🏞72)─1─宝暦治水と治水神社の虚実。宝暦4(1754年)年2月から宝暦5(1755)年5月。~No.291 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 2023年4月29日 MicrosoftStartニュース MBC南日本放送「江戸時代に木曽川治水で犠牲 薩摩義士を偲んで碑を清掃
 江戸時代に木曽川治水で犠牲 薩摩義士を偲んで碑を清掃
 © MBC南日本放送
 鹿児島市の薩摩義士碑で清掃活動がありました。
 江戸時代に幕府から課せられた「宝暦治水」では、岐阜県木曽川などの改修工事で88人の薩摩藩士が犠牲となりました。
 鹿児島市城山町の薩摩義士碑は、亡くなった薩摩藩士を供養するために1920年に建てられました。
 県畳工業組合では4月29日の「畳の日」に合わせて清掃活動をしていて、29日朝は12人が参加して、石碑を洗い流し、まわりをほうきで掃きました。
 (県畳工業組合 安藤勝理事長)「掃除をしてみんなすがすがしい気持ちになった。感謝の気持ちで(清掃活動を)やらせてもらっている」
 掃除のあとは花が供えられ、それぞれが線香を上げて静かに手を合わせていました。
   ・   ・   ・   
 8月26日 MicrosoftStartニュース 岐阜新聞「「宝暦治水」に尽力、薩摩義士ゆかり名所や旧跡巡る 岐阜・輪之内町の児童、鹿児島訪問し交流会
 寄せ書きを受け取る輪之内町の児童たち=鹿児島市郡山町、郡山小学校
 © 岐阜新聞社
 岐阜県輪之内町の福束、大薮、仁木小学校の5、6年生12人が、江戸時代に行われた木曽三川の治水工事「宝暦治水」でゆかりのある鹿児島県を訪れ、工事で尽力した薩摩義士について学び、地元の児童と交流した。
 交流は2017年度から実施していたが、今回は新型コロナウイルスの影響で4年ぶりの派遣。2泊3日の行程で、同町楡俣新田の江翁寺に墓がある薩摩義士・浜島紋右衛門の出身地、鹿児島市郡山町を訪れた。
 同所の郡山小学校であった交流会では、両校の自慢を発表、紋右衛門らの墓が輪之内町にあることなどが紹介され、寄せ書きや町オリジナルグッズを贈り合った。治水工事総奉行で薩摩藩家老の平田靭負(ゆきえ)の像がある平田公園や維新ふるさと館、仙巌園桜島なども見学した。
 福束小学校6年の児童(12)は「名前を呼ばれたとき、イントネーションが全く違うことに驚いた。鹿児島は明るい人が多かった」、大薮小学校6年の児童(12)は「桜島について学べて良かった。郡山小学校と交流ができて楽しかった」とそれぞれ話した。
   ・   ・   ・   
 レッツぎふ マガジン
 薩摩藩士を祭神とする神社
 2021年5月6日 BY チャラヒLEAVE A COMMENT
 治水神社
 岐阜・愛知・三重が接する場所に治水神社はあります。
 祭神は、薩摩藩家老平田靱負(ひらたゆきえ)及び薩摩藩士84名、神社では平田靱負正輔大人命(ひらたゆきえまさすけうしのみこと)と崇めています。
 神社による由緒には、江戸時代の中頃徳川幕府は、木曽三川の水害で悩む濃尾平野西南部の住民を救うため、薩摩藩にお手伝い普請を命じました。
 薩摩藩士らは、経験したことのない水の流れに苦しみながら、この地方の住民のため多大の犠牲を払い、万難を排して工事を見事完成させました。
 平田靱負はこの工事の総責任者です、幕府の検分が終わった直後の宝暦5年5月25日、工事の完成を見届けた平田靱負は、美濃大牧の役館で命終されたのです。
 この大工事を世に広めたのは、三重県多度に住む西田喜兵衛です、彼はこの工事の様子を世間に知らせ、犠牲者の慰霊と顕彰に邁進しました。
 明治33年、近代の木曽三川の治水工事の成功式に併せて宝暦治水之碑が、時の総理大臣山県有朋公を迎えて油島千本松原に建立されました。
 平田靱負を治水の神と讃える地元の人々の報恩感謝の熱い思いにより、昭和13年現在の地に、平田靱負正輔大人命を御祭神とする治水神社が創建されました。
 治水神社は治水に尽力された薩摩藩士の功績を讃え、平田靱負の遺徳を偲び、犠牲となった多くの藩士達を慰霊しています、と書かれています。
 神社の南側には千本松原が有ります、宝暦治水工事の後で、植えられたという日向松の松原が約1km続いています。
