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西洋は、戦争と外交=平和による人間中心で近代化に成功した。
日本は、災害と復興による自然中心で近代化できなかった。
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時代は、平和ではなく戦争で切り開かれる。
発展は、戦争で進みし、平和で停滞し後退する。
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YAHOO!JAPANニュース
欧州列強との軋轢の中、
福和伸夫 | 名古屋大学減災連携研究センター、センター長・教授
7/20(月) 7:00
混乱のヨーロッパ、転換期の超大国、安定化した日本
ルターに始まる宗教改革の結果、17世紀には、ヨーロッパの主要国で新旧のカトリックとプロテスタントとの間での争いが起き、凶作、飢饉、疫病も続きました。また、アジアとの貿易や植民地戦争などが行われた時代でした。
一方、アメリカでは清教徒の入植が始まり、ロシアではロマノフ王朝が始まり、中国では明が滅び清王朝が成立し、大きな転換期を迎えていました。
そして、日本では関ヶ原の戦いに勝利した徳川家が、地震が続く中、江戸の町づくりを進め、豊臣家を滅ぼし、参勤交代制や鎖国を進めるなどして、江戸幕府の体制を整えました。その後は、地震、噴火、火事、飢饉が頻発します。
宗教戦争と疫病、大火の中で力をつけたイギリス
イギリスでは、いち早く国教会を設立し、エリザベス1世の下、1588年にアルマダの戦いでスペインの無敵艦隊に勝利しました。1600年には東インド会社を設立しアジア貿易を始めますが、1623年にオランダによるアンボイナ事件でインドネシアから締め出されたため、インドを中心に貿易を進めました。その後、国教会と清教徒との争いの清教徒革命(1642年~1649年)や、1688年の名誉革命を通して、議会政治が整っていきます。
この間、力を持ち始めたオランダとの間で英蘭戦争が起きました。その最中の1665年にロンドンでペストが大流行し、ロンドン市民の1/4程度が死亡しましたが、翌年の1666年に起きたロンドン大火で終息しました。大火の後、ロンドンは木造の町から石造の町へと変貌します。このようにして、その後のイギリス台頭の礎が作られていきました。
宗教戦争が続く中、絶対王政になっていったフランス
フランスでは、カトリックとカルヴァン派のユグノーとの間のユグノー戦争(1562年~1598年)が、アンリ4世のナントの王令によって収められました。ですが、ルイ13世の時代にも、ユグノーとの争いは頻発し、後に述べる30年戦争にも参戦することになります。このときペストも大流行し、多くの死者を出したようです。その後、太陽王・ルイ14世の時代へと進みます。
独立戦争を仕掛け、貿易と農魚工業で栄えたオランダ
一方、スペインの植民地だった小国のオランダでは、カトリック支配に抵抗したカルヴァン派のゴイセンが独立戦争(1568年~1648年)を仕掛けます。1602年には東インド会社を設立し、インドネシアを拠点とした香辛料貿易を進め、多数の船を使ったバルト海貿易で栄え、漁業、農業、毛織物や染色などの工業なども盛んになります。イギリスとの間の英蘭戦争は、名誉革命によって、メアリー2世とその夫のオランダ総督ウィリアム3世がイングランド王位に即位したことで、終息しました。
30年戦争で混乱を極めたドイツ
これに対し、神聖ローマ帝国のドイツでは、カール5世によるアウクスブルクの和議によって、宗教の選択の自由が認められたため、カトリックとルター派の諸侯が入り乱れて争うことになり、ヨーロッパの各国を巻き込む三十年戦争が起きました(1618年~1648年)。1648年のウェストファリア会議で終結したものの、戦乱に加え、凶作、飢饉、ペストの流行などが重なり、ドイツは、人口が激減し荒廃します。その後、ドイツでは、プロイセンとオーストリアの2国が争う時代へと変わっていきます。
現代の超大国・米ロ中は転機を迎える
