🎑9)─1─落語の祖は仏教僧で、落語の噺は宗教臭い。落語と漫才の違い。〜No.14No.15No.16 @ 

世にも奇妙なニッポンのお笑い (NHK出版新書 539)

世にも奇妙なニッポンのお笑い (NHK出版新書 539)

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本の笑いは日本だけの笑いであり、中国や韓国・朝鮮の笑いとは根本的に異質な笑いである。
 だからといって日本お笑いが特別すぐているわけではない。
 むしろ、高尚でもなければセンスもない教養の欠片もない、野暮ったい野卑な笑いである。
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 日本人は、中華の中国人や朝鮮人とは正反対の性質や性格をしており、世界でも稀な特異な存在である。
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 落語の笑いとは、棒腹絶倒(ほうふくぜっとう)の面白おかしい話ではないく、調子に浮かれた悪ふざけの悪趣味的笑いでもなく、ダメ人間のダメさ加減がおかしくて笑う話であり、自分はまだ真面な方だと安心する安堵の笑いである。
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 立川談志「落語とは人間の業の肯定」
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 落語は、ためになる教訓話ばかりではなく、生きていく上で条理もあれば非条理もある。
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 日本の自然環境、気候風土、生活空間は笑うしかない。
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 2017年3月1日 朝日新聞「甘さと日本人 
 深い人情 落語の味わい 浜美雪 
 落語にはいろいろな魅力がありますが、近ごろ、とみにしみるのが、『甘さ』です。といっても、噺(はなし)のなかに甘い物はあまり出てきません。せいぜい、ご隠居が八っつぁんに振る舞う羊羹(ようかん)か、『まんじゅうこわい』や『長短』のまんじゅうか、『花見小僧』の桜餅ぐらい。
 じゃあ、『甘い』をいちばん感じるのは何かといえば、人間関係です。
 いまの日本人とは対照的に、落語国の住人たちは、のべつけんかしています。でも、心底憎み合っているわけではありません。勘当された若旦那であろうが、ばかな与太郎であろうが、『落ち着きゃ一人前』の超そそっかしい亭主であろうが、決して彼らを全否定するところまで追い詰めません。
 口うるさく文句を言いつつも、駄目なところも一つの個性として受け止めるし、場合によってはさりげなく助け船を出すこともある。甘えと人情、照れとのんきさが混ざって醸し出す、えもいわれぬ『甘さ』を含んだ人間関係・・・。そんな、気の置けない人づきあいが、いまの世の中からどんどん減ってきている気がするのです。
 なにせこのご時世、ふとした発言や書き込みでネットが炎上するなんてことは、日常茶飯事です。みんながイライラ、ピリピリしていて、面倒な人とかかわりたくないと思うのも当然で、もし、会社に若旦那や与太郎みたいな人間がいたら、迷惑千万です。職場の空気まで、険悪になりかねません。グローバルな競争が激しい時代です。外国のどこぞの偉い人のとっぴなつぶやきにも、すぐに対応しなくてはならないんですから。
 ところが、面倒で厄介だけれど、甘さたっぷりの関係を守り続けているのが、他ならぬ落語の師弟なのです。師匠はどんなにできが悪かろうが、弟子にした以上は、一人前になるまで自腹で面倒を見ます。弟子は入門後、数年は師匠の身の回りの世話にあけくれた後は生涯、師匠と弟子以上の濃い絆を築いていく。へたくそな前座ですら、プロはだしの素人落語家には絶対出せない落語ののどかな空気感を出せるのも、落語国の住人さながらの関係性で成り立っている日常があればこそ。長らく落語の取材をしているなかで、つくづく思うのはそのことです。
 一時はエンターテインメントの主流からはずれた感のあった落語ですが、何度かのブームを経て人気が定着しつつあります。みんなどこかで落語の『甘さ』を求めているからなのではないでしょうか。それに、落語の甘さをどんなに摂取しても大丈夫。笑いは血糖値を下げてくれるはずですから」
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 2017年5月4日・11日号 週刊新潮藤原正彦管見妄語
 ユーモアとバランス 
