🏯4)─1─鉄砲伝来はポルトガル人ではなく倭寇であった。〜No.6No.7 ① 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 戦争が絶えない国々・地域においてより殺傷能力の高い兵器が開発され、大量生産され、戦場に送られ兵士たちに支給され、大量消費される。
 そうして儲ける死の商人がいる。
 国際市場で飛ぶように売れる商品が武器である。
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 2020年3月号 歴史街道明智光秀も名手だった!?
 鉄炮はどのように伝わり、広まっていったか
 戦国時代、伝来した鉄炮(てっぽう)は合戦の在(あ)り方を大きく変え、それを手に入れられるかが、勝敗を左右するようになった。
 従来、ポルトガル人が伝えたと言われていたが、近年になって、倭寇の存在が浮上してきている。鉄炮伝来の真実をはじめ、その普及、合戦での使用等、鉄炮にまつわる歴史を紐解(ほもと)いていこう。
 宇田川武久
 鉄炮を伝えたのは誰か 【伝来に関わる倭寇勢力】
 『鉄炮は天文12年(1543)にポルトガル人によって種子島に伝えられた』
 これが歴史の一般常識になっているが、この説は大航海時代の波に乗って西欧勢力が東洋に進出し、はじめて日本がその文物(ぶんぶつ)に出会った事実として、鉄炮伝来が発想されたのである。
 この根拠は慶長11年(1606)成立の『鉄炮記』にあるが、同書の種子島に漂着した唐船(からぶね)の船主・五峰(ごほう)の存在に着目すると、またちがった局面がみえてくる。五峰は明政府の海禁政策に抗して密貿易に奔走し、海をもつ九州の大名権力と親しい関係をもった倭寇の大頭目・王直(おうちょく)その人である。
 日本に渡来する唐船のなかには朝鮮半島南端に漂着して、しばしば朝鮮王朝と紛争を起こしているものもいた。このころ、朝鮮国王が福建省の国禁を犯した者たち(倭寇)を送還したときの明皇帝への報告書で、『今、また馮淑(ふしゅく)ら前後とも1,000人以上をとらえたが、彼らは軍器と貨物をもっている。これ以前、倭奴(わど)は火砲がなかったが、今では多くこれをもっている』と認(したた)めている。朝貢関係にあった朝鮮王朝は、倭寇を拿捕(だほ)して明国に送還する義務があったが、海難事故に遭(あ)わず火砲を積載した唐船は無事、日本に来航できたにちがいない。
 すると日本に鉄炮を伝えた張本人はポルトガル人ではなく、倭寇勢力とみたほうが歴史の真実に近いし、さらに伝来した鉄炮の素型を探ると、西欧ではなく倭寇の通商圏の東南アジアの鉄炮との共通点が多い。このことからも『鉄炮伝来は倭寇』説を支持できる。
 どのように日本で製造されたのか 【模倣(もほう)から国産化へ】
 伝来鉄砲は『南蛮鉄炮』と呼ばれ、権力者の間で贈答に使われた。13代将軍・足利義輝は南蛮鉄炮を見本に堺の鍛冶に鉄炮を作らせたが、こうした模倣銃は異風・意府物(いふうもの)と呼ばれて数多く存在した。やがて鍛冶たちは試行錯誤しながら日本の風土に適した火蓋(ひぶた)や雨覆(あまおおい)、機関部を工夫して独自の鉄炮を完成させた。 ……
 戦国大名はいつから使い始めたか 【鉄炮の普及と合戦への投入】
 戦国大名鉄炮の威力を実感すると、合戦に投入した。島津氏と肝付(きもつき)氏の天文18年(1549)3月の黒川崎合戦、三好氏と幕府・細川氏の天文19年(19550)の上京川端の合戦は、鉄炮使用の早期の例である。
 毛利氏の鉄炮の始期は弘治3年(1557)3月、永禄年間には鉄炮中間(ちゅうげん)を組織して運用し、大友氏も永禄年間に鉄炮の使用を活発化させている。
 東日本の鉄炮使用は西国と大差ない。武田氏は弘治元年(1555)の川中島合戦が初見であり、永禄年間には軍役に鉄炮の規定がある。後北条氏は永禄3年(1560)10月の、敵地になるので鉄炮と玉薬を送るとした北条氏康の書状に見られる。さらに鉄炮は東北地方に波及するが、とくに永禄末年になると、どこの戦場でも大量の鉄炮が投入されて、戦いの行方を左右する主要兵器になった。
