🏞101)─1─軍国日本は阿部正弘の安政の改革から始まった。1853年〜No.400No.401 

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 阿部正弘は、英傑か極悪人か。
 阿部正弘。1819~1857年。備後福山藩主。
 日本の軍国主義化、軍国日本の端緒を開いたのは阿部正弘である。
 愛国心民族主義が芽ばえ、同時に過激な尊王攘夷が日本全国に広がり、外国人暗殺のテロへと発展していった。
 もし、日本の軍国主義化や軍国化が非人道的戦争犯罪というのならその責任は阿部正弘にある。
 阿部正弘安政の改革を行わなければ、軍国日本は生まれなかったし、愛国心民族主義に悩まされる事はなかった。
 故に、日本人の反戦平和運動家、命大事派、護憲派人権派、武器所持反対派らは、好戦的軍国主義への道を開いた阿部正弘を批判し否定する必要がある。
 日本の愛国心民族主義を消滅させる為には、日本人のアイデンティティーを否定して消し去る事である。
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 2019年10月31日号 週刊文春出口治明のゼロから学ぶ『日本史』講義
 [近世篇]
 134 運命の宰相 阿部正弘
 歴史には、フランスの歴史学者フェルナン・ブローデンが指摘したように、気候の変動といった、人間にはどうしようもない大きな波があり、人口動態やオーストリアハプスブルク王家とフランス王家の争いのような中規模の波があります。
 さらに個人の人生の波があり、3つの波が重なったときに、歴史上の大英雄が現れたりします。
 典型はナポレオンです。王政から国民国家へというフランス革命の大波や、産業革命という大波が重なる中に、ナポレオンという天才が現れたのです。
 そのような天才が幕末の日本にも現れます。それが阿部正弘でした。
 福山藩の阿部家は何人も老中を輩出した名門の譜代大名でした。1819年、阿部正弘は江戸で生まれ、17歳で家督を継いでいます。
 若くして将来を嘱望(しょくぼう)された阿部正弘は1840年、20歳で寺社奉行になりました。11代将軍徳川家斉以降、社会風紀が乱れていました。家斉はガールフレンドとひたすら遊んでいた将軍です。そうすると、みんなも遊びますよね。
 大奥スキャンダルを裁いて出世
 そんななかで千葉県市川市にある中山(なかやま)法華経寺の日啓らが、大奥に出入りして、奥女中たちと密通するというスキャンダルが起きました。
 阿部正弘がその事件を取り仕切って、日啓を島流しにした。でも女性のほうは、日啓が手を出していた田舎の農婦を捕らえて『お坊さんとデートとはけしからんで』と、自宅軟禁(押込)の処罰にしただけで、大奥に事件を波及させませんでした。
 実は日啓の娘は家斉の愛妾で、その手引きで日啓たちが大奥に入り込んでいたという事情があり、下手に追及すれば幕府の威信に関わってくるところでした。阿部正弘は上手にもみ消したわけですね。
 大奥と12代将軍家慶は『えらい有能なやつや』と感心しました。そこで1843年、家慶は阿部正弘を23歳で老中に抜擢、続いて25歳で老中首座に据えました。
 就任してすぐに阿部正弘は海岸防禦御用掛{がかり}(海防掛)を強化します。
 これは1792年にロシアのラクスマンが日本に来たときに老中松平定信が慌てて設置し、自ら就任すた役職でした。臨時の役職でしたが、阿部正弘は幕府中枢メンバーの半分を入れて常設化します。この海防掛は諮問機関でしたが、1853年、ペリーの黒船艦隊が浦賀沖に現れたとき行政機関に衣替えし、若手をガンガン抜擢しはじめます。
 御三家の中でも一番のうるさかった前水戸藩徳川斉昭も、海防参与として幕府内に取り込み、息子の慶喜を一橋家の養子に入れて斉昭を喜ばせました。阿部正弘は政治的なセンスに優れていたのです。
 開国・富国・強兵
 阿部正弘は、すでに前年ネーデルラント(オランダ)からの通報で、ペリーの来航を知っていました。
 アメリカ大統領親書の受領を決めた阿部正弘は、ペリー退去直後に将軍家慶が亡くなるアクシデント(後継は息子の家定)に見舞われつつも、全大名や旗本、庶民に至るまで対応策について意見を求めました。
 700余りも『こうしたらいい』という意見が出て、収拾がつかなくなったほどですが、明治維新時の『万機公論に決すべし』をもうすでにやっているわけです。
 そして阿部正弘は腹を肚を決めました。
 幕府は、産業革命後の欧米の商工業の発展とアヘン戦争の情報を十分に持っていました。産業革命国民国家という人類史上最大級の二大イノベーションに乗り遅れた清国が敗れた結果を見ると、日本には開国以外の選択肢はありません。
 『交易互市の利益をもって富国強兵の基本と成す』、つまり開国して交易し、産業革命を行って国を富まし、兵隊も強くしなければあかんという『開国・富国・強兵』というグランドデザインを描いたのです。
