🏞80)─1─弘前城の天守閣はロシアの侵略に備えた軍事施設であった。文化7(1810)年。〜No.323No.324No.325No.326 ㉖

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 徳川幕府は、敵がロシアでる事を知り、危機意識から北の軍事防衛強化を進めていた。
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 日本防衛で最大の懸案事項は、蝦夷アイヌ人が日本の味方になるか敵になるかと言う事であった。
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 北の黒船事件と津軽藩士殉難事件。
 幕府は、東北諸藩に出兵・北方警備を命じた。
 開国は、ペリーの黒船来航ではなくロシアの黒船来航であった。
 尊王攘夷の発端は、ロシア軍艦による蝦夷地・北方領土への侵略攻撃であった。
 ロシアの目的は、平和的な日露交易開始であった。
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 一部の東北諸藩にとって、領地領民が第一であって、蝦夷地・北方領土がロシア領になっても関心はなかった。
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 元寇・蒙古襲来を戦っても恩賞がなかった事を教訓とすれば、ロシアと戦っても無駄働きになる事は分かっていた。
 この当時、日本というアイデンティティーはなく、日本国や日本民族という意識はなかった。
 蝦夷地・北方領土がロシアに奪われても、当時の日本人は戦争をしてまで取り返したいという強い意志はなかった。
 そんな意識は、現代日本人の北方領土4島に対する領土意識の希薄さに通じる。
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 ウィキペディア
 弘前城は、陸奥国鼻和郡(のち統合と外浜(青森)、西浜(十三湊)を編入津軽郡弘前(現・青森県弘前市下白銀町)にあった日本の城である。別名・鷹岡城、高岡城。江戸時代に建造された天守や櫓などが現存し国の重要文化財に指定されている。また城跡は国の史跡に指定されている。江戸時代には津軽氏が居城し弘前藩の藩庁が置かれた。
 1810年(文化7年) - 9代藩主津軽寧親、三層櫓を新築することを幕府に願い出て、本丸に現在見られる3層3階の御三階櫓(天守)が建てられた。
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 幕府は、ロシアの侵略から蝦夷地を守る為に弘前藩に派兵を命じ、防衛拠点としての弘前城天守閣再建を許した。
 弘前藩は、蝦夷地防衛の為に10年間で約4,000人の藩士を派遣し、約100人が死亡した。
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 陸奧新報
 2020/2/24 月曜日
 弘前藩蝦夷地警備=129
 松前城福山城)本丸御門と復元天守弘前藩蝦夷地警備兵士供養碑は城の北側に位置する法源寺に今もたたずんでいる
 弘前藩蝦夷地兵士供養碑(松前法源寺墓地)。正面が物頭2人、向かって右側が兵士、左側が兵卒役夫の石碑
「中興の英主」とされた弘前藩四代藩主の津軽信政を祀る高照神社本殿
 文化4年5月24日の御告書付。幕府から蝦夷地警備を命じられた際のもの(高照神社蔵、高岡の森弘前藩歴史館寄託)
 高岡の森弘前藩歴史館で展示中の「松前之図」(当館蔵)
 ▽クナシリ・メナシの戦い
 泰平(たいへい)の世が続くかに見えた江戸時代後期、争いの知らせは蝦夷地(北海道、サハリン、千島の総称)からもたらされた。1789(寛政元)年、クナシリ(国後島=くなしりとう)、メナシ(北海道標津町=しべつちょう、羅臼町=らうすちょう周辺)地方で、アイヌの人々による和人殺害事件(クナシリ・メナシの戦い)が発生したのである。
 蝦夷地での対アイヌ交易権と漁業権を得た場所請負人飛騨屋(ひだや)のアイヌに対する強制労働や、本州からの出稼ぎ和人による横暴が原因とされ、殺害された和人71人の中には弘前藩領出身者3人が含まれていた。
 事件の知らせを受けた幕府は、蝦夷地を支配していた松前藩に鎮圧を命じるとともに弘前、盛岡、八戸の各藩に対して松前藩からの要請があり次第、援軍を派遣するようにと指示した。
