🏯73)─1─百姓剣法は護身術。江戸末期、百姓は自己責任と自助努力で剣術を学んだ。~No.139No.140 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 身分低い百姓や貧しい下級武士は、理想や夢や希望の代わりに純真・まごころの志を立て、難解な水戸学を学び、皇国と尊皇・勤皇に目覚め、死を覚悟して攘夷運動を行った。
 明治維新を行ったのは、天皇と日本国を外敵(ロシア)から守ろうとした庶民と下級武士達であった。
   ・   ・   ・   
 日本の百姓は、キリスト教がいうほどの哀れな民衆ではなかったし、マルクス主義共産主義)がいうほどぼの惨めな人民でもなかった。
   ・   ・   ・   
 江戸時代は、自己責任・自力救済・自己努力が大原則で、生きる上で他力本願ではなく自力更生が鉄則であった。
 庶民(百姓・町人)は、戦乱であれ自然災害であれ、幕府・大名はもちろん寺社仏閣からの保護・救済・救護をあてにできなかった。
 そこには、他人を当てにする「甘え」は存在しない。
 日本では「甘え」ては生きてはいけない。
 「甘え」が存在するのは、日本の歴史上で現代日本だけである。
 日本民族日本人は、「甘え」などは持っていなかった。
   ・   ・   ・   
 庶民の唯一の選択肢は、命の危険がある場所から我先に一目散に「逃げる」事であった。
 武士の唯一に選択肢は、死を覚悟して逃げず「留まり戦う」事であった。
 日本民族日本人の選択肢は、「逃げる」事であって「戦う」事ではない。
 「逃げる」には一歩間違えば命がなくなる為に知恵と体力が必要で、時々刻々と変わっていく事態に応じて臨機応変に行動しなければならなかった。
 日本民族日本人の正しい生き方は、現実に即し、柔軟となって、新たに生きる道を見出して駆け抜け、新たに生きる術を見つけ極める事であった。
 つまり、日本民族日本人は情緒的情調的情理的な道理・理(ことわり)そして定め・決まりを大事にしたが、観念的論理的な哲学・思想・主義を持つ事がなかった。
   ・   ・   ・   
 江戸時代後期の百姓が、剣術を学んだのは支配階級である武士に憧れ、武士となって立身出世し権力と富を手に入れたいという野心・欲望はなかった。
 庶民には、上昇志向も向上心もなかった。
   ・   ・   ・   
 幕府や大名の財政難で支配力が弱体化し、多発した自然災害の甚大なる被害が社会秩序やムラ社会的共同体意識を弱め、食えなくなった庶民が犯罪者となって治安を悪化させた。
 百姓は、犯罪者から自分と家族を守る為に剣術を学んだ。
   ・   ・   ・   
 庶民にとって自分の生活や仕事に悪影響を及ぼさない限り、自分達を支配する権力者・領主が誰であっても構わず、それこそ日本人でなくロシア人であろうが中国人や朝鮮人でも気にはしなかった。
 江戸時代の庶民には、近代的な国家・国民・民族という運命共同体意識はなく、ロシアが侵略しようが清国(中国)が攻めてきても危機感はなく、ロシアや清国(中国)に占領されても気にはしなかった。
   ・   ・   ・   
 百姓にとって、農耕と結び付いている天皇家・皇室に対しては親近感はあっても、年貢などの重税と苦役を強制する幕府や大名には無関心であった。
   ・   ・   ・   
 百姓は、天皇家・皇室を護ろうとした尊皇派・勤皇派であったが、日本を外敵の侵略から守ろうという攘夷派ではなかった。
   ・   ・   ・   
 武士は、主君に忠誠を誓い自分の藩を守る事を最優先とし、幕府はもとより他藩の事も日本の事も守ろうとしなかった。
 つまり、武士は、尊皇派・勤皇派でもなく、攘夷派でもなく、討幕派でもなく、佐幕派でもなかった。
 時代の流れで主君と自分の藩を守って行動したら、何故か、勤皇派・尊皇派となり討幕派に参加しただけである。
 だが、所詮は横並び志向、事なかれ、日和見の行動であった為に、廃藩置県によって藩を失い、廃刀令や俸禄返還で武士は廃業させられ、貧乏士族に堕とされた。
   ・   ・   ・   
 幕末・戊辰戦争明治維新が、フランス革命ロシア革命・中国革命などの世界史的変革に比べて死傷者が少なかったのは、領民である百姓が参加しなかったからである。
