🏯3)─2─江戸時代初期。日本は世界一の鉄砲を保有する軍事大国であった。〜No.5

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 15世紀の人口、オスマン帝国約1,800万人。日本約1,500万人。
   ・   ・   ・   
2022-01-28
🏯目次)ー13ー江戸は世界七大帝国。武士道と金上侍。百姓と村八分百姓一揆。水争い。賤民と部落民。幕府の土木工事。~No.1 * 
世界七大帝国。
2019-02-10
🏯2)─2─徳川時代の近世日本は世界7大帝国の1つの強国であった。~No.3
2020-01-06
🏯3)─1─日本の火縄銃は明・朝鮮の青銅銃より優れアジアで最強兵器であった。〜No.4・ * 
2024-02-10
🏯3)─2─江戸時代初期。日本は世界一の鉄砲を保有する軍事大国であった。〜No.5 
2020-10-11
🏯5)─1─徳川家康の日本は軍事大国であり武器輸出国であった。朱印船。~No.8No.9 
2024-01-10
⚔目次)ー1ー戦国時代から徳川家光鎖国キリスト教の宗教侵略と日本のキリシタン弾圧。江戸の開発。~No.1 * 
2020-07-06
⚔38)─1─オランダは、日本産銀・日本人傭兵・日本産武器を使って国際金融交易網を築いた。~No.163
2019-02-10
⚔44)─1─徳川時代の近世日本は世界7大帝国の1つの強国であった。~No.175No.176No.177・ 
   ・   ・   ・   
 2023年12月8日 MicrosoftStartニュース 現代ビジネス「なぜ「日本」は「世界一の鉄砲大国」に? その「意外な要因」 『日本史サイエンス〈弐〉』
 播田 安弘
 歴史とは、人と物が時間軸・空間軸の中をいかに運動したかを記述するものである。話題騒然の前作に続き、日本史の「未解決事件」に「科学」を武器に切り込む!
 本記事は播田 安弘『日本史サイエンス〈弐〉 邪馬台国、秀吉の朝鮮出兵日本海海戦の謎を解く 』(ブルーバックス)を抜粋・再編集したものです。
 たたら製鉄が生んだ高度な製鉄技術
 倭国と呼ばれていた卑弥呼の時代、日本は世界初とされる翡翠加工の技術を活用し、「翡翠と鉄の道」を通して朝鮮半島から鉄を手に入れていました。その後、古墳時代になると鉄鉱石の産出は少ないかわり砂鉄が豊富に採れるという地質的特徴を生かし、渡来人の指導も得ながら、世界でも類のない独自の方法で鉄を精練するようになりました。それが「たたら製鉄」と呼ばれている精錬法です。
 たたら製鉄は木炭を燃料にして砂鉄を加熱し、鉄を採りだすもので、炭の温度が1200度と比較的低温のため鉄に炭素や不純物が残りやすく、それらを取り除いたり、細かく分散させるための鍛鉄作業が延々と繰り返されます。その結果、最高の純度となった玉鋼が得られるのです。
 これにより、刃の部分に粘土を塗り焼き入れすることで刃の部分や外側は純度は低い(炭素が多い)硬鉄で、内部と背の部分は純度が高い(炭素が少ない)軟鉄でできているという、世界でも珍しい二重構造の刀剣がつくられました。日本刀です。
 硬軟の二重構造によって、細身で軽量でありながら強靱という二つの長所を兼ね備えた日本刀は接近戦では世界最強の武器ともいわれ、鎌倉時代元寇の役では蒙古軍を恐怖に陥れて蒙古撃退の一翼を担いました。また、二重構造による伸縮差が生みだす優美な曲線を描く刀身は、武器としては世界で唯一、美術工芸品としても扱われています。
 こうした日本刀の複雑な製造工程を通して、日本の刀鍛冶は鉄の鍛錬や加工について熟知していました。そのため初めて鉄砲を見たときも、その複製にいちはやく取りかかれたのです。
 刀鍛冶が編み出したのは、「巻き張り法」という複雑な製法でした。それは丸い棒の外側に、細長い板状の鉄板を叩いて曲げながら何重にも巻きつけて、最後に棒を抜くと銃身ができあがるというもので、これによって火薬の爆発の圧力に耐える強い銃身ができたのです。
 © 現代ビジネス