 ケンブリッジ大学に着いてすぐの頃、立派なあごひげの数学科講師Cが私の研究室を訪れた。半時間ほど冗談の応酬をした後、彼は唐突に『イギリスで最も大切なのはユーモアだ』と言い切った。この意味はすぐには理解できなかった。天才数学者とは言え30代前半の若造の言うこと、くらいに考えていた。時がたつにつれ、この言葉の重さが次第に分かってきた。他の学者、政治家、経済人など十数人に尋ねると、何と全員が数秒の小考の後、その言葉に同意したのである。ユーモアには駄ジャレから辛辣な皮肉や風刺、ブラックユーモアなど多種多様あるが、これらすべてに共通なのは、『いったん自らを状況の外におく』という姿勢である。『対象にのめりこまず距離をおく』ということだ。ユーモアとはバランス感覚の誇張された表現と言ってよい」
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 美術人名辞典の解説
 安楽庵策伝(あんらくあん さくでん)
 安土桃山・江戸前期の僧・茶人。美濃生。名は日快、号を醒翁、俗名を平林平太夫。京都誓願寺五十五世法主となり紫衣を勅許される。茶道を古田織部に学び、晩年は誓願寺の境内に安楽庵を結んで風流の道を楽しんだ。近衛信尋小堀遠州・松永貞徳らと交わる。自作及び蒐集した笑話を集め『醒睡笑』を起筆、板倉重宗に献呈した。落語家の祖といわれる。寛永19年(1642)寂、89才。  
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 2018年12月23年号 サンデー毎日五木寛之のボケない名言
 人間のこそばいところは変わらへんのや  桂枝雀
 宗教と芸能の微妙な関係
 これは、宗教家でお寺の住職でもある釈徹宗さんから教えていただいたエピソードの中の言葉である。
 関西の落語家である桂枝雀は、古典落語を演じて、常に大爆笑を呼んでいたという。
 ある時お弟子さんが、『どうして師匠はあんな古い時代の話で現代人を笑わせることができるんですか』と尋ねた。すると枝雀師は、こう答えたのだそうだ。
 『あんな、ええこと教えたる。人間のこそばいところは、今も昔も変わらへんのや』と。
こそばいとこ、という表現がじつに関西的でおもしろい。これを『人情の機敏』とか『笑いのツボ』とか言ったのでは、ちょっと白けるところがある。
 釈徹宗さんの話は、そこから発展して、『人間の宗教的な琴線(きんせん)は今も昔も変わらない』というところへつながっていく。見事な専門家の技術である。
 こそばゆいところに共振現象が起きなければ、どんな有難い話をしても人々の心に届かない。死を語っても聞き手を笑わせる『芸能のチカラ』が大事なのではないか、というのだ。
 ろくでもない坊さんや、宗派のいざこざを揶揄(やゆ)して本堂を笑いの渦にした僧侶がいたという。落語の祖といわれた安楽庵策伝という人が、そうだ。
 『宗教を侮辱するのではなく、軽妙に笑う感覚が大切である』という釈師の説に、大いに共感するところがあった。」
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 日本の宗教観は、世界の宗教観からすれば邪教、邪道であり、世界常識で理解される事はない。
 日本の宗教観では、世界に存在する、宗教偏見を解消できないし、宗教対立を和解させられないし、ましてや宗教が原因の紛争・内戦・戦争を解決する事はできない。
 その意味で、日本の宗教観は絶望的に無力で、平和や安定の為に如何なる貢献もできない。
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 2019年1月18日25日 週刊ポストビートたけしの21世紀毒談
 芸人にとって唯一絶対の価値基準があるとすればっ『その場でどっちがウケたか』『どっちが売れてるか』ってことだけだよ。
 だけど、『漫才』と比べると、『落語』っていうのはもう成熟しきってる感じがする。やっぱり漫才と落語じゃ、まだ落語のほうが芸として上なんだろうな。
 漫才は上手いヤツがジャンジャン出てきてるし、いまだにレベルが上がり続けてる。だけど落語は、やっぱり志ん生さんを超えるのは見当たらない。歴史がある分、とっくの昔にもう芸として完成してたんだよな。
 50年以上前に活躍した名人の技術に、この時代の人間がどれだけ頑張ってもなかなか追いつけない。それってすごいことじゃないか。まさに『古典』の強みだよ。
 オイラもこの歳になって真剣に落語に取り組んでるけど、所作や表情の作り方が本当に難しい。それに、同じ話芸でも落語や漫才じゃテンポがゼンゼン違う。
 漫才のやりとりは、コンマ何秒の『間』を『詰めていく』という作業だ。だからそれに慣れてるオイラは、ちょっとの間を開けることが不安でしょうがない。