アメリカ、ロシア、中国も転機を迎えていました。アメリカでは、1620年にイギリスの清教徒のピルグリム・ファーザーズ102人が、メイフラワー号に乗って今のマサチューセッツ州プリマスに上陸し、移民として入植をはじめます。中南米では鉱山や農作の労働者確保のため、アフリカから黒人奴隷が運ばれる三角貿易が行われました。
モンゴル帝国の一部になっていたロシアでは、1613年にロマノフ王朝が成立します。ロシア正教会のおかげで宗教戦争とは一線を画すことができたようで、その後、ピョートル大帝の時代に国力が増し、列強に加わっていきます。
一方、明が支配していた中国は、遊牧民族や倭寇によって苦しめられ、豊臣秀吉の朝鮮出兵などで疲弊しました。1616年に北方で女真族のヌルハチが後金を建国します。女真族は満州族を名乗るようになり、1636年に後金は清に改められます。1644年に明は滅び、清の時代に変わります。そして、名君・康熙帝によって安定した時代を迎えます。
花開いた物理学や自然科学
17世紀には、地震などの自然災害を考えるための基礎ともいえる自然科学が花開きました。イタリア人のガリレオ・ガリレイは、望遠鏡を改良・製作して地動説を証明したり、振り子や物体の運動を明らかにしました。ピサの斜塔での実験は有名です。ガリレイと同時期に活躍したドイツ人のヨハネス・ケプラーは惑星運動が楕円であることを説明し、地動説を強化します。そして、2人の後に生まれたイギリス人のニュートンは、ロンドンでのペスト流行のとき、ケンブリッジ大から故郷に疎開したときに、万有引力の法則や、微積分学、光の屈折などを発見しました。彼らにより地球や惑星の動きが分かり、物の運動や耐震設計などの力学的な基礎が整いました。
大規模土木工事で江戸の基盤が整う
一方、日本では、関ヶ原の戦いで勝利した家康が、1603年に征夷大将軍になります。家康は江戸に戻り、1605年には秀忠に将軍を譲り、江戸周辺でなどで大規模な土木工事を進めます。神田山を削って日比谷の入江を埋め立てて城下を広げ、小名木川などの運河を開削し水運による物流を確保しました。また、洪水対策のため、河川を整理し、赤堀川を開削して利根川を付け替えするなどの河川工事を行いました。利根川が銚子に繋がったのは1654年です。これによって、大都市・江戸の基礎ができ、湿地帯だった広大な関東平野は農地に変わって米の生産石高も倍増し、260年続く江戸時代の基盤が整いました。
江戸初期に頻発した地震の後、大阪の陣で豊臣家が滅亡
江戸初期には大地震が続きました。1605年2月3日に慶長地震、1611年9月27日に会津地震と12月2日に慶長三陸地震、1614年11月26日にも大地震が起きます。慶長地震では西日本太平洋岸を津波が襲いましたが、揺れによる被害はなかったようです。従来は南海トラフ沿いでの津波地震と言われていましたが、別の場所での地震の可能性も指摘されています。
会津地震は、M7クラスの直下地震で、会津盆地西縁断層帯の活動が疑われています。倒壊家屋は2万戸余り、死者は3700人と言われています。大規模な土砂崩れによって阿賀川が堰き止められて山崎新湖ができ、越後街道の一部が浸水したため、街道が付け替えられ多くの集落が移転をしました。
慶長三陸地震については、近年、北海道での地盤調査から北海道でのM9クラスの地震の可能性が指摘されています。この場所では500年程度の間隔で超巨大地震が発生しており、現在、中央防災会議に設置されたワーキンググループで検討が進められています。仙台当主だった伊達政宗は、地震後に貞山堀を開削して復興を進めました。津波で浸水した場所を塩田にし、新たな新田開発も進めました。また、地震の2年後には、支倉常長を欧州に派遣しています。仙台藩の復興のために、欧州との交易を進めようとしたのでしょうか。
1614年の地震については各地で揺れや津波の記録がありますが、震源がどこかについては諸説があります。この地震がおきたときは、まさに大坂冬の陣の準備を徳川方、豊臣方の双方が進めているときでした。徳川方は、イギリス製やオランダ製の大砲を活用して大坂城を攻め、城の無力化を図る和議を結びます。さらに、翌年の夏の陣で、大坂城は炎上、豊臣秀頼と淀君は自害して、豊臣家は滅亡します。
