🏞85)─1─朱子学(儒教)による、寛政期の出版統制、文化期の表現規制。逃亡浮世絵師・葛飾北斎。〜No.358No.359 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 現代の日本人は、民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力が乏しいゆえに、不都合な現実・事実の物語が理解できない。
 日本を不幸にしたのは、儒教原理主義である朱子学であった。
 初代徳川家康から8代徳川吉宗までは朱子学は必要であったが、11代徳川家斉松平定信寛政の改革以降は弊害が強くなった。
 朱子学の毒が、日本を悪化させた。
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 反権力反権威反体制といっても、現代アートの反天皇表現者と江戸アートの親天皇表現者とはまったく違う。
 現代日本には、江戸時代の伝統・文化・宗教は断絶され生きていない。
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 葛飾 北斎(宝暦10年9月23日〈1760年10月31日〉? - 嘉永2年4月18日〈1849年5月10日〉)は、江戸時代後期の浮世絵師。化政文化を代表する一人。
 概説
 代表作に『冨嶽三十六景』や『北斎漫画』があり、世界的にも著名な画家である。森羅万象を描き、生涯に3万点を超える作品を発表した。若い時から意欲的であり、版画のほか、肉筆浮世絵にも傑出していた。しかし、北斎の絵師としての地位は「冨嶽三十六景」の発表により、不動のものとなっただけでなく、風景画にも新生面を開いた。北斎は、浮世絵で高い芸術性を表したが、大衆的な『北斎漫画』の中にも彼の卓越した描写力を見ることができる。さらに、読本(よみほん)・挿絵芸術に新機軸を見出したことや、『北斎漫画』を始めとする絵本を多数発表したこと、毛筆による形態描出に敏腕を奮ったことなどは、絵画技術の普及や庶民教育にも益するところ大であった。葛飾派の祖となり、後には、フィンセント・ファン・ゴッホなどの印象派画壇の芸術家を始め、工芸家や音楽家にも影響を与えている。シーボルト事件では摘発されそうになったが、川原慶賀が身代わりとなり、難を逃れている。ありとあらゆるものを描き尽くそうとした北斎は、晩年、銅版画やガラス絵も研究、試みたようである。また、油絵に対しても関心が強かったが、長いその生涯においても、遂に果たせなかった。1999年には、アメリカ合衆国の雑誌である『ライフ』の企画「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」で、日本人として唯一86位にランクインした。門人の数は極めて多く、孫弟子も含めて200人に近いといわれる。
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 HOKUSAI TIMES vol.3
 「文春オンライン」編集部
 93 回の引っ越し… …画号を何度も変更……葛飾北斎の奇人エピソードの裏にあった現代にも通じる「深刻な背景」
 {筆で世界を変えた男、葛飾北斎の生涯や偉業を3回にわたって紹介する。最終回は、江戸幕府による厳しい出版統制を紹介。その上で、北斎が90年の生涯に93回引っ越しをし、画号を30回変更した理由を考察したい。同業者や版元が次々処罰される中、北斎が死の間際まで絵を描き続けることができた背景に迫る。}
 江戸幕府による出版文化の弾圧
 浮世絵や洒落本など、さまざまな庶民文化が花開いた江戸時代。しかし、その道のりは決して平坦なものではなかった。葛飾北斎の度重なる引っ越しや改号について考察する前に、まずは江戸幕府による出版文化への弾圧について説明しよう。北斎の生きた江戸時代には「三大改革」が行われた。よく知られる享保・寛政・天保の各改革である。これらの改革では、質素倹約や武芸が奨励されたほか、出版・風俗が厳しく制限された。特に、老中・松平定信主導による寛政の改革では、美人画で名を馳せた喜多川歌麿が手鎖50日という重い刑に処され、失意の中54歳で病没。さらに戯作者・山東京伝らが処罰されたほか、版元の蔦屋重三郎は財産の一部を没収され大打撃を受けている。
