⚔37)─4・F─日本の戦国「軍事革命」が東アジアを一変させた大名行列。~No.162 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 2022年2月18日 MicrosoftNews JBpress「日本の戦国「軍事革命」が東アジアを一変させた、「大名行列」の謎を解く
 © JBpress 提供 島原陣図屏風(朝倉市秋月博物館蔵)
 一般的に儀礼の行列から発展したと考えられている「大名行列」。この行列の編成様式に注目した歴史家・乃至政彦氏は、その起源は上杉謙信武田信玄に大勝した「川中島合戦」の軍隊配置にあったと解く。平安時代天皇行幸から、織田信長明智光秀伊達政宗ら戦国時代の陣立書、徳川時代大名行列や参勤交代の行列まで、「武士の行列」を大解剖した乃至氏の書籍「戦う大名行列」の発売(電子&web版のみ)を記念し、序章を3回に分けて公開する(JBpress)。
 戦列縦隊でもあった「武士の行列」
 徳川幕府は中世以来打ち続く国内の紛争を克服し、武家社会による⻑期の安定政権を築いた。被⽀配層の百姓万民は天下泰平を享受するかわりに、唯⼀武⼒を有する武⼠層を上位権⼒として認め、⾝分の違いを受け⼊れ、かつ公的に敬意を表する必要があった。
 ⼤名に参勤交代などの公⽤があって遠⽅へと出向くとき、⼤名と供回りを警護する大仰な列がなされた。⼈々はそのたびに好奇⼼と警戒⼼を刺激された。
 われわれが時代劇や博物館でよく⽬にする⾏列像は、服装を正した武⼠たちが駕籠に乗った殿様をお守りする威圧的で儀礼的なものが多い。このため、⼤名⾏列は単なる⾝分確認の⽂化習俗と⾒る⼈も多いだろう。
 だが武⼠の⾏列は、戦闘を前提とした戦列縦隊でもあった類例は海外の軍隊にも存在する。インターネットで「戦列歩兵」を動画検索すれば、海外の戦列隊形がいくつも⾒られる。⼤名⾏列の⽤兵思想もこれと通底するのである。
 想像してみよう。海外の戦列歩兵と⽇本の⼤名⾏列が地平線から互いの姿を視認したときどうなるだろうか。そして、彼らが敵同⼠だったとき、何が起きるだろうか──。
 まず両者は、旗の先導と楽器のリズムに合わせて前進しながら、鉄炮隊が銃撃の⽤意をするだろう。⼤名⾏列は、そのほとんどが最前列に⽕器を並べている。
 彼らは、あまり命中精度の⾼くない銃撃を緩やかに繰り返し、前進する。背後には次の段階に備えた味⽅の歩兵が迫っているので、前に進むほかにない。
 上官(奉行)も逃亡者が出ないように、⻑⼑(薙⼑)などのポールウェポンを⼿にして、歩兵たちの進退を厳しく管理する。
 鉄炮が繰り返し銃撃を続ければやがてむせるような⽩煙が視界を遮ってくる。ここで武⼠古来のメインウェポンがあらわれる。鉄炮の背後に、命中精度の⾼い⼸侍たちが控えているのだ。
 海外の近世軍隊には⼸隊の存在が希薄だが、武⼠の軍隊には⽋かせない主⼒兵科とされていた⼤名⾏列は実戦を念頭に置いた配置であるとともに、武⼠のアイデンティティを誇⽰するものでもあった。
 そして相⼿の顔が視認できるほど近づくと、海外の戦列は、鉄炮を⼑槍のように⾝構えて突進を開始する。いわゆる銃剣突撃である。海外ではそれで敵味⽅の優劣が定まり、勝敗が決したといわれている。
 しかし⽇本の武⼠は違っていた。⼸の次に控える⻑柄の鑓衆が穂先を並べ、敵の前進を阻むことを⽬的として⼀⻫に突進するのだ。織⽥信⻑の⻑柄鑓は6メートルほどもあった。銃剣が勝つか、それとも⻑柄鑓がこれを押さえ込むか──。
 中世の武⼠は野戦(遭遇戦)を「野合いの戦」と呼んでいる。武⼠の移動は横列が好まれた海外の戦列歩兵と異なり、縦列が基本であった。
 ⽇本の国⼟は、71.8パーセントが⼭地と丘陵地に占められていて、平野の⽐率はとても⼩さい。すると軍隊は広野ではなく、既存の道を使って進むことになる。
 道先で敵勢を視認すれば、進退可能な広野に移動する。そこで先端同⼠が衝突することが多かった。このため、⽇本では縦列の隊形が発達した。「儀仗(形式)」の⾏列とみられている⼤名⾏列は、「兵仗(軍用)」の行列だったのだ。
 近世の⼤名⾏列
 近世の⼤名⾏列を通説に沿って説明してみよう。
 参勤交代以外にも、改易(領⼟の没収)にともなう城請取や移封など、⼤名(藩主)が公⽤で⼤規模移動する際に⼤名⾏列がなされた。その様式は幕府による規定や⼤名ごとに異なる慣習があるが、⼈数や備品はもともと⼀定度の共通する法則性があった。
