🏞87)─3─江戸時代に起きた庶民の旅行ブーム。旅費は3か月で100万円。~No.365 

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 2023年2月11日 MicrosoftStartニュース Merkmal「東海道の旅、江戸から伊勢までの「旅費」はいくらだった? トラップだらけの道中をたどる
 櫻庭由紀子(フリーライター) の意見 
 参詣にかこつけた物見遊山の江戸の旅
 新型コロナが5月8日をめどに5類に移行する方針を受け、レジャーが大きく変わりそうな今春。江戸の人々にとっても、旅行・レジャーは大きな楽しみであった。
 【画像】えっ…! これが江戸時代の「タクシー」です(11枚)
 この火付け役となったのが、1802(享和2)年に発行された「東海道中膝栗毛」だ。十返舎一九による「東海道中膝栗毛」は1814(文化11)年まで8編に渡り読み継がれた大ベストセラーで、弥二さん喜多さんのコンビがお伊勢参りのため江戸から旅立ち、東海道の行く先々で騒動を巻き起こすという観光エンタメ本。
 この本があまりに大好評であったため、草津温泉や木曽街道、中山道などの街道で続編が書き継がれた。
 この観光案内本に触発された庶民たちは、伊勢参りや大山参り、善光寺参りなどを目的に出掛け、道中で湯治や物見遊山を楽しんだ。そうなると、どうしても必要となるのが路銀、つまり
 「旅費」
 である。
 意外と安い宿場の宿代
 「道中膝栗毛 8編続12編」十返舎一九(画像:国会図書館デジタル)
 © Merkmal 提供
 江戸時代の旅の方法は、飛行機も新幹線もないのだから、徒歩かかごか馬、舟ということになる。しかし、かごも馬も大変に高価なので、交通手段はもっぱら徒歩か、落語の演目にもなっている三十石舟(米30石相当の積載能力を有する和船)などの舟だ。
 とはいえ川を使って行ける場所というのは限られているため、大抵は徒歩だ。そうなると日数がかかるというわけで、心配になるのが宿代、宿泊費である
 宿場の宿には、
・旅籠宿
木賃宿
 の2種類があった。木賃宿は、米を持ち込む自炊が基本で、相部屋・雑魚寝の宿をいう。東海道中膝栗毛では弥二さん喜多さんが米を持ち込めずに食事がとれないという描写があり、なかなか世知辛い。
 木賃宿は江戸初期には4文から16文、場所や時代によっては32文ほどだったらしい。16文といえば、そばの値段だ。江戸初期のそばは8文ほどだったので、そば2杯分で宿泊できる激安宿だったことがわかる。
 宿場にやってくる飯盛り女
 「東海道五拾三次 御油・旅人留女」歌川広重(画像:国会図書館デジタル)
 © Merkmal 提供
 旅籠宿の方は、1泊2食付きで200文から300文。幕末の安政年間では東海道筋の旅籠は200文、中山道筋では148文だった。現在の貨幣価値でいうと5000円強である。これで2食付きなら安い。もっとも、食事と行っても豪華なものではなく一汁一菜が基本で、ここに皿(焼き魚や煮魚)が付くとお得である。
 金を払えば高級宿に宿泊できるのは今と同じだ。1853(嘉永6)年の「守貞謾稿(もりさだまんこう)」によると、近江や大阪の豪商が宿泊するような京都の旅籠には、500文のところもあったという。
 1泊2食付きの旅籠と行っても、宿代だけで済まされるものではなかったらしい。宿場には飯盛り女(宿駅の宿屋で旅人の給仕をし、売春も兼ねて行った女)や按摩(あんま)が常駐し、隙を見ては飯盛り女が「給仕はどうか(給仕だけでは済まされない)」、按摩が「腰と脚をもみましょう」とやってくる。部屋には「土産物はどうか」と饅頭の売り込みが来る。
 宿代だけではなく小銭も相当使わされることは旅人もへきえきしていたらしく、飯盛り女を置かない宿のガイドブックが売れたほどだ。
 大井川越えに頭を抱えるお殿様
 「東海道五拾三次 嶋田・大井川駿岸」歌川広重(画像:国会図書館デジタル)
 © Merkmal 提供
 宿泊費の次に意外とかかるものとして、川越えがあった。川越えとは、橋のない川渡し船や川越え人足に担いでもらって超えることで、天候に大きく左右された。
 江戸時代、大きな川の架橋には制限があった。これは戦国時代の名残であり、国を超える敵の足止めが目的だったとされている。江戸でも、大川(隅田川)を渡す橋は千住大橋だけだったため、明暦の大火では避難できずに多くの死者を出した。
 その後、江戸では両国橋、永代橋を始めとして大川に橋が渡され、経済も町の規模も発展したわけだが、東海道の幾多の国を渡す川には、太平の世となっても架橋は許されていなかった(お金がなかったということもある)。
 東海道で越えねばならない大きな河川には、多摩川相模川、大井川、天竜川などがある。多摩川は六郷の渡し、相模川は馬入の渡し、天竜川は池田の渡し(時代によって名称が違う)など舟で渡る。料金は16文ほどで、そば1杯分で妥当な線だろう。
 問題の川越えは大井川であり、東海道の難所に数えられていた。「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」という馬子唄があるように、山であれば馬でもなんでも使えば越せるが、大井川は舟という手段もなく、どうしようもなかったらしい。