 しかし、彼らもただ手をこまねいていたわけではなかった。蔦屋重三郎や絵師たちは、禁止されていた遊女の名前を暗号のように入れたり、役者を動物に例えたりして応戦。幕府に対する反骨精神あふれる行動は大衆から支持されたのであろう。出版業は衰退することなく、より活発になっていった。このような幕府と絵師のいたちごっこの状況で描かれた北斎の作品は『冨嶽三十六景』や『諸国瀧廻り』など景色や旅をテーマにしたものが多く見られる。風景画なら、幕府の弾圧を逃れることができたのだ。そんな北斎も、もとは黄表紙の挿絵や春画など、規制の対象となる作品を手掛けていた。幕府にあの手この手で対抗した結果、前人未踏の風景画に足を踏み入れ、世界を驚愕させた『神奈川沖浪裏』など傑作の数々が生まれたのかもしれない。
 93回。これは、北斎が90年の生涯で引っ越しをした回数だ。『葛飾北斎伝』によると、1日に3回転居したこともあるらしい。その理由として、絵を描くことに追われ掃除をする暇がなく、家が荒れるたびに引っ越していたからだ、などと言われている。しかし、本当にそんな理由だったのだろうか。引っ越しをしたことがある人ならわかるかもしれないが、家を移るには多大なエネルギーを消費する。いくら北斎が健康には人一倍気を配っていたとはいえ、年老いてからの引っ越しはかなりの重労働だったろう。それに、部屋の汚さが引っ越しの理由だとしたら、日に3回も転居するほど荒らす方が難しそうだ。財産を没収された蔦屋重三郎、手鎖に処された喜多川歌麿の例を見るに「北斎は、幕府の弾圧を逃れるために転居を繰り返していた」。そう推測することもできるのではないか。
 「画狂人」など画号を30回変更
 川村鉄蔵。これが北斎の本名だ。そして葛飾北斎という呼び名は、彼の数ある画号のひとつにすぎない。19歳で勝川春章に弟子入りし、勝川春朗の名で役者絵を発表した後、なんと30回も画号を変えている。主なものは「宗理」「戴斗」「為一」「卍」などで、中には「画狂人」という、まさに北斎の生き方を表したかのような強烈なものも見られ面白い。しかし、作家の責任をも表す画号を、なぜ頻繁に変えてしまったのか。その理由として、画号を売って収入を得ていたという説がある。また、規制の対象だった春画は地下出版物として流通したため、隠号を用い幕府の目を欺く絵師もいた。幕府に目をつけられたら、また名前を変えて描けばいい。弾圧を逃れ描き続けるため、そんな「画狂人」らしい理由もあったのではないだろうか。
 映画「HOKUSAI」こんな時だからこそ公開中
 描き続けた生涯、今明かされる、北斎のすべて
 時は江戸。幕府によって表現者たちが自由を奪われていた時代に、自分の道を貫き、ひたすら画を描き続けた一人の絵師がいた。誰もが知る“あの波”を生み出した孤高の絵師、葛飾北斎である。近年、その絵が新千円札やパスポートのデザインに採用され大きな注目を集めている北斎は、ゴッホ、モネなど名だたる印象派アーティストたちを刺激し、今なお脈々と世界に影響を与え続けている。しかし、若き日に関する資料はほとんど残されておらず、その人生は謎が多い。映画「HOKUSAI」は、現存する歴史的資料を元に史実や作品が生まれた年代などを繋ぎ合わせ、北斎の知られざる生涯に迫るオリジナル・ストーリー。平均寿命が40歳だった時代に90歳の長寿を全うし、3万点以上もの作品を残した男はいかに生き、何を描こうとしたのか?画狂人生の挫折と栄光。信念を貫き通したある絵師の人生が、170年の時を経て、今初めて描かれる。
 ©2020 HOKUSAI MOVIE
 出演:柳楽優弥 田中泯 阿部寛 永山瑛太 玉木宏
 監督:橋本一
 企画・脚本:河原れん
 配給:S・D・P
 ※上映劇場は映画公式ホームページでご確認ください
 https://www.hokusai2020.com/index_ja.html
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 江戸文化には二つの大きな流れがあり、政治権力を暴力的に振るう御公儀=徳川幕府が公認して保護する規模の小さい御用文化と幕藩体制を茶化しおちょくり馬鹿にして楽しむ強(したた)かな町人の規模の大きい庶民文化である。
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 朱子学、官学者、御用学者、お抱え絵師。
 私学者、在野の学者、市井の賢者、町絵師。
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 政治権力の御公儀=徳川幕府は、自由な表現の追及する庶民文化を弾圧していた。
 江戸時代は、ブラック社会であった。
