🌏41)─5・A─北海道開拓の父・島義勇。ロシアの侵略の脅威で札幌がつくられた。明治2(1869)年。〜No.134 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 明治日本は弱小国であった為に、世界的植民地大帝国ロシアの侵略から日本を防衛するべく北海道の開拓を急ぎ、大苦戦するであろうロシアとの戦争に勝利する為に国民でもアイヌ人でも犠牲にした。
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 日本の北海道開拓は、アメリカの西部開拓やロシアのシベリア開拓とは違い、平和開拓ではなく軍事開拓として北海道全土を軍事要塞化する事であった。
 つまり、生きるか死ぬかの対ロシア戦の為の軍国主義政策の一環であった。
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2018-05-28
🎵16:─1─日本は、ロシアの侵略に備えて、蝦夷地を北海道と改名し、アイヌ人を日本人とした。~No.31 @ 
2019-01-17
🎵29:─1─囚人道路建設は後の泰緬鉄道敷設に似ている。鎖塚。網走監獄。網走刑務所。~No.68No.69No.70 @ 
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 囚人道路とは、明治20年代ごろの北海道各地において、囚人たちの労働力によって建設された道路の俗称である。
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 鎖塚(くさりづか)は、北海道で行われた苛酷な囚人労働を物語る史跡である。
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 屯田兵は、明治時代に北海道の警備と開拓にあたった兵士とその部隊である。1874年(明治7年)に制度が設けられ、翌年から実施、1904年(明治37年)に廃止された。
 前期屯田の進展
 初期の屯田兵募集は身分上募集が制限されていた。身分や年齢の制限を満たすための便法として養子縁組を行なうものを屯田養子といったが、募集当局に平民を拒む意思はなかったので、身分制限から問題が起きることはなかった。後に原則が取り払われると、新兵の身分比はほぼ人口中の身分比に等しくなった。よって、前期と後期で屯田兵の時代区分をすることがある。
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 囚人街道・囚人の道・囚人道路。
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 屯田兵とは、対ロシア戦における北海道防衛の農民開拓兵士の事で、日露戦争に勝利して千島列島に続いて南樺太を新たな防衛陣地として軍隊を駐留させた為に北海道の戦略的重要性が薄れて非近代的な屯田兵制は廃止された。
 が、アイヌ人は依然としてロシアに味方する危険性があるとして監視の対象とされた。
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 2022年5月25日07:00 産経新聞「日本の道統
 ロシア南下政策への脅威が大都市札幌を生んだ
 有料会員記事
 故郷の佐賀に建立された「北海道開拓の父」と呼ばれる島義勇銅像佐賀市
 南は中原(ちゅうげん)の地を護り、北はよく魯戎(ろじゅう)を鎮めん 『北海道紀行』
 北海道開拓の父と呼ばれる島義勇(よしたけ)(1822~1874年)は、9歳で佐賀藩弘道館に入り、その俊英ぶりがたたえられた。
 弘道館天明元(1781)年に設立された。「寛政の三博士」として老中、松平定信を支えた古賀精里(せいり)が教授を務め、古文辞学系の儒学者、石井鶴山(かくざん)が教頭格となった。石井は弘道館設立にあたって全国各地の藩校を視察。なかでも細川重賢(しげかた)率いる熊本藩時習館が、人材育成を通じた藩政改革に効果を上げていることに強く刺激を受けた。
