🏞74)─5─田沼意次の改革による開国と近代化の幕開け。ロシアの日本侵略元年。~No.305No.306No.307 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 徳川家治(1737~1786)第10代将軍1760~1786年。
 田沼意次(1719~1788年)田沼時代1767~1786年。
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 開国・尊皇攘夷・幕末・討幕・近代化の前史。
 江戸時代後期、日本にはロシアの軍事侵略とキリスト教の宗教侵略という脅威が存在していた。
 ペリーの黒船艦隊を日本の開国と説明する歴史書はウソである。
 日本は外圧に弱い、はウソである。
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 西洋列強は、北太平洋航路を独占する為に反日アイヌ人が住む蝦夷地(北海道)や樺太徳川幕府(日本)から強奪して領土・保護領にする為に軍艦を派遣し、あわよくば日本も軍事占領し植民地にして日本人を奴隷にしようと計画していた。
 日本侵略の先頭に立っていたのが、ナポレン皇帝を破った陸軍大国ロシアとロシア正教会であった。
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 ロシアの初期対日外交の目的は、アラスカ・北米植民地開発の為に日本を補給基地として利用する事であった。
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2022-04-07
🏞73)─1─ロシアはシベリア経営の為に日本に開国を求める特使を何度も派遣していた。~No.293No.294 
2022-07-31
🏞75)─1─ルイ16世は蝦夷地・樺太調査目的でフランス艦隊を派遣した。1785年。~No.308 
2022-08-01
🏞75)─2─イギリスの蝦夷地植民地化計画と徳川幕府の対応。1796年。~No.309 
2022-08-03
🏞75)─3─ロシアの対日戦略目的は初期は友好・交易で中期以降は領土・植民地であった。~No.310 
2018-11-26
🏞76)─1─開国・尊皇攘夷前史。寛政日露交渉。松平定信。大黒屋光太夫林子平。エカテリーナ女帝。~No.311No.312・ @ ㉔ 
2019-01-02
🏞114)─2─禁門の変。四ヵ国艦隊下関砲撃事件。ベルギー国王レオポルド2世は、日本を植民地として所望した。1863年~No.451No.452No.453・ @ 
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 寛政5(1793)年 寛政日露交渉。ラクスマン外交。
 嘉永6(1853)年 ペリー黒船艦隊来港。
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 田沼意次は何の改革をしたか?
◆田沼時代 意次は、悪化する幕府財政の立て直しを図るため、農業主義だった政策から、重商主義の政策へと転換しました。 株仲間、専売制、外国との貿易の拡大等、商業の発展のみでなく、鉱山や水田の開発など、社会資本整備も行い、財政は改善され、景気が良くなりました。
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 2024年2月8日 MicrosoftStartニュース プレジデントオンライン「ドラマ「大奥」とは真逆の田沼意次像…独断専行の悪人ではなく10代将軍・家治が信頼して政治を任せた
 「徳川家治像」18世紀(画像=徳川記念財団蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
 © PRESIDENT Online
 ドラマ「大奥」(フジテレビ系)に老中・田沼意次安田顕)が登場し、将軍の弱みを握って出世していく悪代官ぶりが話題だ。経済評論家の岡田晃さんは「賄賂政治など『意次=悪人説』は広く信じられているが、意次は8代将軍・吉宗による経済成長重視の積極策を引き継いだ。その先進的な政治は9代・家重や10代・家治ら将軍の後押しなしにはできなかった」という――。
 ※本稿は、岡田晃『徳川幕府の経済政策 その光と影』(PHP新書)の一部を再編集したものです。
 田沼意次の父は吉宗の紀州藩主時代からの側近だった
 享保元年(1716)、8代将軍となる吉宗が紀州藩士を伴って江戸城入りし、その中に田沼意行(おきゆき)という人物がいた。
