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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
日本の宗教性な、聖徳太子ではなく聖武天皇と光明皇后から始まり、宗教性は儒教ではなく仏教であった。
日本が国家と民族に於いて中国や朝鮮とは別の道を歩きだしたのは、聖武天皇と光明皇后の御代からであった。
国の平和と民の安寧の為の宗教改革。
日本は聖武天皇によって仏教国家となり、仏教の影響力は増大した。
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聖武天皇と光明皇后が始めた官製仏教・国家仏教は、天皇の権威を高めるのが目的ではなかった。
聖武天皇と光明皇后両陛下の国家と民族への大和心は、現代の父系男系天皇家や八紘一宇の皇道の中に生きている。
が、現代日本の歴史教育はそれを否定している。
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反宗教無神論・反天皇反民族反日本的日本人、共産主義者や無政府主義者、左派系のメディアや学者達、キリシタン日本人の一部は、天皇と宗教を否定し、民族的な歴史・文化・伝統・宗教を日本から消し去ろうとしている。
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2022年8月25日 MicrosoftNews 朝日新聞デジタル「奈良時代の上野国分寺、3世紀近く維持 研究で判明
上野国分寺の推定復元図。伽藍(がらん)地は南北231メートル、東西219メートル。七重塔の高さは推定約60メートル。全国で最大級だったという=群馬県提供
奈良時代、国家プロジェクトとして諸国に建立された国分寺。上野国分寺(前橋市・高崎市)は伽藍(がらん)地がほぼ完全に残る貴重な国分寺遺跡だ。最新の研究により、全国六十余の国分寺の中でいち早く建立され、律令国家体制の衰退期も含めて約280年にわたり維持されたことが判明した。
群馬県の「史跡上野国分寺跡保存活用計画」の策定委員長を務めた、県地域文化研究協議会長の前澤和之さんが7月、高崎市内であった講演会で、史料解読や発掘調査による研究成果を発表した。
それによると、奈良時代の天平13(741)年、飢饉(ききん)や疫病の流行、内政の混乱を受け、聖武天皇が仏教による国家鎮護(国の平和)を願い国立の寺院・国分寺の建立の詔(みことのり)を発した。
七重塔を持つ国分寺は「国の華」であり、必ず良い場所を選んで長く久しく保つように
前澤さんは「寺院造りは地方では前代未聞の大工事。広大な敷地探し、技術者や職人の手配、膨大な木材、石材の準備など数々の難題に直面した」と話す。
各地で工事が順調に進まず、政府が何度も催促することに。天平19(747)年には、詔が発出された。
諸国司の怠慢により創建造営が進んでいない。3年以内に塔・金堂・僧坊を造り終える
政府は国分寺の創建造営を急ぐため、実施主体を国司(国の長官)に代わり、地元の郡司(有力豪族)に任せて構わないと決めた。
そうした状況のなか、上野国は全国でもいち早く主要な堂塔を完成させた。
天平19年の詔から3年目にあたる天平感宝元(749)年、上野国の郡司ら2人が外従五位下(国の長官クラス)を授かった。上野国分寺の塔・金堂・僧坊はこの頃に完成したとみられ、前澤さんは、位の授与は詔に応えたことへの褒賞とみる。「上野国は政府の意図を素早く読み取って忠実に履行し、その模範となるよう、全国に先駆けて主要な堂塔を完成させた」
国分寺の維持には西毛地域の人々が尽力していた。
上野国分寺跡の発掘調査では、修繕に使われた瓦がいくつも出土し、提供した人の名前や居住地が書かれていた。地名の多くは多胡郡で、緑野郡や碓氷郡もあった。人名は多胡郡の物部氏や伴氏、子氏のほか、緑野郡とみられる勾舎人(まがりのとねり)氏、群馬郡または甘楽郡とみられる壬生氏などがあった。
前澤さんは「国分寺の運営で大きな比重を占める修繕は、創建造営にもかかわった南西地域の人々が大きく貢献していた」と話す。
こうして各地にできた国分寺だが、律令国家体制の財政難で、10世紀以降、荒廃していく。そんななか、上野国分寺は維持された。
長元3(1030)年作成の「上野国交替実録帳」は、上野国の財政や、国や郡の官舎、主要な寺社の殿舎の管理まで、国政全般の現況が記されている。これを調べた前澤さんは「金堂の釈迦如来像が、1030年時点で傷みはあっても健全な姿を保っていたことが確認できた」とし、「上野国司は国家の理念を代弁し、国分寺を最後まで守る努力を長年続けたことがうかがえる」と指摘する。
こうしたことは、発掘調査からもわかった。火災などの痕跡がなかったことや、瓦の模様の形式が80種類以上あったことが確認され、長期間にわたり修理が続いたとみられることが判明したのだ。主要堂塔は280年間以上、人々の力を得て維持されたという。(角津栄一)」
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