❈406)407)─1─旧幕府の賊軍・蝦夷共和国。日本とロシアの攻防は江戸時代から始まっていた。〜No.951No.952No.953No.954  @          

ロシア帝国民族統合史の研究―植民政策とバシキール人

ロシア帝国民族統合史の研究―植民政策とバシキール人

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 プロフィールに、6つのブログを立ち上げる。 ↗
   ・   ・   【東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博】・  
 縄文時代日本民族日本人・アイヌ人・琉球人・台湾人の共通の祖先である縄文人は、蝦夷地(北海道)、北方領土四島(得撫島が国境線)、中・北千島列島、カムチャツカ半島樺太まで広範囲に生活していた。
 そこには、日本人が住んでいたがロシア人も中国人もいなかった。
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 1635(寛永12)年 松前藩藩士に命じ国後島択捉島などを含む蝦夷地(北海道)の地図を作成した。
 北方領土四島には、日本人(和人)とアイヌ人が住んでいた。
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 1643(寛永20)年 オランダのフリースは、ウルップ島に上陸し、十字架を立て「コンパニースラント」(東インド会社の土地)と命名して、領土宣言をした。
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 1697年 ロシアのカムチャツカ半島侵略。
 ウラジーミル・アトラソフは、カムチャツカ半島のはるか北部にあるアナディリのアナディール城から約120人の軍勢を率いてカムチャツカ西岸を南進し、アイヌ人・和人(日本人)が住む地域を攻撃した。
 アトラゾフは、カムチャダール集落に居住していた日本人伝兵衛を捕らえ、捕虜としてペテルブルクに強制連行した。
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 1700(元禄13)年 松前藩は、幕命に従い、勘察加(カムチャツカ半島)を含む蝦夷全図と松前島郷帳を作成した。
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 1706年頃 ロシアはカムチャツカ半島を武力占領してロシア領に組み込んだ。
 ロシアの、東方、アジア、日本への侵略が本格化した。
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 1747年 ロシア正教の修道司祭イオアサフは、千島列島に渡り、アイヌ人への布教を始めた。
 シムシュ島・パラムシル島のアイヌ人208人が、1749年までにロシア正教に改宗した。
 北・中千島列島の多くのアイヌ人が、1700年代終りまでにロシア正教徒となった。
 新たなキリスト教が、北から日本に宗教侵略を始めた。
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 1768年 イギリスの探検家ジェームズ・クック提督(キャプテン=クック)は、ロシアと組んで日本を侵略するべく太平洋方面探検に出発した。
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 1785年4月27日 田沼意次は、ロシアとの交易を始める為に、ロシアの脅威と蝦夷地の現状を調査するべく探索隊を派遣した。
 探索隊の中に、百姓出身の最上徳内が人夫として参加していた。 
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 1792年 寛政・日露交渉。
 水戸藩と水戸学は、ロシアとキリスト教の侵略から日本を守るべく天皇を中心としたナショナリズムを創り上げた。 
 徳川斉昭や藤田幽谷・金沢正志斎らは、軟弱で役に立たない上級武士に代わって下級武士や庶民を憂国の志士に登用した。 
 それを真剣に学んで実践したのが吉田松陰であった。一君万民論(天皇中心主義)。飛耳長目。草莽崛起(庶民皆兵=国民皆兵)。対外思想。
 日本の脅威は、北のロシアであった。
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 対ロシア外交で活躍したのは、下級武士や武士に取り立てられた庶民であった。
 勤皇派・尊皇派も、下級武士や身分が低い庶民であった。
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 近代的天皇制度は、ロシアなどの他国の侵略から日本を守る為に必要な制度であった。
 それ故に、天皇制度廃絶が一部の外国に味方する国内勢力から根強い支持を受けている。
 反天皇反日的日本人とは、外国勢力に味方する彼らの事である。
 現代の北方領土返還交渉で、二島返還や面積2分の1などの「引き分け」、ロシアへの妥協案を主張する日本人も同様である。
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 1798年 江戸幕府は、蝦夷地に調査隊を派遣した。
 一行中の近藤重蔵、翌年、最上徳内を案内人としてエトロフ島に到達し、ロシア人の立てた十字架を引き倒した後「大日本恵登呂府」の標柱を立てる。
 幕府はエトロフ島のアイヌ人にロシアとの交易を禁止した。当時、択捉島アイヌ人の中にはロシア正教を信仰するものがあったが、幕府はアイヌ人の持っていた聖像を取り上げ、キリスト教を厳禁とした。
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 1807年 文化露寇(ぶんかろこう)事件。(シャナ事件・フヴォストフ事件)。 文化3年9月11日(1806年10月22日)と文化4年4月23日(1807年5月30日)〜5月1日(6月6日)。
 奥羽諸藩は、幕府から蝦夷地・北方領土防衛を命じられた為に、手弁当で、共同して約3,000人を派兵し、翌年には増派して合計約4,000人になった。