 意行はもともと足軽だったと言われているが、吉宗が紀州藩主となる前の部屋住み時代から仕え、吉宗が紀州藩主になると小姓を務めた。さらに吉宗の将軍就任とともに幕臣(旗本)となり、そのまま新将軍の小姓となっている。吉宗からの信頼が厚かったという。
 それから3年後の享保4年、意行に長男が生まれた。意次である。意次は16歳のとき、吉宗の世子・家重(後の9代将軍)の小姓に召し出された。翌年に父親の死を受けて600石の遺領を引き継ぎ、延享2年(1745)、家重が将軍に就任すると、意次もそれに従って新将軍の小姓となった。意次27歳。親子2代で将軍の小姓となったわけだ。
 意次もまた家重からの信頼が厚かった。家重の将軍就任から6年後、大御所・吉宗が亡くなり、名実ともに家重の時代となるが、この時、意次は家重の御用取次役に任命された。吉宗が将軍就任に伴い新設した、あのポストである。
 ここから、意次は出世街道を突っ走っていくことになる。40歳になった宝暦8年(1758)、遠州相良藩1万石の大名に取り立てられた。
 9代将軍・家重は10代・家治に「意次を重用せよ」と遺言
 家重は宝暦10年に引退するが(翌年死去)、その後を継いで10代将軍となる息子の家治に「意次を大事にして用いるように」と遺言したという。家治は父の言葉に従って、意次の御用取次役を留任させた。時に家治24歳、意次42歳。家治は、自分よりはるかに年上の父の側近をその後も登用し続けた。
 家治は意次の石高を次々と加増し、将軍就任7年後には御用取次役より格上の側用人に任命した。そしてその3年後には側用人のまま、ついに老中に任命した。元足軽の息子が老中に就任するという異例の出世を遂げたのだった。石高もその後、最終的には5万7000石となった。
 この経過を見ると、家治は単に父の遺言を守ったというより、それ以上に意次を積極的に引き上げたと言ったほうが当たっている。江戸時代の側用人と言えば、綱吉時代の柳沢吉保が有名だが、柳沢は老中格大老格となったものの、正式に老中・大老になったわけではなかった。側用人が老中に就任したのは意次が初めてだ。
 だが意次の異例の出世は、同僚や譜代大名たちの嫉妬を買うことになる。そのうえ意次が打ち出す政策の多くは、当時の常識や譜代大名の価値観からは受け入れがたいものであった。そのことが、意次の悪評が広がる一因となる。
 田沼が賄賂をもらったというのは政敵たちの流した悪評
 田沼意次と言えば、昔から賄賂政治家と言われてきた。しかし歴史学者大石慎三郎氏は、旗本や大名が書き残した賄賂話を丁寧に検証した結果、いずれも個人的な恨みによるもの、あるいは政敵・松平定信派と目される人物の手によるものであり、「そのどれもが作為された悪評」と指摘している(同氏『田沼意次の時代』)。
 一方、9代・家重は言語不明瞭だったうえ大奥に入り浸っていたとか、10代・家治も趣味の将棋などに没頭して政治を顧みない暗君だったなどと言われ、意次はそれに乗じて権勢をほしいままにしたと喧伝されてきた。「家重・家治=暗君説」と「意次=悪人説」はワンセットだ。
 しかし果たしてそうだろうか。意次が行った数々の政策は、当時の経済的苦境の打開につながり得る先進的なものが多い。そして意次がそれらを推進できたのは、家重・家治の後押しがあったからこそだ。意次の政策を高く評価して仕事を任せた家重・家治は決して暗君ではなかったと筆者は思っている。
 田沼は吉宗の「成長重視の積極策・金融緩和」路線を推進した
 吉宗の政策は「緊縮財政・金融引き締め」と「成長重視の積極策・金融緩和」という二つの側面を持っていたが、意次の政策は主としてその後者を受け継ぐものであり、それは時代の変化に対応するものでもあった。
 宝暦4年(1754)、美濃国で農民千人が郡上八幡の城下に集結し、年貢徴収法変更の撤回を求める嘆願書を藩に提出した。これが郡上一揆の始まりとなり、郡上藩はいったん農民の要求を受け入れたが、後に否定し、結局、新徴収法の実施を申し渡した。実は、これは老中の本多正珍(まさよし)や若年寄の本多忠央(ただなか)が藩主の金森頼錦(よりかね)と縁戚関係にあり、この2人が郡上藩のために動いたのだった。
 将軍・家重は、大騒動の背後に幕府要職にある者が絡んでいるのではないかと疑いを持ったらしい。宝暦8年(1758)7月、幕府はこの事件を評定所で審議することに決定した。評定所は幕府の裁判に関する最高機関で、老中の指揮の下、寺社奉行町奉行勘定奉行大目付、目付で構成される。
 このとき、御用取次役だった意次は、審議開始にあたって町奉行を呼び、「将軍の『御疑い』がかかっている事件なので、たとえ要職の者が絡んでいたとしても遠慮なく詮議をするように」と話したという。今風に言えば「忖度(そんたく)なしでやれ」ということだ。だが実際に老中や勘定奉行などが絡んでいたため、やはり審議は難航したようだ。