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 武士道は、江戸時代には存在せず、大正時代頃から時代小説で新しく作られた物語である。
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 日本出版学会
 Home研究報告秋季研究発表「江戸時代初期から寛政改革期にかけての出版規制再考――ビジュアル公共圏の萌芽状態を観察する」鎌田大資(2016年12月 秋季研究発表会)
 「江戸時代初期から寛政改革期にかけての出版規制再考――ビジュアル公共圏の萌芽状態を観察する」鎌田大資(2016年12月 秋季研究発表会)
 2018年2月12日 秋季研究発表
 江戸時代初期から寛政改革期にかけての出版規制再考
――ビジュアル公共圏の萌芽状態を観察する
鎌田大資
椙山女学園大学
 本報告では,ハバーマスの公共圏論の日本版を意識しながら江戸時代の出版業の歴史を考察した。ハバーマスは,英仏市民革命の前後を中心に18世紀から20世紀中葉頃までを考察している。日本でも同時期に,代表的産地である京都,江戸のみでなく,地方各地にも木版印刷物が市販され,流通する形態が確立しつつあった。
 桃山時代に一時的に試行された高コストな活字印刷のあと,江戸時代初期以降には,木版印刷が試行され定着した。当初は京都で制作される宗教書などが中心で特に規制の必要もなかったが,やがて切支丹禁令に抵触するキリスト教教理への言及を根絶させ,大名家や寺社など名望家たちに関する流言流布の防止を意図した規制が開始される。元禄期を中心とする綱吉時代の出版規制は,問題の所在も,幕府側の取締り方針も明示せず,統制側の意図や目的を読みとれない形で実施された。たとえば絵師,英一蝶や,江戸落語の開祖,鹿野武左衛門らは追放刑にあったことだけは確実と思われるが,処罰の理由は不明である(馬の物云う事件)。
 吉宗の享保の改革に至り,享保7年(1722),南町奉行大岡忠相らの協力で,従来の出版規制の方針を集大成して周知させる触書が作成され,版元の株仲間による自主規制と幕府による書物の公認制度が確立する。統制側の意図が明示されたことで禁を犯す業者も減り,しばらく取締り自体が影をひそめる。
 ところが,幕府が支配する知的秩序の刷新を意図する松平定信寛政の改革により,世相批判の洒落本が処罰され,泥棒を見て縄をなう式の場当たり的な規制が再導入される。武士,町人を問わず同好の士が交わり,楽しみを共有していた天明期の狂歌壇は活動休止に追いこまれた。書き手不足に苦しむ新興有力版元,蔦屋重三郎が重用し,絵師から作者に転じた作家,山東京伝俳諧絵本の挿絵画家から美人画の作者へと転じた絵師,喜多川歌麿らによって,文字表記を浮世絵に書きこむ技法として,のちに規制に抵抗する表現技法となった「判じ絵」が導入された(図1,2)。
 それを幅広く体系的に発展させて一世を風靡したのは,天保期をはさんで活躍した歌川国芳である。国芳は「判じ絵」を文字絵としてだけでなく,家紋により物語上の人物と幕府の現役政治家を二重に表象するやり方でもちい,発禁処分を免れる多彩な表現を可能にした。ただし実際に規制を逃れるためには,取調べを受けても作品意図に関する言い訳となる故実を調査し,その風刺画により利益を得る勢力を後ろ盾として作に当たる慎重さが必要だったと推測される。「判じ絵」で,老中,水野忠邦のような幕府要人を批判する際には,幕閣内の反対勢力,幕府御用商人である版元などの多様な思惑や相互作用が推定されている。
 上記の研究に際し,シンボリック・インターラクショニズムの伝統のうち,犯罪学とも関連するレイべリング理論の知見に言及し,時代相の特性を浮き彫りにする。革命終結後,帝政,王政,ブルジョワ政権と,政治制度の変遷が激しかったフランスにおいて,社会学という言葉は1830年代に造語された。そうした歴史を忠実に反映して,「憲法に守られ市民社会をもたらす公共圏」が成立し,人権思想の理念を組みこんだ最高法規としての憲法のもとにある社会に適用すべく,各種の社会学理論は構想された。