 和人(日本人)は、武器を持たない平和なアイヌ人に代わり、戦死を覚悟で蝦夷地・北方領土を守ろうとした。
 人が住めないような不毛な土地でも、たとえ寸土でも与える気はなかった。
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 日本の敵は、ロシアであり、日本人奴隷売買をして恥じなかったキリスト教であった。
 キリスト教の宗教侵略から日本を如何にして守るか、それが明治維新であった。
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 1811年(文化8年) ゴローニン事件。
 幻の国境画定交渉(ウィキペディア
 リコルドは、イルクーツク県知事から国境画定と国交樹立の命令を受けていたが、日本側の姿勢を判断するに交渉は容易ではなく、箱館での越冬を余儀なくされ、レザノフの二の舞になる懸念があることから、ゴローニンと相談し日本側への打診を中止した。ただし、箱館を去る際、日本側の役人に、国境画定と国交樹立を希望し、翌年6−7月に択捉島で交渉したい旨の文書を手渡した。
 幕府は国交樹立は拒否し、国境画定に関してのみ交渉に応ずることとした。そして、択捉島までを日本領、シモシリ島(新知島)までをロシア領として、得撫島を含む中間の島は中立地帯として住居を建てないとする案を立て、1814年春、高橋重賢を択捉島に送った。しかし、高橋が6月8日に到着した時には、ロシア船は去った後であった。このため国境画定は幕末のプチャーチン来航まで持ち越されることとなった。
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 松前奉行所吟味役・高橋重賢。
 ディアナ号副艦長のピョートル・リコルド。
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 ロシア帝国は、ナポレオン戦争の真っ只中であった為に日本・江戸幕府との戦争を避けた。
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 1821年9月4日 ロシア皇帝アレキサンドル一世、勅令により、アメリカ西海岸からロシア領の北の島々近海での、外国人の捕鯨や漁業を禁止。禁止区域に、ウルップ島以北の千島諸島が含まれていた。この頃、ロシアでは、ウルップ以北がロシア領であるとの認識が確立しつつあったことが分かる。
 ロシアは、択捉島国後島などの北方領土四島を日本領と認めた。
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 1855(安政元)年12月21日 日露和親条約において千島列島(クリル列島)の択捉島と得撫島との間に定められた。川路聖謨
 北・中千島列島はロシア領で、南千島列島=北方領土四島は日本領とされた。
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 1865年 ベルギー王国第二代国王レオポルド2世は「清か日本への遠征が成功すればベルギーは巨大な帝国となるだろう。人間が同じ人間を搾取することは許されないが、ヨーロッパの出現を東洋が救済と考えないと誰が言えるだろうか」と語った。
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 1868(明治元9)年12月15日 賊軍である旧幕府艦隊は、箱館蝦夷共和国政府を樹立した。
 賊軍・蝦夷共和国の後方には、日本を侵略し、蝦夷地・北方領土樺太を領土にしようとしていたロシアがいた。
 明治新政府は、ロシアの侵略から日本を守る為には蝦夷共和国を滅ぼす必要があった。
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 1875(明治8)年8月22 樺太・千島交換条約締結。
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 1879(明治12)年 琉球王国も、西洋の侵略から日本を護る為に併合した。
 もし、琉球王国の独立を認めて放置していたら、ハワイ王国と同様の運命を辿った事は確実である。
 日本は、西洋の侵略から母国を護る為に蝦夷共和国を滅ぼし琉球王国を併合した、それ以外に選択肢がなかったからである。
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 日本の軍事行動は全て自衛のため、日本が生き残る為であった。
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 1874年(明治7年) 明治政府は、ロシアの侵略から日本を守るべく北海道に屯田兵を入植させ、同時に北海道開拓を行った。
 屯田兵制度は、1904(明治37)年9月8日にロシアとの自衛戦争朝鮮半島から満州に移って廃止され、後備兵に編入された。
 日露戦争が勃発するや、後備兵の旧屯田兵にも動員命令が下り、野戦第七師団に配属され、旅順攻囲戦や奉天会戦に投入された。
 第7師団全体の損害は、死者3,412人、負傷8,222人に及んだ。
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 日本の全ての大陸戦争は、領土拡大の侵略戦争ではなく、侵略軍を国外で殲滅するという積極的自衛戦争であった。
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 日本は、ロシアの日本侵略に味方する朝鮮を軍事圧力で併合して押さえ込み、日本侵略の前線基地になる恐れのある北方領土四島・蝦夷地(北海道)・琉球(沖縄)を国家権力で日本領に編入した。
 清国(中国)が、ロシアと対日密約を交わして反日行動をとるのなら、日本は敵と認定して攻撃した。
 それは、国際法上合法であり、国防上の当然の処置で、非難される筋合いではない。
 が、東京裁判戦争犯罪であると裁定し、日本の全ての自衛権を否定した。
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 ウィキペディア

