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2023年10月22日 MicrosoftStartニュース アサ芸プラス「藩命で「偽金作り」も…発覚したら全責任を押し付けられて切腹した悲しい武士
藩命で「偽金作り」も…発覚したら全責任を押し付けられて切腹した悲しい武士
© アサ芸プラス
いつの世も、すさまじきは宮使えだ。明治維新直後に起こった「パトロン事件」を知っているだろうか。越後戦争(戊辰戦争)の際、明治新政府から大量の弾薬(パトロン)供出を命じられた加賀藩支藩・大聖寺藩が藩ぐるみでやった偽金騒動のことだ。
首謀者は市橋波江という170石の武士。大聖寺は石高10万石ほどの藩だが、財政難にあえいでいた。当時はどの藩も新政府からの資金調達を命じられた上、歳入の使い方もチェックされ、財政は火の車だった。資金繰りに窮して、自ら廃藩を申し出るところもあったという。
そんな中、大聖寺藩が手を染めたのが、藩をあげての偽金製造だった。藩は武士でありながら金銀細工に詳しかった市橋を、偽金製造プロジェクトの責任者に任命した。そして小判ではなく、二分銀を製造させた。
市橋の偽金製造法は、今も残っている。まず一分銀や銀のかんざしなどを溶かし、不純物を加えて銀メッキを施す。そうしてできた偽金を俵に詰め込んで山代温泉に運び、数日間、温泉に沈めたという。温泉に沈めることで、偽金は本物のように古く見えるようになったといわれている。
1枚の偽金は4倍の儲けを生んだという。そのため上方や越後では、大聖寺藩の偽金の評判は上々で、藩は上方に商店を作って大量に銀の道具を買い入れるまでになった。重臣の石川専輔などは利益を元に蒸気船を製造し、琵琶湖での舟運業に乗り出している。
ここまで堂々と偽金作りをされては、新政府も動くしかない。だが、大聖寺藩の動きは早かった。摘発前に石川専輔を京都へ派遣して事態のもみ消しに奔走させ、最終的には全責任を市橋に押しつけ、切腹させたのである。まさに死人に口なし。市橋の自害で、藩は改易や減封といった処罰を免れた。まさに現代にもあるような、トカゲのしっぽ切りだ。
だが藩のお偉方も、さすがに気がとがめたのだろう。その後、市橋の子息は倍の禄を与えられている。なお、今も地元・錦城山(大聖寺城跡)には、偽金を作っていた洞穴が現存している。
(道嶋慶)
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DIAMOND oniin AERA dot.「明治初期に横行した藩の「偽金づくり」、新政府にバレた大聖寺藩と福岡藩の命運はどうして分かれたのか?
明治維新による新政府樹立後、多くの藩は財政難にあえいでいた。戊辰戦争により出費がかさんだうえに、新政府により藩歳入の使い道まで定められたためである。苦境に立たされ廃藩を申し出るところも多かったが、金策に走りどうにか乗り切ろうとした藩も存在した。その金策のひとつに、「偽金」がある。河合敦著『江戸500藩全解剖 関ヶ原の戦いから徳川幕府、そして廃藩置県まで』(朝日新書)では、偽金造りを行った二藩の行く末が記されている。同じく偽金造りを行ったにもかかわらず、それぞれの藩の未来は全く異なる結果となった。その理由とは――。
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幕末、諸藩は財政の苦しさから多くの藩で偽金作りをおこなっていた。薩摩藩などはその代表だったが、明治になっても財政難が解消されなかったことで、相変わらず偽金を造り続けている藩があった。そんな不正行為を大規模におこなったのが加賀藩前田家の支藩・大聖寺藩(10万石)だった。
戊辰戦争のさい大聖寺藩は、新政府から大量の弾薬(パトロン)の製造を命じられた。だが財政難だったことで資金繰りに窮し、金銀細工に詳しい下士・市橋波江を責任者として二分銀の偽金製造を命じたのである。市橋は一分銀や銀のかんざしなどを溶かし、不純物を加えて銀メッキを施した偽金を俵に詰め込んで山代温泉に持ち込み、数日間、温泉に沈めた。そうすると、偽金は本物のように古く見えるからだ。
このため上方や越後では、大聖寺藩の偽金の評判が上がった。一枚の偽金は4倍のもうけを生むので、藩では上方に商店をつくって大量に銀の道具を買い入れた。また、藩では重臣の石川専輔が中心となって蒸気船を製造して琵琶湖の舟運に乗り出していった。こうした羽振りの良さが他藩の妬みを買い、偽金造りを新政府に密訴されてしまった。このため新政府も動かざるを得なくなった。大聖寺藩は石川専輔を京都に派遣して事態のもみ消しに奔走、最終的に市橋波江に全責任を押しつけて自害させることで改易や減封といった処罰を免れ、事なきを得たのである。
『江戸500藩全解剖 関ヶ原の戦いから徳川幕府、そして廃藩置県まで』
河合敦 著
定価1045円
(朝日新書)
なお、波江の子には禄高を倍増し、その労に報いたという。いまも地元・錦城山(大聖寺城跡)には偽金をつくっていた洞穴が現存する。
対して、無事に済まなかったのが福岡藩黒田家だった。
同藩も財政難に苦しみ、新政府の太政官札や一分銀などを大量に偽造し、その金を財政の補填だけでなく、藩士の遊興におおっぴらに使ったのである。ただ、大聖寺藩と異なり、偽金の出来映えはひどいものだったことからすぐに発覚した。新政府は内偵を進め、明治3年7月に新政府の役人たちが福岡藩庁や通商局などに乗り込み、一斉摘発をおこない、偽金造りに用いた印刷機や贋札を多数押収した。
大聖寺藩と異なり福岡藩は許されず、新政府は明治4年7月2日、知藩事の黒田長知を免職とし、偽金に関わった5人の重臣に死刑を宣告、このほか50名ほどが遠島や懲役、罰金などの処罰を受けた。一説には、この厳しさは新政府による見せしめであり、これによって偽金造りを根絶しようとしたといわれる。長知に代わって知藩事として福岡に着任したのは黒田家とは無縁の有栖川宮熾仁親王であった。廃藩置県の直前の出来事ではあったが、福岡藩は事実上廃藩になったといえるだろう。
◎河合 敦(かわい・あつし)
1965年、東京都生まれ。歴史研究家。多摩大学客員教授。早稲田大学非常勤講師。青山学院大学文学部史学科卒業。早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学(日本史専攻)。「歴史探偵」(NHK総合)他に出演。著書に『殿様は「明治」をどう生きたのか』『関所で読みとく日本史』『徳川15代将軍 解体新書』『お札に登場した偉人たち21人』など多数。
※AERA dot.より転載
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