 樹齢約200年の大きな松の大木もあり、望み松など様々な名前が付けられています。
 神社境内から千本松原に亘ってお散歩マップが有り、薩摩義士顕彰碑巡りなどをするのも良いです、碑が沢山あります。
 一番南には近代治水百年記念碑があり木曽三川の近代大改修百年を記念し、未来につなごうふるさとの川、という願いを込めてあるそうで、昭和62年に作られました。
 その北側には宝暦治水之碑正碑が有ります、表の題字は時の内閣総理大臣山県有朋で、裏に宝暦治水の犠牲者の名前が刻んであります。
 養老鉄道多度駅より約3.5km、東名阪自動車道長島ICより約6km有って、車でのアクセスが良いと思います、木曽三川公園駐車場に停められます。
 チャラヒ
 「のんびり岐阜まちなか歩き」 を案内します、チャラヒです。
 岐阜のまちをのんびり歩いて楽しんでいただける、観光名所・岐阜のグルメスポットを普通のおじさんの目から案内します。
 www.lets-gifu.com/maga/machi
 FILED UNDER: 史跡・名所, 学ぶ, 観光
   ・   ・   ・   
 薩摩義士という軛 宝暦治水顕彰運動の虚実
 水谷英志 著
 TOP >センター資料TOPICS>「薩摩義士」
 「軛」(くびき)というのは、自由を束縛するという意味である。この本のプロローグにその意味が詳しく書かれています。
 岐阜県民にとって、薩摩藩による「宝暦治水」は、薩摩藩の苦難の美談として、心に留めている方が多いのではないでしょうか?
 この本で著者は「宝暦治水」にまつわる美談としてのこる史実は事実であるのかを検証し、「宝暦治水」を尊い犠牲のもとにある安全と捉えて、その思想が後々にわたって住民を拘束する(p5)と述べています。
 「由らしむべし、知らしむべからず」と同頁に書かれていますが、これの意味は、人民を為政者の政策に従わせることはできるが、その道理を理解させることは難しい、だから従わせればよいのであって、その道理を人民にわからせる必要な無い、ということです。この考え方が治水政策にはあって、そのバックボーンに「宝暦治水」があったのではないかと、事務員は読み取りました。
 「宝暦治水」にまつわる事件の事実を検証していくと、史実とされていることとは、食い違うことが多くみられるということが、例を挙げて書かれています。 又、「宝暦治水」顕彰運動の推進についての動きも事細かに書かれており、それを読むと、当時の薩摩藩士の苦労が聊かも損なわれることは無くても、それが美談として、木曽三川の治水工事の方向性を決め、明治のデ・レーケの三川分離工事に繋がっていくこと、それが、凡ての流域住民にとっての成功ではなかったことが、書かれています。
 この本の事例でいえば、木曽三川分離工事の際の土地収用の為、少なからぬ農民が土地を奪われ、北海道に開拓移住していったこと、
 工事によって、確かに下流の水害は減少したが反対に中流域の水害が増加したこと、
 木曽三川分離工事は、明治という時代の国家の威信をかけた工事であったこと、等が書かれています。
 事務員がざっと読んで、目に留まったことですが、これは今にも通ずることは、想像に難くありません。
 本の冒頭に「生きるための自然改造が、新たな矛盾や難問を生むという苦闘の歴史」(秋山晶則)(p3)と書かれていますが、これはこの本を貫く思想だと思います。 これはその発端が江戸時代にあって、現代まで続いてきている問題でしょう。長良川河口堰などは、まさにこの言葉がふさわしいと感じます。
 著者が、「曇りなき眼」を通して、「宝暦治水」の史料を取捨しながら事実を見定める行為を繰り返したと述べています (p6)。
 これは事務員の個人的見解ですが、歴史というものは、為政者が作ったフィクションであると言えるもので、それは事実ではないかもしれません。それを見定めるには、著者がいう「曇りなき眼」が必要ではないかと思います。そして、私達、原史料を研究したりしない者にとっては、それに加えて、自分の思いや感情を一旦取り払った、素の気持ちで「ものごと」を見ることが大切なのではないかと思います。
 〒501-1193 岐阜市柳戸1-1 岐阜大学地域科学部内
 Tel 058-293-3323 * Fax 058-293-3324
 e-mail: cccd_inf@gifu-u.ac.jp