 田沼が忖度なしに老中らの不正を暴いた郡上八幡一揆事件
そこで2カ月後の9月、家重は意次に評定所への出座を命じた。御用取次役が評定所に加わるのは初めてだ。御用取次役はその名のとおり、将軍と幕閣などとの間を取り次ぐのが役目であり、意思決定機関である評定所のメンバーとなるのは異例のことだった。ここに、家重の事件解決への強い意思と意次への期待が表れている。これを見ても、家重が暗君だったとは思えない。
 同年10月、評定所の審議は決した。老中・本多正珍を罷免・逼塞(ひっそく)、若年寄・本多忠央や勘定奉行・大橋親義を改易とするなど、幕府最高幹部への処分はまれに見る厳しいものになった。さらに当事者である郡上藩主・金森頼錦は改易、家臣も各々処分とし、農民側も13人を獄門死罪、そのほか遠島・所払い・過料などとした。
 これらを忖度なしでまとめた意次の手腕は、将軍の意向がバックにあったとはいえ、並々ならぬものがあったと言えるだろう。しかも評定所の構成メンバー全員が意次より格上なのだから。その剛腕ぶりが、譜代大名の怨みを買い、やがて失脚の一因にもなるのだが、それはもう少し後の話。
 ちなみに現在、岐阜県郡上市八幡町では毎年夏に有名な「郡上おどり」が催される。7月中旬から30夜以上にわたって開催され、特に8月のお盆の4日間は午前4時頃まで徹夜で踊り続ける壮大なもので、全国から踊り手や観光客が集まり、国の重要無形文化財にもなっている。これは、改易された金森氏の後に領主となった青山氏が、一揆で分断された藩内四民の融和のために始めたと言われている。
 年貢の増収策をあきらめ「米本位経済」からの脱却をめざす
 ここでもう一つ重要な点は、意次が郡上一揆の審議を通じて、年貢増徴の限界を痛感したことである。このことが、意次が数々の新政策を打ち出すきっかけにもなっている。
 意次はこの頃から幕政の中心を担うようになる。意次がとった政策は、幕府財政の増収策という枠を超えるものだった。主な経済政策は、①商業重視と流通課税②新産業の創出と殖産興業③通貨の一元化④鉱山開発⑤対外政策の積極策――など多岐にわたる。また相良藩主としても、家臣に対し年貢増徴を戒めるとともに、殖産興業策やインフラ整備を進めている。
 意次の政策の特徴は、収入源を年貢に頼る「米本位経済」から脱却し、新たな産業である商業・金融の発展や殖産興業によって経済活性化と財政立て直しを図ろうとしたことだった。既存の常識に縛られず、時代の変化をとらえた大胆な改革だったのである。現在になぞらえれば、成長戦略であり構造改革である。実際には失敗したものも少なくなかったが、後の近代化につながるものも含まれている。
 田沼による画期的な構造改革「商業重視と流通課税」
 元禄期以降、幕府は財政の悪化に対応し、まず荻原重秀が出目を狙った元禄改鋳を行い、次いで正徳期には新井白石主導による緊縮財政、そして享保期には吉宗の新田開発と年貢増徴など、さまざまな財政立て直し策がとられてきた。それぞれ一時的には効果があったものの、根本的な解決には至らず、財政悪化は慢性化していた。
 そこで意次は吉宗時代の倹約・歳出抑制策は継続しつつ、成長著しい商業や金融業に課税して幕府の収入を増やすという政策を打ち出した。具体的には、商人たちの業種や商品ごとに幅広く株仲間を公認して、その代わりに運上金または冥加(みょうが)金を納めさせた。
 株仲間は、吉宗時代に「米価安の諸色高」と言われた物価高を抑えるため、商人たちに特権を与える代わりに物価統制に従わせる狙いで公認したものだが、意次はより多くの業種株仲間を結成させ、それを利用して課税することにしたのだ。田沼時代に公認された株仲間は、両替商や質屋、菜種問屋、綿実問屋、油問屋、酒造、さらには飛脚、菱垣廻船問屋など幅広い分野に及んでいる。
 商人たちの「株仲間」を認め、課税して幕政増収を狙った
 田沼時代の経済政策の古典的研究書である『転換期幕藩制の研究』(中井信彦著)によると、大坂では宝暦末年(1764)から安永年間(〜1781)までに、幕府が公認して冥加金を上納させた株仲間が127にのぼったという。
 株仲間からの課税金額は幕府財政全体から見れば、それほど大きいものではなかったが、年貢以外の収入源を広げようという意図があったことは明白だ。しかもそれは単に「増収策」という次元にとどまらず、米中心の経済から商品流通の発展という変化に対応した構造改革政策だったという点に、その意義がある。