 だけど落語は、噺家が『心地良い間』を作り出すことがなにより大事だ。落語の上手い、下手っていうのは『間』の取り方でほとんど決まってしまう気がする。だから、センスがないヤツの落語は『間』の取り方が悪くて聴いてられないし、心地よい『間』を作れる人の落語は、時代を超えても素晴らしい。志ん生さんなんかはこの間の取り方がバツグンに上手いんだよな。
 オイラは、映画は『間の芸術』だと想っているんだけど、落語もそうなんでさ。志ん生さんの噺を聴いていると、まるで映画みたいに画が見えてくるんだよ。
 志ん生さんの芸は『俺の芸を観ろ』って押しつけがましさを絶対に感じさせない。それは徹頭徹尾、客が喜んでくれればいいって考え方だからなんだと思う。残りの人生で、この境地にどれだけ近づけるか、オイラの課題だよ」
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 日本は喜怒哀楽の内、怒より哀で、楽より喜である。
 笑顔で立ち上がり、前を向き、そして明日へと歩き出す。
 命ある事に、破顔一笑である。
 面白く楽しくて笑い、苦しく辛くても笑う。
 成功して笑い、失敗して笑う。
 嬉しくて笑い、悔しくて笑う。
 大きな事より些細な事が、嬉しく、楽しくて笑う。
 笑う門には福来たる、である。
 日本列島の気候風土で生きて死ぬ日本民族日本人は、よく笑う。
 顔で笑って心で泣く。
 声を出さずに、人に見られない所で、一人でさめざめと泣く。
 泣き笑いが人生であった。
 陽気であり、積極的な明るさであった。
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 ウィキペディア
 安楽庵 策伝(あんらくあん さくでん、天文23年(1554年) - 寛永19年1月8日(1642年2月7日))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての浄土宗西山深草派の僧。金森定近の子といわれる。落語の祖ともいわれる。策伝は道号。諱は日快、号は醒翁、俗名は平林平太夫

 生涯
 天文23年(1554年)、誕生。美濃国の武将・金森定近の子といわれ、兄に金森長近などがいる。
 幼いときに美濃国浄音寺で出家し、策堂文叔に師事した。その後、京都禅林寺永観堂)に転じ智空甫叔に学んだ。天正年間(1573年-15922年)、中国地方に赴き備前国大雲寺などを創建したと伝えられる。慶長元年(1596年)、美濃浄音寺に戻り25世住持となる。慶長18年(1613年)に京都誓願寺55世(浄土宗西山深草派法主)となり、貴顕と交友を広げた。元和9年(1623年)、紫衣の勅許を得た後、塔頭竹林院に隠居し、茶室安楽庵で余生を送った。
 寛永(1942年)、死去。
 笑い話が得意で説教にも笑いを取り入れていたが、京都所司代・板倉重宗の依頼で『醒睡笑』を著し、笑話集のさきがけとなった。
 策伝は安楽庵流茶道の流祖としても、収集あるいは見聞した椿に付いての記録『百椿集』(1630年、寛永7年)を残したことでも知られる。策伝作の狂歌俳諧も残っている。親王五摂家・武士・文人の間に広く交流を持ち、特に松永貞徳や小堀政一遠州)との交流が深かった。
 
 誓願寺
 出自を金森氏とするのは、浄音寺過去帳や濃州立政寺歴代記の記録による。しかしながら、策伝の俗姓を「平林」とすること、金森氏の仏教宗派は曹洞宗であること、以上2点は策伝が金森氏出身であることに疑問を残す部分である。
 浄音寺のある岐阜県岐阜市三輪宮西では、落語の祖といわれた策伝の名を冠した「全日本学生落語選手権・策伝大賞」が毎年開催されている。
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 誓願寺紫雲山、光照院
 広島誓願寺の開祖である安楽庵策伝上人は、戦国時代の天文23年(1554)に美濃の国の金森定近(土岐可頼)公の子として誕生された。兄の金森長近公は初代の飛騨高山の城主である。
 永禄3年(1560)7歳の頃、美濃浄音寺の策堂文叔上人について得度出家された。 幼い身で出家されたのは、上人のお母さんは金森定近公の正室の子でなく、側室の子だからとも言われている。
 11歳の時に、京都東山の禅林寺永観堂)で甫叔上人に師事して修行を積まれた。 学成って25歳 (天正6年)に山陽地方へ布教の旅に出られ、備前、備中、備後、安芸の各地で盛んな教化活動をされた。当時の旅の僧は布教活動だけでなく、各地を渡り歩いた情報を、それぞれの領主に提供しては子厚い供応に預かったようだ。それも並みの僧ではそれほどの供応も無いだろうが、策伝上人や安国寺恵瓊といった傑僧は大切に処遇されたに違いない。
 こうして策伝上人は西方寺(広島県比婆郡東城町)、全政寺(同、西城町)誓願寺倉敷市阿知)、法然寺(同、浜町)、極楽寺(同、阿知町)、大雲寺(岡山市表町)を次々に創建、又は再興された。