 蝦夷共和国とは、戊辰戦争末期に蝦夷地(北海道)を支配した江戸幕府軍勢力による「事実上の政権」である蝦夷島政府を指す俗称。箱館政権とも称される。

 概要
 慶応3年(1867年)に15代征夷大将軍徳川慶喜大政奉還を行って江戸幕府が消滅し、山岡鉄太郎の斡旋により新政府軍の大総督府参謀である西郷隆盛と徳川家陸軍総裁の勝海舟の会談で江戸城無血開城が決定する。海軍副総裁榎本武揚は旧幕臣の保護と北辺防備を目的として慶応4年(1868年)8月19日に品川沖から開陽丸を旗艦に8隻の軍艦を率いて江戸を脱出し、蝦夷地に向かった。途中仙台で会津戦争で敗走した伝習隊、旧新選組彰義隊の残党を吸収し、北上、鷲ノ木に上陸し、各地を平定、五稜郭を攻略し、箱館府知事清水谷公考を敗走させ、蝦夷地全島を支配下に置いた。

 呼称
 榎本ら蝦夷島政府の関係者が「蝦夷共和国」と名乗ったことはなく、また独立主権国家たると宣言したわけでもない。また、主権的な独立や地方割拠を目論んだわけではないため、「政権」「共和国」などの呼称は適切ではない。
 最初に「共和国(リパブリック)」という表現を使ったのは、1868年11月、英仏軍艦艦長に随行し、榎本と会見した英国公使館書記官アダムズだった。彼が1874年に書いた著書 History of Japan において、箱館政庁を "republic" と紹介し、その後、アダムズの表現に倣う者が大多数となった。
 その目的・内実からいえば蝦夷島政府は「旧徳川将軍家遺臣による蝦夷地開拓団」である。
 「事実上の政権」の真相
 よく、「榎本政権」は諸外国から「事実上の政権」として認められていた、と言われているが、実際には、以下のような経緯だった。
 榎本軍が箱館を占領した後、1868年11月4日、英軍艦サトライト、フランス軍艦ヴェニウスは、英公使ハリー・パークスより訓令を与えられ、英国公使館書記官アダムズを同行させて箱館に入港した。この時、弁天台場は、両艦を歓迎する礼砲を撃ったが、両艦とも無視した。
 翌11月5日、現地の英仏領事と両艦の艦長が会同して打ち合わせを行ったが、英仏領事とも、この時点では榎本軍に対して高い評価を与えていた。やがて箱館港を管理する箱館奉行永井尚志に来てもらったが、榎本は松前に出張中であり、帰るまでしばらく待って欲しいと答えた。永井は外交経験も豊富であり、彼の態度は、英仏領事のみならず、英仏艦艦長にも好印象を与えた。その会同の最中、榎本艦隊旗艦開陽丸が、賓客の来訪を歓迎する21発の礼砲を撃った。これを見たアメリカ、ロシア帝国プロイセンの領事は、英仏艦に行かずに開陽丸を表敬訪問した。
 11月8日、榎本は英仏領事と英仏艦艦長と会見した。英仏側の言い分は厳しかったが、公法上諒承せざるを得なかった。会談終了後、榎本は、念のためメモランダムを要求し、英仏艦艦長は諒承した。数日後、彼らは榎本に以下のような覚書を送って来た。
 1,我々は、この国内問題に関しては、厳正中立の立場をとる。
 2,「交戦団体」としての特権は認めない。
 3,「事実上の政権 Authorities De Facto」としては認定する。
つまり、実際には、榎本に好印象を持った出先の英仏軍艦艦長が、本国の意向を無視して勝手に書いた覚書でしかなかったのである(事前に英公使パークスが与えた訓令では、上記のような用語の使用を慎重に避けていたのにもかかわらず)。アダムズ書記官が随行していながら、このような初歩のミスを犯してしまったのである。だが榎本は、この覚書を読むなり「これは便利な文章だ。いかようにも解釈できる」と喜んだ。彼自身は、この覚書に関しては、こう考えていた。
 1,外交用語では、「局外中立」の場合だけ「厳正中立」と言い、「国内問題」の場合は「内政不干渉」と言う(つまり、「国内問題」に対して「厳正中立」などと言う事自体がおかしい)。
 2,「交戦団体」とは、分離独立・政府転覆を企図した場合で、「土地をよこせ」といった要求のための実力行使などは次元の低いもので該当しない(榎本自身は、別に日本からの「分離独立」や「新政府転覆」を企てているわけでは無いので、「交戦団体」認定を受ける必要性は無い)。
 3,「事実上の政権 Authorities De Facto」とは、占領を完了し、相当に安定し、ほとんど国家の体裁を具えたものを指す。今の場合、まだそこまで行っていないが、おそらくは用語不慣れと箱館の好印象のため、不用意に発した言葉であろう。