 すなわち,享保以前の取締り方針自体が公表されない時代は,将軍家の恣意的な意向による処罰を受けた人々が罪の自覚を得て,社会的反作用として逸脱的なアイデンティティを形成するはずだというレイべリング理論の適用範囲外となる。同様に寛政改革期においても,享保改革でひとたび定められた基準に抵触しない作品も取締りの対象となり処罰を受けた。この際にも,従来の触書から敷衍して処罰の可能性を事前に知ることは不可能であり,取り調べを受けた側に犯罪者の自覚は育ちにくい。規制に対する社会的反作用として「判じ絵」の技法が確立していくことも,規制を受ける側がそれを逃れようと工夫した規制逃れの方策にすぎない。ただし,やがて幕末となり外様雄藩の連合による幕府打倒という事態が実現すると,寛政期に開発され出版物にその痕跡を止める「判じ絵」による批判の社会的影響力が増大していくことが予測される。今後,天保改革期,幕末期,明治,大正,昭和と研究を継続する予定である。
 参照文献
 鎌田大資,2015,「日本出版統制史再考――序説・江戸時代初期享保以前」『金城学院大学論集』(社会科学編),12(1):54-70; 2016
 「判じ絵,迷走の果ての抵抗――絵師,作者,版元らの寛政改革への対処をめぐって」『現代社会学部紀要』10(1): 1-39.(中京大学
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 東京大学教員の著作を著者自らが語る広場
 書籍名 歴史文化ライブラリー
 江戸の出版統制 弾圧に翻弄された戯作者たち
 著者名 佐藤 至子
 判型など 240ページ、四六判
 言語 日本語
 発行年月日 2017年10月18日
 ISBN コード 9784642058568
 出版社 吉川弘文館
 娯楽小説が出版され、不特定多数の読者がほぼ同時期にそれを読む。現代では珍しくもないことだが、こうした読書のしかたが生まれたのは印刷技術が民間に普及し、商業的な出版がおこなわれるようになった江戸時代以降である。
 本書がとりあげるのは、江戸時代後期 (18世紀中頃~19世紀) の江戸で出版された娯楽小説と、それに対する出版統制、および自主規制の問題である。
 当時の江戸では、戯作 (げさく) と呼ばれる娯楽小説が多数作られていた。豊富な挿絵をもつ黄表紙 (きびょうし) や合巻 (ごうかん)、遊里を描く洒落本 (しゃれぼん)、伝奇的な歴史小説といっていい読本 (よみほん)、男女の恋愛模様を綴った人情本 (にんじょうぼん) などである。
 戯作ということばは、もともとは戯れの著作、知識人の余技としての執筆という意味をもつ。しかし江戸時代後期の商業出版に組み込まれた戯作は、単なる趣味の産物ではない。版元にとってそれは商品である。つまり、それが売れるかどうか、出版にかけた費用が回収できるかどうかが重要な問題となる。
 売れるものにするためには、二つのことがポイントになる。読者の需要に応じた内容であることと、書籍を取り締まる法令に違反しないことである。
 戯作に対する取り締まりの根拠となる法令は、好色本の絶版などを命じる享保七年の出版条目であった。以後の取り締まりは、この法令に新たな規制や制度を付け加えるかたちで進められている。
 本書では、寛政の改革、文化期、天保の改革という概ね三つの時期に焦点をあて、それぞれの時期に戯作に対してどのような統制がおこなわれ、作り手たちがそれにどのように対処してきたかを、具体的な事例を取り上げて述べた。
 寛政の改革に伴う黄表紙や洒落本の絶版、戯作者山東京伝の処罰、天保の改革に伴う人情本や合巻の絶版、戯作者為永春水の処罰などは、比較的よく知られるところである。本書では、それらに加えて、一般にはあまり知られていなかった文化期の表現規制についても詳しく言及した。
 戯作に対する規制は、好色本と見なしうる著作の禁止や、悪人・怪異描写の制限などにとどまらず、作中の時代設定や、装丁上のことがらにまで及んだ。娯楽小説に過ぎない戯作が、なぜそこまで厳しい統制を受けることになったのか。その答えは、本書を読んで考えていただければと思う。
 江戸時代は現代と地続きである。江戸の戯作に対する統制の歴史や作り手による自主規制の実態を知ることは、現代の表現規制や自主規制の問題について考えるうえで、多くのヒントを与えてくれるだろう。
 (紹介文執筆者: 人文社会系研究科・文学部 准教授 佐藤 至子 / 2018)
 本の目次
 近世という窓から現代を考える―プロローグ
 寛政の改革黄表紙
 山東京伝と筆禍
 文化期の出版統制
 天保の改革人情本・合巻
 戯作の生命力―エピローグ
 あとがき
 主要参考文献
   ・   ・   ・   
 ベネッセ教育情報サイト
 子育て・教育・受験・英語まで網羅したベネッセの総合情報サイト
 ME>日本の歴史特集>寛政の改革とは?寛政の改革を行った人物と改革の内容5つ
 寛政の改革とは?寛政の改革を行った人物と改革の内容5つ
 寛政の改革を行った人物とは?