 ⾏列の典型である参勤交代の「参勤」は、中国で諸侯が皇帝に拝謁することを「参覲」の礼と呼んでいたのに由来する(近世史料ではそのまま「参覲」と記す例も多い)。ここから服属儀礼としての側⾯が⾊濃いのは事実と認められる。
 参勤交代は徳川幕府の⾸都・江⼾に諸国の⼤名たちを「参勤」させ、また別の⼤名が参勤すれば「交代」して下国する慣例を繰り返させるものであった。
 これは慶⻑8年(1603)頃より江⼾に邸を置く⼤名が、家⾂の家族をも居住させたことに始まり、慶⻑14年(1609)には、まだ法度が⽣まれる前から⻄国・北陸からも江⼾と国許を往来する例が現れた。⼤名とその家⾂たちは、遠路はるばる江⼾と⼤名地元の城下町を往復するので、遠⽅の⼤名にとっては大きな負担になった。
 これについては三上参次⽒が「道中に⾦を散ぜしめて諸侯の⼒を殺(そ)ぎ」(三上参次『江戸時代史』冨山房・1943年)と⽰して以来、幕府が⼤名の財政を圧迫することで、反乱を企らむような余⼒を奪っていたとする解釈が定説とされている。
 確かに⾼価な⾐装を整えた⼤⼈数が、⻑距離間を移動すれば、負担は計り知れない。武⼠の⾯⽬が問われる⼀⼤⾏事であるから、その出費も巨額になる。参勤交代で苦しい台所事情を抱える⼤名はたくさんいて、幕府も問題視するほどであった。
 例えば徳川家光の時代、加賀藩前⽥家は4000⼈もの⼈数を14⽇かけて江⼾へと参勤した。これほどの⼈数を⽚道2週間、格式張って移動させれば、その負担が⼤であることは想像に難くない。確かに彼らは参勤に多⼤な費⽤を使い、佐⽵義宣も「際限なき⾟労」と悲鳴をあげている(⼭⼝1974)。
 しかしその⼀⽅で諸⼤名は委縮するどころかその豪奢さを競いあっているところがあり、「⼒を殺」ぐことばかりが重視されていたとは思われないのである。例証として⼤名⾏列における「斬り捨て御免」の事例を掲げてみよう。
 武⼠の⾏列に接する庶⺠は、しばしば不条理な暴⼒を受けた。もし⽬の前を将軍や御三家が通ることになれば、最後尾が通過するまで、道の脇で「⼟下座」しなければならなかった。
 あるとき駿河国で、明⽯藩主・松平直明の⾏列前をひとりの娘が横切った。彼⼥はすぐ先導に捕まった。報告を受けた家⽼は「⽝だ。捨てて置け」と答えて、なかったことにしようとした。だが、運悪く真相が殿様の⽿に入ってしまい、その場で斬殺された。
 ほかにも鍋島藩で⾝重の⼥性が⾏列を前に姿勢を変えられずにいたので、「頭が⾼い」と⼿討ちにされた。また、明⽯藩主が尾張藩領を通過するとき、農⺠の⼦が⾏列前を横切ったため、殺害されている。
 幕末で有名なものに「⽣⻨事件」もある。薩摩藩の⾏列を⾺上から眺めるイギリス⼈4名が、先導から「脇によけろ」と指⽰されても理解できず、列を乱した科により斬られた。⾏列前を横切れば、それが誰であろうと(⽼若男⼥から外国⼈まで)事情を問わず、無礼討ちにする厳粛な⾏軍── それが近世の⼤名⾏列だった。(続く)
 乃至政彦著「戦う大名行列」(SYNCHRONOUS BOOKS)。「歴史ノ部屋」会員はweb版で全編を読むことができる。© JBpress 提供 乃至政彦著「戦う大名行列」(SYNCHRONOUS BOOKS)。「歴史ノ部屋」会員はweb版で全編を読むことができる。
【乃至政彦】歴史家。1974年生まれ。高松市出身、相模原市在住。著書に『謙信越山』(JBpress)『平将門天慶の乱』『戦国の陣形』(講談社現代新書)、『天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった』(河出書房新社)など。書籍監修や講演でも活動中。昨年10月より新シリーズ『謙信と信長』や、戦国時代の文献や軍記をどのように読み解いているかを紹介するコンテンツ企画『歴史ノ部屋』を始めた。
 【歴史の部屋】
 https://www.synchronous.jp/ud/content/613ae89077656127a1000000
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 2月20日 MicrosoftNews JBpress「「領主別編成」から「兵科別編成」へ、戦国時代の軍隊革命とは?
