🏞96)─2─「新伊勢物語」。徳川斉昭は阿部正弘に水戸学の原理を伝授した。天皇制度国家の創出と天皇の軍隊の創設。1840年~No.371No.372No.373 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 水戸学の
 天皇中心のナショナリズム
 日本軍国主義
 近代的天皇制度。
 庶民皆兵。
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 薩摩藩は、海運王国として約5,300隻の帆船を動かして巨額の利益をえた。
 島津斉彬は、海運業で得た大金を集成館洋式工場群に投じて近代化を進めた。
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 1792年 寛政の日露交渉。
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 1807年 文化露寇事件。(シャナ事件・フヴォストフ事件)。
 東北諸藩は、幕府の命に従って蝦夷地・北方領土防衛の為に約3,000人を派兵し、翌年には増派した。
 最終的、北方領土守備総兵力は約4,000人の大軍であった。
 徳川幕府が死守しようとした北方領土とは、択捉島国後島色丹島歯舞諸島の4島である。
 和人(日本人)は、武器を持たない平和なアイヌ人に代わって蝦夷地・北方領土を守ろうとした。
 徳川幕府は、人が住めないような、人が住まないような、最北の不毛な土地であってもロシアに与える気はなかった。
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 「日本人は外圧に弱い」は、現代の日本人であって、当時の日本人ではなかった。
 死の覚悟や滅びの美学などの日本民族の勇ましい雄々しい生き様は、当時の日本人にあって現代の日本人にはない。
 現代日本人は有言不実行であるが、当時の日本人は無言実行である。
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 1840〜42年 阿片戦争
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 1853年6月 ペリーの黒船艦隊来航。
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 2018年7月号 新潮45「水戸学の世界地図 片山杜秀
 36 雄藩協調と公武合体
 明治維新は、失脚中の徳川斉昭が幕府の老中首座・阿部正弘と交わした書簡から始まった。
 水戸学と明治維新
 『新伊勢物語』という書物がある。『伊勢物語』と言えば在原業平をモデルとする主人公の風流な物語。だが『新伊勢物語』は風流譚には程遠い。何しろ水戸の徳川斉昭が老中首座の阿部正弘と交わした書簡集なのである。生々しい政治の話が多い。
 阿部正弘は備後の福山の藩主。1843(天保14)年に江戸幕府の老中に任じられ、のち首座となった。老中首座は内閣総理大臣に相当する。『天保の改革』の水野忠邦が失脚したので、その後を受けた。水野忠邦は越前守。阿部正弘はというと伊勢守。伊勢守との往復書簡集だから『伊勢物語』に引っ掛けて『新伊勢物語』。そう徳川斉昭が付けた。書簡集を編纂して後世に残したのも斉昭本人である。
 手紙のやりとりは両方まとまって残るものでは普通はない。片方が片方に書簡を送付してしまうのだから、後で両方から集めなければ往復書簡集は作れない。だが手紙の写しを作って溜め込む人も居た。徳川斉昭もそうである。だが阿部正弘から取り返さずとも、独り手元で往復書簡集をまとめられた。しかも壮年期にけっこう暇な時間があった。」
 幕府の老中首座と意見交換する。もっと赤裸々に言えば水戸学のポリシーで少しでも洗脳しようとする。失脚中の斉昭には最もやりぎのある仕事のひとつであった。
 もちろん斉昭がいくら老中首座に影響を与えたくとも、阿部正弘がそれを拒めば手紙のやり取りは続かない。老中の伊勢守は、徳川斉昭の水戸学的な、ということはつまり幕政を預かる立場からすれば異端的とも言える政治思想に深甚(しんじん)な興味を抱いた。恐らく相当に感化された。それが阿部の政治姿勢に反映した。明治維新薩長土肥という雄藩が連合して幕府を倒した出来事と思われがちである。だが、将軍の世から天皇の世に戻ったのが明治維新とすれば、天皇が政治に前面化する不可逆的なきっかけを作って、維新への流れを動かしがたいものにしたのは、徳川斉昭に感化された阿部正弘で、その不可逆と思って引き戻そうとし、失敗したのが井伊直弼で、不可逆的な流れを最終到達点まで導いたのは、これもまた斉昭が徹底教育した息子の徳川慶喜だった。そう考えることもできる。
