまく、三味線を弾き、踊りや能の舞も披露していました。性的なことだけではなく、高度に文化的なもてなしを求める客も多かったので、日本文化の体現者となることが遊女には期待されていたのです』(田中氏)
 馴染みの客がなかなか来てくれないとき、『会ひたく』ではなく、『会ひましたく』と書くと優しく感じられてよいというように、遊女は手紙の書き方まで研究していた。
 そんな吉原では、『良いなます』『参りんした』などの独特な吉原語が飛び交い、様々な年中行事も行われた。
 『正月に新春祝い、3月には桜まつり、お盆の季節には様々な芸術家がつくった灯籠が並べられて、街は美術館のように美しくなります。遊女は1年の循環、季節の象徴でもあったのです』(田中氏)
 客となる男にも、遊郭の流儀が求められる。遊女の品格に劣るまいと、髭は徹底的に剃り、体毛も抜き、ちょんまげをネズミの尻尾のように細くした。黒や藍のような地味な色の服着物を重ね、清潔感と渋さを強調した。男性性を消し去った格好が、江戸のダンディズムだというのである。
 ひとりの遊女と馴染みになると、他の遊女と遊んではならないという掟が客にはあった。他の遊女との『浮気』が発覚すると、馴染みの遊女は男の着物を脱がせて女装させ、罵詈雑言を浴びせながら、炭で顔に落書きすることさえあったという(『吉原青楼年中行事』)。
 最上級の遊女である『太夫(たゆう)』と宴会をして一晩をともにした場合、貞享・元禄年間(1684~1704)の記録では、一晩で10両(約100万円)という大金を払う必要があった。太夫と実際に遊べるのは、豪商や大名くらいだったのだ。
 『元禄時代の豪商、紀伊国屋文左衛門が吉原遊郭自体を貸し切ったとか、節分のころに遊女屋で豆の代わりに小判をまいたという伝説がありますが、その当時はバブル期のようだったんですね。当時最も贅沢なおカネの使い方は、吉原の豪遊でした』(『図説 吉原事典』の著者で作家の永井義男氏)
 花の魁、憂き世の道中
 豪遊のおかげで吉原は潤い、遊郭文化は隆盛を極めていくが、絶世の美女に溺れて地位を危うくした大名も数多い。
 たとえば、仙台藩の3代藩主・伊達綱宗は吉原の高尾太夫に入れ込んだが、いくら大金を投じても言いなりにならなかった。それでも綱宗の浪費癖はやまず、幕府から21歳にして隠居を命じられた(1660年)。その後、2歳の亀千代(綱村)が家督を継いでお家騒動へと発展していく。
 そんな吉原の男女模様は、江戸中期から洒落本(しゃれぼん)と浮世絵によって、世の中に知れ渡っていった。
 『浮世絵や錦絵には吉原の遊女が多く描かれ、今でいうアイドルやモデルの写真と同じような人気を誇りました。それを見た人々には、吉原が夢の世界に映った。江戸は日本一の観光地でしたが、男女問わず最も見に行きたい場所は、吉原だったんです』(永井氏)
 1760年代に太夫の位が消滅し、代わりに花魁(おいらん)が使われるようになった。『花のさきがけ』という意味だが、妹分の遊女や禿が先輩遊女を『おいらの(姉さん)』と呼んだことが語源という。
 遊女が客を迎えに禿たちと通りを歩く花魁道中は、観光客にとって最大の楽しみであった。
 幕府公認の遊郭でも、高尚な文化が栄えたのは、京都の島原遊郭下京区)だ。1640年、町の発展に伴い中心街から朱雀野へと花街が移転した。その移転騒動を、直前にあった島原の乱にたとえて、島原遊郭と称された。
 ここに実在したのが、有名な吉野太夫である。琴を弾き、和歌を詠み、茶を点(た)て、碁の相手もする才能の塊であり、一度座敷で一緒に過ごしただけで『もう思い残すことはない』と自殺した男性もいたという。
 幸せに生きた遊女たち
 江戸中期には島原俳壇が形成されるほど、詩歌・俳諧などが盛んにつくられていた。国際日本文化研究センター所長の井上章一氏が語る。
 『島原遊郭は、客同士の横のつながりもある文化サロンとしての役割も果たしていました。「処士横議」という言葉がありますね。身分的制約をこえて国事を談じ政局に関与しようとすることをいいますが、天下の情勢はどうなるとか、この地で勤王の志士たちが薩長や土佐との連携を議論したのです』
 幕末には新選組の宴会が開かれ、西郷隆盛久坂玄瑞などが軍資金調達のために豪商を招いて会議を行った。遊郭明治維新を準備する舞台ともなったのである。
