🌏13)─3─近代天皇家の私有財産は乏しく仏教教団や豪商に比べても貧しかった。~No.43  

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 皇室が私有財産を増やしたのは、天皇廃止論のマルクス主義者(共産主義者)が辛辣に批判するような、悪政を行って国民に重税を課しわけではなく、暴政を行い人民から搾取したわけでもなかったし、ましてやアジア諸国を侵略し占領して、軍事力で他国から略奪したわけではなく、暴力で他国民から強奪したわけでもない。
 皇室の私有財産は、世界の王族貴族の個人資産とは違うのである。
 歴史力のない現代日本人には、その歴史的事実が理解できない。
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 左翼・左派・ネットサハに近い反天皇反日的メディア・報道機関は、皇室資産=皇室の家計簿をあれこれ細かい事まで計算して報じ、皇族らの生活を根掘り葉掘りほじくって書き立て、国民の間に天皇・皇族・皇室への嫌悪感を醸し出そうとしている。
 現代日本では、報道する自由・知らせる自由・知る権利から、天皇・皇族・皇室に対するヘイト報道がまかり通っている。
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 2020年9月6日号 サンデー毎日「皇后の覚悟
 貞明皇后からたどるプリンセスたち
 第3部 軋轢 (四) スキャンダル
 ご成婚後、すぐにお世継ぎに恵まれ、母としてもプリンセスとしても落ち着いたできると思われた矢先、次々と起こった近しい人たちの死。そんな貞明皇后に新たに降りかかってきたのは、身内のスキャンダルだった。
 工藤美代子
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 盤石な財政を誇る本願寺の威光
 現在では、あまり知る人も少なくなったが、明治期の本願寺の威光たるや絶大なものがあった。かつては西本願寺東本願寺に分かれての権力闘争もあったが、明治以降はもっぱら融和の姿勢に転じている。
 明治天皇即位式を挙げる時、その費用の3,000両の出所がなかった。なんとか用立ててもらえないかと西本願寺は内々に申し込まれている。しかし、とても急には難しいと一度は断った。しばらく後に、西国のある大藩から1,000両は都合してもらったので、残りの2,000両を出してくれないかと再び頼まれた。それでは東西の不和の原因とならないようにと考えた大谷光瑞(こうずい)の父、明如(みょうにょ)が、東本願寺にも相談して、それぞれ1,000両ずつ負担したという。
 当時の西本願寺の財政状態は盤石であり、『国君の富』に匹敵すると言われた。
 あるいは明治の初期はそれ以上だったのかもしれない。質素倹約で知られる明治天皇が、側近に対してユーモラスな言葉をもらしている。
 『わたしの地方巡幸には大分金もかかるようだから、これからは東本願寺侍従長に、西本願寺内大臣にしようと思う。二人の法主を連れて歩けば、さぞお賽銭が上がることだろうなあ』(『三代の天皇と私』梨本伊都子)
 西本願寺の1年間の予算は京都市のそれを超えていた。いかに懐中が潤沢かを知っている上での明治天皇の冗談だった。
 ……
 日露戦争の際、光瑞は開戦が決まると、ぽんと500万円の国債募集に応じ、従軍布教僧700人の派遣を決定した。
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 皇后を悩ませる不肖の弟
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 危ういバランスを保つ皇族
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 大正とは華族も皇族も危ういバランスを保って生きていた時代だったのがわかる。だが、報道も表現も現代とは少し違うようだ。九條良致と武子の場合、マスコミはあくまで裏付けを取り、事実のみを批判した。
 令和を迎えた今の日本はどうだろうか。情報源も特定できないニュースが多い気がする。それは時として印象操作のための報道とも感じられる。また皇族全体が必ずしも一枚岩とは言えないことを示しているようだ。そうなると、プリンセスの覚悟はさらに厳しくなっているのではあるまいか。」
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 日本には、政治権力・宗教権威・天皇の御威光が存在していた。