ここでも、カトリックのスペイン、ポルトガルではなく、英蘭との関わりが感じ取れます。
江戸幕府の体制確立
大阪の後、武家諸法度と禁中並公家諸法度を定め、大名や皇室、公家の役割や規則を明確化します。天下普請で土木工事や、江戸城や主要な城の整備を進め、1635年に参勤交代制を導入し、大名の力を削いでいきます。また、1612年にキリスト教の禁教令を発しました。1616年には、外国船の寄港地を平戸と長崎に限定します。さらに、3代将軍・家光の時代になって、絵踏を始め、キリスト教弾圧を強化します。1637年に島原の乱が起きると、禁教を強化し、1639年にはポルトガル人の来航を禁止します。そして、1641年にオランダ商館を平戸から出島に移し、清とオランダ船の来航を出島に限る鎖国が始まりました。
鎖国によって、日本は213年間世界と隔絶されることになります。日本社会は安定し、平和な社会の中、独特の江戸文化が育まれます。万一、徳川家が鎖国をせず、世界有数の軍事力を使って信長や秀吉のような対外政策をとっていたら、世界の姿は大きく変わっていただろうと思います。
江戸幕府の体制が整って続発した飢饉・大火・噴火・地震
江戸幕府の体制が整うのを待っていたかのように、鎖国前後から災害が続きます。
1640年には、7月31日に北海道駒ケ岳が大規模噴火し、2度の山体崩壊を起こします。2度目の崩壊の土砂が内浦湾に流れ込み大津波が発生しました。また、このときの大量の火山灰によって陸奥国で凶作となり、寛永の大飢饉のきっかけになりました。北海道では、1663年にも有珠山が大噴火しています。
寛永の飢饉では、1641年に旱魃や大雨、長雨、冷害、霜、虫害があり、翌年も不作になって、1643年にかけて多くの餓死者を出しました。江戸の初期には、1619年、1675年、1680年にも飢饉がありました。
1641年には、日本橋桶町で大火があり、400人以上が亡くなりました。江戸での最初の大火です。さらに、1657年3月2日には世界三大大火の一つと言われる明暦の大火が起き、江戸の大半が延焼し、江戸城天守も焼失しました。犠牲者は10万人を超え、江戸時代最悪の災害になりました。大火の後、両国橋や永代橋が架けられ、隅田川の東側に町が広がりました。また、火除け地や広小路が作られ、土蔵や瓦屋根が奨励されるようになりました。この火災で、明暦から万治に改元されますが、1660年には名古屋で万治の大火が発生し、1661年には京都での火災で内裏などが焼失したため、元号が万治から寛文に改元されます。
地震も続発しました。1648年6月13日の慶安相模の地震、1649年7月30日の慶安武蔵の地震と関東で地震が続き、1662年6月16日の寛文近江・若狭地震、1666年2月1日の越後高田地震、1677年11月4日の延宝房総沖地震と続きます。寛文近江・若狭地震は、三方断層帯や花折断層帯の活動が疑われ、京都を中心に死者は数千人に達しました。延宝房総沖地震は、房総沖でのM8クラスの巨大地震で、津波によって多くの犠牲者を出しました。この地震の半年前の4月13日には延宝八戸沖地震も発生しています。
このように、江戸幕府の最初の4人の将軍の時代、混乱の続く欧州列強との軋轢の中、多くの災害を乗り越え、江戸幕府の体制が整えられていきました。
福和伸夫
名古屋大学減災連携研究センター、センター長・教授
建築耐震工学や地震工学に関する教育・研究の傍ら、地域の防災・減災の実践に携わる。民間建設会社の研究室で10年間勤務した後、名古屋大学に異動し、工学部、先端技術共同研究センター、大学院環境学研究科で教鞭をとり、現在に至る。行政の防災・減災活動に協力しつつ、防災教材の開発や出前講座を行い、災害被害軽減のための国民運動作りに勤しむ。減災を通して克災し地域ルネッサンスにつなげたいとの思いで、減災のためのシンクタンク・減災連携研究センターを設立し、アゴラ・減災館を建設した。著書に、「次の震災について本当のことを話してみよう。」(時事通信社)、「必ずくる震災で日本を終わらせないために。」(時事通信社)。
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