⚔50)─2・B─徳川家康が北方開発を進めていれば。鎖国策は失敗であった。〜No.214 

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 2023年10月27日 YAHOO!JAPANニュース 夕刊フジ「対ロシア、徳川家康が北方開発進めていれば…オホーツク海は日本の内海に 理解に苦しむ保守派の「鎖国は賢明」
 北方領土
 【八幡和郎「動乱の時代」】
 「鎖国」で世界の進歩に後れを取った江戸幕府は火縄銃で黒船に対峙(たいじ)したが、世界情勢や国際法の知識もなく、本州・四国・九州と北海道の一部に閉じ籠もり、欧米の領土獲得競争の埒外(らちがい)にあった。
 【写真】サケ漁が盛んだった戦前の択捉島の様子
 竹島問題も日本人が住んでいた鬱陵(うつりょう)島を朝鮮に譲ったのが遠因だし、沖縄も島津氏の保護だけに留めたから苦労した。
 北方では、平安時代青森県東南部まで支配下にした。ただ、意識としては平家物語に千島(列島)が出ているし、松前藩はカムチャツカや樺太も所領としていた。アイヌの間接支配で満足し、鎖国で国際情勢も寒冷地での防寒も学ばなかった。
 ロシアは16世紀末からシベリアに進み、1648年にオホーツク海に達した。清の康煕帝は89年、ロシアのピョートル1世とのネルチンスク条約で、ロシアを樺太の北端よりさらに北に封じ込めた。
 ところが、江戸幕府はロシアの動向すら知らず、1771年にカムチャツカに抑留されていたポーランドの軍人、モーリツ・ベニョヴスキーが脱出して日本に立ち寄ってロシア進出を知った。
 江戸中期の老中、田沼意次蝦夷地開発を進めた。だが、後任の老中、松平定信林子平の『海国兵談』を発禁にしたり、蝦夷地開発はロシアを誘い込むとして遅らせるなど迷走した。
 北方に派遣された松前藩、幕府、東北諸藩の少数の現場の武士は慣れない土地で奮闘したものの、その場しのぎだった。
 ペリー来航(1853年)後、日米和親条約(54年)で200年以上続いた鎖国政策は終わる。翌55年、日露和親条約で、択捉島より北はロシア、樺太は雑居地としたがロシアの進出が圧倒的で、樺太・千島交換条約樺太は放棄した。
 古代日本は、朝鮮での「任那復興」をあきらめたのち、北方開発に全力を挙げた。徳川家康が北方開発を進めて鎖国もしなければ、オホーツク海は日本の内海だったのではないか。
 このあたり、専守防衛憲法9条で国が守れるという哲学と通じるが、最近の保守派の多くまでが「鎖国は賢明な政策だった」というのは、理解に苦しむ。 (評論家・八幡和郎)
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