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 新生近代日本の国際的信用は、日本帝国政府でもなく、日本国民でもなく、ましてや現代日本人が確信する日本人民でもない。
 世界が、諸外国が認める日本の信用の源泉は、国家元首である明治天皇であった。
 明治天皇の裏付けがない旅券は無効であり、正式な旅券を持たない者は無国籍者=違法入国者=犯罪者として逮捕され最悪処刑された。
 つまり、日本天皇が日本国の主権者・統治者であった。
 その天皇家・皇室は、王侯貴族としての真面な食事ができないほど貧乏であった。 
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 現代日本の同和の部落民は、昔の被差別民の下層民とは違う。
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 皇室に受け継がれてきた伝統文化の宮中祭祀は、数万年前の縄文時代に行われていた自然崇拝を源流としている。
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 徳川幕府は、正統の根拠を民族中心神話に定めている天皇の御威光が世に出る事は天下の乱れの原因になるとして、皇室に食えるだけの捨て扶持を与えて京都御所に軟禁し、天皇・皇后・皇太子・親王が御所から出る事を許さず、京都所司代の監視を置いて皇室を厳しく監視し、御所に出入りする人間に目を光らせていた。
 京の庶民は、貧しい食生活を続ける皇室を救うべく、京都所司代の目を盗んで食べ物をこっそりと差し入れていた。
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 天皇・皇室とは、貧しく差別され虐げられた哀れな下層民の心の支えであった。
 下層民とは、下級武士、身分低い庶民(百姓や町人)、芸能の民(歌舞伎役者・旅芸人・傀儡師・曲芸師・落語家・講談師)、異様の民・異形の民(身体障害者・病人)、賤民(非人・穢多・河原乞食)、部落民(山の民・川の民・海の民)、異能の民(匠の職人・修験者・山伏・渡り祈祷師・占い師・虚無僧・力士{相撲取り})などであった。
 故に、命を捨てても天皇・皇族・皇室を守ろうとした勤皇派・尊皇派とはそうした下層民であった。
 下層民こそが国體護持を願っていた。
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 貞明皇后は、日本軍がシベリアで保護したポーランド戦争孤児を収容した施設を訪れ慈母の如く接して慰め、関東大震災では被災者を収容した病院を慰問して励ましていた。
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 東本願寺は、徳川家康の後援で本願寺から分派し独立した為に佐幕派であった。
 西本願寺は、本願寺の本派として勤皇派であった。
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 天皇崇拝原理主義の下層民・被差別民は、心の支えであった天皇・皇室を滅ぼそうとした外来のキリスト教マルクス主義共産主義を拒否し激しく攻撃した。
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 日本には、宗教としての祈り儀式はあったが契約する排他的不寛容な信仰はなく、思想や哲学はあったが攻撃的な教条的狂信的イデオロギーとしての主義主張はなかった。
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 日本で最も裕福なのは仏教寺院で、次に裕福なのが商人であった。
 貧しい天皇家は、重要祭祀を資金を得るべく、恥を忍んで仏教寺院や商人に金の無心を行っていた。
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 政教分離儒教近代国家を建設するに当たり、信仰の力を持つ宗教権威を失墜させ、裕福な宗教勢力を弱体化させねばならなかった。
 そして、宗教侵略してくるキリスト教に対抗する為に非宗教的国家神道を新たに作る必要があった。
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 現代日本人には、天皇・皇族・皇室に対して時空を超えた畏怖の念も畏敬の心もなく、今この時の好みのアイドルとして眺め虚実のスキャンダルや無作法をあげつらって楽しんでいる。
