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2022年6月9日 MicrosoftNews プレジデントオンライン「日本はポルトガル領になる予定だった…「長篠の合戦」で織田信長の鉄砲隊をイエズス会が支えたワケ
© PRESIDENT Online ※写真はイメージです
織田信長はなぜ「天下人」になれたのか。三重大学の藤田達生教授は「キリスト教を保護する見返りにイエズス会から軍事協力を得た。鉄炮や大砲といった新兵器に関わる技術支援や軍事物資の供給は、信長の天下統一の大きな支えになった」という――。
※本稿は、藤田達生『戦国日本の軍事革命』(中公新書)の一部を再編集したものです。
織田信長を勝たせるために兵站を支えた宣教師たち
近年の研究によって、信長がイエズス会を介して硝石や鉛を大量に確保していたことが指摘されている。イエズス会宣教師によって、タイ産鉛と中国産硝石がセットで輸入され、堺商人を経由して信長のもとに届けられたとみるのである。
その根拠は、メダイ(キリスト教聖品アクセサリー)や十字架や指輪といったキリシタン遺物に使われている鉛が、鉛同位体比分析によって、日本で使われた鉄砲玉の原料と同じタイのソントー鉱山産と判明したからだ。イエズス会と信長の親密さの背景には、キリスト教保護の見返りとしての軍事協力があったとわかる。
宣教師たちの鉛と硝石の入手ルートとしては、タイのアユタヤやパタニなどで鉛を積み、中国のマカオなどで硝石を購入、そこから九州そして土佐沖を通る南海路を経て、紀淡(きたん)海峡を通り抜けて堺に至る航路が想定されている。
信長は、土佐の長宗我部(ちょうそかべ)氏とは明智光秀を介して良好な関係を築いていたし、真鍋氏ら和泉水軍も麾下(きか)に組織して紀淡海峡の制海権を掌握していた。
宣教師たちは、軍事物資の輸入のほかにも、異教徒を対象とする人身売買や高級品である生糸の輸入にも関与したことがわかっている。布教資金の確保のためにはなんでもした、というのが現実だった。
特に、信長を勝たせるために「死の商人」を演じたのには、理由があった。
日本はポルトガル領となる予定だった
大航海時代のうねりが、ヨーロッパで始まった軍事革命を極東の島国日本にもたらした。
この時代の代表的人物として私たちが思い浮かべるのは、コロンブス、マゼラン、ヴァスコ・ダ・ガマといった航海者、探検家、商人たちだろう。彼らが活躍できたのは、ヨーロッパ諸国において、夜間航行すら可能な羅針盤を用いた航海技術が普及し、さらに向かい風を受けても前進可能な大型帆船・ガレオン船が造船されるようになったからだ。
スペインやポルトガルといった南欧諸国は、優秀な航海技術を武器に莫大な富を求めて海外征服をめざすことになる。彼らは、あらかじめ利権がぶつからないようにするために、ローマ教皇も交えてキリスト教以外の異教徒の世界を二分した。両国間における排他的な航海領域の設定と新発見地の領有や独占権については、一四九四年のトルデシリャス条約の締結によってルールが決定された。
すなわち、ベルデ岬諸島(アフリカ大陸最西端の岬西方の群島)の西沖の三七〇レグア(スペイン・ポルトガルで使用された距離単位、一レグアはポルトガルでは約六〇〇〇メートル)を通る経線を基準に、東側全域をポルトガル領、西側全域をスペイン領としたのである。今の常識からすればとんでもないことだが、両国によって勝手に未発見の諸国も含めて地球規模で領地が二分割されたのである。これをデマルカシオンとよぶ。
この条約によると、日本はポルトガル領となる予定だった。ポルトガル国王は、このような一方的な植民地化を正当化するために、ローマ教皇に働きかけて、新発見地に対するカトリック化を奨励し、保護する姿勢を示したのだ。