 入札(選挙)
 蝦夷島政府の体裁を整えるため、日本で初めて「公選入札」が行われた。
 この背景として、脱走軍は榎本武揚が指導者になっているとは言え、元藩主や元幕府老中といった大名クラスも参加しており、君臣の関係が複雑であった。また「陸軍派」と「海軍派」のグループもあり、「陸軍派」の中も、「彰義隊」と「小彰義隊」等の小グループがあり、全体として一枚岩に纏まってはいなかった。そこで、アメリカなどの政治制度を模範に、日本で初めて「公選入札」が行われる事になった。投票に参加したのは、旧幕府脱走軍の指揮役(士官)クラス以上であり、下士官・兵卒クラスは除外、むろん箱館住民も参加していない。明治元年(1868年)12月15日の政府誕生と同時に日本初の「入札(選挙)」がおこなわれた。

 投票結果
 「投票」総数856票の内訳は、以下の通りであった。
・榎本釜次郎 156
・松平太郎 120
・永井玄蕃 116
大鳥圭介 86
・松岡四郎次郎 82
土方歳三 73
・松平越中 55
・春日左衛門 43
・関広右衛門 38
・牧野備後 35[2]
・板倉伊賀 26
・小笠原佐渡 25
対馬章 1
このように榎本武揚が最大投票を得た。ただし、投票数の2割以下で、圧倒的多数ではなく、各グループごとに投票は分かれている。
 また、これとは別に役職選挙が行われている。
 「総裁」
・榎本釜次郎 155
・松平太郎 14
・永井玄蕃 4
大鳥圭介
 「副総裁」
・松平太郎 126
・榎本釜次郎 18
大鳥圭介
・永井玄蕃 5
・荒井郁之助 4
土方歳三
・柴誠一 1
 「海軍奉行」
・荒井郁之助 73
・澤太郎左衛門 14
・柴誠一 13
甲賀源吾 9
・松岡磐吉 2
・古屋佐久左衛門 1
 「陸軍奉行」
大鳥圭介 89
・松平太郎 11
土方歳三
・松岡四郎次郎 6
・伊庭八郎 1
・町田肇 1

 政権首脳
 この「入札」の結果を参考にして、主要ポストは以下のように決定された。[3]
・総裁 榎本武揚
・副総裁 松平太郎
・海軍奉行 荒井郁之助
・陸軍奉行 大鳥圭介
・陸海裁判官 竹中重固、今井信郎
・陸軍奉行並 土方歳三
箱館奉行 永井尚志
松前奉行 人見勝太郎
江差奉行 松岡四郎次郎、 小杉雅之進
・開拓奉行 澤太郎左衛門
・会計奉行 榎本道章、川村録四郎
・海軍頭 松岡磐吉
・海軍頭並 甲賀源吾、根津勢吉、小笠原賢蔵、古川節蔵、浅羽甲次郎
・歩兵頭:本多幸七郎、古屋佐久左衛門
・歩兵頭並:滝川充太郎、伊庭八郎、大川正次郎、松岡四郎次郎、春日左衛門、星恂太郎、・天野新太郎、永井?伸斎
・砲兵頭並:関広右衛門、中島三郎助
・工兵頭並:吉沢勇四郎、小菅辰之助
・器械頭並:宮重一之助、渋沢成一郎
 「入札」で票を得た者全員がポストに就いておらず、得票結果がそのまま反映されたわけではない。