 幕府は以前からラッコやテンの毛皮を求めて千島列島を南下していたロシア商人が、アイヌの人々と連携しているのではないかという疑いも持っていた。結果的に事件とロシア人との関係はなく、アイヌたちは松前藩によって鎮圧されたため、実際の派兵には至らなかった。
 ▽対外危機の高まり
 その後も、ロシア船やイギリス船が度々蝦夷地を訪れる動きが見られ、幕府から弘前藩盛岡藩蝦夷地に警備拠点である勤番所を設け、外国船来航に備えるように命じられた。
 こうした中で1804(文化元年)、ロシア使節レザノフの交易交渉を目的とする長崎来航、06~07(文化3~4)年、レザノフが幕府から交渉を断られた報復として、その部下フヴォストフがカラフト、およびエトロフ(択捉島)の松前藩弘前藩盛岡藩の勤番所を襲撃する事件が起こった。
 幕府は、07(文化4)年に松前地と蝦夷地を松前藩から召し上げて幕府の直轄領とし、弘前、盛岡両藩に蝦夷地の永久警備が命じられた。この時期、日露関係の緊張は最高潮に達し、両藩から蝦夷地にそれぞれ1000人を超える人々が派兵された。
 日露間の緊張緩和に伴って徐々に勤番地の数や派兵人数が減少されたものの21(文政4)年、松前家の松前地と蝦夷地の復領、翌年に松前勤番兵士の撤収が完了するまで蝦夷警備体制は継続された。
 ▽蝦夷地警備兵士の死と供養
 蝦夷地警備に関して、シャリ(北海道斜里町)で大勢の弘前藩兵士が亡くなったという話を耳にした方もいるかもしれない。07(文化4)年から翌年にかけてシャリで越冬した約100人のうち、栄養失調が原因と思われる「浮腫病(ふしゅびょう)」で多数が亡くなり、その約7割が蝦夷地警備のために集められた百姓や町人だった。シャリのほか、弘前藩が警備を担当した各勤番地でも多数の死者が出た(『新編弘前市史』通史編2 近世1)。
 生まれ故郷の津軽から遠く離れた地で亡くなった人々を供養するための石碑が、北海道松前町に今も残されている。供養碑がある法源寺は曹洞宗寺院で、墓地の奥に弘前藩蝦夷地警備兵士を祀(まつ)った「弘前者頭(ものがしら) 北原内匠源高門・工藤杢左衛門墓」「弘前兵士合墓之碑」「弘前兵卒役夫合墓之碑」の3基が向かい合う形で配置されている。
 者(物)頭とは足軽頭、役夫は軍隊に伴う人夫を指す。石碑の大きさは物頭2人を祀ったものが154センチで一番大きく、兵卒役夫の碑が最も小さい。3基とも22(文政5)年に建てられ、兵士、および兵卒役夫の石碑裏面には蝦夷地警備で病死した弘前藩兵士らの菩提(ぼだい)を弔うため、石碑を建てたとある。これらの石碑は、勤番地撤収に当たって弘前藩が建てたものと考えられる(『松前の墓石から見た近世日本』)。
 ▽高照神社にみる蝦夷地警備
 蝦夷地や松前から離れ、津軽に目を向けてみよう。岩木山麓にある高照神社(たかてるじんじゃ、弘前市大字高岡)は、弘前藩四代藩主の津軽信政(1646~1710)を祭神として創建された。
 この神社は弘前藩の精神的支柱とされ、藩の重大事項を神となった信政に報告する「御告御用(おつげごよう)」が行われていた。特に、蝦夷警備体制期において集中的に行われ、藩が使者を立てて重要事項を報告した文書「御告書付」が現存している。
 ▽蝦夷地からの帰還者が残したもの
 高照神社には蝦夷地に関わるものとして、蝦夷地派兵を経験した弘前藩士貴田惟邦(きだこれくに)の「松前之図」がある。この図は松前だけでなく北海道や千島列島などの地名や距離を詳細に記したもので、惟邦が派兵の際に入手した図に1799(寛政11)年に改定を加え、1833(天保4)年に孫の惟良(これよし)が筆写し補足している。
 貴田家は兵学師範の家柄で、兵学研究のために領国絵図や城絵図などを筆写し収集しており、99(明治32)年に惟良の孫に当たる稲城(いなき)が絵図書籍類(「貴田稲城氏奉納資料」)を高照神社に奉納した。惟邦は蝦夷地への旅から無事に生還することができたため、兵学者の知見を生かして蝦夷地の地理的な情報を残そうとした。
 この図は、高岡の森弘前藩歴史館で開催中の企画展「江戸の旅と観光」で展示しており、江戸時代の人が北海道を含む北方地域をどのように認識していたか、垣間見ることができる。
 ※企画展は3月22日(日)まで、休館日は3月16日(月)。
弘前市教育委員会 高岡の森弘前藩歴史館主事兼学芸員・澁谷悠子)
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 北海道ファンマガジン
 北の黒船事件と津軽藩士殉難事件とは?