 メディア・報道機関は、天皇・皇族のイメージを貶めるような嘘を含んだ皇室ヘイト報道を増産している。
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 現代日本には、天皇制度を廃絶し、天皇家・皇族を消滅させようとする反天皇反日勢力が存在し、そうした勢力は高学歴出身知的エリートに多く、政界・官界・学界・経済界に広がっている。
 そして、反天皇勢力は周辺諸国はもちろん世界中に数多く存在する。
 その証拠が、昭和天皇のありもしない天皇の戦争責任や天皇戦争犯罪を糾弾している、事である。
 反天皇の急先鋒が、韓国・北朝鮮中国共産党である。
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 敗戦後の日本に赤い僧侶や赤い神父・赤い牧師が急増し、天皇打倒・日本崩壊の人民共産主義暴力革命を起こすべく活発に布教活動を行った。
 が、彼等の目論見は失敗した。
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 中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人は、日本人をアフリカ人同様に奴隷として世界中に売って金を儲けていた。
 日本人の命は金で買えた。
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 キリスト教朝鮮人テロリストと日本人共産主義テロリストは、日本を滅ぼす為に、昭和天皇と皇族を惨殺するべくつけ狙っていた。
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 皇室財産は、天皇の家産である。三種の神器など皇位とともに伝わるべき由緒ある物は、皇位とともに皇嗣が受けることが皇室経済法第7条に定められている。 
 
 近世
 織田信長豊臣秀吉は皇室に所領の一部を献上して漸く7千石分の禁裏御料を確保した。1601年に徳川家康は改めて1万石を禁裏御料として確定させ、以後江戸幕府は1623年と1705年にそれぞれ1万石ずつ所領を献上して以後3万石の禁裏御料が確定する。その他に豊臣政権時代に定められてそのまま継承された京都の銀地子や宇治・田原の茶に対する賦課(茶役)などによる収入があった。この他に朝廷に奉仕する公家にも公家領が与えられ、それが約10万石あったとされている。大政奉還直前の1867年、徳川慶喜は山城一国23万石を禁裏御料として献上する事で朝廷との関係をつなぎ止めようとするが、失敗に終わっている。戊辰戦争によって朝廷は幕府及び佐幕派諸藩より計150万石を没収して禁裏御料に編入している。これが明治政府の国有財産としてその財政基盤となる。
 近代(大日本帝国憲法
 大日本帝国憲法下では、天皇の個人的財産は御料(ごりょう)あるいは御料地(ごりょうち)と呼ばれ、帝国議会の統制外にあった。御料そのものは憲法制定以前から存在し、明治維新後に木戸孝允徳大寺実則元田永孚らによってその充実を求める意見書が出されていたが、大部分の御料の形成は憲法制定に深いかかわりがあった。日本における国会開設と憲法制定は、自由民権運動への譲歩という側面を持ち、そこでは国家予算が国会の承認を要することになった。これを嫌った岩倉具視は、国会開設前に国有財産の相当部分を皇室財産に移し、国会から遮断することを考えた。そこで、1898年(明治22年)頃にそれまでの官有林(国有林)は大部分が御料林にされ、他の形でも国の財産が皇室財産に大規模に転換された。また、1884年に大蔵卿松方正義の建議によって日本銀行横浜正金銀行、続いて1887年には日本郵船の政府保有株式が次々と皇室に献上されている。
 御料および皇族財産の管理については法律ではなく皇室令という法形式をとる皇室財産令により規定された。御料は世伝御料と普通御料に分かれ、世伝御料はその名の通り代々受け継がれるべきもので、(旧)皇室典範第45条により分割譲与を禁じられた。
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 皇室財産
 世界大百科事典 第2版の解説