 これが阿部正弘の一番の貢献だと思います。諸藩の大型船建造の禁令を解禁し、幕府もネーデルラントから蒸気軍艦7隻購入などを決めました。
 富国強兵の考え方はどこに源流があるかというと、太宰春台が『経済録』のなかで書いています。
 国が富めば、兵隊も養えるで、外国と交易してお金を儲けて、そのお金で国を防衛すればええという考え方です。
 上杉鷹山は富国安民論を主張しました。お金を増やして国民が安心したら政権は長く続くでという話です。江戸時代は鎖国をしていたので、富国強兵論は富国安民論という形で発展したのです。
 こういう流れが以前からあったので、阿部正弘も開国・富国・強兵という構想が描けたのでしょう。
 そして『安政の改革』と呼ばれる幕政改革を行います。江戸時代の改革は享保・寛政・天保の三大改革が人口に膾炙(かいしゃ)していますが、実は安政の改革のほうが、その後の日本への貢献度が大きいと思います。
 明治を準備した安政の改革
 安政の改革の一番すごさは、川路聖謨井上清直、江川英龍勝海舟、永井尚志、高島秋帆といった、身分が低くても有能な人を次々と抜擢したことです。
 1851年には、鳥居耀蔵によって政治の表舞台から外されていた遠山の金さん(景元)を南町奉行に復帰させ、水野忠邦天保の改革で潰した株仲間を再興しています。
 54年には講武所を作ります。洋式砲術などを学ぶところで、これは陸軍のもとになりました。
 55年に海軍の前身、長崎海軍伝習所を作ります。なぜ長崎かといえば、鎖国で海軍のことがわかる人間がいないので、ネーデルラントの長崎商館に頼んで、ネーデルラントの軍人を講師に招いたのです。明治のお雇い外国人と同じことを、すでにこの時にやっているのです。
 56年に蕃書(ばんしょ)調所を作ります。これは蘭学の研究所でしたが、まもなく洋学の中心はネーデルラントやないで、ということで、洋書調所と名前を変えます。これが後に開成所となり、東大に発展するわけです。
 まとめると、安政の改革では、身分を問わずに有能な人間を抜擢し、陸軍、海軍、東大の礎になるものを阿部正弘が用意したわけですね。
 また両国の福山藩では、それまで弘道館という学校で漢学を教えていたのですが、55年に洋学を取り入れた誠之館(せいしかん)に改編します。
 誠之館のすごいところは、8歳から17歳の全藩士の子供に教育を受けさせたことです。義務教育をはじめたわけです。しかも庶民の中からも優秀な人には入学を許可しました。
 そして仕進法という試験を導入ます。勉強しただけではあかんというので、試験で優秀な成績をとったら『12石2人扶持(ふち)』の士分に取り立てます。つまりPDCA(計画・実行・評価・改善)のサイクルを回したわけです。
 『安政の改革』にみられる開国・富国・強兵という阿部正弘のグランドデザインを、大久保利通伊藤博文がそのまま実行したのが明治維新だともいえるでしょう。
 ペリー来航時がクリミア戦争で列強の目がアジアから逸れているさなかで、しかも英傑がたまたま老中首座に就いていたのは、日本にとって、ものすごく幸運なことでした。……」
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 東京裁判は、日本の近代的軍国主義化を戦争犯罪行為として否定した。
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 幕末期の日本が国策進路を誤れば、清国のように内部崩壊するかムガル帝国のように分裂崩壊するかの何れかで滅亡した。
 何故なら、欧米列強には日本を侵略して占領し、滅亡させて植民地化し、日本人を奴隷にし、キリスト教化する、と言う宗教的白人至上主義を神聖な使命として持っていたからである。
 西洋文明国として、「日本を開国させ、近代国家として国際社会に参加させる」というのは嘘である。
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 日本の近代化とは、日本の軍事国家化であった。
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 キリスト教が説く隣人愛の対象者は、同じキリスト教徒に対してであって、非白人異教徒に対してではなかった。
 キリスト教にとって、非白人反キリスト徒異教徒は人間ではなく家畜か獣でしかかなかった。
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 中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人は、日本人をアフリカ人のように奴隷として世界中に売って金を稼いでいた。