資金不足に悩むイエズス会と、織田信長の利害
イエズス会は、一五三四年にイグナチオ・デ・ロヨラらによって設立され、一五四〇年にローマ教皇パウルス三世の許可を得た、宗教改革に対するカトリック側の対応として生まれた教団である。イエズス会は精力的に布教地を求め、インドさらには中国、そして日本へと宣教師を派遣した。
ポルトガル国王は、植民地支配の正当化のために、イエズス会に対して海外渡航の便宜や経済的援助をおこなった。したがって、イエズス会の収入の第一は、ポルトガル国王からの給付金だった。次いでローマ教皇からの年金、篤志家(とくしか)からの喜捨(きしゃ)、インド国内の不動産からの収入、公認・非公認の貿易(斡旋や仲介も含む)などがあげられる。
ただし、日本は極東にあるため行き来がままならず、これらの収入はいずれも不定期で、なおかつ教団を維持するには少額といわざるをえなかった。イエズス会の世界教団化に伴う急速な拡大と国王給付金の遅配により、日本のイエズス会は常に資金不足に悩まされたという。
信長が天下統一の意志を明らかにしたのは、岐阜時代すなわち尾張・美濃・伊勢三ヶ国を本拠とした環伊勢海政権期(初期織田政権期)だった。
永禄十一(一五六八)年の足利義昭を奉じての上洛、元亀四(一五七三)年の槇(まき)島城合戦における将軍義昭の追放、天正三(一五七五)年の長篠の戦いでの武田氏に対する勝利、このような経緯のなかで、室町幕府にかわる政権を構想したのであるが、その背景には鉄炮隊を中心とした圧倒的な軍事力の獲得があった。
長篠古戦場で見つかった「タイ産の鉛玉」
信長方が使用した鉄炮玉のなかにタイ産鉛の玉が確認されたのは、長篠の戦いの古戦場で見つかったものである。発見された二十点のうち二・五(混合)点がそれに該当する。また朝鮮半島や中国産が三点だった。
これらの事実から、平尾良光氏は「信長は外国産の鉛と火薬を偶然でなく、意図して導入していたことを示唆する。(中略)反面、武田側では鉛を生産できたとしても、火薬の入手がかなり困難だったのではないだろうか」と指摘する。
長篠の発掘事例は、天正三年までに、つまり信長の岐阜時代にイエズス会を通じて硝石や鉛を大量に輸入するルートが確保されたことを暗示するものである。この時期のイエズス会は、長崎の要塞化を開始したばかりであり、まだまだ経済基盤は弱体だったから、珍しい贈答品を贈るなどして信長の歓心を買うことで利用しようとした。
特に、鉄炮や大砲といった新兵器に関わる技術支援や軍事物資の供給は、信長にとって魅力的だったことは確実である。
このように、国内におけるイエズス会勢力の急速な浸透は相当に生臭いものであって、背後にはデマルカシオンという世界政治が横たわっていた。この一成果として、天正八(一五八〇)年の安土(あづち)におけるセミナリヨ(イエズス会司祭・修道士育成のための初等教育機関)の建設があげられる。
信長の中国遠征計画の本気度
ここで、天正十年六月の本能寺の変の直前に、信長関係者から宣教師ルイス・フロイスにもたらされた情報を抜粋する(『フロイス日本史』)。
信長は(中略)毛利を平定し、日本六十六カ国の絶対君主となった暁には、一大艦隊を編成してシナを武力で征服し、諸国を自らの子息たちに分ち与える考えであった。
よく知られた信長の中国遠征計画の一節である。「諸国を自らの子息たちに分ち与える考え」と記されていることから、情報源は信長三男の信孝(のぶたか)周辺と推測される。この頃、彼はキリシタンになる願望をもっており、オルガンティーノ(安土セミナリヨ設立)ら宣教師たちと親しく交わっていたからである。