 こうして弘道館は、藩の改革と結びついた総合教育機関として誕生したが、途中、藩の財政難により困難に陥ることもあった。
 この当時、弘道館を率いていた精里の子、穀堂(こくどう)は『学政管見』を提出。財政難の時だからこそ、教育に力を注ぐべしと主張。また穀堂が侍講を務め、後に佐賀藩主となった鍋島直正も、弘道館の拡充と洋学の積極的な摂取を指示。この結果、これまで山本常朝(つねとも)の「葉隠」精神が支配的だった佐賀藩は、実務に秀でた多くの人材を輩出することとなる。島義勇を含め幕末維新期に活躍した佐賀藩出身の人物は、後に「佐賀の七賢人」と称されるが、そのうち、直正を除く6人は全て弘道館出身者である。
 家督を継ぐと島はすぐさま江戸に遊学。江戸幕府の最高学府、昌平黌(しょうへいこう)の学頭で、当時最も学識をうたわれていた佐藤一斎や、水戸学のイデオローグとして会沢正志斎(せいしさい)と双璧をなす藤田東湖から学んだ。
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 2016年10月4日 産経新聞「日本の源流を訪ねて
 島義勇像(札幌市) 北の大地に生きる「佐賀の七賢人」
 北海道神宮島義勇
 佐賀藩士、島義勇(よしたけ)(1822〜1874)は、幕末から明治時代にかけて、北海道の発展に尽力した。その先見性から、「佐賀の七賢人」の一人に数えられる。
 島は藩校の弘道館で学んだ。その後、安政3〜4(1856〜57)年、藩主の鍋島直正(閑叟(かんそう)、1815〜1871)の命令によって、幕府による蝦夷地(北海道)と樺太の調査に同行した。
 江戸時代、佐賀藩福岡藩とともに、長崎警備を担当した。それだけに藩主・直正は、西洋列強の脅威を肌身で感じていた。ロシアは樺太蝦夷地への進出をうかがっており、島の派遣は、ロシアに対する備えの意味もあっただろう。
 このとき島は、アイヌの生活や自然の様子などをまとめた報告書『入北記』を著した。
 維新後、明治政府は蝦夷地開拓を重視した。
 明治2年、開拓使を設置し、初代長官には直正が就いた。島もその下で働く開拓使判官となった。
 直正は就任間もなく辞任したので、島は後継の開拓使長官、東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)(1834〜1912)と一緒に同年9月、函館に上陸した。
 広い北海道の開拓を本格的に進める目的で、道央に新たな拠点を建設することが決まっていた。
 島らは函館から札幌へ、道なき道を進んだ。島は「開拓三神」と称される大国魂神(おおくにたまのかみ)、大那牟遅神(おおなむちのかみ)、少彦名神(すくなひこなのかみ)の3柱のご神体を背負った。いずれも「国造り」に関連した神様だ。
 10月、銭函(現・小樽市)に開設された開拓使仮役所に着任した島は「札幌本府」の建設に着手した。
 真っ先に3柱の神々を祭る札幌神社=現・北海道神宮=を創建した。
 島は、北側を官庁街に、南側を民間地とした碁盤の目状の街並みを構想していた。それは古都・平安京を模した壮大な都市計画だった。
 極寒の中で、工事は困難を極めた。さらに大凶作で米価が高騰し、年間予算は、わずか3カ月で底を突く。
 増額を訴える島は、長官の東久世と対立し、3年1月に解任され、帰京を命じられた。
 東京に戻った島は、明治天皇の侍従を経て、5年に秋田県の初代権令(知事)となった。島はここでも八郎潟干拓する大事業を構想した。だが、このプロジェクトも反発を招き、翌6年に退官を余儀なくされた。八郎潟干拓開始は戦後の昭和31年まで待たねばならなかった。
 島は佐賀に帰った。
 新政府に不満を持つ旧藩士が結成した「憂国党」の党首に担がれた。征韓論をめぐる政争で新政府を追われた江藤新平(1834〜1874)とともに7年、「佐賀の乱」を起こす。
 政府軍に敗れ、首謀者として斬首された。