 大井川の川越え手段は、川越え人足への依頼一択だ。もともと大井川はさほど深い川ではなかったらしいのだが、都市化が進み河川の開発が進むにつれ深さが増した。旅人がひとりで渡すことはできず、川越えのプロの力を借りねばならなくなってしまったのである。
 無法地帯だった川越え料金
 川越えの料金は、旅人の足元を見てやたらに高額な値を付けるなど、無法地帯だった。これに困った奉行は川越え人足を統括し、番屋をもうけて料金を統一した。
 旅人は川札を番屋で購入して人足に渡す。人足は川札を確かめ、ねじり鉢巻きで旅人を肩車で川を超える。しかし、いくら料金が一律になったといっても、やはりそこは江戸時代のことなのであってないようなものだ。
 川札の料金は深さによって変わるが、水深が人足の腰帯あたりであれば48文、脇下あたりになると90文だった。これに、人足は酒代をねだるのでどんどん額はつり上がる。
 肩車でこの値段で、1枚の板を4人で担ぐ連台渡しとなると、48文×4人分だ。川が深いときにあたると、90文×4人分で360文もかかる。宿賃よりも高い。
 少人数の旅ならばこれで何とかなるが、参勤交代ともなると大変なことになる。お殿様の大名行列でも川越え料金は同額で、しかもお殿様となれば肩車というわけにもいかない。4人どころではなく16人ほどで担いだり先導する例もあったらしく、こうなるとお殿様だけで1両は軽く飛んだ。
 ほかにも、家臣など人間のほかに、かごや長持、馬などの荷物もある。こちらの料金も当然必要だ。10万石クラスの大名行列の川越えで30~40両、70万石クラスだと100両かかった例もあったらしい。
 足止め食えば宿泊代もかさむ
 これが豪雨や台風などで増水になると川越えができず、旅人たちは足止めを食ってしまう。「川留め」と呼ばれ、庶民も大名行列もこれには泣かされた。川越え料金に加え、宿泊代がその分余計にかかるからだ。7日目ともなると、もう帰りたくなる。
 大井川では、水深が4尺5寸(1.35m)になると、人は渡ることができず川留めとなった。常水(水深75cm)となると川明けとなるが、すぐに渡れるわけではない。
 連台の御状箱(公文書)が先で、大名、馬と続き、最後にやっと人足肩車だ。川明けには、川留めを食らっていた旅人が一斉に出立するので、大井川で人足の渋滞が発生した。
 曲亭馬琴は随筆「羇旅漫録(きりょまんろく)」のなかで、大井川の川留めの様子について「連日の雨に大井川往来泣ければ、岡部より島田の間に、諸侯みちみちて、いと賑わえり」と書いている。
 宿場には多くの旅人があふれ、中には商人宅に泊めてもらう旅人もいたようで、芸人の歌や踊りがあちこちから聞こえるなど江戸のようににぎやかだったそうだ。馬琴のように、川留めを楽しんだ旅の者もいたようである。
 3か月で100万円
 「伊勢参宮略図并東都大伝馬街繁栄之図」歌川広重(画像:国会図書館デジタル)
 © Merkmal 提供
 箱根を超え大井川を超え、どうにかこうにか伊勢に着いた。このあと、もろもろ物見遊山をして江戸に帰る。さて、旅費と日数はいかほどになるだろうか。
 1845(弘化2)年、武州喜多見村(現在の東京都世田谷区あたり)の農民がお伊勢参りをして戻ってきた記録によると、出立は1月22日。六郷の渡しで多摩川を渡り、川崎から東海道に入る。伊勢参りのあと大阪や琵琶湖を見て回ったあと、4月20日に帰ってきたとある。ちょっとした留学か短期の出向だ。
 料金もそれなりにかかった。六郷の渡しで16文、川崎でわらじを買って20文、戸塚宿で宿代200文、食事代、土産代、茶屋代などなどで5両2分。現代で換算すると、物の価値や考え方で大きく違いが出るが、100万円は軽い。
 もっとも、この例は随分と裕福な農家の家だったようで、芝居見物をするなどおごった旅だったようだ。一般的には、伊勢には2両ほどで行こうと思えば行けたらしい。それでも40万ほどかかっている。
 ぜいたくするなら近場がおすすめ
 「東海道五拾三次 藤沢・遊行寺歌川広重(画像:国会図書館デジタル)
 © Merkmal 提供
 このような長旅は、やはり庶民にはハードルが高かった。江戸からのレジャー旅なら、大山詣や江ノ島詣が気軽だったようだ。
 安政年間の記録によると、江ノ島詣に5人で出掛け、戸塚泊まりをせずにいきなり品川宿に泊まって遊んで、6泊して4両2分2朱だったという。
 6泊して、しかも品川で遊んで、名物を食べるというぜいたくな旅で、ひとり分1両もかかっていない。近場でなら15万円そこそこでまあまあなぜいたくな旅ができたというわけだ。
 江戸の人々にとっても旅先の天災や疫病は怖いものであったが、それでも人々は旅に出て新しいものを見たり食べたりなど体験しようとした。戦がない太平の世だからこそ、旅は人々の楽しみと成り得たのだ。
 コロナが5類となったとしても、基本的な感染予防と自分を守る行動は必須だ。これからまた、旅を心おきなく楽しめる日常が続きますように。
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