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関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
東洋と西洋は違う。
同じアジア人と言っても、日本人と中国人・朝鮮人とインド人は違う。
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西田幾太郎「日本文化の特殊性を誇張するのではなく、その特殊性は万国的なものでなければならない」
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中曽根康弘「日本のリーダーは思想、歴史観、宗教観を持っていないと駄目だ。サミットで文化的な話ができいなければ、こちらの負けである」
1987年 国際日本文化研究センター(日文研)設立。
梅原猛は、日本のアイデンティティを確立する「日本学」をテーマとした。
ウィキペディア
国際日本文化研究センター(英:International Research Center for Japanese Studies)は、人間文化研究機構を構成する、京都府京都市西京区にある大学共同利用機関。歴史学者の宮地正人は、中曽根康弘が日本のアイデンティティを確立する「日本学」を創造させる意図のもとに創設したという見解を発表している。
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日本列島とは、同時多発的に頻発する複合災害多発地帯である。
日本の自然は、数万年前の旧石器時代・縄文時代から日本列島に住む生物・人間を何度も死滅・絶滅・消滅させる為に世にも恐ろしい災厄・災害を起こしていた。
日本民族は、自然の猛威に耐え、地獄の様な環境を生きてきた。
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2022-01-26
🏕目次)ー12ー日本列島は甚大な自然災害多発地帯と豊かな自然。祈る天皇。里山。神社の森林破壊。江戸の災害。~No.1 *
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現代日本人、特に超エリート層と言われる超難関校出の高学歴な高学歴の政治的エリートと進歩的インテリ達には民族的な伝統力・文化力・歴史力そして宗教力がなく、民族の価値観が欠落している。
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ウィキペディア
善(ぜん、希: (τ)ἀγαθὸν, 羅: bonum, 英: goodness)は、道徳的な価値としての良さ。道徳的に正しい事、多くの人が是認するようなもの。
善とは社会的な規範に是とされる存在、行為などである。
社会規範はありていにいえば所属する集団のルールのことである。
宗教では戒律や宗教指導者の教えのことである。ゾロアスター教においては善と悪の対立によって世界を捉え、のちの一神教に影響を与えた。一神教では善の存在である神と悪の存在である悪魔の存在が信じられ、善に生きることで天国への扉が開かれるとされる。一神教のうち特にキリスト教は欧米の倫理、イスラム教は中東の倫理の礎となった。 西洋哲学において「善とは何か」を議論探求する学として倫理学がある。 道徳的な卓越の事、プラトンの言う「アレテー」(卓越性)。相対的なより良いではなく、絶対的な良さといえるものの事。
西洋思想では「善」の反対概念は「悪」であるが、東洋の仏教思想においては「善」の反対概念は「煩悩」である。すなわち、仏教思想では「善」は心の問題である。ただし、メタ倫理学の立場からは、仏教的な「善」の概念も「善」を記述する上での立場の一つとして相対化される。
エミール・デュルケームによれば、道徳の要素には、義務と善とがある。義務は強制により実現されるが、善はそれを遵守すれば社会から果実を得られるものであるとした。
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© 浄土真宗 慈徳山 得蔵寺
仏教の教え
仏教における空(くう)の概念とは何か。
空の意味
空(くう)は、仏教において非常に基本的かつ重要な概念の一つです。この概念は、西洋哲学や他の宗教と比較しても、仏教特有の深遠な理解を必要とします。
空とは、簡単に言えば、すべての事物が本質的には「空虚」であるという考え方です。
つまり、事物は固定された、変わらない「本質」を持っていないとされます。これは、事物が他の事物や状況、時間、空間といった様々な要因に依存して存在しているため、その「本質」は相対的であるという考えに基づいています。
この「空」の概念は、事物の「相対性」を強調します。つまり、何もかもが相互依存しているという縁起の法則に基づいています。この法則によれば、一つ一つの事物や出来事は、他の多くの要因と相互に関連しながら存在しています。
「仏教の縁起(えんぎ)とは何か?」についてはこちら
仏教の縁起(えんぎ)とは何か?
関連記事仏教の縁起(えんぎ)とは何か?
