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2019年8月1日号 週刊文春「出口治明のゼロから学ぶ『日本史』講義
〔近世篇〕
明治維新を用意した『大政委任論』
幕末維新のとき、徳川将軍から天皇への『大政奉還』がありましたね。将軍は朝廷から『大政』を預かっている。だから返還するんやで、ということですが、このもとの考え方を持ち出したのが誰かというと、実は寛政の改革の実行者、松平定信でした。
松平定信が老中のときに『尊号一件』という大きな事件が起きました。今回はこの事件を詳しく見ていきましょう。
父親を太上天皇にしたい
1779年、後桃園天皇が亡くなります。後継ぎを決めていなかったので、閑院宮典仁親王の子供が急遽、光格天皇として即位します。
その10年後の89年、光格天皇は武家伝奏という自分の幕府担当秘書を通じて、京都所司代に実父典仁親王に太上天皇(上皇)の称号を与える宣下({せんげ}天皇の命令の公布)を認めてほしいと要望します。
お父さんは閑院宮であって天皇にはなっていなかったので、当時の『禁中並公家諸法度』に記された席順では、天皇の次ぎに大臣たち、その次に天皇のお父さん(親王)という順番になってしまいます。光格天皇としては、なんとかお父さん孝行したいで、というわけです。
ところが松平定信はスジを重んじる学者肌ですから、『そんなの大義名分が乱れるやないか。天皇になったことのない親王が、太上天皇になるなんてあかんで』と一言のもとに否定します。
しかし光格天皇は諦めません。91年に関白が鷹司輔平から一条輝良に交代すると、天皇の周りを賛成派の公家たちで固めました。
そして尊号(上皇号)宣下を断行すると」幕府に通告します。
これに対して松平定信は『幕府の言うことを天皇が聞かないのは、天皇の秘書たちがサボっているからや』と、幕府の意思をちゃんと知らしめないとあかんと考えます。
それで上皇号宣下賛成派であった武家伝奏、正親町公明と天皇の秘書長(議奏)の中山愛親を江戸に召喚して厳しく査問したうえ、謹慎などの処罰を下してしまいます。
この処罰が議論になりました。
当時の慣習としては、朝廷の官位を持つ公家を幕府が処罰するときには、幕府がまず朝廷に通告し、朝廷が『お前はクビ』と事前に官位を解いて(解官{げかん})から幕府が処分していました。朝廷の体面に傷をつけないための段取りですね。
ところが松平定信は、まず理屈が先に立ちます。
『ちょっと待て。大名を処罰するときには朝廷の手続きなんか取ってへんで。なんで公家だけ例外なんや』と言い出したのです。
公家とは別に、武家も例えば大納言の尾張(愛知)徳川家や、中納言の水戸徳川家をはじめ、参議の加賀(石川)前田家など大名たちも官位を持っています。松平定信も従四位下越中守などになっています。
そういった武家の処分のときは、わざわざ朝廷に解官の手続きを取ってもらっていません。幕府が直接処分していました。
松平定信は賢い人であるがゆえに、そのスジの違いが許せません。
『理屈で考えたら、これまで延々とやってきた現状のほうが間違っているんや』ということになります。
この辺りは朝鮮通信使問題で理屈にこだわった新井白石に似ています。
実際、松平定信は朝鮮通信使に関しても『通信使は朝鮮ではそれほど高い身分ではないのに、日本の御三家が接待しているのは礼に反する』と、新井白石と同様の議論をしているのです。
そしてそれまで将軍代替わりのたび11回に渡って行われていた通信使の江戸入りを止めて、対馬で国書を交換(易地聘礼{へいれい})するよう命じています。
このため12回目の通信使は延期を重ね、実現したのは20年後の1811年で、これが最後の朝鮮通信使となりました。
松平定信には新井白石や本居宣長に影響された朝鮮軽視観があり、それを易地聘礼に具体化されたことで、近代日本の対朝鮮外交の枠組みをつくる結果になったともいわれています。
尊号問題に戻ると、処分に関して自身の意見の裏付けに松平定信が持ち出したのが『王臣論』です。
王臣論という理屈