 2010/05/192020/01/26 編集部1,383 pt
 北の黒船事件とは?
 屯田兵と全国各藩は蝦夷地に派遣され、北方警備にあたっていた時代です。たびたびロシア船が蝦夷地近海に現れていたからです。やがて、1804年になってロシアのニコライ・レザノフが長崎に来航し開国・通商を求めました。結局幕府はロシア側の要求を半年待たせた挙句拒否し、レザノフ一行をロシアに帰しました。
 レザノフは大変怒り、この報復行為として、1806年9~10月に部下のフヴォストフ率いる武装商船2隻が樺太に上陸し松前藩出張所を襲撃(レザノフが計画したもののフヴォストフが独断で行動したとされます)。1807年4月には択捉島、5~6月には礼文利尻周辺の船を襲撃し利尻島にも上陸。それぞれで略奪・拉致しました。
 この事件はフヴォストフ事件ともいわれます。各地で拉致されたのは10人で、利尻で8人が釈放されました。ロシアから渡された幕府への書簡を松前藩に届けました。
 ロシア襲撃に対して幕府は1807年3月に蝦夷地全域を幕府直轄領としました。また、同年12月には「ロシア船打ち払い令」が出されました。ちなみに、この事件前にはラクスマン来航、事件後にはゴローニン事件が起きており、ロシアとの緊張関係が続いた時代でもあります。
 1806年 9月 フヴォストフの襲撃艦船がオホーツクを出港
 1806年10月 樺太アニワ湾にて上陸し焼き払い・略奪を行い、日本人4人を拉致しカムチャッカにて抑留(~翌年6月)
 1807年 3月 蝦夷地全域を幕府直轄とする
 1807年 4月 丁卯事件(でいぼう)。択捉島ナイホでロシアが上陸し会所を襲撃・略奪、 一時撤退するも夜襲で南部藩津軽藩を敗走させ、6人が捕虜になる
 1807年 5月 東北地方の諸藩に北方警備を命じる
 1807年 6月 5月からロシアが礼文・利尻沖で船を襲撃、利尻島上陸で襲撃、捕虜8人が釈放される
 1807年12月 ロシア船打ち払い令
 東北諸藩が出兵・北方警備を命じられた
 危機を感じた幕府は、すぐに蝦夷地警備を強化することを決め、1807年5月に東北地方の藩士蝦夷地に出兵させました。会津藩秋田藩仙台藩弘前藩など、合計3000人が出兵を命じられました。実際にはナポレオン戦争によるロシア兵引き揚げで、交戦はありませんでした。
 斜里に派遣された津軽藩は100名。5月に500人以上で弘前城から青森へ、箱館から宗谷へ、その後100人は斜里に配置替えとなり、斜里に秋に到着し冬支度を急いで行いました。彼らは寒さに耐え、食糧不足に耐え、結局病に倒れる人が出てきて次から次へと死んでいきました。浮腫病でした。
 彼らに帰還命令が出されたのは1808年8月のことで、それまでに72人が死亡し、17人だけが生き残りました。この悲惨な出来事は知られていませんでしたが、1954年に「松前詰合日記」(藩士斎藤勝利による記録)が発見されて事件の詳細が判明しました。
 この記録は発見されればお家断絶・切腹の危険があったため、子孫が隠し持っていました。こうしたことから、斜里町は慰霊碑を建立、地元弘前市と友好交流を行って、斜里ねぷたが行われるようになりました。
 一方、会津藩も大変な思いをしました。帰還途中の観勢丸が利尻島近くで暴風雨にあって沈没する災難にあい、数人が死亡しました。さらに一部は天売島、焼尻島に避難し、合計で51人が死亡しました。現在も利尻島内、焼尻島内、宗谷岬に墓や碑が残されています。
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