 これは他の政策にも共通する視点だ。一例として印播沼干拓事業がある。同事業は一般的には新田開発が目的と理解されているが、実は“流通革命”の狙いも込められていた。北方や太平洋側からの物資を船で江戸に運ぶには房総半島の外側を回り込む必要があるが、意次は印播沼の干拓と同時に幹線運河を造成して流通経路を大幅に短縮することを考えていたという。計画は実現しなかったが、意次が流通を重視していたことを表している。

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 2月9日 MicrosoftStartニュース プレジデントオンライン「それは一種のクーデターだった…田沼意次が10代将軍家治の死と同時に政権トップの座を追われたワケ
 「南鐐二朱銀」江戸時代・明和9年~天明8年(1772~88)/寛政12年~文政6年(1800~23)、東京国立博物館蔵(出典=国立文化財機構所蔵品統合検索システム)
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 ドラマ「大奥」(フジテレビ系)に登場する老中・田沼意次安田顕)は、実際にどんな政治を行ったのか。江戸時代の経済政策について研究する経済評論家の岡田晃さんは「意次は、商業を重視し近代化につながる構造改革を進めたが、幕閣で反発を招き、将軍・徳川家治が亡くなったとたん、全ての権限を取り上げられた」という――。
 ※本稿は、岡田晃『徳川幕府の経済政策 その光と影』(PHP新書)の一部を再編集したものです。
 老中首座になった田沼は「通貨の一元化」を目指した
吉宗は金融引き締めから金融緩和に転換したが、意次は新たな金貨鋳造は行わず、吉宗後半期の金融緩和政策を継続した。
 注目されるのは、新たに明和(めいわ)五匁(もんめ)銀、南鐐(なんりょう)二朱銀という二種類の新しい銀貨を鋳造したことだ。
 江戸時代の通貨は、当初は「金1両=銀50匁=銭4貫文」が公式レートとなっていた。だが実際には、主として江戸など東日本では金、大坂など西日本では銀を中心に取引され、金と銀の交換レートは日々変動していた。趨勢(すうせい)としては金高・銀安の傾向が続き、元禄時代に公式レートが「金1両=銀60匁」に改定されたが、それも一つの目安であり、銀はさらに安くなることも多かった。
 だが商品経済の発展によって経済圏が全国単一化するにつれて、こうした各通貨がバラバラな状態は、弊害が目立つようになっていた。
 そこで幕府はまず、明和2年(1765)に明和五匁銀の鋳造を開始した。その特徴は、表面に「銀五匁」と表記されたことだ。それまでの江戸時代の銀貨にはその単位価値が表記されておらず、重量(量目)によって価値が決まる秤量銀貨だったが、ここに初めて単位価値が明記されたのだ。これは計数貨幣と呼ばれる。これにより、五匁銀12枚で金1両とし、「金1両=銀60匁」という公式レート通りに金貨と連動させたのだった。
 一両小判との交換数値を刻んだ新しい銀貨「南鐐二朱銀」を鋳造
大石慎三郎氏は「(田沼時代には)米遣い経済社会というより銭(貨幣)遣い経済社会に移行していた。(中略)このような時代の要求に応えるものとして打ち出されたのが、通貨銀を通貨金に直接的に連動させた明和五匁銀であった」と、その意義を強調している(同氏『田沼意次の時代』)。
 ところがこれに両替商たちが強く反発した。彼らは金と銀の交換レートの変動を利用して利ザヤを稼いでいたからだ。このため明和五匁銀はほとんど流通しなかった。
 しかし意次はあきらめなかった。その7年後の明和9年、今度は南鐐二朱銀という新たな銀貨を発行した。
 その表面には「以南鐐八片換小判一両」、南鐐二朱銀8枚で小判(金)1両に交換すると刻印が打たれている。当時、二朱判という金貨が流通しており、その8枚が小判1枚(1両)に相当した。したがって南鐐二朱銀に、金貨である二朱判と全く同じ価値を持たせたのだ。しかも、「朱」は金貨の通貨単位であり、それを銀貨の名称に使った。通貨の一元化をさらに前進させたのである。
 既得権益を守ろうとする両替商と戦う気骨があった
 これにも両替商らは反対した。だが1枚が1両の8分の1という金額の手頃さ、金貨(1両小判)より小型で軽量、そして何よりも秤量銀貨である丁銀のように重量をいちいち量る手間もいらないなど、使い勝手もよかった。そのため、南鐐二朱銀の流通は徐々に拡大するようになっていく。これは結果的に金融緩和効果も生むこととなった。
 この経過から、2つのポイントが見えてくる。
 第一は、意次は賄賂を受け取るなど商人と癒着していたとのイメージが強いが、通貨政策に関する限りは、既得権益を守ろうとする両替商などと闘っていたということだ。改革を進めるためには、いかにして既得権益を打破するかがカギとなる。これは現代でも変わらない。