93年に幕府が朝廷に示した文書では、『武家も公家も天皇の臣下(王臣)であり、王臣に対して賞罰を加えるのが将軍の仕事やで。公家だけに特別扱いしたら公家と武家を差別することになり、天皇に対してかえって不敬やで』と述べています。
ここで持ち出されたのが『大政委任論』です。そもそも将軍は日本を統治する『大政』を天皇から委任されているのだという理屈です。
これは一見すると、幕府に都合がいいわけです。幕府は天皇から全権委任されている、だからオールマイティなのだ、何でもできるんやというわけですから。
松平定信は政治家であると同時に学者としても一流、弁舌さわやかに説明するので、幕府の官僚はこの王臣論と大政委任論に染まりました。
でも翻(ひるがえ)って考えれば、委任されているということは、委任元の朝廷のほうが、権威は上です。
ここから尊王の思想が出てくるし、やがては建前だけでは済まなくなってきます。
例えば、1806~7年にロシア船が蝦夷地を襲撃したとき、それまではやったことがないのに、京都所司代から朝廷に報告をさせています。
一回報告をしてしまったら朝廷に報告するのが先例になり、朝廷は幕府の対外政策に口を挟む権利をほぼ自動的に得てしまったのです。
大政奉還への道を開く
松平定信が後世に与えた影響は、寛政の改革よりも、実はこの尊号一件事件のほうが大きいのではないかと思います。
尊号一件事件で松平定信の大政委任論が幕府に浸透したことによって、後の明治維新における大政奉還に繋がっていく一つのきっかけができました。
始めに大政委任がなければ、それを奉還(返還)するという理屈も成り立ちませんからね。
武力で権力を握った徳川家康やそのブレーンだった金地院崇伝はおそらく考えもしなかった理屈です。
徳川政権が長く続き、幕府が武断政治から文治政治に転換したことによって、儒学が人々のなかにどんどん浸透していきました。
幕府の政治家たちも大義名分とか理屈を考えるようになり、定信のような賢い人が自らの政策の裏付けのためにスジを正しきれない理論を持ち出すようになります。
儒者の中井竹山は1789年に『早茅危言(そうぼうきげん)』を書き、優れた政治を行う幕府に朝廷が政権を委任したのだと主張しています。
水戸藩の学者藤田幽谷は91年の『正名論』で、幕府が朝廷を尊(たつと)べば諸大名が幕府を尊び、秩序が保たれると論じています。両書とも定信の求めに応じて書かれたものです。
こうしたブレーンたちの建言をもとにして、定信の理屈は形作られたのでしょう。しかしその理屈はやがて独り歩きをしはじめます。大政委任論といい朝鮮外交といい、それが明治維新につながることは、松平定信はおそらく夢にも思わず亡くなったことでしょう」
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天皇制度は、日本民族固有の歴史・伝統・文化・宗教・慣習に基づく前例のスジ論で守られている。
それが、最高神である女性神・天照大神からの血筋・血統、皇統を唯一の正統とする特別な男系の一族による世襲制度である。
つまり、神の裔である。
前例のスジ論の根底には、縄文時代まで繋がっている所が存在する。
スジ論は、問答無用の理屈である。
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松平定信が扱った尊号一件、朝鮮通信使問題、ロシア軍船の北方領土・蝦夷地襲撃事件は、全て現代日本が抱えている問題に通じている。
が、現代の高学歴出身知的エリートの能力・歴史力では解決不能に近い問題ばかりである。
そもそも、歴史が嫌いな現代日本人には理解できない歴史的事実である。
リベラル派、革新派、進歩派、一部の保守派、人権派、良心派、常識派などにそれが言える。
特に、天皇制度反対の反天皇反日的日本人は言うに及ばずである。
現代日本人は、祖先が創り守ってきた前例の「スジ論」が理解できない。
その最たる例が、女系天皇擁立・女系宮家創設である。
彼らに今自分の限定された範囲での現代を理解しても、祖先の過去が理解できないし、子孫の未来などは想像すらできない。
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日本には、俗事の政治権力と宗教権威、神聖の天皇の御威光が存在していた。