 寛政の改革は老中・松平定信によって主導された改革です。松平定信は8代将軍徳川吉宗の孫で、陸奥国白河藩主(むつのくにしらかわはんしゅ)でした。
 10代将軍の世継ぎにと望まれていましたが、当時実権を握っていた田沼意次(たぬまおきつぐ)によって白川松平家の養子に出されます。その後白川家の家督を継ぎ、白川藩主として天明の飢饉を乗り切り、藩政を立て直した功績によって名君と称えられました。
 そして1787年には老中首座(ろうじゅうしゅざ)、翌年には将軍の補佐役にして、寛政の改革に取り組みます。松平定信は、祖父徳川吉宗享保の改革を手本として幕藩体制の立て直しを目指しました。
 寛政の改革は江戸の三大改革の一つ
 8代将軍徳川吉宗の治世で行われた享保の改革と、12代将軍徳川家慶(とくがわいえよし)、老中水野忠邦(みずのただくに)によって行われた天保の改革、そして寛政の改革の三つが江戸時代に江戸幕府が行った三大改革です。それぞれ行われた年代も確認しておきましょう。
 改革の名前 |享保の改革   |寛政の改革   |天保の改革   |
 年号    |1716年〜1745年|1787年〜1793年|1841年〜1843年|
 将軍    |徳川吉宗    |徳川家斉    |徳川家慶    |
 主導した人 |徳川吉宗    |松平定信    |水野忠邦    |
 寛政の改革が行われた目的とは?
 寛政の改革の目的は、幕藩体制の立て直しでした。松平定信が老中に就任する前は田沼時代と呼ばれ、老中田沼意次(たぬまおきつぐ)による経済振興を主眼に据えた政治が行われていました。田沼意次によるさまざまな政策により、地方の農村まで貨幣経済が浸透して都市部では華やかな文化が花開きます。
 一方で役人たちの間での賄賂の横行など政治の腐敗も現れました。また浅間山の噴火や天明の飢饉などの天災によって全国の百姓は困窮。打ちこわしや一揆が多発します。
 なかでも、幕府や諸藩に衝撃を与えたのが、天明の打ちこわしです。江戸や大坂だけでなく全国30都市で打ちこわしが行われ、米屋などが襲われました。その結果、田沼派は失脚して、名君で知られた松平定信が老中に就任したのです。
 松平定信は田沼時代の悪習を一掃して、クリーンで統制が取れた幕藩体制を取り戻そうとしました。
 寛政の改革の内容5つ
 囲米
 囲米(かこいまい)とは、凶作や天災によって作物がとれなくても、しばらくは民衆が飢えないようにするために米を備蓄する制度です。松平定信が老中に就任するきっかけになったのは、天明の飢饉によって引き起こされた天明の打ちこわしです。民衆らが飢えて権力にたてつく行為を防止するためには、彼らが飢えないような対策を講じておく必要があります。
 松平定信が取り決めた囲米とは、諸大名に1万石につき50石を5年間領内に備蓄させる仕組みです。囲米によって、幕府や諸大名は備蓄を続け1843年には幕府の囲米が55万石、諸大名の囲米は88万石に達したといわれています。
 さらに、大名だけでなく民衆らが穀物やお金を出し合って備蓄する「社倉(しゃそう)」や、富裕者が寄付をする「義倉(ぎそう)」の仕組みも構築しました。江戸では米や穀物だけでなく七分積金(しちぶつみきん)と呼ばれる制度によってお金を積み立てて、天災等に備えました。
 朱子学以外の学問を禁止
 松平定信は1790年、儒学の一つ朱子学(しゅしがく)以外の学問を湯島聖堂の学問所で学ぶことを禁じる「寛政異学の禁」を発令しました。湯島聖堂の学問所は後に昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ)と名を改めて、幕府の直轄学問所になります。
 湯島聖堂の学問所では、寛政の三博士(かんせいのさんはかせ)と呼ばれる儒学者朱子学を教えていました。
 寛政の改革では、武士だけでなく民衆に対しても出版統制などで思想を統制しようとします。風俗に悪影響を与えるものや、噂話を盛り込んだ本を貸し出すことを禁止した出版統制令が出されて多くの作家が処罰されました。
 武士の救済
 松平定信が老中に就任した時代は、多くの武士が生活に困っていました。家を失う御家人や、刀を売る御家人なども存在していたのです。
 そこで1789年に打ち出された政策が棄捐令(きえんれい)でした。棄捐令は1784年以前に蔵米取(くらまいどり)の旗本や御家人が札差(ふださし)から借りた借金の返済を免除するというもの。