 第二のポイントは、江戸時代で初めて通貨の一元化という金融政策を打ち出したことだ。南鐐二朱銀の発行には「出目を得る」という動機があったが、それでも金貨と銀貨の交換レート固定化を打ち出したことは、従来の通貨制度を改革するという明確な意思があったと見ることができる。同時にそれは、近代化への端緒を開いたという点でも重要だ。ここにも、意次の先見性が表れている。
 対外政策でも画期的な蝦夷地開発プロジェクトを立ち上げた
 意次は対外政策でも、従来の幕府には見られなかった積極策を打ち出している。蝦夷地開発とロシア貿易の試みである。
 当時、ロシアは千島列島に沿って南下を進めており、安永7年(1778)にはロシア船が納沙布(のさっぷ)岬まで進出し、松前藩に交易を要求する事件が起きていた。幕府はこうした動きに対応することが必要になっていた。
 経済的にも、2つの要因から蝦夷地へのニーズが高まっていた。
 一つは、関西地方で盛んになっていた綿栽培の金肥(おカネを出して購入する肥料)の原料として、蝦夷地産の鰊(にしん)や鱒(ます)の脂を絞った〆粕(しめかす)への需要が高まっていたこと。国民的衣料となっていた木綿の原料である綿の栽培は重要産業の一つに発展しており、それを支える肥料の供給地として蝦夷地がクローズアップされてきたのだ。 もう一つは中国で高級料理用としてナマコ、アワビ、ふかひれなどの「俵物(たわらもの)」への需要が増大し、幕府が輸出に力を入れたことだ。その産地として蝦夷地が注目されるようになっていた。
 「このまま放置すれば蝦夷地をロシアに奪われてしまう」
 意次が動くきっかけとなったのは天明3年(1783)、仙台藩の江戸詰め藩医蘭学者でもあった工藤平助が『赤蝦夷風説考』を著し、意次に献上したことだった。
 平助は『赤蝦夷風説考』で、ロシアという国の地理と歴史、特に南下の実情を説明して、このまま放置すれば蝦夷地をロシアに奪われてしまうと警鐘を鳴らした。そのうえで蝦夷地を開発してロシアと交易し、日本の富国を図るべきだと提言した。
 これを読んだ意次は、勘定奉行の松本秀持(ひでもち)に検討を命じた。松本は平助をたびたび呼んで蝦夷地開発の具体策について意見を聴くなどして幕府の方針をまとめた。その内容は、蝦夷地で鉱山開発を進め、そこで産出される金銀銅をもとにロシアと交易し利益を得ることをめざすというもので、まずは調査団を派遣することになった。
 天明5年、幕府から派遣された10人はまず松前に向かい、同地で松前藩の案内役の藩士や医師、通詞などと合流、東蝦夷調査隊と西蝦夷調査隊の二手に分かれて松前を出発した。東調査隊は東蝦夷から国後島まで渡り、西調査隊は西蝦夷から樺太までへ行っている。
 鎖国中だがロシアとの平和的な交易も考えていた
 このような調査は幕府始まって以来の歴史的なものだった。10カ月近くに及ぶ調査を行った調査団は翌天明6年2月に報告書を松本に提出したが、そこには広大な新田開発案が示されていた。蝦夷地本島の10分の1の土地で新田開発が可能とし、その石高は、単位面積当たりの収穫量を内地の半分と仮定して583万石にのぼると推計している。当時の幕府の石高400万石余りより多いことになり、日本全体の約3000万石の20%に相当する計算になる。
 何とも壮大な開発構想だが、これはさすがに現実的なものではなかった。結局その年の8月、意次が失脚したため、蝦夷地開発計画も中止となった。
 それでも、蝦夷地の実情を把握したことの意義は大きく、その成果は後に活かされることとなる。
 意次が蝦夷地開発とロシアとの交易を計画していたことは、長崎貿易の積極姿勢や蘭学の奨励なども併せて考えると、今で言うグローバルな視野も持っていたと解釈できる。事実上「開国」の第一歩となったかもしれなかったのである。
 天明の大飢饉で財政難に陥った大名を救おうとしたが……
 だが、田沼政権の末期になると、構造改革の推進力にはかげりも見え始めていた。
 天明6年(1786)の貸金会所構想の頓挫(とんざ)はその一例だ。構想の内容は、まず全国の寺社や農民、町人に各身分に応じて5年間、御用金として拠出させ、それに幕府も出資して大坂に貸金会所を設立する。貸金会所は、融資を希望する大名に年7%の金利で貸し付け、農民や町人が拠出した資金は5年後に利子をつけて償還する、というものだ。
 これは、当時起きていた天明の大飢饉(ききん)の影響などで財政難に陥った大名の救済が主な目的だった。7%の貸出金利は当時としては低かったため大名にとって借りやすかったし、拠出した御用金は5年後には利子付きで戻ってくるというメリットがあった。現在の国債を先取りするような仕組みで、先進的だったと言える。