 百姓や町人達は、官軍と領主軍が戦争を始めたら家財道具を持って一目散に逃げ、戦場から離れた安全地帯で食事をしながら殺し合いを見物し、戦いが終わった戦場で死体から金目の物を奪い、死体を葬って供養した。
   ・   ・   ・   
 百姓などの庶民は、建前では権力弱く従順で温和しそうに見えるが、本心はあんがい強で逞しい。
   ・   ・   ・   
 戊辰戦争は、領民までを皆殺しにする殲滅戦・根絶戦・虐殺戦ではなかった。
   ・   ・   ・    
 日本で国民皆兵を行ったのは長州藩であった。
 長州藩は、戦いたくなかった庶民を「草莽崛起」で兵士として戦場に送り出した。
   ・   ・   ・   
 日本が明治維新ではなく幕藩体制を維持しながら近代化したら、庶民に国家・国民・民族という運命共同体意識が生まれず日本は地球上から消滅していた。
   ・   ・   ・   
 日本が歴史から学ぶべきは、清国の中国ではなくムガル帝国のインドかビルマ王国のミャンマーである。
   ・   ・   ・   
 幕末当時、日本には江戸っ子の他に薩摩人、長州人、土佐人、会津人、津軽人などと区別された庶民が数多く点在していたが、海外に示す一つのまとまりとしての日本人はいなかった。
 明治新政府は、ロシアの侵略から日本を守る為に急いで近代的「国家・国民・民族」という運命共同体意識を庶民に押し付けるべく、誰も文句が言えない拒否できない「天皇の臣民」を持ち出し、近代教育として教えた。
 それが、皇国史観による愛国主義教育である。
 こうして、万世一系男系天皇(直系長子相続)を戴く日本国家・日本国民・日本民族が人工的に誕生した。
   ・   ・   ・    
 百姓が剣術を学んだのは、自分と自分の家族を守る為であった。
 町人が剣術を学んだのは、男らしさを見せて女性に認められたいからであった。
   ・   ・   ・   
 天然理心流とは 武術保存会とは
 天然理心流は剣術、柔術、棒術の三術からなる総合武術である。流祖「近藤内蔵之助長裕」は遠江の人で初めに鹿島新当流を修め、諸国武者修行の後に得る所あり、寛政年間に当流を創始したとされている。
 両国薬研堀に道場を構えたが、多くは多摩、相模への出稽古で門人を獲得した。「天に象り、地に法り、以て剣理を究める」と言われるように天地陰陽の自然の法則に従い、極意必勝の境地に至る自在の剣法である。
 古流を墨守し太い木刀で相手の根が切れるまで何度も打ち合う稽古が有名ではあるがそれは一面であり「型稽古に終始した」などとは作家の書いた大きな誤解で、当時関東を中心として盛んであった防具着用による竹刀稽古、所謂「撃剣」を早くから導入した新流派でもあった。又、これも当時の流行である「気術」(気合術ではない)の考えを取り入れた稽古体系を持っていた。
 天然理心流四代目近藤勇
 当流近藤系の四代目師範 近藤勇
 一般的には「近藤勇新選組の剣」そして「百姓剣法」として有名だが本来は多摩の豪農層だけではなく八王子千人同心に多くの門人を獲得するとともに幕臣や様々な階層にも広がり、尊王佐幕にかかわらず多くの有能な剣客が活躍した。殊に「小野田東市」は「神奈川奉行所剣術師範」を始めとし「幕府講武所」後には「沼津兵学校付属小学校剣術教授」を歴任する等、当流きっての防具剣術のエキスパートであった。
 またその門人「川村恵十郎」は徳川慶喜のブレーンとして幕末京都を中心に活躍したが彼の水戸藩士との実戦譚は新撰組とは別に天然理心流の実力を知る事が出来る(川村は後には明治新政府で活躍する事になる)。
 「落合直亮」は薩摩方の赤報隊に参加し倒幕の為に暗躍したが彼もまた理心流門人であった。
 明治に入り近藤系門人は自由民権運動にも多くの影響を与えたと言われる。
 龍源寺にある天然理心流四代目師範・新撰組局長近藤勇の墓
 一説に「賊軍」の剣法ゆえ明治後は衰退した等と言われているがこのように両陣営に分かれて門人が活躍しており、当然衰退をした訳でもない。
剣術の中に柔術の要素を多く持ちその独自性ゆえに剣道として統一されていく過程では主流となりえなかっただけである。
 東京、神奈川、一部埼玉、山梨にのみ伝派した地域密着型の展開も特徴の一つだが当地域の剣友会の黎明期には理心流門人も多く参加しているのも事実である。
 天然理心流の木刀
   ・   ・   ・   
 東北大学
 ホーム > 2021年のプレスリリース・研究成果 > 身分を超えた剣術の世界:江戸時代 『出羽国の庶民剣...