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2024年5月6日7:03 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「仏教はなぜここまで日本で受け入れられたのか…私たちの根源に埋め込まれた「空」というメッセージ
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明治維新以降、日本の哲学者たちは悩み続けてきた。「言葉」や「身体」、「自然」、「社会・国家」とは何かを考え続けてきた。そんな先人たちの知的格闘の延長線上に、今日の私たちは立っている。『日本哲学入門』では、日本人が何を考えてきたのか、その本質を紹介している。
※本記事は藤田正勝『日本哲学入門』から抜粋、編集したものです。
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【画像】日本でもっとも有名な哲学者がたどり着いた「圧巻の視点」
「空」とは何か
「空」という概念をめぐって、西谷啓治が「空と即」(『講座仏教思想』第五巻、一九八二年)という論文のなかで興味深いことを記している。西谷によれば、「空」の概念はインドで──たとえば先ほど見た「色即是空」の場合のように──すべての事物がそれ自体として存在しているのではないということを言い表す理論上の概念として成立したが、それが日本に伝えられたとき、純粋に理論的な概念としてではなく、むしろ感情や情緒と結びつく仕方で受け入れられた。その背景には、そもそも日本では「死」というものが、「はかない」とか「むなしい」といった感情と深く結びついたものとしてとらえられていたことがあったと考えられる。
もちろん人間の有限性、あるいはすべてのものが移ろいゆくということは、日本でも、インドでも、あるいはヨーロッパでも同じであって、日本においてだけとくに人間の有限性ということが言われるわけではない。無常感、そしてそれを基礎とした無常観という世界観は、どこにも共通して見られる。
たとえば、よく引用されることばであるが、『旧約聖書』の「伝道の書」には、「空の空、すべては空なり」ということばがある。しかし西谷は──これは別の論文「芭蕉について」においてであるが──東洋と西洋とでは、無常というものが感じられる地盤は同じではないと言う。西洋においては、すべてが移ろうと言われる場合にも、その根底に、何らかの意味で移ろわぬもの、永遠なものが考えられているというのである。たとえばイデアというような考え方もそうであるし、キリスト教の神もそうである。西洋の無常というのは、そういう永遠なものに支えられた、あるいはそれに基礎づけられた無常である。それに対して東洋の場合には、そういう移ろいゆくものの背後に永遠なるものが見られず、そのために、その無常感、あるいは心の「むなしさ」といったものがどこまでも深くなっていくところがあると西谷は述べている。
私たちはたとえば自然の諸事物を見たり、聞いたりする場合でも、それを単なる知の対象としてではなく、むしろ情意の対象として、つまり気分的なものと結びついたものとして受けとっている。晴れ渡った青空を見れば、さわやかさを感じ、心も晴れ晴れとするし、無邪気にほほえむ赤ちゃんの顔を見れば、見ているこちらの心もおのずから和んでくる。知るということと、気分、感情、情緒というのは深く結びついているのである。
西洋と東洋の違い
一般的にそのように言えるが、仏教の「空」という概念が日本に受け入れられたときにも、──蓮如の『御文章』の「はかない」とか、「あわれ」という表現に端的に見られるように──単なる理論的な概念としてではなく、情緒と深く結びつくような仕方で受けとられた。そのように情意のレベルで受けとられた「空」を西谷は「情意における空」ということばで言い表している。
もちろん、「空」という概念は中国においてもすでに情意的なものと結びついて受けとられたということも言える。空、つまりシューニヤ(śūnya)というインドで成立した概念が「空」という中国語に移されたとき、純粋に理論の上でというよりも、「空」ないし「虚空」のもともとの意味である「目に見えるそら」と結びつく形で受容されたと西谷は指摘している。目に見えない永遠無限なものであるシューニヤが、人間にとって目で見ることのできる唯一の永遠なるものである「そら」と結びつけて受容されたのである。概念の受容の歴史という観点から見たときたいへん面白い点である。異なった文化のなかの新しい概念に接したとき、それをどのように受容するかというのは、つねに大きな困難を伴う作業であるが、中国の人たちは、目に見えない無限である「空」を理解するために、目に見える無限を手がかりとしたのである。
「空」ということばは中国でも、いっさいは空であると観取することから生じる特有の「気分」をも言い表すことばとして使われた。しかし日本ではより強く「はかなさ」や「むなしさ」、そういった気分と結びついたものとして「空」の概念が受け入れられていった。西谷はそうした例の一つとして、次の西行の歌を挙げている。「風に靡くふじの煙の空に消えて行方もしらぬわが思ひかな」という歌である。ここでは自分の思いのはかなさ、あるいは自分の存在の虚しさが、空に消えていく煙のはかなさと、それを消していく空の虚ろさに重ねあわされている。その背後には、もちろん仏教の「空」の思想がある。それがここでは空に消えていく煙のはかなさと、そして自らの存在の不確かさと重ねあわされている。
そのように「空」が受けとめられたということは、本来なかったものがそこに付け加えられたということでもあるが、しかしそれによって教理がゆがめられたとは単純には言えないであろう。仏教の理論がこのように気分的なもの、情緒的なものと深く結びつく仕方で受けとめられたために、日本では仏教が人々のあいだに受け入れられ、深く浸透していったということも言える。そうでなかったら、仏教は日本でこれほど深く根を下ろすことはできなかったかもしれない。
さらに連載記事〈日本でもっとも有名な哲学者はどんな答えに辿りついたのか…私たちの価値観を揺るがす「圧巻の視点」〉では、日本哲学のことをより深く知るための重要ポイントを紹介しています。
藤田正勝
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4月15日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「日本でもっとも有名な哲学者はどんな答えに辿りついたのか…私たちの価値観を揺るがす「圧巻の視点」
藤田正勝
明治維新以降、日本の哲学者たちは悩み続けてきた。「言葉」や「身体」、「自然」、「社会・国家」とは何かを考え続けてきた。そんな先人たちの知的格闘の延長線上に、今日の私たちは立っている。『日本哲学入門』では、日本人が何を考えてきたのか、その本質を紹介している。
※本記事は藤田正勝『日本哲学入門』から抜粋、編集したものです。
「言葉」って何だろう?