 © JBpress 提供 飛騨守惟久筆「後三年合戦絵詞」(東京国立博物館所蔵) 出典:Colbase 馬上のまま突進しながら前方のてきに弓矢を放つ源義家軍の武士。勇ましく騎射する騎馬武者とこれに立ち向かう徒歩の弓兵が描かれ…
 一般的に儀礼の行列から発展したと考えられている「大名行列」。この行列の編成様式に注目した歴史家・乃至政彦氏は、その起源は上杉謙信武田信玄に大勝した「川中島合戦」の軍隊配置にあったと解く。平安時代天皇行幸から、織田信長明智光秀伊達政宗ら戦国時代の陣立書、徳川時代大名行列や参勤交代の行列まで、「武士の行列」を大解剖した乃至氏の書籍「戦う大名行列」の発売(電子&web版のみ)を記念し、序章を3回に分けて公開する(JBpress)。
◉軍隊行進だった「大名行列」(1)(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/68907
◉軍隊行進だった「大名行列」(2)(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/68912
 中世の「領主別編成」と近世の「兵科別編成」
 ところで戦国時代の軍隊にはひとつのイノベーションがある。それは「領主別編成」から「兵科別編成」への移⾏である。
 中世の武⼠による合戦は、私的な中⼩規模の領主が寄り集まり、これらが連合して、敵勢に乱闘を仕掛けるといった戦闘が主流であった。
 諸隊はいずれも⾃分の領⼟から⾃分の軍隊を連れて、これを独⾃の判断で進退させていた。中世の合戦は、中⼩規模の武装勢⼒——それぞれ⾃分の所領を持つ 「⼀所懸命」の武⼠たちが私的な従者(郎党)を引き連れる「⼈数」——が、その場限りの主催者の側に「味⽅」として参戦する⼀過性のイベントであった。
 イベントであるから参加の判断は⾃由である。敵⽅につくことだってかまわない。そこに絶対的な主君や上官はなく、「頼りない」「⼤義がない」と思ったら、⾃⼰責任で戦場を離脱したり、最悪の場合にはその場で敵⽅に寝返ることすらあった。
 彼らは私領の私兵を連れているだけの独⽴的領主だからそれができたのである。
 領主たちは⾃分の戦いやすい武⼒編成で兵を連れていた。彼らが合戦のたびに構成を変えていたことは容易に想像されよう。従者のひとりが病気であれば、誰かを雇ってこれを⽳埋めするかもしれない。⽳埋めしないかもしれない。
 中世の合戦はどういう武装、どれだけの⼈数で参加しようともかまわない。武⼠は基本的に⾃主独⽴の存在である。誰かから「必ず⼸五⼈、旗⼆⼈、⾺上⼆騎で参陣しなければならない」などと指図される謂れはない。すべてはおのれの思うまま。
 合戦主催者の陣営に領主たちがどんな兵科でどれほどの頭数を連れてくるかは、そのときになってみないとわからないのが中世の武⼒編成だった。
 このような状況で、これら⾃由な武装勢⼒を、利害調整や信賞必罰をもってうまく束ねること(それこそ源頼朝や⾜利尊⽒のように、利害調整や信賞必罰による人身収攬に秀でた者)、それこそが名将の第1条件だった。
 これら中世の武⼒編成は、その主体が領主にあるのは疑いのないところである。それゆえこの時代の武⼒編成は、領主別編成と呼ばれている。
 それが徳川時代になると、私領を有する「領主」という存在は希薄化する。この時代、⼤名の所領は私有地ではなくなっているからである。幕府の考え次第で、転封や改易が⾔い渡されることもあった。
 その家⾂もまた、基本的には⼤名から俸禄をもらう⽴場であり、私有地を所有するわけではなかったからである。そこで武⼒編成の主流となるのが兵科であった。
 旗・⼸・鉄 炮・鑓(⻑柄)・騎⾺が定数によって揃えられた「兵科別編成」である。⼤名⾏列を構成する武装と⼈数は、⼤名の意向によってその内訳がきれいに整えられていた。
 しかし兵科別編成は徳川時代の発明ではなく、戦国時代の発明である。どうしてこのような変化が起こったのかは、中近世移⾏期の軍隊研究が進んだことで、ある程度わかってきた。
 簡単にいうと、武⼒編成のインパクトとなる特異点があったのである。