 2021年 | プレスリリース・研究成果
 身分を超えた剣術の世界:江戸時代 『出羽国の庶民剣士―武田軍太「武元流剣術実録」の世界』を出版
 2021年4月 5日 14:00 | プレスリリース・研究成果
 【発表のポイント】
 江戸時代は「士農工商」という厳しい身分制度があり、武術は武士だけの特権だと理解されてきました。
 当時の歴史資料を解読すると、多くの百姓たちが剣術をならい、地域のなかに文化として定着したことがわかります。
 本書では、百姓出身の武田軍太が書いた記録を紹介し、身分を超えた剣士たちの世界を明らかにしています。
 【概要】
 著者の平川新は、これまで、関東に多数の庶民剣士が存在したことを明らかにしてきました。本書で紹介した武田軍太著の「武元流剣術実録」は、出羽国にも庶民剣士が多数存在したことを証明し、江戸時代の身分制を理解するための一級史料です。
 武田軍太は、百姓身分ながら剣術で身を起こし、文化13(1815)年に高畠藩の剣術師範となりました。武士の門人は同藩のほか、米沢藩士と仙台藩士も確認できます。庶民の門人は、軍太の本拠である高畠周辺および天童近在村々の農民たちで、およそ500人近くを数え、剣術が在村文化として広く定着していたことがわかります。
 詳細(プレスリリース本文)PDF
 問い合わせ先
 東北大学東北アジア研究センター
 担当 荒武賢一朗 野本禎司
 電話 022-795-3140 022-795-3196
 E-mail uehiro*grp.tohoku.ac.jp(*を@に置き換えてください)
   ・   ・   ・   
 歴史的事実として、天皇・皇族・皇室を戦争をして命を捨てても護ろうとした勤皇派・尊皇派・天皇主義者・攘夷論者とは、日本民族であり、学識と知識などの教養を持たない小人的な、身分・地位・家柄・階級・階層が低い、下級武士、身分低く貧しい庶民(百姓や町人)、差別された賤民(非人・穢多)、部落民(山の民{マタギ}・川の民・海の民)、異形の民(障害者、その他)、異能の民(修験者、山法師、祈祷師、巫女、その他)、芸能の民(歌舞伎役者、旅芸人、瞽女、相撲取り、その他)、その他である。
 日本民族には、天皇への忠誠心を持つた帰化人は含まれるが、天皇への忠誠心を拒否する渡来人は含まれない。
 儒教の学識と知識などの教養を持つ、身分・地位・家柄の高い上級武士・中流武士や豪商・豪農などの富裕層・上流階級には、勤皇派・尊皇派・天皇主義者は極めて少なく、明治維新によって地位を剥奪され領地を没収された彼らは反天皇反政府活動に身を投じ自由民権運動に参加し、中にはより過激に無政府主義マルクス主義に染まっていった。
 江戸時代、庶民は周期的に伊勢神宮への御陰参りや都の御所巡りを行っていた。
   ・   ・   ・   
 現代の部落解放運動・同和解放運動が対象とする被差別部落民は、明治後期以降の人々で、それ以前の人々ではない。
   ・   ・   ・