 だが、農民や町人たちの目には、負担増加としか映らなかった。結局、この構想は実現する前に中止に追い込まれた。
 そして田沼時代は突然終焉(しゅうえん)を迎えることとなる。
 貸金会所構想が頓挫した天明6年の8月27日、意次は老中免職となったのである。形としては本人が病気を理由に老中の辞職を願い出たことになっているが、事実上の罷免だった。
 なぜ意次は将軍の死と共に失脚し、政策が否定されたのか
 実はその2日前の8月25日に将軍・家治が亡くなっている。公表されたのは9月8日で、将軍の死を秘匿している間に罷免されたことになり、きわめて不自然だ。将軍の死という機会をとらえた意次追い落とし、一種のクーデターだったのだ。
 それだけでは済まなかった。意次はその後二度にわたる減封処分と隠居・謹慎を命ぜられ、田沼家は1万石で陸奥信夫郡下村(現・福島市)に転封となった。意次は天明8年、失意のうちに江戸で死去する。70歳だった。
 ではなぜ意次は失脚し、その政策が否定されたのか。それはまさしく、意次の政策が当時の武士の伝統的な価値観、特に譜代大名など門閥層の利害と相容れない大胆な改革だったからだ。これに意次の異例の出世への嫉妬も重なり、天明の大飢饉など打ち続く自然災害も「田沼の悪政が原因」とされた。
 賄賂政治家との悪評が広がったのも、そのことが一因となっている。最近ではかなり再評価が進んでいるが、それでもまだ汚名が十分に返上されたとは言えない状態だ。
 これまで見てきたように、意次の政策は時代を先取りしたものが多く、時代の歯車を前へ進めようとするものだったのである。それは、行き詰まりを見せていた「米本位制」という経済構造を変える可能性を持っていた。
 もし田沼時代がもっと長く続いていたら、あるいはもし意次の政策が次の政権に引き継がれていたら、日本の近代化や開国はもっと早く始まっていたかもしれない。

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 名古屋刀剣ワールド/名古屋刀剣博物館TOP日本史年表江戸時代「田沼意次
 田沼意次(たぬまおきつぐ)と言えば、今でも「賄賂を取って私腹を肥やした悪者」というイメージで語られがちです。こうした田沼意次に対するバッシングは、彼が老中として活躍していた頃にはもう庶民の間で起こっており、金権政治を揶揄(やゆ)する狂歌もさかんに流布されました。しかし、本当に田沼意次はそこまで悪く言われるほどの人物だったのでしょうか。
 田沼意次―歴史上の実力者
 江戸幕府10代将軍「徳川家治」の右腕として、江戸の貨幣経済の礎を築いた「田沼意次」の生涯をご紹介します。

 目次
 田沼家のルーツ
 田沼時代
 田沼時代の終わり
 田沼家のルーツ
 
 徳川吉宗とともに江戸へ
 19世紀初期に完成した大名・旗本(はたもと:江戸幕府直属の家臣)の家系を記した「寛政重修諸家譜」(かんせいちょうしゅうしょかふ)では、田沼家は藤原氏(奈良~平安時代にかけて日本の政治を牛耳った一族)の出身で、鎌倉時代壱岐守重綱(いきのかみしげつな)という人物が下野国安蘇郡田沼(現在の栃木県日光市付近)に住んだ時に田沼姓を名乗ったと記されています。
 その後は各地の大名に仕え、江戸時代初期に紀伊(きい:現在の和歌山県)で徳川頼宣(とくがわよりのぶ:徳川家康の十男で、紀州徳川家の祖)の家来になりました。そして1716年(享保元年)に徳川吉宗(とくがわよしむね)が8代将軍として紀伊から江戸に行く際に田沼意行(たぬまおきゆき)も同行し、この時に600石取りの旗本となりました。その3年後、田沼意行の長男として生まれたのが田沼意次です。
 異例の出世
 田沼意次
 1737年(元文2年)に19歳で田沼家を継いだ田沼意次は、その仕事ぶりが幕府の重臣に認められ、わずか10年で2,000石取りの旗本へと出世を果たします。
 1745年(延享2年)、徳川吉宗が将軍職を長男の徳川家重(とくがわいえしげ)に譲ると、田沼意次も新しい将軍とともに江戸城に出仕するようになりました。
 その後、田沼意次は御側衆(おそばしゅう:将軍の近くで幕府の政務を処理する役人)として江戸幕府財政再建に力を注ぎました。実は先代の徳川吉宗が行った「享保の改革」(きょうほうのかいかく:倹約と年貢の強化による幕府の財政建て直し)によって幕府の財政は一時的に改善されましたが、徳川家重の代になると凶作となり、増税への反発から各地で一揆(いっき:農民が徒党を組んで役人に要求を突き付けること)が頻発。こうした社会不安の高まりから、幕府は再び財政難に陥ろうとしていたのです。