天下統一直前といってよいこの時期、信長は新たな政治段階に向けて画策していた。一門や近習を畿内近国に、懸案の四国地域を信孝を含む三好康長派閥に、平定予定の中国地域を秀吉(養子は信長五男秀勝)派閥に配置し、光秀ら宿老層に対して遠国への国替を断行しようとしていた。
そのような時に、次代を担う信孝らに「大陸出兵」が表明されたものと推測する。これを、信長の途方もない「野心」と一笑に付すわけにはいかないのではないか。
これには、イエズス会さらにはポルトガルの「世界戦略」との関わりを感じざるをえない。つまり、彼らに依存するほかなかった硝石や鉛を大量に確保するめどが立たなければ、このような意志表明などできるはずがなかったからである。
信長、秀吉と他の戦国大名の決定的な違い
本格的な鉄炮戦として知られる長篠の戦いに関する研究は、近年進展している。平山優氏は、従来のような三千挺の鉄炮隊(新戦法)対武田騎馬隊(伝統戦法)の図式は誤りだと断言する。すなわち、鉄炮の多寡がこの戦争の決定要因ではなく、『戦国日本の軍事革命』でもふれたように武田勢もそれなりの量を持参していたが、肝心の火薬や玉不足が大敗の要因だったと結論づけている。
武田氏のみならず関東に覇を唱えた北条氏も含めて、東国大名は玉の原料である鉛の入手に手を焼いた。領国内に鉱山が乏しく、多くを外国産に依存しており、畿内を制圧した織豊政権がそれを獲得するのが有利だったのに対して、東国の戦国大名は鉛の調達に奔走していたのであった。
不足を補う代替品として、武田氏は悪銭を、北条氏は梵鐘(ぼんしょう)の供出を領内から求め、それらを鋳(い)つぶして製造している。つまり、彼らは、銅玉や鉄玉を使用したのであるが、鉛玉と比較すると高価な割に破壊力は弱かった。
そもそも、鉄炮玉に鉛が使用されるメリットは三つあり、一つは安価で比重が大きいことにある。鉛は、地球上にある金属のなかでもトップレベルで比重が大きい物質で、密度は一一・三四、ちなみに銅は八・九六、鉄は七・八七である。火薬の爆発速度の上限が決まっているうえ、空気抵抗は速度が上昇すると増大するため、軽い玉を速く撃ち出しても失速して威力を失ってしまう。そのため玉は比重が大きいことが重要といわれるから、鉛玉が有利なことは明白である。
鉛玉が戦国大名の命運を分けた
次にあげられるメリットは、鉛の柔らかさだ。着弾した際、弾頭がキノコの傘のような形になることをマッシュルーミングとよんでいるが、そのような形で潰れることで、敵兵に大きなダメージを与えた。
最後のメリットとしては、融点が低いため兵士自らが鉄炮の口径に応じて簡単に大量に製造できたことである。戦場にインゴット(鋳塊(ちゅうかい))のまま持ち運び、必要に応じて鋳型を用いてつくることができた。これに対して鉄や銅は専門の鍛冶を必要とするから、あらかじめ口径に応じて製作し、戦場に持ち運ばねばならなかった。
また、鉄炮は何度も続けて発射すると、カルカ(鉄炮に附属し、銃身の掃除や筒口から銃身に弾丸を込めたりするのに用いる棒)で掃除をしても火薬の焼けかすが筒の内部に付着することから、口径の小さな玉を使用せざるをえなかった。その場合も、自由に製造できる鉛玉のほうが対応しやすかったのである。
たとえば、北条氏の山中城跡(静岡県三島市)や八王子城跡(東京都八王子市)から出土した鉄砲玉は、銅玉や鉄玉が圧倒的に多いという報告がある。その場で製造でき殺傷能力の高い鉛玉を大量に持ち込んだ豊臣方と、価格が高くあらかじめ製造しておかねばならず、しかも鉛玉よりも飛距離が短く殺傷能力が低い銅玉・鉄玉に頼らざるをえなかった北条方との戦力差は、戦前から明白だったのではあるまいか。
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