   ・   ・   ・   
 ウィキペディア
 宝暦治水事件(ほうれきちすいじけん、ほうりゃくちすいじけん)は、江戸時代中期に起きた事件。幕命によって施工された木曽三川木曽川長良川揖斐川)の治水事業(宝暦治水)の過程で、工事中に薩摩藩士51名が自害、33名が病死し、一説には工事完了後に薩摩藩総指揮の家老・平田靱負も自害した。この工事で亡くなった人たちを祭るために、治水神社(岐阜県海津市)が建立された。
 宝暦治水
 宝暦治水とは、江戸時代の宝暦年間(1754年(宝暦4年)2月から1755年(宝暦5年)5月)、幕命により薩摩藩が行った治水工事である。濃尾平野の治水対策のため木曽川長良川揖斐川を分流する工事であり、三川分流治水ともいう。
 木曽川長良川揖斐川の3河川は濃尾平野貫流し、下流の川底が高いことに加え、三川が複雑に合流、分流を繰り返す地形であることや、小領の分立する美濃国では各領主の利害が対立し、統一的な治水対策を採ることが難しかったことから、洪水が多発していた。
 通説では、木曽川地域には慶長13年(1608年)より幕府の主導により御囲堤と呼ばれる大規模な堤防が築かれていたが、この堤には軍事的な意味があったため、右岸地域である美濃国側では尾張藩の3尺(91cm)以上低い堤しか造ってはいけなかったとされている。ただし御囲堤の建造時期や規模には様々な議論があり、犬山から弥富までとする通説の建造地域は当時の流域と合わないことや、同時代史料に建造を示すものがないこと、3尺の制限が存在することを間接的にも証明するものがないことなどが指摘されている。原昭午は尾張藩の史料から御囲堤の完成時期は寛政年間(1789年~1801年)。

 事件概要
 当時すでに66万両もの借入金があり、財政が逼迫していた薩摩藩では、工事普請の知らせを受けて幕府のあからさまな嫌がらせに「一戦交えるべき」との強硬論が続出した。財政担当家老であった平田靱負は強硬論を抑え、薩摩藩は普請請書を1754年(宝暦4年)1月21日に幕府へ送った。
 同年1月29日に総奉行・平田靱負、1月30日に副奉行・伊集院十蔵がそれぞれ藩士を率いて薩摩を出発した。工事に従事した薩摩藩士は追加派遣された人数も含め総勢947名であった。
 同年2月16日に大坂に到着した平田はその後も大坂に残り、工事に対する金策を行い、砂糖を担保に7万両を借入し、同年閏2月9日に美濃大牧(岐阜県養老郡養老町)に入った。工事は同年2月27日に鍬入れ式を行い、着工した。
   ・   ・   ・   
 日本大百科全書(ニッポニカ) 「宝暦治水事件」の意味・わかりやすい解説
 宝暦治水事件 
 江戸時代中期、幕命による木曽(きそ)川治水工事で薩摩(さつま)藩が多くの犠牲者を出した事件。1753年(宝暦3)12月、幕府は薩摩藩に美濃(みの)・伊勢(いせ)・尾張(おわり)の川々御普請(ごふしん)の御手伝いを命じた。薩摩藩は家老平田靭負(ひらたゆきえ)を総奉行(そうぶぎょう)に、大目付伊集院十蔵(いじゅういんじゅうぞう)を副奉行に任じ、藩士以下約1000人を派遣した。工事は木曽・長良(ながら)・揖斐(いび)三川に及び、54年2月着工、55年3月竣工(しゅんこう)した。193村にわたる広域で、四工区に分けられ、幕府の厳しい監督のもと、春の応急工事と秋の本格工事が行われた。油島(あぶらじま)締切堤や大榑(おぐれ)川洗堰(あらいぜき)の難工事のため、工費は14万~15万両の予想をはるかに上回り、40万両に及んだ。藩は上方(かみがた)から約22万両借り入れ、残りは藩内の増税と借り上げでしのいだ。この工事は藩財政に壊滅的な打撃を与えたが、幕府の意図もここにあった。以後、奄美(あまみ)大島などの黒糖搾取が強化されたのもこのためである。幕府の横暴、過重な労働から工事の犠牲者は割腹55名、病死34名、計89名(うち4名は幕府側)に及び、平田靭負は5月検分引き渡し終了後、自刃した。のちに彼らは、この工事により多大の恩恵を受けた濃尾(のうび)平野の輪中(わじゅう)地帯の人々から薩摩義士とよばれ感謝されるようになった。
 [原口 泉]
 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
   ・   ・   ・