 広島の当誓願寺の建立にも力を尽くされて、茶室や「安楽庵釜」を伝えられた。 文禄元年(1592)には和楽に入られ、同3年、41歳の時に正法寺13世となられたが、慶長元年(1596)には故郷の美濃浄音寺に帰り、同寺の25世となり、ここで17年間を過ごされた。
 凡人ならそのままこの故郷に納まるであろうが、戦国乱世の修羅場を潜ってきた策伝上人にはそれは堪え難い事で、其から美濃の立政寺にも暫く住まれ、京都の大本山誓願寺の55世法主に就かれたのは慶長18年(1613)上人60歳の年であった。
 誓願寺に落ちつかれた策伝上人は、御水尾天皇の勅命を受けて宮中に参内し、清涼殿で「観経曼陀羅」を御進講されたが、まことに弁舌爽やかに「観無量寿経」の主旨を説いて、居ならぶ堂上貴紳たちを感動させられたのである。 また、京都所司代板倉重宗公の依頼を受けて、説教話材料集の「醒睡笑」8巻を、9年の歳月をかけて元和9年(1623)70歳の時に完成された。
 古稀を迎えられた策伝上人は、誓願寺の境内に塔頭、竹林院を建ててここに隠居され、竹林院の庭に建てた茶室「安楽庵」で、波瀾の前半生とは違った風雅な余生を送られた。「安楽庵策伝」という呼称はここから出ている。
 竹林院に隠居されてからの策伝上人は、寛永元年(1624)から18年間にわたって茶室「安楽庵」に風流の人士を招き、茶道や文筆に親しんで優雅な生活を楽しまれた。
 寛永7年、77歳の時「百椿集」一巻を上梓している。 また交友関係も広く前の関白、近衛信尋小堀遠州伊達政宗林羅山など、皇族、公家、高僧、文人、大名、豪商、学者等々各界の一流の文化人たちとの交流は、見事なまでの華やかさである。これ等の交遊を、多くの和歌や狂歌を含めて「第伝和尚送答控」(後人題)を書き残された。
 そして、寛永19年(1642)正月8日に89歳の長寿を全うして、入寂された。
 現在、京都誓願寺墓地には、策伝上人の立派なお墓があり、生前の余薫が馥郁としてただよって上人の偉大なご偉徳をしのぶ事が出来る。
 策伝上人は、誓願寺の御法主にまでなられ、紫衣の勅許を得て、後水尾天皇に経典のご進講をされたほどの高僧であるが、茶人としても名高く「安楽庵裂」、「安楽庵八窓亭」、「安楽庵釜」の名とともに茶道史上でよく知られている。また、「醒睡笑」、「百椿集」、「策伝和尚送答控」などを書き残されたため、国文学界でも高く評価されている。
 「安楽庵策伝」の名声を最も高めたものは、「落語の祖」という評価を後世の落語界から贈られた事である。これは策伝上人が浄土宗西山派の説教僧として、長年話し続けられた説教話材(落としばなし)(落語)を実践された成果に依るものと思われる。 「醒睡笑」8巻の中にはそのような笑い話が、千幾つも集められていて、巧みに分類されている。
 小僧が、夜更けに長い棹を持ち、庭の中をあちらこちらと振り回している。坊主がこれを見つけ、「何をやっているのだ」とたずねた。
 「空の星が欲しくて、打ち落とそうとするが落ちない」「さてもさても鈍な奴だ。そのように工夫が無くてどうするのか。そこからでは棹が届くまい。屋根へあがれ」
 有名なこの話は巻一の鈍副子の中に収められている。この分類は、説教の種本として最適であり後世の落語の種本にもなっている。
 明治の落語界で近世の名人と言われた三遊亭円朝は「落語は安楽庵策伝から始まった」と述べている。更にそれ以前の江戸時代には月亭生瀬、山東京伝などが、「安楽庵策伝は不世出の話上手だった」と広く世に紹介している。 「醒睡笑」には、あらゆる種類の滑稽談が含まれており、落としばなし(落語)が多いが、決して笑いばなしばかりでなく、教訓、啓蒙的な真面目な話も入っている。これは説教の話材を集めたものであるから当然である。
 この本を読むと改めて策伝上人の博学ぶりにはおどろかされる。「説法眼論」、「今昔物語」、「袋草紙」、「宇治拾遺物語」、「古今著問集」、「沙石集」、「元亨釈書」などの多くの仏教説話集から取材したもの、策伝上人みずから見聞された各地の逸話、織田信長豊臣秀吉徳川家康、を始め諸侯の行状、さまざまな民間説話、風俗、芸能が網羅されて、日本文化史の研究上に豊富な資料を提供されている。 策伝上人は生まれながらに弁舌爽やかで、博学であり、行動力も抜群で各地に寺を建立された背景には、美濃の国に千石余の領地を持つ実力者でもあったからである。 宗門最高の地位に進まれながら、「落語の祖」と言われるのは、一見矛盾するように思われるが、説教者(教化僧)という立場は、常に民衆と密着するのが根本であり、一方では所属宗派の教学の構成に繋がりながらも、それをみずから更に新しい認識方法を樹立して行くものである。
 策伝上人は、その方法で「醒睡笑」を書いて戦国僧の教化の実態を示され、また、曼陀羅講説の宗匠として、立派に誓願寺法主としての使命を果たされたのである。
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