 動産・不動産をふくむ天皇家財産の総称。皇室財産設定の動きが始まったのは明治維新以後のことである。天皇を頂点とする国家機構が整備されてくるのにともない,明治政府は皇室の経済的基礎を確立する必要に迫られた。1876年木戸孝允の建言をはじめ,79年には宮内卿徳大寺実則が官有林の一部を皇室財産に編入すべき提議をおこなったが,その動きが本格化したのは自由民権運動の高揚した81年ころである。すなわち81年10月国会開設の詔を機に民権運動が高揚すると,憲法実施前に皇室財産を設定せよとの建議があいついだ。
 出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
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 読売新聞
 皇室の経済学
 2019/05/01 12:00
 新天皇の即位に伴う皇位継承が本格化している。一連の行事の費用は、主要な宮中儀式である「大嘗祭だいじょうさい」の規模を縮小するなど経費節減に努めるものの、人件費や原材料費の高騰により「平成の代替わり」に比べて3割程度膨らむ見通しだ。改元に合わせて、皇室予算の仕組みをひもときながら、改元がもたらす経済波及効果など、皇室のお金にまつわる論点を考察したい。
 戦前は世界有数の資産家
 東京駅丸の内口から一直線に延びる行幸通り。新しく日本に赴任した外国の大使が信任状を携え、美しい装飾がほどこされた儀装馬車に乗って、ゆっくりと広大な皇居に吸い込まれていく。
 都心の超一等地に立地する皇居の敷地は、約115万平方メートルと広大で、東京ドーム約25個分に相当する。財務省の国有財産に関する資料によると、皇居の土地の価格は6000億円(簿価ベース)とされているが、国土交通省がこのほど発表した2019年1月1日の公示地価(東京都千代田区丸の内、1平方メートル=3680万円)を参考に推計すると、時価ベースで40兆円を超えるとみられる。
 皇室関連施設は皇居だけではない。東宮御所などが立つ赤坂御用地(同港区、面積約51万平方メートル)や京都御所京都市上京区、同約11万平方メートル)はじめ、那須(栃木県那須町)や葉山(神奈川県葉山町)の御用邸など各地にある。これらの不動産のほか、皇室由来の国宝級の美術・工芸品は、いくら値が付くか分からない。
 初代天皇とされる神武天皇から2600年以上、125代にわたり連綿と受け継がれてきた天皇家は戦前、世界有数の資産家だった。江戸時代からの皇室領に加え、戊辰戦争明治維新を経て、徳川幕府や諸藩から没収した土地などを皇室御料(財産)に組み入れた結果、資産は大きく膨らみ、三井、三菱などの財閥資産の合計額をはるかに上回る財力を誇った。
 近代企業経営史を研究している吉田祐二氏は、著書「天皇財閥 皇室による経済支配の構造」の中で、皇室が財を形成していく過程を次のように記す。
 「帝国議会設置が決まった明治17(1884)年から、大日本帝国憲法発布までの同23年の間に、皇室財産は着々と形成されていった。その第一弾は明治17年、政府が保有していた日本銀行横浜正金銀行株の移管、第二弾は佐渡、生野両鉱山の移管(明治21年)、最後に、国有山林原野の皇室財産への編入(明治23年)であった。これにより皇室財産の原型ができ上がった」
 大日本帝国憲法の下で天皇は、「神聖ニシテ侵スヘカラス」(3条)絶対的な存在だった。天皇と皇族に関する様々な事項を規定していた旧皇室典範は、最高法規である憲法と対等の法典とされた。予算の上でも皇室予算は国家予算と区別され、独立していた。このため、国会の議決が必要な国家予算に代わって、時の政権が「隠し資金」として利用していたとの疑念がささやかれていた。
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 東本願寺借財整理とは、明治時代の東本願寺が借財を抱えて政府要人に救済を要請した事件である。
 概要
 東本願寺が300万円を超す負債に動きが取れなくなり、財務の顧問内海忠勝や藤田伝三郎が斡旋の労をとったが上手く行かず、法主大谷光瑩・内局渥美契縁は広橋賢光と藤田を介して井上馨に救済方を依頼してきた。
 明治35年(1902年)12月下旬、井上は片山繁雄を伴い京都に入った。東本願寺当局者はもとより利害関係ある商人も連署して井上に嘆願書を提出。井上は徹底的に財政紊乱の原因を調べ改革に着手した。
 「京都の停車場に本願寺より出迎えられた馬車の立派なのを見て、
 『人に財政の整理を頼まんとする者が、何の余裕あってかかる贅沢を、敢えてするとや』とて、辻馬車に乗って同寺におしかけ、朝の9時より夕の6時まで当事者より財政の情況を聞き、やがて出された食膳をみるや、癇癪球がたちまち破裂し、『是れ皆善男善女が寄進したる粒粒辛苦の物ならずや、これを思えばかかる膳部が喉に通るか』と罵倒した」と伝えられる。(高級車で迎えたが怒ってタクシーで到着する光景は今日でもありそうな事である。)