 蔵米取とは、知行地を持たない旗本や御家人のことをいいます。彼らは知行地を持たず知行地からの収入がないことから幕府から米を支給されていました。札差は幕府と蔵米取を仲介して、米の受取や売却を行っていた商人です。生活に困窮している御家人や旗本に高利率でお金を貸していました。
 棄捐令によって借金がなくなり、旗本や御家人は大いに喜んだといわれています。一方で札差は大損害を受けました。棄捐令によって帳消しにされた借金は118万両にのぼったといわれています。
 旧里帰農令
 江戸幕府の財政の基盤は農村から挙げられる年貢による収入です。ところが、田沼時代によって貨幣経済の浸透、度重なる天災によって農村から人口が流出して多くの人々が江戸に流入したのです。
 さらに江戸では流出した農民たちが生活基盤を築けずに市中を徘徊するなどして社会問題化していました。江戸への農民の流入は幕府の収入基盤である農村の荒廃と、江戸の治安悪化を引き起こしていたのです。
 そこで松平定信は、農村を復興させるべく旧里帰農令(きゅうりきのうれい)を出して、地方から江戸にやってきた人々に、農村に帰ることを推奨しました。ただ「帰りなさい」と命じたわけではなく、旅費や補助金を支給して帰れるような体制を整えます。
 さらに荒廃した農村を復興するための政策も推し進めました。帰る農村がない人々については、石川島の人足寄場(にんそくよせば)で職業訓練を行います。さまざまな技術を習得させて手に職を付けて独立できるようにサポートしたのです。
 倹約の徹底
 江松平定信が老中に就任した頃の幕府は、凶作や飢饉対策によって深刻な経済危機していたため、徹底した倹約令が出されました。大奥の予算を削り、朝廷にも経費の節約を要請。民衆に対しても厳しい倹約を求めました。
 都市部では田沼時代に華やかな生活が定着していたため、厳しく贅沢を禁止。多くの人々からの反感を買うことになります。
 寛政の改革のその後
 松平定信による寛政の改革は、幕府の体制を整え、財政を立て直すなど一定の効果をあげました。幕府だけでなく諸藩でも財政危機を克服すべく、寛政の改革の前後から藩政の改革が相次ぎ、効果をあげています。
 ところが、厳しい倹約や統制を強いられた民衆はこれに反発。将軍徳川家斉との対立もあいまって、松平定信は1793年に老中の座を解かれてしまいます。
 松平定信の失脚によって寛政の改革も終了。寛政の改革後は、欧米諸国の接近や天明の飢饉によって幕藩体制は大きく揺らいでいきます。そして約70年後の徳川幕府終焉へとつながっていきました。
 寛政の改革から学べること
 寛政の改革から学べることは、「厳しいルールは反発を招いてしまう」ということです。
 寛政の改革の政策を一つずつ確認すると、とてもよく考えられた優れたもののように思えます。災害に備えた備蓄米は増加しましたし、幕府の財政危機も脱しました。
 ところが、民衆からの支持は得られません。それどころかこのような狂歌(きょうか)まで流行してしまいます。
 「白河の清きに魚も住みかねて もとの濁りの田沼恋しき」
 白河とは、白河藩主であった松平定信のことです。この歌の趣旨は「松平定信の正しいけれど厳しい世の中よりも、濁っている田沼時代が懐かしい」というもの。
 正しいルール、道理が通ったことであっても、それを過度に強要されることは息苦しいものです。松平定信のように正しいことをしているつもりでも、周りから理解されなければ居心地はよくありません。
 グループや会社のリーダーとして、他人をまとめる立場にたたされたときは、ルールだけで統制しようとするのではなく、人の気持ちを考えて行動したいものです。
 寛政の改革について理解しましょう
 寛政の改革は、徳川吉宗の孫・松平定信によって行われた江戸の三大改革の一つでした。
 改革自体は部分的に見ると成功をおさめたといえますが、民衆からは反発を招き、将軍家斉との不仲も相まって松平定信は志半ばに失脚してしまいます。大局的に見ると徳川幕府の終焉を早めた可能性もあります。
 寛政の改革についてさらに理解を深めたい方は、南湖公園を訪れてみましょう。南湖公園松平定信が造ったといわれる、日本最古の公園です。
 吉野桜や雪景色など四季折々の風景が楽しめます。松平定信は、身分に関係なく誰でも楽しめるようにとの願いを込めてこの地を造ったといわれています。
 アクセスマップ
 名 称:南湖公園
 料 金:無料
 住 所:福島県白河市南湖
http://shirakawa315.com/sightseeing/nanko.html※情報は変更されている場合があります。
 監修者プロフィール
 門川 良平(かどかわ りょうへい)