 島は明治22年に大赦を、大正5年には従四位の遺贈を受け、公的に名誉を回復した。それでも賊軍の汚名を受けたことは重く、地元・佐賀であまり顧みられなくなった。
 一方、北海道では「開拓の父」として、慕われる。北海道神宮のほか、札幌市役所(札幌市中央区)にも銅像が立つ。昭和4年には円山公園(札幌市中央区)に顕彰碑「島判官紀功碑」が建立された。
 約150年前。島が雪の舞う丘から「他日五州第一都」(いつの日か世界一の都市になるだろう)と吟じた原野は、今や人口200万に迫る大都市に成長した。札幌市中心部は島の都市計画に従った形で発展を続けている。(九州総局 中村雅和)
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 ■島義勇
 北海道札幌市中央区宮ヶ丘474、北海道神宮境内。彫刻家の宮地寅彦氏(明治35〜平成7年)が昭和49年、同神宮の明治天皇増祀(ぞうし)10周年記念事業の一環として制作した。札幌市営地下鉄東西線円山公園」駅から徒歩15分。問い合わせは北海道神宮(電)011・611・0261。
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 島 義勇(しま よしたけ、文政5年9月12日[1](1822年10月26日) - 明治7年(1874年)4月13日)は、江戸時代末期(幕末)から明治にかけての佐賀藩士、明治政府官吏。札幌市の建設に着手し、「北海道開拓の父」と呼ばれる。佐賀の七賢人の一人。江藤新平と共に佐賀の乱を起こし刑死した。
 北海道開拓
 明治2年(1869年)に蝦夷地が北海道と改称され、6月6日に新政府において藩主・直正が蝦夷開拓督務となった。島は蝦夷地に通じているということで蝦夷開拓御用掛に任命され、同年7月22日、開拓判官に就任した。直正から開拓使の長を引き継いだ東久世通禧以下の本府は、北海道で貿易港として早くから開けれていた道南の箱館にあったが、明治政府は北海道の中央部の札幌に新たな本府となる都市の建設を決定。島は同年10月12日、銭函(現・北海道小樽市銭函)に開拓使仮役所を開設し、南下して札幌に至り建設に着手する。当時の札幌は、アイヌのコタン(集落)と和人入植者の家が点在するほかは原野であったが、島は「五州第一の都」(世界一の都)を造るという壮大な構想を描き[2]、京都市や故郷の佐賀などを念頭に置いて、碁盤の目のような整然とした市街を目指して工事を進めた。島は数百人の職人・人足を率い、現地に暮らすアイヌの協力も得た。だが工事開始が冬場に当たり、米の輸送船が沈む危難にも見舞われ、掘っ立て小屋で犬を抱いて寝て寒さをしのぎ、食糧不足に耐えながら札幌建設に従事した。
 その年、明治天皇の詔により東京で北海道鎮座神祭が行われ、北海道開拓の守護神として開拓三神が鎮祭され、太政官訓令の中に、石狩に本府を建て、祭政一致の建前から神を祀る事を命ぜられた。そのため、島は北海道に渡る際、神祗官から開拓の三神を授けられ島は同年9月25日に函館に着き、単身開拓三神を背負って陸路札幌に向かい、10月12日に銭函に到着後、札幌市内に仮宮殿を設けた。また、銭函到着後直ちに先発隊を札幌に向かわせて神社予定地を見定め、現在の札幌市北5条東1丁目に仮宮殿を設け開拓三神を祀り一の宮とした。厳冬酷寒の雪国での都市建設は多額の費用と労力と困難を要した。また、石狩や小樽など西部13群の場所請負人を呼びつけて請負人制度の廃止を通告した。すると函館から、制度名を「漁場持」と変えて制度自体は「従前通リ」とするよう通達が回ってきた。そして岩村通俊が制度廃止を時期尚早とし、開拓費用を彼ら請負人に負担させるべきという意見書を書き送っている。結局、鍋島直正の後任である開拓長官・東久世通禧とは予算をめぐり衝突した。明治3年(1870年)1月19日、島は志半ばで解任された。そして松浦武四郎が函館に赴任した。松浦は偶然に函館の料亭で、役人が漁場持に、島同様に松浦も罷免に追い込むと口約束しているのを耳にした。松浦は陰謀を非難して1250字に及ぶ辞表を東久世に突きつけた。