 女性にとって遊郭は、親が抱えた借金などによって身売りされ、借金を返すまでそこを逃げ出せなかったという意味では、人権が無視されていた側面は否めない。
 だが、女性自らが生き生きと働いている遊郭も最新研究で明らかになった。幕府の公認を得た長崎の丸山遊郭長崎市)である。
 長崎新地中華街から東へ300mほどの丸山町と寄合町にかつて存在し、1692年には1,400人ほどの遊女を数えた。祭り『長崎くんち』は、ここの遊女が踊ったことがその発祥とされる。
 『長崎丸山遊廓』(講談社現代新書)の著者で、長崎市長崎学研究所長の赤瀬浩氏が語る。
 『遊女は親元から切り離された可哀想な人だとか卑しい職業であるという固定観念で、丸山遊郭を語ることはできません。ほとんどの遊女は実家と密に連絡を取り、出身地域の親族を養うために働いていました。長崎ではとても割りに良い仕事で、一攫千金のチャンスともなり、現在の価値で年間1,000万円以上稼ぐ遊女もいた。外国人を客に取ることが丸山遊郭の特徴で、遊女は出島などへ出かけていったんです』
 中国・浙江省から訪れた王鵬(おうほう)が書いた『袖海編(しょうかんへん)』によると、1731年の1年間で、アジア人が居留していた唐人屋敷に遊女たちが出入りした回数は2万738回、現在価格にして2億5,000万円もの売り上げがあったという。
 さらに遊女は客から、当時高価だった砂糖を大量に贈られ、それが本業を超える収入源にすらなった。
 『客は遊女に気に入ってもらおうと、カタカナを覚えたりひらがなを書いたりしています。中には三味線を弾いて浄瑠璃を習った人もいました。
 オランダ商館長ブロムホフは1821年、馴染みの遊女にラクダ2頭をプレゼントしました。この珍獣はその後、江戸に送られ見世物となり、空前のラクダブームを引き起こした。以来、体が大きくて鈍な者をラクダと呼ぶようになったとされています』(赤瀬氏)
 ひとしきり稼いで、遊女という仕事から離れた後、女性たちは再び地元に帰り、結婚して子育てする普通の生活に戻ったという。
 それぞれの土地で豊饒な世界を築いた遊郭も、明治期に入るとその姿を変える。1873年の制定で、遊女屋と遊女の関係が断ち切られ、自由意思で遊女が営業する形となった。遊郭は1958年まで存続するが、芸事は切り離され、『風俗店』の側面が強くなった。
 絶世の美に加えらて洗練された教養が花開いていた楽園はひっそりと消えていったのである。」
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遊廓と日本人 (講談社現代新書)
長崎丸山遊廓 江戸時代のワンダーランド (講談社現代新書)
図説 吉原事典 (朝日文庫)
カラー版 世界に誇る日本のアート 春画ベスト100 (宝島社新書)
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 日本の総人口は、1600年の徳川幕府開府頃は約1,600万人であったが1868年の徳川幕府大政奉還時では約3,000万人に増加していた。
 江戸時代は人生50年時代で、若者が多く老人が少なく、喜寿(77歳)まで生きる老人は稀であった。
 江戸、京、大坂などの大都市では、地方・農村で先祖代々の遺産分けを受けられない次男坊や三男坊などが仕事を求めてたえず流入して男性の人口は増えたが、対して女性の人口が増えなかった為に、結婚できず生涯を終える孤独な男性が多かった。
 その為、人口が少ない女性は大事にされた。
 結婚できない男衆は、稼いだ金を貯める事なく、女遊びとして遊郭の遊女、岡場所の飯炊き女、河川敷の夜鷹を買っていた。
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 日本女性の理想像として表現される手弱女(たおやめ)とは、明治以降の近代教育を受けた才色兼備で良妻賢母・貞淑の妻として夫に逆らわず付き従う従順な大和撫子の事ではなく、古事記日本書紀の天の岩屋神話に出てくる歌い踊って神々や人々を楽しませる天宇受売命(あまのうずめのみこと)のような遊女や芸者の事である。
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 江戸時代に幕府・諸大名が公認した「お上の遊郭」は、世界中、中国や朝鮮はおろか全ての国々にあった犯罪者が支配・経営・管理する売春宿・娼婦宿とは違っていた。