 …… 
 鉄炮の玉にはどんな種類があったのか 【常識を覆す多様な世界】
 鉄炮には、軍用と狩猟の多様な玉が存在した。たとえば信長の鉄炮の師匠・橋下一巴(いっぱ)が『二つ玉』を使用し、杉谷善住坊が信長を狙撃したのも『二つ玉』だった。二つ玉は2つの玉にそれぞれ割れ目をつけて接合した玉だが、二個の玉が分かれて確実に目標を狙ったのである。
 後北条氏の支城権現山城に『切玉』の『大玉』があり、また小堀正次が547個の『切玉』を国友鍛冶に注文した。前者は大鉄炮用の切玉で通常の鉛玉を百個ほど用意し、それを叩いて四角にし、油で固めて角柱状に組み上げて2つに切って玉とした。後者は鉄炮用の切玉で鉛を管竹(くだたけ)に流し込み、それを3ミリほどに切って、髪油で練って通常の玉の2個分にして込める。ともに玉が飛散する散玉(ちりだま)である。武蔵八王子城跡からは鉄製の中空の玉や土の玉が収集されている。鉄製の中空の玉は鈴玉といい、家屋や板塀の破壊に用いた。一説に土玉は『へな土』『石灰』『赤砂』『麻』『紙』『油』などを混ぜて固めたものと伝えている。
 武将は鉄炮鍛錬の場面に『大射貫玉(おおいぬきのたま)』『曲玉(くるりたま)』『鎧通(よろいどおし)』の名称がみえる。『大射貫玉』は鉛と錫(すず)を等分に混ぜた合金の玉で、固く貫通力があるので射貫玉とよばれ、『大』は遠射用を意味している。
 曲玉の構造は『鉛の劣玉(おとりだま)1つと鈴玉2つを紙に包んだ3個の玉』であり、用途は水鳥を狙う玉である。鎧通は説明を要しない。
 以上、ほんの一部を紹介したにすぎないが、戦国合戦を考える場合、多様な玉の存在は無視できない。
 どんな鉄炮の名人がいたのか? 【徳川家康明智光秀・・・】
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 なぜ火縄式鉄炮を使い続けたのか 【西欧と日本の戦術のちがい】
 西欧における火縄式鉄炮の考案は、14世紀末から15世紀初頭のことで、16世紀にはいると黄鉄鉱(おうてっこう)を摩擦させて、火花を起こして火皿の導火線に点火する歯輪銃(しりんじゅう)が開発され、同世紀半ばに火打石を鋼鉄にあてる燧石(すいせき)式発火機のスナップハウスが、少し遅れて外部に燧石式発火機をもつミュクレットが、さらに17世紀には完全な燧石式発火機のフリントロックが開発された19世紀半ばまで使われた。
 ところが、日本では16世紀半ばに伝来した火縄式鉄炮が、19世紀半ばまで長期間にわたって踏襲された。西欧の鉄炮にくらべて日本の火縄式鉄炮は時代遅れ、格段に性能が劣るとみられるが、そこには歴史の必然があった。
 西欧の鉄炮の用法は一斉(いっせい)射撃によって弾幕をはって敵勢の行動を阻止することにあった。そこで使用する燧石式鉄炮は発火時の衝撃が強く命中精度に欠けたが、戦術的観点からそれは二の次とされた。一方、日本の鉄炮の用法は一斉射撃ではなく、射手の息合いにまかせた一発必中を第一とした。日本の鉄炮は引き金を引くと、瞬時に火皿の導火薬に点火して玉が発射され、発火時の衝撃が少なく命中精度に優れていた。火縄式鉄炮の長所は命中精度の高さにあり、戦場の動的目標を狙うには最適であった。
 江戸時代の鉄炮の鍛錬は射場の標的を狙う静的目標になって命中精度の高い火縄式鉄炮が引き続き使われて、幕末期まで踏襲されたのである。」
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 刀・弓矢・鉄砲などの武器は敵を殺す凶器ではあったが、実戦における戦術的用法の哲学や思想は日本と中華・西洋とでは大いに違っていた。
 現代日本人には、その違いが理解できない。
 日本の刀や鉄砲などの武器に対する哲学や思想は、世界の非常識として、一般には通用しない。
 その象徴が、優れた日本刀に与えられた名誉ある名称である。