天皇は、如何なる権利を持たないカリスマを帯びたリーダーであった。
将軍は、リーダーシップを発揮して政治・軍事・外交を行うトップであった。
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ウィキペディア
尊号一件(そんごういっけん)とは、日本の江戸時代後期に起きた京都の朝廷と江戸の幕府との間に発生した、閑院宮典仁親王への尊号贈与に関する紛議事件である。尊号事件ともいう。
概要
第119代光格天皇は典仁親王の子であったが、後桃園天皇が崩御したときに皇子がいなかったためにその養子となって即位したことにより、父よりも位が上になってしまった。しかも禁中並公家諸法度における親王の序列が摂関家よりも下であり、天皇の父が臣下である摂関家を目上としなければならないことに対しても天皇は不満を抱いた。だが、禁中並公家諸法度は江戸幕府にとっては初代徳川家康が定めた祖法であり、その改正は幕府そのものの尊厳を傷つけるものとして拒絶してくることは目に見えて明らかであった。そこで光格天皇は実父典仁親王に対して太上天皇(上皇)の尊号を贈ろうとした。
経過
1788年(天明8年)に公家の中山愛親らが幕府に通達すると、老中松平定信は皇位についていない人間に皇号を贈るのは先例のない事態として反対する。朝廷では徳川時代以前の古例を持ち出し、朱子学を正当とする定信と対抗し、朝幕間の学問的論争に発展する。1791年(寛政3年)12月、天皇は「群議」を開き、参議以上40名の公卿のうち35名の賛意を得て尊号宣下の強行を決定する。
収束
この事態を憂慮したのは前関白で典仁親王の実弟(天皇からみて叔父)でもある鷹司輔平であった。輔平はこのままでは朝廷と幕府の全面対決を招いて兄・典仁親王の身にも危険が及ぶと考え、定信に事の次第を告げて尊号を断念する代わりに典仁親王の待遇改善を求めた。定信は大政委任論を根拠に天皇に代わって幕府が公家を処分できると主張して中山愛親・正親町公明らの公家に処分を下し、また九州で活動していた勤皇家の高山彦九郎を処罰した。勤皇派の水戸徳川家が定信に賛成すると、輔平と後桜町上皇の説得を受けて天皇も渋々尊号一件から手を引いた。定信も典仁親王に1,000石の加増をする等の待遇改善策を行うことで尊号の代償とした。
だが「皇位についていない人間に皇号を贈る例」は後高倉院や後崇光院という先例が存在している。むろん碩学の定信も承知のことであり、これについては「承久の乱や正平の一統(南北朝の戦い)という非常事態が生んだ産物で太平の世に挙げる先例ではない」と述べている。つまり、単なる先例遵守によるものではない。定信は寛政の改革によって幕藩体制の再建を進めていく中で、その思想的根幹である朱子学を保護して「寛政異学の禁」や「処士横断の禁」を打ち出していた。朱子学は儒教の中でも大義名分や主君への「忠」、「君臣の別」を重んじる学派であり、特に日本では本来儒教が徳目として最も重んじていた「孝」以上に重要視された。この問題は言うなれば「忠」と「孝」の衝突であり、陽明学や古学、尊王論などの反朱子学的な(反幕藩体制につながりかねない)動きを抑圧する ために強硬策を採ったことも考えられるのである。
また、同時期に11代将軍徳川家斉は、実父の一橋治済に対して「大御所」の尊号を贈ろうとしていたが、定信は朝廷に対して尊号を拒否している手前、将軍に対しても同様に拒否をせざるをえなくなった。定信にとって一橋治済は、御三卿のひとりとして将軍位を狙える立場にあった自分を、白河藩へと放逐した政敵であり、治済が大御所として権力を掌握することに危機感を抱いていた。定信としては一橋治済の大御所就任を阻止するためにも、典仁親王への太上天皇宣下を拒否すべき立場であった。しかしこれにより家斉の不興を買った定信は、後に失脚することとなる。
更に天明の京都大火後の内裏再建の際に、財政問題などを理由とする定信の反対論を押し切る形で朝廷が古式に則った内裏再建を行い、結果として幕府が莫大な出費をすることになったことも、定信の朝廷に対する不信感を強める一因になったと言われている。