 そんな状況の中、財政政策を得意とした田沼意次徳川家重の信任を得て着々と地位を高め、1758年(宝暦8年)には10,000石取りとなり、大名に名を連ねました。1761年(宝暦11年)に徳川家重がこの世を去る時には、長男の徳川家治(とくがわいえはる)を呼び寄せて田沼意次を重用するよう遺言を残したと言われます。
 その言葉の通り、10代将軍・徳川家治田沼意次を取り立て、1767年(明和4年)には側用人(そばようにん:将軍に仕え、将軍と老中[ろうじゅう:江戸幕府で政務を行なう最高職]の間を取り次ぐ職務)に任じられ、その2年後にはついに老中格(ろうじゅうかく:老中と同等の資格)にまでのしあがりました。従来、老中は25,000石以上の譜代大名(ふだいだいみょう:徳川家康三河を治めていた頃から徳川家に仕えた家臣)から選ばれるのが普通であった中、田沼意次の出世ぶりは異例のものでした。
 田沼時代
 商業による幕府の立て直し
 徳川家治は祖父である徳川吉宗の政策を引き継ぎ、財政再建に取り組みます。その最前線で次々と政策を実行したのが田沼意次でした。
 しかし田沼意次は、徳川吉宗と違って年貢を強化するのではなく、商業を盛んにすることで財政を建て直そうとしました。例えば株仲間(かぶなかま:商業の統制を図るために、同業の問屋で結成した組織)の奨励や、銅座(どうざ:銅の取引や鋳造を行った商人の集まり)・人参座(にんじんざ:薬用人参の販売を行う商人の集まり)・枡座(ますざ:枡の販売を行う商人の集まり)などを作って専売制を敷き、商人から運上金(うんじょうきん:商人が幕府に納めた税)を取り立てたのです。
 他にも鉱山の採掘や貨幣の鋳造など、田沼意次は商業を重視することで幕府の財政改革に努めました。このように、田沼意次が中心となって幕政を改革した時期を「田沼時代」と呼びます。
 田沼邸につめかける人々
 当時、田沼意次の屋敷には、様々な便宜を図ってもらうために武士や商人らが毎日のように押しかけました。彼らは少しでも自分に有利になるようにと賄賂を贈ったため、この頃にはもう田沼意次が賄賂(わいろ)を受け取る政治家であるという噂が広まり、庶民にも知られたことでした。
 ある時、田沼意次が「最近、万年青(おもと:スズラン科の観葉植物)の栽培に凝っている」と言ったところ、その日のうちに江戸中の万年青がすべて売り切れになり、翌朝、陳情に訪れる武士や商人がみな万年青を抱えていたという逸話があるほどです。
 しかし、当時と今では賄賂に対する考え方が違います。当時の賄賂とは、人のために何らかの便宜を図ったときのお礼という意味が強く、田沼意次に限らず、幕府の役人が賄賂を受け取ることは現代ほど悪いこととは考えられていませんでした。
 多彩な知識人との交流
 田沼意次が多くの武士や商人と語らうことで当時の最新の情報を集め、政策に活かしていたということはあまり知られていません。例えば青木昆陽(あおきこんよう:凶作から人々を救うためにサツマイモの栽培を研究し、普及させた農学者)や平賀源内(ひらがげんない:医学・地質学・蘭学などに通じ、静電気を発生させるエレキテルを日本に紹介した)など、多彩な顔ぶれと交流していたと言われます。
 なかでも工藤周庵(くどうしゅうあん:仙台藩の医師で、東北・北海道の研究家)と交流を持つうちに、田沼意次蝦夷地(えぞち:江戸時代の北海道・千島・樺太の名称)に興味を持つようになり、蝦夷地の開発と港の開港によるロシアとの交易までを視野に入れたスケールの大きな計画を立てていたと言われます。しかしこれは鎖国を守ろうとする幕府の方針に逆らうことであり、財政難もあって実行されることはありませんでした。
 田沼時代の終わり
 幕府内外からの批判
 田沼時代に行われた商業重視の政策により、幕府と都市部の町人・商人には恩恵がありました。しかし運の悪いことに、田沼時代は江戸時代最大の異常気象の時期でもあり、全国で異常気象や疫病、火山の大噴火などが頻発。また天明の大飢饉と呼ばれる食糧難では、東北地方を中心に全国で900,000人以上が命を失いました。都市部でも米などの物価が高騰し、やがてその不満が田沼意次への批判につながっていきます。
 その後、田沼意次士農工商(しのうこうしょう:江戸時代の身分の格差を表すとされた言葉)にとらわれない、実力主義に基づく人材登用を行ったため、これが幕府内の保守的な閣僚の反発を買うことになります。こうした幕府内外からの批判により、やがて田沼意次を排除すべしという気運が少しずつ高まっていきました。
 嫡男暗殺事件