 教育コンテンツ開発者。教材編集者・小学校教員・学習事業のプロデューサーを経て、現在は、すなばコーポレーション株式会社代表としてゲーム型ワークショップや学習漫画、オンライン授業などの開発を行う。オリジナル開発したSDGs学習ゲームなどの教育コンテンツを軸に日本各地の自治体と連携を進めている。
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江戸の出版統制: 弾圧に翻弄された戯作者たち (歴史文化ライブラリー)
もっと知りたい葛飾北斎 改訂版 生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション)
なぜ論語は「善」なのに、儒教は「悪」なのか 日本と中韓「道徳格差」の核心 (PHP新書)
   ・   ・   ・   
 日本では、政治権力に結び付ついて得をする官学者・御用学者は学識・教養なき身分低い庶民から軽蔑され嫌われ、その時・時代は持て囃されても次の時代には社会から抹消され、歴史にも名が残らず忘れ去られる。
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 グローバル志向の強い現代の日本人は、昔の日本人とは違いローカルな民族伝統文化を理解していないし持ってはいない。
 つまり、現代の日本人は日本民族の伝統文化とは無縁に近い。
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 日本文化という時の民族伝統文化とは、江戸時代の庶民による公権力に対する声なき反逆文化である。
 表向き、建前として、権力や権威に傅いても、内向き、本音では権力や権威を馬鹿にし嫌っていた。
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 世界の文化、西洋でも中華でも大半の文化は権力者・支配者、上級階級・富裕層の趣味・娯楽・装飾であった。
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 日本文化が、時代を越え、国家・国境を越え、人種・民族を越えて、世界的に愛されるのは庶民文化だからでる。
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 庶民文化を影ながら精神的に支えていたのは、天皇の御威光と皇室の宮廷文化であった。
   ・   ・   ・   
 日本の身分低く貧しい庶民(百姓や町人)は、西洋や中華(中国・朝鮮)の搾取され虐げられた哀れな民衆・人民・大衆とは違っていた。
 日本の庶民は、御上・権力者・支配者の理不尽な強圧的に対して「ご無理ご尤も」と恐怖してひれ伏し従う気はなかった。
 武士・サムライは、戦国時代で嫌というほど庶民の油断も隙もならないおぞましい本性を体験しただけに、庶民を侮蔑し軽蔑し差別し、親しくつき合う事なく意図して遠ざけ、「由(よ)らしむべし、知らしむべからず」の原則に従って政にも参加さなかった。
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 日本で、江戸時代にキリスト教が、大正時代にマルク主義(共産主義)が、学のない貧しい庶民の支持を得られなかったのはこの為である。
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 命を捨てても天皇・皇室を護ろうとした狂信的勤皇派・尊皇派は、下級武士、貧しく身分低い庶民、芸能の民、部落民、賤民、異能の民、異形の民などの、政治権力や宗教権威に面従腹背する下層階級に多かった。
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 明治維新後の廃仏毀釈は、起きるべくして起きた庶民の宗教弾圧で、それだけ庶民が政治権力に媚びへつらう仏教教団への怒りがあったという事である。
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 自由な表現といっても、江戸時代の庶民文化と日本の日本アートは違う。
 その象徴が、あいちトリエンナーレ2019騒動であった。
 その違いは、常識ではなく人としての道理による分別だる、つまり理(ことわり)が理解できる大人かできない子供かである。
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