 そして、現代のキャバレー、スナック、ピンクサロンなどの風俗店とも違う。
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 日本の遊女や芸者は、朝鮮の妓生(キーセン)や中国の娼婦とは違う。
 江戸時代後期・幕末・明治維新、明治の近代化、大日本帝国として世界の五大国に押し上げたのは、ひとえに水商売で働いていた遊女や芸者の胆力や才智による所が大きかった。
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 遊女や芸者らは、恋した男の為ならば無私無欲と自己犠牲で支援・協力、後押して、日本の近代化と軍国主義化を短期間で成功させ、弱小国であった日本を奮い立たせて清国(中国)とロシアとの戦争に勝利させ、大日本帝国(軍国日本)として急成長させた。
 遊女や芸者の中から明治の元勲・重臣、政府高官・高級軍人の正妻となり、日本人女性を代表する鹿鳴館の貴婦人として外国の高官・外交官・軍人・商人を、高度な教養とダンスの名手として公式接待した女性もいた。
 水商売の女性を正妻にした代表が、長州の伊藤博文小作人出身)と木戸孝允御典医出身)、薩摩の山本権兵衛(下級武士)らであった。
 日本と世界が最も違うの、内助の功、縁の下の力持ち、そうした女性の立ち位置という点であった。
 日本の民族史には、歴史に残る表の男性の歴史を陰で動かした裏の女性の歴史が存在している。
 それが、皇国史観と言われる古事記日本書紀における皇室の国産み神話である。
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 明治時代のキリスト教は、女性救済と女性の権利向上の為に遊女の江戸文化を潰した。
 戦後のマルクス主義史観とキリスト教史観は、学界の権威で遊女の江戸文化を否定した。
 女郎屋・遊郭は女性の苦界であり、遊女・太夫(たゆう)・花魁は金で身体を売る売春婦・娼婦であった。
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 日本の標準語とされる現代日本国語は、明治時代に新しく作られた言語で、創作するさい江戸の遊女や芸者が使っていた風俗言語を参考に為て新語・造語がつくられた。
 風俗言語を意図的に改良し新設したのが山の手言葉で、風俗言語が時代と共に変化していったのが下町言語である。
 統一言語・共通言語として山の手言葉がつくられたのは、積極的自衛戦争に勝利する為に日本を近代化と軍国化するという国家戦略からであった。
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 260年間続いた天下泰平の江戸時代は、人口爆発とヒト・モノ・カネの移動が激しく、社会は多様性に富み、粋・雅が伊達・粋狂・外連など奇抜に変容して複雑・摩訶不思議な面が多かった為に単純明快に一言で言い表す事はできない。
 現代の日本人は、民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力が乏しい為に、江戸時代を正しく理解できず、小説家の想像による時代小説・時代劇に頼るしかない。
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 日本の常識は、世界の非常識であり、中華(中国や朝鮮)の常識とも正反対に近かった。
 日本の常識は、世界では理解させず、日本国内だけしか通用しなかった。
 当然の事ながら、現代の日本人と昔の日本人が違うように、現代の日本の常識と昔の日本の常識は違う。
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 江戸時代の風俗と現代の風俗は別物で、現代の常識では江戸時代の風俗は理解できない。
 特に、キリスト教常識、マルクス主義常識・共産主義常識、資本主義常識、そしてジェンダー常識、人権常識などは不可能である。
 つまり、民族的な歴史・文化・伝統・宗教を完全否定する左翼・左派・ネットサハ、リベラル派・革新派そして一部の保守派やメディア関係者にはとうてい理解できない別次元・別世界の神話物語である。
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