 中世と近世の狭間にあたる戦国時代に、⼤名権⼒の集中、鉄炮の伝来と浸透、歩兵の増強があり、新しい時代の軍隊と戦争を模索する者だけが勝ち残っていく。その結果、戦闘の主体が個⼈戦から組織戦へと移り変わり、軍隊の編成は領主から兵科を重視する形態へと改められていった。いいかえれば、「中世の領主別編成」から「近世の兵科別編成」である。
 「領主別編成」と「兵科別編成」の併存
 だが、領主別編成と兵科別編成は、実のところ明確にわかれているわけではない。
 中世の史料をよくみると——考えてみれば当たり前の話だが——領主別編成が主流だったはずの時代にも兵科別編成の武⼒編成が意識されていた事実が認められる。
 領主別編成の軍勢は、合戦というイベントに向かうため、臨時に集められた軍事⼒である。いわば、多国籍の連合軍が⼀時的に結束しているに過ぎない。
 しかし兵科別編成の軍隊は常設されたトップダウン式の組織である。この両者が併存したのである。
 領主別編成の時代にも、兵科別編成は普通に⾏われていたのである。無論、それは総⼤将が領主が連れてきた私兵を召し上げ、再配分するといった形ではない。
 領主の連れる私兵⾃体が単独で兵科別の形で編成されていたのである。⼩中規模の領主たちは、⾃分の⼿勢だけで⼀個の武装勢⼒として戦える兵科別編成の形態もいたのだ。つまり領主別編成と兵科別編成は違うといえば違うが、同じといえば同じなのである。
 中世の武⼠たちは原則として、⾃分だけの単隊で戦闘⾏動をとっていた。⼤規模な合戦はそういう個⼈集団がたくさん寄り集まるものに過ぎなかった。
 このため、⼀個の部隊(領主と従者の私兵集団)が全員、⼸歩兵だけ、または鑓だけで集まるようなことはありえない。例えば事件現場にテレビの報道スタッフが出向くとき、カメラマンばかりが三⼈揃って向かうことはありえない。照明と取材する記者がセットで向かうだろう。
 武⼠の軍隊も同じである。たとえどんなに⼩さな領主の軍隊(三⼈、四⼈程度)であろうと、彼らは⾃分の集団だけで戦闘可能な編成を整える。武⼠は戦争のプロである。素⼈と同じ格好をしていては、晴れ舞台の合戦イベントに加えてすらもらえない。⾺に騎乗し、武器と甲冑を揃え、お供を連れて、戦場に赴く。
 それが中世武⼠の決まりごとであった。それゆえ、そこには必ず騎兵と、それをとりまく歩兵がいなければならなかった。そして、その歩兵には楯兵と騎兵の補助といった分類が、自ずから整っていたのである。すると、領主別編成と兵科別編成は、権⼒から武⼒編成を捉えた分類ということになるだろう。
 したがってこの⼆区分は論点によって無効であったり、有効であったりするといわなければならない。この認識を踏まえた上で、次章では領主別編成から兵科別編成への移⾏を⾒ていきたい。
 乃至政彦著「戦う大名行列」(SYNCHRONOUS BOOKS)。「歴史ノ部屋」会員はweb版の全編をご覧いただけます。© JBpress 提供 乃至政彦著「戦う大名行列」(SYNCHRONOUS BOOKS)。「歴史ノ部屋」会員はweb版の全編をご覧いただけます。
 【乃至政彦】歴史家。1974年生まれ。高松市出身、相模原市在住。著書に『謙信越山』(JBpress)『平将門天慶の乱』『戦国の陣形』(講談社現代新書)、『天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった』(河出書房新社)など。書籍監修や講演でも活動中。昨年10月より新シリーズ『謙信と信長』や、戦国時代の文献や軍記をどのように読み解いているかを紹介するコンテンツ企画『歴史ノ部屋』を始めた。
 【歴史の部屋】
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戦う大名行列 (SYNCHRONOUS BOOKS)
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 日本とくに日本民族では、マルクス主義共産主義無政府主義による人民革命は起きない。
 もし人民革命が起きるとすれば、日本人から日本民族が消滅もしくは少数派となり外国移民の日本国民に入れ替わるもしくは多数派になったときである。