 この巻き張り法は、世界的にも、より爆発力の高い無煙火薬の銃が登場する18世紀まで使われ、そのような銃は「ダマスカス銃」とも呼ばれています。鉄砲の本場英国でも、ダマスカス銃の製作には最良の鋼材と最高の技術が不可欠といわれ、18世紀末まで高級銃として珍重されていました。巻き張り法でできた日本の鉄砲は「鳥銃」とも呼ばれ、精度がよく西洋製の銃より優れていたともいわれています。有名な宣教師のルイス・フロイスも、日本の鳥銃の品質は最高であると言ったと伝えられています。
 また、鉄砲を大量生産するには、原料の砂鉄の採掘と輸送、たたら製鉄用の大量の炭の製造と輸送、そして高い技術をもつ刀鍛冶の確保など、製造や流通のシステムが構築されていなくてはなりません。その意味でも日本では、日本刀の刀身の材料となる玉鋼などの製造から販売までの一連のシステムが確立されていたと思われます。
 このような素地があったことが、種子島への伝来からほんのわずかの期間で、日本が世界一の鉄砲大国になりえた大きな要因だったと思われます。
 さらに連載記事<「黒船」が日本にきたとき、実は「ペリー」もまた「驚愕」していた…彼が「日本人」について語った「驚くべき内容」>では、ペリーが日本人について語った賞賛の内容について語ります。
   ・   ・   ・   
 2023年4月5日 ZAKZAK「スペインに日本征服を断念させた武力と知性(上)大航海時代になぜ植民地にならなかった? 宣教師が伝えた「日本人に勝てる民族はいない」
 教科書の日本史を見ても、なかなか分からないことがある。例えば、「日本が大航海時代に植民地にならなかったのはなぜか」という疑問もその一つ。この謎は、世界との関係の中に答えがありそうである。当時の欧州人が戦国日本をどのように見ていたか探ってみよう。
 イエズス会フランシスコ・ザビエルの報告には、以下のようにある。
 「あらゆる民族の人々と話してきたが、日本人こそ一番良い発見であった。キリスト教以外の宗教を信仰する民族の中で、日本人に勝てる他の民族はいない」「人々の大半が読み書きの能力を備えている」「神の法を理解するのにとても便利」
 同じく、イエズス会のコスメ・デ・トーレスは「彼らはとても賢く、スペイン人のように理想的に自らをおさめることができる」「彼らは、何でも知りたがるのである。世界中に彼らのような民族はいない」と評価している。
 この時、イタリアはルネサンス円熟期である。
 イタリア人宣教師、ニェッキ・ソルディ・オルガンティーノは「われわれヨーロッパ人は互いに賢明に見えるが、彼ら日本人と比較すると、はなはだ野蛮であると思う。私は真実、毎日、日本人から教えられることを認めている。私には全世界中でこれほど天賦の才能を持つ国民はないと思われる」と語っている。
 日本にあまり好意的でなかったアレッサンドロ・ヴァリニャーノでさえ、「道徳と学問に必要な能力について語るならば、私は日本人以上に優れたる能力ある人々のあることを知らない」と記録している。
 フランシスコ・ザビエル
 欧州の上流階級出身者からなる宣教師の知的水準は高い。その彼らの見た戦国日本は、国としての水準が高かったのである。
 宣教師は、日本の武力をどう見たのであろうか。
 ヴァリニャーノのフィリピン総督宛ての書簡に、「日本国民は非常に勇敢で、しかも絶えず軍事訓練を積んでいるので征服は困難だ」とある。
 日本を、軍事力で征服することは不可能であるが、キリシタン大名を味方にすれば、キリシタン大名の兵力数千人の動員は容易で、スペイン本国派遣軍と合わせて1万人程度で、明の討伐可能と提案している。
 彼らは、明が基本的に文人の国で戦争を厭(いと)うところが強く、国の中枢の人間が、贅沢を旨として戦いを好まないので、1万の軍で制圧可能と考えていたのである。
 1596年10月、マニラ港からメキシコを目指していたスペインの豪華貨客船サン・フェリーペ号が台風のため土佐の浦戸湾において座礁沈没した。
 現地の大名、長宗我部元親豊臣秀吉に直ちに報告したところ、秀吉は積み荷を没収することを決め、現地に増田長盛(奉行職)を派遣する。増田奉行は事情聴取の結果、スペインは宣教師を尖兵として送り込み、侵略の手先として広大な版図を手にしたという事実認識を報告した。
 秀吉は、スペインに「侵略の下心あり」として、サン・フェリーペ号の事件を契機として、マニラ総督の派遣したフランシスコ会宣教師や、信徒26人を磔(はりつけ)の刑に処する。
 スペインが、秀吉に対して武力を持って報復しなかったのは、日本の武力が強大であったからである。