 田沼意次には田沼意知(たぬまおきとも)という嫡男(ちゃくなん:正妻が生んだ最も年長の子で、跡継ぎを意味する)がいました。田沼意知は父より優れた人物と噂されたほどで、34歳のときには早くも若年寄(わかどしより:老中に次ぐ重職)に任じられるなど、親子で幕府の要職についています。
 しかし1784年(天明4年)、田沼意知江戸城内で旗本・佐野政言(さのまさこと)に斬り付けられ、亡くなってしまいます。佐野政言は以前から昇進を願って田沼意知に多額の金を贈ってきましたが、無視されたと思い刃傷(にんじょう:刀で斬り付けること)に及んだとされます。
 しかしこの事件には謎が多く、その場にいた数名の侍が田沼意知の逃げる道をふさいだという話や、田沼親子を良く思わない集団が佐野政言をそそのかして田沼意知を殺させたという話など、様々な噂が立ちました。しかし田沼意次はまったく動じることなく、田沼意知の死から3日後には登城し、平然と政務を行いました。
 この頃にはもう、田沼親子イコール賄賂で私腹を肥やしているという評判は江戸中の誰もが知っていて、佐野政言切腹後に偶然米の価格が下がると、人々は佐野政言を「世直し大明神」とあがめ、逆に田沼意知の葬儀には小石を投げ付けたと言われます。
 異例の過酷な処分
 1786年(天明6年)、徳川家治が病気で没すると、田沼意次は反田沼派の幕閣(ばっかく:幕府の重要政治家)によって老中を辞任させられます。そして徳川家斉(とくがわいえなり)が11代将軍に着任すると、田沼意次は老中時代に不正があったという罪で蟄居(ちっきょ:自宅で謹慎すること)を命じられます。
 しかも大阪と江戸の蔵屋敷が没収され、領地であった相良城(さがらじょう:静岡県牧之原市にあった田沼意次の居城)は破壊され、財産まで没収されるという仕打ちを受けました。これは、江戸時代の幕閣に対する処分としては異例の厳しさでした。
 1788年(天明8年)、田沼意次は70歳でこの世を去りました。その後、老中の松平定信(まつだいらさだのぶ)は田沼時代への反動から、徹底した倹約政策を行います。これはのちに「寛政の改革」(かんせいのかいかく)と呼ばれますが、庶民の着物の柄まで制限するほどの質素倹約ぶりに、江戸の人々は田沼時代を懐かしんだと言われます。
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2018-11-08
🏞74)─1・A─下級武士出身の老中・田沼意次明和事件八重山石垣島、明和の大津波。1762年~No.295No.296No.297・ @ 
2021-04-24
🏞74)─1・B─琉球列島最悪の自然災害。明和の大津波。1771年~No.295No.296No.297 
2018-11-09
🏞74)─2─『解体新書』。ゴードンの暴動。天明の飢饉。浅間山天明の大噴火。江戸。1774年~No.298No.299No.300・ @ 
2019-12-19
🏞74)─3─『解体新書』に刻まれたキリスト教の影響。日本語由来の和製漢字・日本国語漢字。1774年〜No.301No.302No.303・ 
2018-11-10
🏞74)─4─天明の飢饉。フランス革命。クナシリ・メナシでアイヌ人の反乱。藤田幽谷。立原翠軒の意見書。徳川家治の死。1784年~No.304No.305No.306No.307・ @ ㉓

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2023-05-07
🏞77)─1─江戸時代のヒット商品はお上の規制に対する庶民の知恵と創意工夫から生まれた。〜No.313No.314 
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蝦夷地・北方領土四島探索。
2019-04-19
🏞78)─1─英国立公文書館北方領土4島を日本領とする1811年版古地図が発見された。〜No.315 
2023-10-24
🏞78)─2─江戸時代、北海道、樺太、千島、カムチャッカ松前藩領(日本領)だった。〜No.316 
2018-11-16
🏞79)─1─アイヌ人に対する差別と迫害は儒教朱子学)が原因であった。松浦武四郎『近世蝦夷人物誌』。~No.317No.318No.319・ @ ㉕
2018-11-15
🏞79)─2─アイヌ人に対する田沼意次松平定信の違いは、儒教朱子学の毒の有無であった。同化と異化。~No.320No.321No.322・ @ 
2020-04-22
🏞80)─1─弘前城天守閣はロシアの侵略に備えた軍事施設であった。文化7(1810)年。〜No.323No.324No.325No.326・ ㉖
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