 先取りして言ってしまえば、阿部正弘は、幕府の正統的政治思想に反し、天下の大事については幕府の上位に居る天皇の声に耳を傾け、その意向に従うべきだと、思ってしまった。そして、慶喜は幕府の日本国家に対する統治権天皇から仮に下されているものだから返すのが道にかなっている信じてしまった。慶喜統治権を将軍が天皇に返上するという、恐らく祖先の徳川家康が聞いたら卒倒するような不思議な選択をした。
 阿部正弘のやり方も徳川慶喜の行動も水戸学を抜きにしては到底理解できるものではない。井伊直弼の反動性とは、阿部正弘の前衛的な政治の態度と、次期将軍に斉昭の分身と見られていた徳川慶喜を担ごうとする勢力のこれまた尖鋭な価値観に対する反動性であり、直弼の幕政強化路線へのそのまた反動が、最後の将軍、徳川慶喜の幕府を投げ出すラディカリズムである。
 伝統的な水戸学は天皇中心の日本政治を守護するのが将軍と副将軍の使命と考え、徳川将軍と水戸の副将軍が居なくては国体は成り立たないと思いたがってきたのだが、慶喜になると天皇中心の国体を貫いてより純粋化できるなら将軍家や水戸家が解体しても可という境地に至る。これはもう水戸学左派である。水戸学左派の将軍でなければ、薩長土肥の雄藩連合による幕府打倒は、あそこまで容易であるはずはなかった。戊辰戦争はあの程度では済まず、内乱は徹底化して、アメリカの南北戦争並みになっていたかもしれない。付け加えれば、徳川慶喜戊辰戦争を激化させる道をとらなかったのは、井伊直弼の後をすぐに追ったかのような斉昭の急死後に起きた、水戸の内乱のあまりにも悲惨さを熟知し、水戸の惨状が全国規模で再現されることを極度に恐れたからであろう。
 とにかく、阿部正弘井伊直弼徳川慶喜で幕末維新史を見ようとするとき、起動因として重視されてよいのが『新伊勢物語』とそこからうかがわれる水戸学思想の幕閣中枢への流入である。
 斉昭はなぜ失脚したか
 そもそも徳川斉昭がなぜ阿部正弘と頻繁に書簡を交換するようになったのか。先に触れた通り、失脚したからである。徳川光圀が義公なら徳川斉昭は烈公。何事も激しかった。彼の政治姿勢は周囲を烈々たる戦場にした。水戸藩主を1829(文政12)年に継いでから初めのうちはかなり慎重だったのだが、次第に地が出た。斉昭は、西洋列強に軍事的に対抗しうる高度国防国家体制作りを志向し、そのために藩政を改革し、日本の変革につなげようとした。ペリー来航前にしては発想が大胆すぎた。しかも斉昭の新政策は主に下層の武士たちに支えられた。上層との不和を招きがちだった。水戸藩内で大勢力を成した反斉昭派は、藩外で斉昭の異常としか見えぬ諸々の仕方を嫌悪する勢力と手を結び、藩主交替運動を推し進めた。斉昭は事態を甘く見ていた。いったんの失脚に追い込まれた。
 1844(弘化元)年、徳川斉昭は幕府から致仕謹慎を命じられた。藩主の座を追われた。水戸藩の第10代の当主には徳川慶篤が就いた。斉昭はまだ40代半ば、まさに壮年。慶篤は斉昭の長男で、その年には12歳の少年である。斉昭を取り巻き擁護していた、藤田東湖、会沢正志斎、豊田天功らの水戸の学者も次々と罰を受け、活動を封じられた。
 そのときに列挙された斉昭の咎めの理由は一種壮観である。幕末維新期につながる尖鋭な問題意識が詰まっている。
 第一の罪は水戸藩内で鉄砲を撃ちまくっていること。斉昭は高島秋帆が長崎から広めた西洋式兵術に影響されつつ軍事技術の近代化をはかろうとしていた。天下泰平の江戸時代からの常識からすれば、対外的軍備増強を名目にした反乱準備にも見えた。
 第二の罪は、水戸藩が財政逼迫をやたらと幕府に訴えてくるのは実情と乖離しているのではないか、つまり誇張や捏造があるのではないかということ。水戸藩が17世紀以来、困窮し続けているのは事実である。だがやりくりしようとすればできてきた。斉昭の代には、検地をやり直し、倹約を徹底するなど、財政再建の努力も推し進められている。好転してしかるべき。ところがそうなっていないという。軍事費を膨らませ続け、お金がないから嫁せ寄越せと幕府に要求する。理由は国防の模範を率先して示すための一点張りである。ロシアやイギリスの動向に幕府もまた危機感を抱いてはいるが、水戸の対応は過剰である。別の企みを疑われても仕方がない。