 取引銀行を鴻池銀行1行に定めて利子の軽減・担保以上の借入を決議して実行した事は井上でなければ出来ない事であった。
 その後、法主の生活で節約を実行しているか報告を提出するように指示しても誠意は見られなかったと伝えられている。
 なお、明治38年(1905年)6月、財政紊乱問題で石川舜台前宗務総長を除名し僧籍を剥奪した。
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 東本願寺
 真宗大谷派東本願寺)沿革
 真宗大谷派の本山である真宗本廟東本願寺)は、当派の宗祖である親鸞聖人(1173~1262)の門弟らが、宗祖の遺骨を大谷(京都市東山山麓)から吉水(京都市円山公園付近)の北に移し、廟堂びょうどうを建て宗祖の影像を安置したことに起源する。親鸞聖人の娘覚信尼かくしんには門弟から廟堂をあずかり、自らは「留守職るすしき」として真宗本廟の給仕を務めた。爾来、真宗本廟親鸞の開顕した浄土真宗の教えを聞法する根本道場として、親鸞聖人を崇慕する門弟の懇念により護持されている。
 第3代覚如かくにょ上人(1270~1351)の頃、真宗本廟は「本願寺」の寺号を名のるようになり、やがて寺院化の流れの中で、本尊を安置する本堂(現在の阿弥陀堂)が並存するようになった。こういった経緯により、真宗本廟は、御真影を安置する廟堂(現在の御影堂)と本尊を安置する本堂(現在の阿弥陀堂)の両堂形式となっている。
 戦国乱世の時代、第8代蓮如れんにょ上人(1415~1499)は、その生涯をかけて教化に当たり、宗祖親鸞聖人の教えを確かめ直しつつ、ひろく民衆に教えをひろめ、本願寺「教団」をつくりあげていく。このことから、当派では蓮如上人を「真宗再興さいこうの上人(中興ちゅうこうの祖)」と仰ぐ。
 京都東山にあった大谷本願寺比叡山との関係で一時退転し、蓮如上人の北陸布教の時代を経て、山科に再興。その後、大坂(石山:現在の大阪市中央区)へと移転する。しかし、第11代顕如けんにょ上人(1543~1592)の時代に、織田信長との戦い(石山合戦)に敗れ、大坂も退去することとなる。この際、顕如上人の長男教如きょうにょ上人(1558~1614)は、父顕如上人と意見が対立し、大坂(石山)本願寺に籠城したため義絶された。天正10年(1582)に義絶は解かれ、天正13年(1585)本願寺豊臣秀吉により大坂天満に再興。さらに天正19年(1591)京都堀川七条に本願寺(現在の西本願寺浄土真宗本願寺派の本山)は移転した。顕如上人没後、一度は教如上人が本願寺を継ぐも、秀吉より隠退処分をうけ、弟(三男)の准如じゅんにょ上人が継職した。
 しかし、その後も教如上人は活動を続け、慶長3年(1598)秀吉没、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いを経て、慶長7年(1602)京都烏丸六条・七条間の地を徳川家康から寄進される。慶長8年(1603)上野国妙安寺みょうあんじ(現在の群馬県前橋市)から宗祖親鸞聖人の自作と伝えられる御真影を迎え入れ、同年阿弥陀堂建立。慶長9年(1604)御影堂を建立し、ここに新たな本願寺を創立した。これが当派の本山である「真宗本廟」のなりたちであり、教如上人を「東本願寺創立の上人」とするゆえんである。
 真宗本廟は、その後四度にわたって焼失しており、現在の堂宇は明治28年(1895)に再建されたものである。世界最大の木造建築物である御影堂をはじめとする諸堂宇は、100余年の経年により屋根瓦や木部の随所に損傷が見られ、現在その修復工事に取り組んでいる。
 江戸時代の東本願寺は、創立時における家康との関係もあって徳川幕府との関係は良好であり、また、寺院と門徒の間には、寺じ檀だん関係(檀那寺と檀家の関係)による結び付きがあった。明治時代に入ると、新政府による神仏判然令(神仏分離令)、廃仏毀釈はいぶつきしゃく(仏教弾圧)の動きが仏教諸宗にふりかかり、東本願寺も苦境に陥った。さらに幕末の戦火で両堂を失っていた東本願寺であったが、厳しい財政状況のなか、あえて新政府への協力を惜しまず、また全国の門徒による多大なる懇念により財政再建が果たされ、明治の両堂再建が成し遂げられた。しかし、一方で教団は、江戸時代の封建制度の流れを汲む体質を残したまま、近代天皇制国家のもと戦争に協力していくことにもなったのである。