 日本は、名称のある名刀を優れた工芸品・芸術品として国宝もしくは重文に指定して、民族の宝として後世に残してきた。
 人が殺し合う戦争に使う鎧兜も同様である。
 日本民族日本人は、日本独自の哲学や思想を持っていたが、不寛容な狂信的宗教原理主義や攻撃的排他的主義主張は持っていなかった。
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 日本には、鉄製火縄銃(鉄砲)が伝来し、絶えず独自の創意工夫で新式に改良発展し、世界規模の鉄砲大国となった。
 朝鮮には、明国から青銅製火縄銃(銅銃)が伝来したが旧式のまま改良発展せず放置された。
 豊臣秀吉は朝鮮征伐時に、鉄砲を使っ朝鮮の銅銃を沈黙させた。
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 清国軍は昔ながらの旧式青銅砲でアヘン戦争を戦ったが、イギリス海軍の軍艦や最新の鉄製大砲に大敗した。
 江戸時代の大砲は清国同様に青銅砲で、西洋の最新式鉄製大砲にかなわなかった。
 徳川幕府水戸藩薩摩藩佐賀藩などの開明諸藩は、西洋の侵略に備えて独自で反射炉を築き鉄製の大砲を鋳造した。
 日本民族日本人は、軍事に対する関心が非常に強く、相手を撃退するより強力な最新武器を独自で作って装備する事を好んだ。
 日本の軍備は、「武器をチラつかせて威嚇しながら近付けば斬る」という戦術戦略から、祖国防衛用であって海外侵略用ではなかった。
 日本人と中国人・朝鮮人の違いはそこにあり、その違いを生み出したのは儒教である。
 中国や朝鮮は、儒教にこだわりすぎて滅亡し、亡国の民となり、他国の支配を受けた。
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 後期倭寇は、日本人の海賊ではなく、中国人を頭目とす多民族の海賊集団であった。
 世界史レベルから見れば、倭寇はバイキングと似たように、歴史を前に進めるような重要な役割を果たしていた。
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 倭寇は、交易集団であり海賊集団として、各国各地の特産品を海を越えて売り歩くと同時に各国各地の沿岸を襲撃し強奪を繰り返し略奪品や捕獲した人間を奴隷として売っていた。
 それは、西洋諸国の船で同じであった。
 イギリス王家は、海賊船の略奪資金で財で裕福になり、軍事費を増やして大海軍を作り世界海洋帝国を築いた。
 イギリス王国の誇りは、ヨーロッパを荒らし回ったバイキングの子孫と言う事である。
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 昔の日本人が賢く優れていたから、現代日本人も賢く優れているとは限らない。
 現代日本人は現代の世界レベルの高度な知識や最先端の科学技術を持ってだけに、昔の日本人に比べて賢く優れているとは限らない。
 誰もできない事を創意工夫で成し遂げる優れたホワイトな日本人が2割、
 誰も反対できない理屈を並べたてるが実は何もせず何もなさず義務も果たさず責任を転嫁し逃げ足を引っ張るだけの愚かなブラックな日本人が3割、
 ホワイトな日本人のお零れに預かりながらブラックな日本人の甘言に騙され口車に乗ってホワイトな日本人に敵意を抱き社会に不平不満を抱くグレーな日本人が5割。
 昔はホワイトな日本人が多かったが、現代ではブラックな日本人が多く、グレーな日本人は昔も現代も同じくらい存在する。
 その傾向は、1980年後半のバブル経済頃から起き、2010年以降に表面化し始めた。
 戦後教育、現代教育は、ホワイトな日本人ではなくブラックな日本人もしくはグレーな日本人を量産している。
 ブラックな者は、自分よりも更なるブラックな者を増やし、ホワイトな者は潰して毒にも薬にもならないグレーな日本人に育てた。
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