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 人類の歴史、世界の歴史、大陸の歴史、国家の歴史で、悪人は数多くいるが、善人は極少数であり、悪人は富み栄え善人は貧しく滅んでいる。
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 現代の日本人と昔の日本人とは、別人のような日本人である。
 特に、高学歴出身知的エリートにそれが言える。
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 現代日本は、幕末期の日本というより、アヘン戦争時の清国に似ている。
 何故か、現代日本の政治家や企業家・経営者らは、清国の発展には欧米列強の産業革命によるイノベーションが必要と考えていていながら実行できず滅亡をもたらした清朝高官に似ているからである。
 幕末期の日本に似ているのは、世界制覇を目論む中国共産党である。
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 昔の日本は、人生50年で若者が多く老人が少なかった。
 現代の日本は、人生100年で若者が少なく老人が多い。
 総人口は、1800年頃は約3,000万人で、2000年頃では約1億3,000万人である。
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 江戸時代の改革は、経験豊かな40代50代の年老いた老中・若年寄などの幕閣ではなく20代30代の若い優秀な幕閣が差配する事が多かった。
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 日本の歴史で20代30代の暴走が、成功して日本を救ったのは幕末から明治時代にかけての動乱期であり、失敗し甚大なる被害をもたらしたのは昭和初めの動乱期である。
 もし、昭和初期の20代30代が冷静に平和主義の昭和天皇や戦争回避の良識ある老人の忠告を聞き、40代50代の好戦的で野心的な現役高級将校等の甘い言葉に騙されなかったら絶望的戦争を避けられたのかも知れない。
 いつの時代でも、若手と言われる20代30代は、視野が狭く知識も乏しく経験も浅い為に思考が足りず、強欲に陰謀を企む大人に騙され洗脳されやすい。
 令和時代の若者は、幕末・明治期の若者か、あるいは昭和初期の若者か。
 いつの時代でも、大人の一部は自分の事しか考えていない。
 そして若者は、そうした大人の犠牲になる。
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 優れた武将とは、幼少の相手を見てその才を見極める観察眼を持っている事である。
 その代表例が、織田信長豊臣秀吉徳川家康らである。
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 徳川幕府は、才能ある若い藩主を幕閣にして幕政を任せ、出自にこだわらず百姓や町人から武士になった金上侍を勘定奉行町奉行・郡奉行などに任命して現場を仕切らせた。
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 開国近代化による軍事国家への暴走は、江戸時代後期、松平定信時代に起きたロシアの侵略に対する恐怖心・危機感から始まった。
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 田沼意次は、ロシア(赤蝦夷)の動静を探る為に探索隊を蝦夷地(北海道)・北方領土樺太に派遣した。
 この時、北方領土は日本を固有領土となった。
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 文化露寇事件(北辺紛争・フヴォストフ事件)。ロシア軍艦は、北方領土で海賊行為を行い、日本人とアイヌ人を死傷させ食料などを強奪した。
 ロシアは砲艦外交として、日本に軍事力を見せつけ開国させて交易をしようとした。
 軍事力で交易を迫るという外交は、元寇を命じたフビライの真の意図でもあった。
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 松平定信は、ロシアから北方領土蝦夷地を守る為に東北諸藩に守備隊派遣を命じた。 総兵力、兵力約3,000人。
 東北諸藩は、この時の負担で戊辰戦争に敗れた。
 ナポレオン戦争が、日本を救った。
 幕府は、ロシア帝国の侵略に備えて、アイヌ人を味方に付けるべく出来うる限りの保護策をとった。
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 ロシアの侵略に備える国防強化の為に、水野忠邦天保の改革を、阿部正弘安政の改革を行った。
 水野忠邦徳川幕府の為であったが、阿部正弘は日本国の為であった。