 第三に、御三家のひとつとはいえ、結局は一藩の分際で、蝦夷地に領土的野心を抱き続けること。まことに不穏である。第四に武士を増やしていること。つまり浪人を新たに抱えていること。水戸の言い分は、対外防衛力強化のために武士の数が足りないというのだが、藩の経済が困窮していると叫びながら、藩士を増やすのは自己矛盾も甚だしい。
 そして第五と第六は宗教政策である。徳川斉昭水戸藩領で仏教を広く抑圧している。幕府の立場とずいぶん違う。特には水戸の東照宮の問題だ。東照宮は日光だけではない。徳川家康東照神君なる神として祭る。神だから神社。神道といえば神道。でも遠く王朝時代から日本では神仏が神仏が混淆して久しい。水戸の東照宮も神式と仏式が混ざっていた。そのように祭祠、行事、儀式が行われていた。ところが斉昭は水戸の東照宮から仏教を分離し僧侶を追放した。神式のみ、神官のみにした。つまり廃仏毀釈である。水戸藩内の寺院も多くを取りつぶした。
 水戸学は徳川光圀や朱瞬水の頃から仏教に冷たい。仏教は厭世思想や来世での救済の観念と結び付きがちである。侍は、主君に、将軍に、天皇に尽くして、ついには七生報国の境地に至るべきなのに、仏教は概してその気勢を殺ぐ。天皇の国、日本の独自宗教として天皇につながる神々を多く祭る神社は大切にされ、高度国防国家体制の精神的基点として武家から民衆にまで広く慕われるべきなのは当然だが、それは仏教徒と結び付いては宜しくない。神仏ではなく神儒が合同するのが正しい。儒教的な忠義の規範と日本を崇敬する念とが合体したところに七生報国楠公精神が貫徹可能になる。寺は壊すのがいちばん。全部を壊せないならなるたけ減らす。国防はナショナリズムでたばねられたひとりでも多くの日本人の参加によって行われねばならず、必要な精神規範の醸成には神道の慣習に儒教の精神を注入するのがよい。斉昭はそれを積極的に実践した。明治維新廃仏毀釈を先取りした。というか、斉昭の先例に倣って、維新後の廃仏毀釈は起きた。
 天皇の国を守る軍
 他にも幕府の挙げた咎めの理由はある。斉昭のやることなすことがすべて不穏。日本に新たな戦乱を起こそうとしているようにしか観察されない。だが、斉昭としては、一連の水戸の『天保の改革』はあくまで時代が必要とする国防力の向上に努めているにすぎない。幕藩体制の世の中である。将軍家も天領で成り立つ大名。大名連合の国家が日本。中央集権ではない。軍備も将軍家と各大名家がそれぞれで日頃から強化し、必要に応じて幕府がそれらを束ねて運用するしかない。日本全体の統一的陸海軍は幕藩体制では作れない。
 特に水戸藩は、いざというときには率先して、天皇の国を守る徳川将軍の兵の核心たらねばならぬ宿命を課されている。徳川家康や秀忠の遺訓と水戸学のイデオロギーを合致すると、どうしてもそうなる。水戸藩は持つべき軍備を持とうとしているにすぎない。西洋では科学技術が進歩し、これまでの日本の兵力の常識では追いつかない。お金が必要だ。ゆえに蝦夷地も要るし、新たに浪人を召し抱えることも必須だし、国民精神ならぬ領民精神の涵養のためには水戸の東照宮神道に純粋化し、さらに儒教の教育を強化しなければ時代に遅れる。
 斉昭と彼を支える水戸の学者たちからすれば、水戸の『天保の改革』は当然の理を追求しているにすぎず、しかもとても物足りない水準のものである。蝦夷地を開発して巨大な利益を上げるくらいでなくては、理想の軍隊は作れない。ところが、ほんの手前のことをしているだけで、藩論は分裂し、反斉昭派が策動し、幕府も本気で怒ってしまった。
 そこでの決定的要因は、水戸の東照宮のことだったようである。東照宮の僧侶は上野の東叡山寛永寺に管轄されていた。寛永寺は幕府の寺院。皇室ともつながりが深い。烈公斉昭は虎の尾を踏み、せっかくの水戸の『天保の改革』のかなりをふいにしてしまった。幕閣中枢から水野忠邦が追われるのと連続するように失脚してしまった。軍艦を作らせろといった、斉昭の建言や要求にあまり耳を貸さなかった忠邦だが、実は斉昭を退隠に追い込むような圧力に対しては盾になっていたのかもしれない。時系列で言えば、斉昭の神仏分離策が強力に推し進められて寛永寺等を動転させたのが天保14年の夏、水野忠邦から阿部正弘に『政権交代』の起きたのが同年秋、斉昭が隠居させられたのが翌年春である。