 内藤克彦(ないとう・かつひこ) 歴史探求家。1953年、東京都生まれ。東京大学大学院工学部物理工学専門課程修了。環境省地球総合環境政策局環境影響審査室長、水・大気環境局自動車環境対策課長、東京都港区副区長などを経て、京都大学大学院経済学研究科特任教授。個人的に歴史研究を深めている。著書に『展望次世代自動車』(化学工業日報社)、『五感で楽しむまちづくり』(学陽書房)など多数。
   ・   ・   ・   
4月6日 ZAKZAK「スペインに日本征服を断念させた武力と知性(下)高い技術水準、世界トップの鉄砲保有国 イエズス会は高価な硝石交易で大名に接近
 戦国日本の武力は、欧州諸国と比べて、どうだったのか。
 『鉄砲を捨てた日本人』(中公文庫)という著書がある米ダートマス大学のノエル・ペリン教授によると、1589年に英国がフランスに軍を派遣するに際して、英国全土から集めた銃の数は1100挺足らずであった。
 だが、その14年前の1575年の長篠の戦いで、すでに織田・徳川は3000挺、武田は500挺の鉄砲を動員していた。鉄砲伝来(1543年)からわずかの期間で、わが国で鉄砲は大量生産され、性能も改善され、全国的に普及し、当時の「世界トップの鉄砲保有国」になっていたのである。
 戦国日本に鉄砲がどれだけあったかについては「30万丁」との説もあるが、江戸太平の幕府軍役義務でも1万石に25丁の鉄砲で、全国総石高2000万石とすると、諸藩等合計で5万丁となる。欧米が正面から武力侵攻できる状態ではなかった。
 これらの鉄砲は、戦国日本の技術力により支えられていた。
 ペリン教授によれば、「日本の技術水準がその当時すでに高かった。日本の銅はヨーロッパの銅よりも良質とみられ、価格も安かった」「例えば、オランダ人は、日本銅をアムステルダムまで運んでなお利益を上げた」「英国は、ヨーロッパ随一の鉄製造国で、スペインは、…敵国英国から、鉄製大砲を苦労して輸入した。しかし、英国の東インド会社が1613年に日本に商館を開設し、鉄インゴット販売しようとしたが、日本では買い手が全く見つからなかった」「日本鉄に比べて品質が劣るとみなされた」という。
 鍛鉄で作られた日本の鉄砲は、多量の火薬にも耐えた。
 一方、火薬の原料である硝石の日本生産量は限られ、大量消費の戦国期は輸入に頼っていた。イエズス会は高価な硝石交易により大名などに接近する。
 豊臣秀吉による九州征伐の行軍記録『九州御動座記』に、「宣教師から硝石樽を入手せんため、大名、小名はいうにおよばず、…己のしもべや…を南蛮船で(奴隷として)運ぶ」(徳富蘇峰『近世日本国民史』)とある。
 東大史料編纂所大航海時代の日本人奴隷』によれば、ポルトガルでは、人身売買には聖職者の署名付き証書が必要であったが、イエズス会は、この証書を発行している。
 ポルトガル出身の宣教師、ガスパール・コエリョの1587年のローマ総長宛て書簡で、「パードレたちが、…奴隷証書を発行することから、商人たちは大きな不正を日本人奴隷売人とともに行っている」とある。高価な硝石と引き換えに奴隷が売られた。
コエリョは秀吉に明出兵計画を提案する。「今に見ておれ、太閤を海外遠征に引き込んで、さんざんな目に遭わせてやる」というコエリョの策謀を見抜き、秀吉がコエリョに叩き付けた五箇条の中に、「なにゆえにお前たちはお前の国民が日本人を購入し、奴隷としてインドに輸出するのを容認するのか」とある。
 織田信長や秀吉らと会見し、戦国研究の貴重な資料となる『日本史』を記したイエズス会宣教師、ルイス・フロイスによると、『伴天連追放令』に際し、秀吉は「伴天連らは、…大身、貴族、名士を獲得しようとして活動している。…このいとも狡猾な手段こそは、日本の諸国を占領し、全国を征服せんとするものであることは微塵だに疑問の余地を残さぬ」と述べている。
■内藤克彦(ないとう・かつひこ) 歴史探求家。1953年、東京都生まれ。東京大学大学院工学部物理工学専門課程修了。環境省地球総合環境政策局環境影響審査室長、水・大気環境局自動車環境対策課長、東京都港区副区長などを経て、京都大学大学院経済学研究科特任教授。個人的に歴史研究を深めている。著書に『展望次世代自動車』(化学工業日報社)、『五感で楽しむまちづくり』(学陽書房)など多数。
   ・   ・   ・