 何故なら、マルクス主義共産主義無政府主義とは反天皇反民族反日本だからである。
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 庶民にとって、領主・大名・主君が誰であったも関係ない。
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 戦国時代は、悲惨で、酷たらしい地獄であった。
 武士・サムライが、百姓を嫌い差別し「生かさず殺さず」の支配を続けたのには理由があり、戦国の気風が残っていた江戸時代初期に斬り捨て御免が横行していたには理由があった。
 日本は、誰も助けてくれないブラック社会であった。
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 日本の庶民(百姓や町人)は、中華や西洋など世界の民衆・大衆・人民・市民とは違って、油断も隙もない、あさましく、えげつなく、おぞましく人間であった。
 町人は、戦場を見渡せる安全な高台や川の反対岸などの陣取って、酒や弁当を持ち込み遊女らを侍(はべ)らせて宴会を開き、合戦を観戦して楽しんだ。
 町人にとって、合戦・戦争は刺激的な娯楽で、武士・サムライが意地を賭けた喧嘩・殺し合いは止める必要のない楽しみであった。
 百姓は、合戦が終われば戦場に群がり、死者を弔う名目で死者の身包みを剥ぎ裸にして大きな穴に放り込んで埋め、奪った武器・武具・衣服などを商人に売って現金化し、勝った側で負傷した武士は助けて送り届けて褒美を貰い、負けた側の負傷した武士は殺し或いは逃げた武士は落ち武者狩りで殺し大将首なら勝った側に届けて褒美を貰った。
 百姓にとって、合戦は田畑を荒らされ農作物を奪われる人災であったが、同時に戦場荒らしや落ち武者狩りでなどで大金を稼ぐ美味しい副業であった。
 合戦に狩り出された庶民は、足軽・雑兵以下の小者・人夫・下男として陣地造りの作事を強要されるが、合戦が始まれば主君を見捨てて我先に一目散に逃げ、勝ち戦となれば勝者の当然の権利として「乱取り」を行い、敵地で金目の品物を略奪し、逃げ遅れた女子供を捉えて人買い商人に奴隷として売った。
 百姓や町人らの合戦見物・戦場荒らしは死者への敬意や死体の尊厳を無視するだけに、古代ローマ時代の剣闘士が殺し合うコロセウムより酷かった。
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 武将は、足軽・雑兵、小者・人夫・下男による乱取りを黙認していた。
 乱取りで捕まった女子供は、各地の奴隷市で日本人商人に買われ、日本人商人は宣教師を通じて白人キリスト教徒の奴隷商人に売って金儲けをしていた。
 中世キリスト教会と白人キリスト教徒奴隷商人は、日本人を奴隷として買って世界中に輸出して金儲けしていた。
 日本人奴隷を生み出していたのは、乱取りを行った百姓達であった。
 一説によると、ポルトガル商人による日本人奴隷の被害者は5万人以上。
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 現代日本人は、潔くカッコイイ武士・サムライの子孫ではなく、乱取りをし日本人を奴隷として売って大金を稼いでいた庶民の子孫である。
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 日本人は、悪人、悪党、罪人である。
 故に、親鸞はそうした救われない哀れな日本人は阿弥陀仏阿弥陀様)が救ってくださると、「悪人正機説」で他力本願を説いた。
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 キリスト教伝来は、日本に明と暗・光と影の2つの真理を伝えた。
 一つ目は、天地を創造した全知全能の唯一絶対神の福音・恩寵・奇蹟・光り輝く天国における永遠の命、神の子であるイエス・による隣人愛、唯一絶対神イエス・キリストに叛く異教と異端に対する救いのない地獄の業火。二つ目は、神の名による日本人奴隷交易の正当性である。
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