 そのような中、当派の僧侶である清沢きよざわ満之まんし(1863~1903)は、教団の民主化と近代教学の確立を願い、宗門改革を提唱し、数多の教学者と聞法の学舎を生み出していった。この潮流は、昭和37年(1962)に「同朋会運動どうぼうかいうんどう」として結実し、爾来、当派の基幹となる信仰運動として、半世紀にわたって展開している。
 ただし、こうした「同朋会運動」の潮流は、始めからすべての人たちに受け入れられた訳ではない。昭和44年(1969)、「同朋会運動」に抗する勢力により教団問題が顕在化する。当時、東本願寺の歴代は、法主ほっす※(法統伝承者)・本願寺の住職・宗派の管長の3つの職を兼ね絶大な権能を有していたが、その力を利用しようとする側近や第三者により、東本願寺が私有化され数々の財産が離散するという危機に瀕したのである。
 また、数々の差別問題を引き起こし、旧態依然とした教団の封建的体質が根底から問われることになったのである。
 こういった教団の本義を見失う危機を経て、当派は、これらを深く懺悔さんげし、昭和56年(1981)、最高規範である「真宗大谷派宗憲」(当派の最高規範)を改正。「同朋社会どうほうしゃかいの顕現けんげん」(存在意義)・「宗本一体しゅうほんいったい」(組織理念)・「同朋公議どうほうこうぎ」(運営理念)を運営の根幹とし、一人ひとりが信心に目覚め、混迷する現代社会に人として本当に生きる道を問いかけていくことを課題とし、純粋なる信仰運動たる「同朋会運動」を軸として歩み続けている。
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 しんぶん赤旗
 2008年11月15日(土)「しんぶん赤旗
 廃仏毀釈とは? その後の神道と仏教の関係は?
 〈問い〉 奈良の山辺の道沿いに、法隆寺に匹敵するお寺が明治の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で壊されたという跡がありました。廃仏毀釈とはどんなものだったのですか? その後、神道と仏教の関係は?(埼玉・一読者)
 〈答え〉 廃仏毀釈(棄釈)とは、明治維新政府の神道国教化政策にともなっておきた仏教の抑圧・排斥をさします。
 1868(明治元)年3月、新政府が「祭政一致」の立場から神道の国教化をはかり、一連の神仏分離令をだしたのを契機に、政府が設置した神祇官(じんぎかん)や各地の神職に扇動された勢力が寺院を襲撃し、僧侶資格を奪うなど、仏教にたいする排撃運動がおこりました。寺院の廃止や仏像の破壊、仏事の禁止などもおこなわれました。奈良の興福寺では、五重塔を解体し薪(まき)として売却しようとする企てもすすめられました。それまで神仏習合(神と仏教とが混ざり合っていること)だった多くの神社では、仏教的なものをひきはがす動きがひろがりました。
 こうした仏教排斥にたいして、真宗門徒などの廃仏反対運動が起こり、政府も廃仏毀釈は朝廷の望むところではないと弁解するなど、政策的な手直しにつとめ、この騒動は鎮静化にむかいました。こうして神道国教化政策は変転しますが、政府は1872(明治5)年4月には、通達で仏教寺院に神道の布教を命ずるにいたります。
 その後、明治政府は、軍人勅諭(82年)、明治憲法(89年)、教育勅語(90年)によって、全国民に神格化された天皇への崇拝と神社参拝を強要しました。国家神道体制のもとで格付けされた神社の上級神職は公務員化しました。
 僧侶の多くは、仏教の教えとともに天皇への忠誠を説きながら、旧檀家(だんか)制度に依拠して寺院と教団を維持しました。国家神道体制のもとで、日本は軍国主義侵略戦争の道を歩み、戦時体制下では「皇道仏教」も主張されました。
 国家神道体制は第2次大戦の敗北で破たんします。祭政一致専制天皇制の否定にたち、内心・信教の自由と政教分離の原則が明記された現憲法が成立しました。国家から分離された多くの神社は、神社本庁を結成し、仏教寺院と対等の宗教法人となって現在にいたります。神社本庁指導部は神道国教化をふくむ改憲運動を推進しています。
 神道の束縛から解放された仏教では今日、靖国神社への首相の公式参拝に反対し、平和の声をあげている伝統仏教教団が少なくありません。(平)
 〔参考〕藤谷俊雄「国家神道の成立」(『日本宗教史講座』第一巻所収)三一書房安丸良夫『神々の明治維新岩波新書
 〔2008・11・15(土)〕
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