 徳川斉昭の憤懣(ふんまん)はやるかたなかった。そのうちぶつける相手を見つけた。阿部伊勢守正弘である。『政権交代』期の混乱に乗じて、藩内の反斉昭派と寛永寺なふぉが結んで、幕府にあること・ないことを中傷し、斉昭の国を憂える真意もよく伝わらぬうち、好き勝手にやられてしまった。むしろ御三家の当主を替えるという強い決定をなした幕閣の中枢には阿部正弘が居たのだが、彼は斉昭を退かせたことを気にしている。この男を手懐けて、判断の間違いに気付かせ、水戸の守旧派の愚かさをよく教えて、斉昭自身の復権に協力させる。これぞ『新伊勢物語』のプロジェクトであった。往復書簡は1845(弘化2)年から始まる。弘化3年の斉昭から阿部正弘への手紙には幕府の意思決定システムの非常時における不適切性を指摘するものが見つかる。
 斉昭は言う。国家を揺るがすような重大事が生じたときには、従来のやり方ではいけない。御三家はもちろんのこと、多くの有力な大名から意見を徴し、事に当たるべきである。
 ここで言う重大事とは西洋の強国の日本への政治的・軍事的圧力を指す。そのときはすぐに戦争になるかもしれない。全国の有力な大名が国家のために一丸となっても現在の日本の兵力では足りないくらいだ。総力を挙げねばならない。やる気を出して積極的になってもらわねばならない。そのとき幕府が一方的に命令して有力な大名たちが言うことを聞くか。弘化3年の段階で頼りになるといったら水戸の徳川斉昭と薩摩の島津斉彬くらいしか居らぬだろう。今後は名を挙げたくなる大名も増えてくるかもしれない。問題は彼らが老中の命令で素直に動くかだ。外交の策、軍事の策。参加して主体的に相談に与らなくてはやる気はでない。
 天皇制国家を創出する歯車
 そもそも天下泰平の江戸幕府の意思決定システムは永遠の平時を想定している。国家緊急事態に伴う短期的での総動員体制の確立や指導運用の仕掛けはない。老中と若年寄。政治は限られた年寄に任せればいい。徳川秀忠や家光の頃にできたしきたりを続けている。年寄といっても実年齢ではない。経験豊富だったり判断力に富んだりする人材を年寄という。弘化3年の斉昭が阿部に書簡を認めた頃だと、福山藩の阿部伊勢守、長岡藩の牧野備前守、篠山藩の青山下野守、宇都宮藩の戸田山城守の4人が老中だった。常に出入りがあるが4、5人でやっているのが老中だ。しかも大藩ではなく中藩や小藩から老中や若年寄は出てくる。力のある大名が幕政の中心にいつも居ては、将軍権力を脅かしかねない。政治力の大きい老中は、バランスへの配慮から経済力・軍事力のそれほどない藩の主から選ばれる。出る杭を打つのではなく、そもそも出る杭を出さない。平時の長続きが第一義なら素晴らしいシステムである。
 そんな彼ら老中が、各々の所管する事項についてはある程度まで勝手に決め、大事については合議で決める。しかも概して時間をかける。長年の老中政治のやり方である。それで幕府が回ってきたのは、やはり緊急事態が少なかったからだ。鎖国を破ってロシアが来る。イギリスが来る。それでもなるべくゆっくりと慎重に、老中が首を寄せ合って江戸城内のブラック・ボックスで決めて対応してきた。
 だがそのやり方ではこれからはもう通じないだろう。強国の軍艦がいきなり長崎でないところに入り込んでくる。国交や貿易を要求してくる。侵略につながる足掛かりを作ろうとする。老中の秘密談合政治で済む事案にはなるまい。力ある大名がみなで相談し、約束し、責任意識を高めなければならない。それつまり雄藩複数の政治参加である。幕府の定法を根底から覆すアイデアだ。議会システムの構想に行き着くものだ。非常時には必ずそうせよ。斉昭の老中首座への入れ知恵である。
 さらに斉昭は阿部正弘にもっと肝心な水戸学的フィクションを吹き込んだようである。日本は将軍の国ではなく天皇の国だということ。平時の慣例で済むことは将軍や老中で決めてもよい。だが、国の根幹に関する新事態なら将軍の上位にある天皇の意向を確かめるべし。
 斉昭は嘉永年間まで阿部正弘とのやりとりを続けた。阿部はずっと老中だった。そしてついにやってくる。ペリーの黒船が。斉昭がささやき続けてきた必ず近々起こるはずのこの国の非常時が、ロシアやイギリスではなく、アメリカによって引き起こされた。阿部正弘は、長年、斉昭に教えられてきた通りの対応をした。幕政の基本方針を改めた。雄藩の政治参加の道を開き、雄藩連合の政治力と軍事力に期待した。越前の松平慶永や薩摩の島津斉彬に発言させた。幕府の海防掛参与という特別職を設け、徳川斉昭を起用した。老中の秘密政治は一挙に崩れた。
