💄30)─2─江戸幕府を動かしていた大奥(奥女中)の政治力とは。~No.63 

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 2023年10月25日 YAHOO!JAPANニュース 歴史人「田沼意次松平定信の命運を握った大奥の政治力とは? 江戸の政治とカネ問題
 写真・図表:歴史人
 政治にも強い影響力を及ぼした大奥の女性たちを、幕政のトップである老中たちは常に警戒していた。表と奥、水面下で繰り広げられる権力闘争は激化していく……。今回は、田沼意次松平定信、2人の老中と大奥の関係性を紐解く。
■大奥 VS 老中の激しい縄張り争い!
 幕府は度々大奥の引き締めを図り、統制を強化していた。しかし、8代将軍・吉宗の跡を継いだ9代将軍・家重、そして10代将軍・家治の時代に入ると、大奥は再び政治力を持つようになる。吉宗の時代、大奥は老中の統制下に置かれたものの、将軍の信任厚い田沼意次(たぬまおきつぐ)が側用人、次いで老中の座に就いて幕政の主導権を握ると、田沼と手を結んで政治力を取り戻していく。田沼も大奥との提携により政治力を強化し、いわゆる田沼時代の到来となった。
 ここに、大奥による幕政への容喙(ようかい)、大奥を介した「内証ルート」が復活する。その裏では、依頼側から贈られた金品が動いていたのは言うまでもない。そうした金品を原資として、大奥は贅沢な生活に耽る。
 幕府の人事にも影響力を持つほどになった大奥は、11代将軍・家斉の時代に入ると、吉宗の孫で白河藩主の松平定信を老中に擁立しようという動きの前に立ちふさがる。天明7年(1787)6月に、定信は大奥の抵抗を退ける形で老中の座に就いたが、当然ながら大奥の存在を危険視し、その政治力を奪おうとした。
 翌8年3月、家斉がまだ16歳で若年ということで将軍補佐役を兼任した定信は、同10月に「御心得之ケ條」を家斉に示した。将軍として心得るべきことを十数ケ条にわたり提示したが、表向のこと、つまり幕府政治について大奥から願い事があっても採用してはいけない。御台所にせよ、側室にせよ、政治向に関する発言は控えさせてほしいという条項が盛り込まれていた。
 同10月には 「老中心得之ケ條」を老中に示す。そこでも、老中が大奥からの願い事を取り持つことを戒める条項が盛り込まれていた。
 定信は大奥の政治力を奪う一方で、財政難を背景に大奥の経費をそれまでの3分の1にまで切り詰める。その際には、大奥の会計を取り扱う広敷役人の入れ替えを断行した。定信により、退職に追い込まれた御年寄もいた。
 政治力に加え、経費カットにより贅沢な生活も奪われた大奥が猛反発したのは言うまでもない。家斉も大奥の反発は無視できず、寛政5年(1793)7月に定信は将軍補佐役と老中を解任され、失脚する。寛政改革も頓挫した。
 定信が失脚すると、大奥は再び政治力を取り戻す。幕政への容喙や内証ル―トも復活した。大奥に対する締め付けが弱まったことでおのずから経費は膨張したが、家斉の時代は生まれた子女も多かったため、奥女中の数が格段に増えたことも背景にあった。こうして、大奥が贅沢な生活に耽るという図式も再現されていくのである。
 監修・文/安藤優一郎
 歴史人2023年11月号『「徳川15代将軍ランキング』より
 歴史人編集部
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