その後
尊号一件については、早くから勅使として江戸に下った中山愛親が江戸城の将軍の前で堂々たる抗議をしたという伝説が生まれ、『中山東下記』『中山伝記』といった小説が密かに書かれている(共に事件よりあまり隔たらない時期の成立と見られる)。寛政異学の禁などで思想統制を行った松平定信だが、庶民の間での風聞には無関心であり、これについては何ら統制を行わなかった。
松平定信の失脚後も尊号の件は認めなかったものの、光格天皇の姪にあたる閑院宮宣子女王を天皇の猶子にする件や禁裏(譲位後は院御所)から閑院宮家に経済支援を行う件に関しては江戸幕府は条件を付けながらも基本的には光格天皇(上皇)の意向をほぼ認めており、天皇も譲位直前に徳川家斉に対して御衣とともに幕府が多くの神事や公事の再建に協力してくれたことを感謝する書状を送っている(『山科忠言卿伝奏記 四』文化14年3月15日条)など、光格天皇と江戸幕府の関係は良好なものであったという。
典仁親王は明治天皇の直接の祖先にあたる(明治天皇は典仁親王の玄孫)ということで、1884年(明治17年)に慶光天皇(慶光院とも)の諡号と太上天皇の称号が贈られている。また中山愛親にも同年従一位が贈られている。
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大政委任論(たいせいいにんろん)は、江戸幕府が国内支配の正当化のために主張した理論で、将軍は天皇より大政(国政)を委任されてその職任として日本国を統治している、とするものである。
内容
江戸時代初期の禁中並公家諸法度(第1条)よりその萌芽は見られるとする橋本政宣の説]もあるが、それを理論化したのは14歳で将軍に就いた徳川家斉を補佐する老中・松平定信であったとされている。定信は天明8年(1788年)8月、家斉に対して「御心得之箇条」(『有所不為斎雑録』第三集所収)の中で「六十余州は禁廷より御預り」したものであるから「将軍と被為成天下を御治被遊候は、御職分に御座候」と説き、若い将軍に武家の棟梁としての自覚を促すとともに、将軍は朝廷から預かった日本六十余州を統治することがその職任であり、その職任を果たすことが朝廷に対する最大の崇敬であるとした。
定信は、当時台頭しつつあった尊王論を牽制するために、天皇(朝廷)自身が大政を将軍(幕府)に委任したものであるから、一度委任した以上は天皇といえども将軍の職任である大政には口出しすることは許されないという姿勢を示したものであり、さらに武家も公家も同じ天皇の国家である日本に住む「王臣」であるという論法から、将軍すなわち幕府は武家や庶民に対する処分と同様に公家に対しても処分の権限を持つと唱え、尊号一件に際して公家の処罰を強行した。
もっとも、「大政委任」の考えは定信のような要人や学者の間で唱えられることはあっても、江戸幕府として正式に認めたものではなかった。公式の朝幕関係の場でこの大政委任論が確認されたのは、文久3年(1863年)3月7日に京都御所に参内した将軍・徳川家茂が孝明天皇に対して、直接政務委任の勅命への謝辞を述べた時であったとされている。ただし、孝明天皇は家茂の義兄で、かつ江戸幕府との関係を重視する立場(佐幕主義)であったため、この時点では直ちに影響を与えるものは無かった。
影響
しかし裏を返せば、幕府の権限は全て本来は天皇が有していたものであり、幕府はそれを委任されたものに過ぎないという論理も成立してしまい、天皇が幕府の上位に立つものと解する余地を与えることになった。さらに、本来朝廷が担っていた国家統治に対する責任を幕府が全面的に引き受けることを意味することになり、19世紀に入って国内における経済・社会問題や外国船の来航など内外の問題が深刻化すると、幕府がその政治的責任を問われることとなった。
やがて、黒船来航以後に深刻化した国内の混乱を収拾しきれなくなった末、将軍徳川慶喜による大政委任の返上、すなわち大政奉還の宣言によって幕府政治は終焉に向かうこととなった。
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