 だが、阿部は革新的なことをした。天皇にお伺いを立てた。徳川将軍は天皇に任じられるが、それはあくまで形式にとどまり、政治の大権は将軍の専権であって、天皇が乗り出すことなどありえない。この武家の常識を破って、天皇→将軍という図式で思考した。『新伊勢物語』なくして、水戸の感化を受けずして、阿部伊勢守がそんなアイデアを自然と思って実行するとは考えられない。ここに孝明天皇の意向が国政を導く力になるという、これはもう南北朝時代以来といってよい新時代が急激に開かれる。武家政治は公武合体を考えずには回らなくなる。徳川斉昭にかつて水戸の守旧派が反発したように、斉昭に操られる阿部の革新的意思決定システムの変更に全国規模で守旧派が反発する。守旧派の切り札が井伊直弼である。直弼は水戸派を根絶やしにしようとする。大獄がありテロが応じる。血で血を洗う本当の幕末が始まる。阿部正弘は水戸学に導かれてパンドラの箱を開き、天皇制国家を創出する歯車が回りだして止まらなくなる」
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 制限付き鎖国下の江戸の日本人は、現代日本人のようにアメリカの軍事力に守られながら安全な場所で金を荒稼ぎし分別なく常識なく遊ぶ呆けていたわけではない。
 平和を念じ戦争を嫌い武器は棄てるべきだと信じる半人前以下の現代日本人には、当時の日本人を論じ日本の歴史を語る資格はない。
 そうした日本人は、日本国と日本人を嫌悪する意識が強いだけに、戦国時代から豊臣政権までの南蛮貿易の一つであった日本人奴隷交易を認めないし、中世キリスト教ヨーロッパ諸国が日本人を奴隷として世界中に輸出していたという事実を歴史から抹消する。
 反日派敵日派外国勢力(中国・朝鮮・ロシア・他)は、満面の笑顔で日本に悪態をつく日本人を陰から支援する。
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 学校ではそうした歪な捏造された歴史を教えられた有能な若者は、高得点を取った知的エリートとなり、社会に出て政治家・官僚、学者・専門家、企業家・経営者などの職業に就き日本国家や日本経済を運営する。
 もし、現代の高学歴出身知的エリートが江戸時代後期・幕末・明治維新時代に送られたら、当時の武士・サムライには活躍できず、日本はロシアの侵略を受けて分割された事であろう。
 リベラル派・革新派・エセ保守派は、当時の百姓・町民に比べて無能無策を曝け出し、思考停止状態に陥り、状況判断もできず、恐怖に狼狽して右往左往するばかりである。
 つまり、リベラル派・革新派・エセ保守派には国家を任せられないと言う事になる。
 それは、マルクス主義者(共産主義者社会主義者)も同様で、特に天皇制度廃絶論者如きは論外で触れる必要もない。
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 水戸学が目指した明治維新とは、日本を徳川将軍家を中心とした近代的天皇制度国家に再構築して、ロシアとイギリスの侵略を軍事力で撃退する事であった。
 キリスト教の精神的侵略に対しては、仏教を排除し、神道儒教で精神的武装を理想とした。
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 ロシアの日本侵略への恐怖心は、田沼意次時代から芽生え、松平定信時代に顕在化した。
 そして、北方領土及び蝦夷地(北海道)領有を巡る国際戦争の危機が醸し出されていった。
 幕府は、ロシアの侵略に備えるべく、東北諸藩に国後島択捉島北方領土防衛の派兵を命じた。
 関東から西で危機感を抱き近代化と軍備増強を始めたのが、水戸藩薩摩藩のみであった。
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 ロシアの侵略に対して、激しく反応したのが吉田松陰などの下級武士や庶民(百姓・町民)達であり、大名や藩上層部の中級以上の武士は無関心であった。
 幕府や水戸藩は、才能ある者は身分や家柄に関係なく、町人や百姓でも武士に取り立てて重要な任務を任せていた。
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 歴史的事実として、日本の変化・改革・改造は上からではなく下から起きる。
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 ロシアは日本への侵略の意図はなかったかもしれないが、日本はロシアの侵略を強く認識した。



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