🏞96)─1─老中首座・阿部正弘(27歳)が江戸幕府滅亡の端緒を開いた。~No.368No.369No.370 @ 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 幕末・明治維新は、20代と30代の若者が起こした。
 現代の20代や30代の若者とは、才能も、教養も、行動力も雲泥の差がある。
 幕末・明治維新を実行し成功させた若者とは、下級武士や庶民(百姓・町人)や賤民・部落民などの身分が低く貧しい家庭の若者達であった。
 彼らは、逃げる事なく、天皇・皇室と国と民族を外国の侵略から守る為に命を捨てて戦った。
 戦う事を嫌い、平々凡々と、安穏と、青春を無駄に楽しんでいる現代の若者とは違う。
 ましてや、若者の手本となるべき大人達さえも、現代の大人と幕末・明治維新の大人とは雲泥の差がある。
   ・   ・   ・   
 孝明天皇は、16歳で第121代天皇に即位し、35歳で崩御された。
 徳川家茂は、12歳で第14代将軍となり、20歳で逝去した。
 徳川慶喜は、30歳で第15代将軍となる。
   ・   ・   ・   
 幕末・明治維新は、若者の時代で、大人の時代ではなく、まして老人など関係なかった。
 若者多く老人が少ない、人口爆発が始まる時代であった。
 若者の時代には、大人の論理など役に立たなかった。
   ・   ・   ・    
 2018年11月号 WiLL「歴史の足音  中村彰彦
 『ぶらかし老中』阿部正弘は名宰相か
 今日の首相に相当する江戸幕府の役職は、老中首座である。
 嘉永6年(1853)6月にペリーが来航した時の老中首座は、備後福山藩11万石の藩主阿部正弘。その名がひろく世に知られたきっかけは、寺社奉行の職にあった天保12年(1841)10月、大御所家斉(11代将軍、同年1月死亡)に巧みに取り入る一方女犯(にょぼん)の罪をたびたび犯していた妖僧日啓(にっけい)とその妻妙栄(みょうえい)、せがれ日尚(にっしょう)を一斉に捕縛し、家斉の腐敗した大御所政治を過去のものとしたことにあった。
 この手腕を高く評価された正弘は、天保14年、時の老中首座水野忠邦天保の改革に失敗して失脚するや、25歳の若さで老中に昇進。その2年後には早くも老中首座に指名されたのだから、この頃の正弘がエリートコースを驀進(ばくしん)していたことは確かだ。
 では、ペリーの再来航を受けて鎖国政策を捨て、開国に舵を切る前後の正弘は、寺社奉行時代の切れ味を持ちつづけていたのだろうか。
 ……
 こう眺めてくると、阿部正弘はみごとな見識によって国難の時代をよく超克した不出世の名宰相であったかのようである。
 ……
 正弘は決して剛毅果断なタイプではなく、国際情勢にもまったく通じていなかった。だから弘化元年(1844)以降オランダ国王が何度も開国を促していきも、その助言に従う気は一切なかった(『懐旧紀事』参照)。オランダ国王がペリー来航の近いことを教えてくれても、何の対策も講じなかった。
 ペリーが浦賀に来航した、と浦賀奉行戸田氏栄が報じてから、あわてて老中仲間の越後長岡藩主牧野忠雅と善後策を協議した。というのが真相だから、正弘は危機管理能力に欠けるという大きな『罪』を持った首相だったのだ。
 かれの当初のペリー対策は、開国要求には確答を与えず、その間に江戸湾防衛のための台場の建設を急ぐというどっちつかずのもので、のらりくらりと危機をやり過ごそうとばかりしている政策は『ぶらかし策』と批判された。この『ぶらかし策』に言及しない阿部正弘論は、それこそ読者たちをたぶらかす愚論でしかない。
 しかも、今日の首相が閣僚たちを選べるように、老中首座は独自のブレインを指名できる。ここでも正弘は人選を誤り、幕府海防参与という特別職に指名したのは水戸藩前藩主徳川斉昭という最悪の人物だった。
 『水戸の御隠居』と呼ばれていたこの人物については文章スケッチをしたことがあるので、以下それを引く。
 『側室が少なくとも9人いて、子供の数は何と37人。文政12年(1829)、30歳にして水戸藩主になると社寺の整理、梵鐘(ぼんしょう)仏具の没収、神仏分離などを強行し、水戸東照宮の運営にも口を出そうとした。