 地元住民との関係
 こうして、政権としての体裁は一応整ったが、財政事情は悪化し、前もって用意していた軍資金も乏しくなっていた。そこで旧幕府軍において資金調達を担当していた会計奉行の榎本道章と、副総裁の松平太郎は、貨幣を偽造してばら撒き、「脱走金」の悪名を流すことになった。更には、縁日の出店を回って場所代を取り立てたり、賭博場を黙認する代わりに寺銭を巻き上げたり、はては売春婦から税を取ったり、箱館湾から大森浜まで柵を廻らして一本木に関門を設け、そこを通る女子供にまで通行税を出させるなどといった事を行い、住民の反感を買うことになった。それでも、いよいよ財政的に行き詰まった旧幕府軍首脳は、箱館の豪商から金品を徴収しようとしたが、これは土方歳三が強硬に反対して取り止めになった。[要出典]だが、住民からは旧幕府軍に対する反感が増し、新政府側のゲリラ組織「遊軍隊」に参加したり、新政府軍に内通する者も出てくる始末であった。

 軍事組織
 旧幕府軍は陸軍と海軍に分かれ、以下のような組織となっていた。なお「列士満(レジマン)」と言うのは、フランス語で連隊を意味する Regiment をそのまま当て字にしたものである。
陸軍(陸軍奉行:大鳥圭介、陸軍奉行並:土方歳三
・第一列士満:第一大隊(瀧川充太郎、4個小隊、伝習士官隊、小彰義隊、神木隊)、第二大隊(伊庭八郎、7個小隊、遊撃隊、新選組彰義隊
・第二列士満(本田幸七郎):第一大隊(大川正次郎、4個小隊、伝習歩兵隊)、第二大隊(松岡四郎次郎、5個小隊、一聯隊)
・第三列士満:第一大隊(春日左衛門、4個小隊、春日隊)、第二大隊(星恂太郎、4個小隊、額兵隊)
・第四列士満(古屋佐久左衛門):第一大隊(永井蠖伸斎、5個小隊、衝鋒隊)、第二大隊(天野新太郎、5個小隊、衝鋒隊
・砲兵隊:関広右衛門
・工兵隊:小管辰之助、吉沢勇四郎
・器械方:宮重一之助
・病院掛:高松凌雲
・海軍(海軍奉行:荒井郁之助)
・開陽(澤太郎左衛門、1868年11月江差沖にて沈没)
・回天(甲賀源吾、のち根津勢吉、1869年5月箱館港にて自焼)
・第二回天(小笠原賢蔵、1869年3月九戸港にて自焼)
・蟠竜(松岡磐吉、1869年5月箱館港にて自焼)
・千代田形(森本弘策、1869年4月箱館港にて座礁
・神速(西川真蔵、1968年11月江差沖にて沈没)
・輸送船:太江丸、長鯨丸、鳳凰丸、長崎丸、美賀保丸、回春丸

 フランス人軍事顧問
 1867年から横浜の大田陣屋で幕府伝習隊の教練をしていたフランス軍事顧問団から副隊長ジュール・ブリュネ砲兵大尉ら5人がフランス軍籍を脱走して蝦夷政権に参加した。その他海軍からの脱走者2人、軍歴を持っていた横浜在住の民間人3人、合計10人のフランス人が蝦夷政権に参加した。ジュール・ブリュネは陸軍奉行・大鳥圭介の補佐役となり、4個「列士満」はフランス軍人(フォルタン、マルラン、カズヌーヴ、ブッフィエ)を指揮官としていた。また、海軍の2人と、元水兵の1人は、宮古湾海戦に参加した。フランス軍人らは五稜郭陥落前に箱館沖に停泊していたフランス船に脱出している。これらフランス軍人の通訳は横浜仏語伝習所でフランス語を学んだ田島金太郎らが担当した。
 大鳥圭介の南柯紀行では、ブリュネを「未だ年齢壮(わ)かけれども性質怜悧(れいり)」カズヌーヴを「頗る勇敢であり松前進軍のときにも屡(しばしば)巧ありたり」と好意的に書いている。


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榎本武揚から世界史が見える (PHP新書)

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現代語訳 榎本武揚 シベリア日記 (平凡社ライブラリー)

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箱館戦争と榎本武揚 (敗者の日本史)

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敗者烈伝

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