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 ロシアが日本に侵略してきた時、古代からの敵国であった中国と朝鮮がどう動くかによって日本の存続か滅亡かを分ける事になる。
 ハッキリしている事は、中国と朝鮮が日本に味方をしないし、中国と朝鮮が日本と共にロシアと戦わないと言う事である。
 その故に、歴史を知る吉田松陰らは清国や朝鮮を手に入れてロシアの侵略に備えるべきだと訴えた。
 吉田松陰の過激な発言を非難する日本人には、正しい歴史は分からない。
 ロシアの侵略に対する恐怖心は、日本一国のみで、清国(中国)や朝鮮にはなかった。
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 江戸時代は、人生50年時代で、喜寿(77歳)は稀なりで、若者が多く多く老人が少なく、早くて30歳代遅くとも50歳頃には現役を引退して15歳から20歳の子供に家督や役職を譲り隠居生活に入った。
 隠居生活とは、質素倹約とした慎ましい生活ではなく、自分で稼いだ金を使った、悠悠自適な自由で気楽で遊び呆けた生活であった。
 世界に誇る江戸文化とは隠居文化であった。
 金は稼ぐものであった貰うものではないとして、子や孫には、御店・家業・仕事・田畑などを残したが自分が稼いだ金は残さなかった。
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 能力ある者は、10代後半から20代前半に藩主となり、30代頃には幕府の要職に就任した。
 江戸時代における人の才覚は、10代後半で姿を現す早熟型で、年老いてから現れる晩熟型は凡人の部類であった。
 表舞台で活躍する才能は、20代前半で決まり、大器晩成とは才能の芽が出ない負け犬の遠吠えに過ぎなかった。
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 百姓は土で、大名は鉢植えの木であり、藩は大名という木を植えた鉢である。
 日本の土は、植えられた木がどんな木であろうと気にはしんないが必要以上の栄養分を吸い上げれて土を弱らせる事を許さず悪い木を枯らし、土を入れた鉢がどんな鉢かは気にしなかったが土に不利益として被害をもたらす粗悪な鉢は壊した。
 日本の土の栄養分は、哲学・思想・主義主張ではなかった。
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 諸藩では、身分低い武士や金で武士になった成り上がり者が主君・大名の信用を得て改革派となり、旧態依然の前例に固執する門閥派・守旧派の反発・反対を押し切って諸改革を行ったが、年貢を納める百姓の多くは祖先から続けて来たやり方を変える事に不平不満を抱き改革に抵抗した。
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 日本で起きるのは、基本・土台を破壊し構造を根底から新しく作り替える「革命」ではなく、基本・土台を残し構造を時代に適応できるように組み換える「改革」であった。
 日本の伝統的改革は、世界の非常識として、世界では理解されない。
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 江戸時代後期・幕末を動かしたのは、下級武士、貧しい庶民(百姓や町人)、軽蔑された芸能の民(歌舞伎役者、旅役者、傀儡師、軽業師など)、蔑視された賤民(非人・穢多・乞食など)、差別さえた部落民(山の民・川の民・海の民)らであった。
 狂信的な勤王派・尊皇派になって暴走したのは彼等であった。
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 現代日本は、1945年の敗戦から始まる日本でまだ75年しか経っていない。
 75年という短い年月しか経験していない現代日本人に、世界的な知識や視野があるからと言って260年続いた江戸時代を論じる資格があるのかどう甚だ疑問である。
 さらに、当世流行りの哲学・思想・主義主張は威張ったところでたかだか数年か十数年の時間に過ぎない。
 馬鹿にするように「日本の歴史は短い」と、声高に説教を垂れる高学歴出身知的エリートの生きた年数は100年にも満たない。
 そうした馬鹿な日本人の話を真剣に聞き信じ込むと、馬鹿を通り過ぎて頭の中が空っぽになり無味乾燥の虚しい風が吹き抜ける。
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 日本人が変質したのは、1980年代後半からで、それがハッキリ現れたのは2010年頃からである。
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