 東照宮とは東照大権現という神となった徳川家康を祀る場所だけに、ここから幕閣は斉昭の監視を開始。天保15年(1844)5月、ついに隠居謹慎を命じた』(小著『幕末史かく流れゆく』〈中央公論新社〉)
 正弘はとかく独断専行する癖(へき)のある『水戸の御隠居』を復権させるという、人事上の大ミスを犯したのだ。開国止むなしとして正弘とガチガチの尊王攘夷論者(鎖国論者)の斉昭が、対立するのに時間はかからなかった。
 『あの方は、まるで獅子だ。獅子は毬(まり)で遊ぶもの。多少金がかかっても仕方がない』
 と正弘が斉昭の軍艦建造を皮肉ると、斉昭はぶらかし老中を『瓢箪(ひょうたん)なまず』と呼ぶようになった(『壊旧紀事』ほか)。むろんこれは、つかみどころのない男、という意味である。
 嘉永7年2月、阿部正弘政権が下田・箱館を開港して日米和親条約を締結するや、斉昭が海防参与を辞任したのは腹癒(はらい)せ以外の何物でもなかった。
 しかも、『水戸の御隠居』はしぶとい。京都の宮家や堂上公卿たちと縁戚関係にあることを利用し、尊皇攘夷と再鎖国こそ日本国のめざすべき道だとあちこちに入説(にゅうぜい)。にわかに持ち上げられた天皇や堂上公卿たちも快い尊攘論に洗脳され、何かと幕府に対抗しようとしたため、ついに幕末は政局が混迷を深める一方の時代となっていった。
 その時代相の舞台裏で暗躍したのが、西の長州藩尊攘激派と東の『水戸の御隠居』だったのだ。その『水戸の御隠居』を虎を野に放つが如く復権させてしまったことも、正弘の大きな『罪』のひとつ。
 こう見てくると、阿部正弘=名宰相は世迷言(よまいごと)に近いのではないか」
   ・   ・   ・   
 日本の歴史において、日本が生きるか死ぬかの絶体絶命の窮地に陥った時に日本を救ったのは、高度な知識を持ち幾多の経験を乗り切ってきた分別ある中高年ではなく、知識が少なく経験が乏しい浅はかな20代の若者達であった。
 平時・泰平期は中高年が、戦時・動乱期は若者が、日本を導いていた。
 戦時・動乱期において、中高年は指導者の座を若者に譲り、指揮権を若者に委ね、若者の判断・命令に従って行動した。
 若者達の活躍のお陰で、日本は中華帝国(中国)の侵略を撃破して自主独立を守り、朝鮮人のように中国人の下僕に成り下がる事が免れた。
 それが、日本民族日本人の歴史である。
 用済みの中高年による老害が、日本を不幸にする。
 人生50年の昔、中高年とは40歳以上の日本人を指していた。
   ・   ・   ・   
 北条時宗は、18歳で執権に就任した。
 第一次の蒙古襲来である文永の役の時は23歳であった。
   ・   ・   ・   
 老害とは、目先の利益・金儲けに狂奔する事である。
 中高年は、老い先短い人生の安穏を守る為に、自分の利益を減らさず、さらなる金儲けに血眼となる。
 若者は、人生が短い為に成長しきれず幼児性が脱けきらず、経験・知識・見識も不足で、冷静・客観的思慮分別できずその時の思いこみ・激情で暴走しやすい。
 老害は、ロウソクの火が時間を掛けてゆっくり消えていくように、世の中、社会を長期にわたって衰退させ、そして消滅させる。
 若者の幼児性は、一瞬にして火を消す如く、世の中、社会を短期間で破滅へと暴走させ、そして全滅させる。
 それ故、戦争は激情に駆られた若者の暴走である。
   ・   ・   ・   
 社会に変化をもたらすイノベーションを、若者が達成し成功させるが、中高年は潰し失敗させる。
 それ故に、中高年は若者を立ち上がれないほどに叩きのめし、抑圧し、意欲と気力を奪う。
   ・   ・   ・   
 若くても老害に染まっている若者はいる。
 中高年でも老害に染まっていない中高年もいる。
   ・   ・   ・   
 老害や若者の幼児性に、染まっている愚かな日本人は3割、染まらない賢い日本人が1割、優柔不断で付和雷同に流れていくあやふやな日本人が6割。


   ・   ・   ・   

忘れられた黒船 アメリカ北太平洋戦略と日本開国 (講談社選書メチエ)

忘れられた黒船 アメリカ北太平洋戦略と日本開国 (講談社選書メチエ)

  • 作者:後藤 敦史
  • 発売日: 2017/06/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)