私たちの日々の経験のなかで「言葉」はどのような役割を果たしているであろうか。本講ではまず経験と言葉との関わりについて述べ、それを踏まえて、そもそも「言葉とは何か」ということについても考えてみたい。
私たちは自分が見たり聞いたりしたもの、あるいは感じたりしたものを言葉で表現しなくても、しっかりとその内容をつかんでいると思っている。しかしもし言葉で言い表さなければ、それらはあいまいなままにとどまり、自分でも何を見たのか、何を感じたのか、はっきりとつかむことができないのではないだろうか。たとえば夕日に染まるあかね色の空を見て、その美しさに引き込まれたというような経験をされた人も多いのではないかと思う。そのとき、もしそれを夕日として、あるいは空として、その色をあかね色として認識しなければ、そこにはただ漠然とした印象だけがあるのではないだろうか。そしてその漠然とした印象はすぐに流れ去り、忘れ去られていくように思われる。
見たり聞いたりしたものに名前を付け、言葉で言い表すことで、私たちははじめて私たちが経験したものをしっかりとつかむことができる。そしてそれをあとからふり返ったり、他の人に伝えたりすることができる。私たちの経験のなかで言葉が果たしている役割は大きい。
しかし逆に、卓上に飾られた一輪の赤いバラを見て、「赤くて美しい」と言ったとき、それによって私たちは自分が見たり、感じたことをすべて言い表すことができるであろうか。赤といってもさまざまな色合いがあるが、このバラの独特の赤色をこの「赤い」ということばで表現できるだろうか。あるいは「美しい」ということばで、他の花にないこのバラ特有の美しさが表現できるだろうか。
言葉はまちがいなく私たちの経験と密接に結びついている。しかし経験とそれを言葉で言い表したものとは同じではない。むしろそのあいだには距離があるようにも見える。両者がどう関わっているのかは、哲学にとっても大きな問題である。日本の哲学者はその問題についてどのように考えてきたのであろうか。その点をまず以下で見てみることにしたい。
「純粋経験」の正体
西田幾多郎の「純粋経験」についての理解は言葉の問題にも深く関わっている。そこで見たように、西田は、真の意味で「ある」と言えるものは何かという問いに対して、「純粋経験」こそそれであるという答を示した。そしてこの「純粋経験」、つまり「真に経験其儘の状態」について、一方では、何かを見る「私」、何かを聞く「私」と、見たり聞いたりする「対象」とが区別される以前の「色を見、音を聞く刹那」であると説明するとともに、他方、「この色、この音は何であるという判断すら加わらない前」とも説明している。
判断とは、ほんとうであるかそうでないか、つまり真偽が問題になる事柄、たとえば「この花の名前は何か」とか、「明日の日の出は何時か」といった問題について、ある定まった考えを示すことを指す。その判断は通常、「この花はヒマワリである」といったように命題の形で言い表される(「命題」というのは、判断の内容を、「AはBである」というように言葉で言い表したものを指す)。
それに対して、いま引用した文章では、「純粋経験」はそのような判断がなされる以前の状態である、と言われている。たとえば「この花はヒマワリである」とか「この花の色は黄色い」といった仕方で判断がなされ、言葉で言い表される以前の事実それ自体が「純粋経験」なのである。
さらに連載記事〈「クソくだらない毎日に飽き飽きした」…多くの日本人が抱えている「退屈」はどこからやってきたのか〉では、日本哲学のことをより深く知るための重要ポイントを紹介しています。
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4月23日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「「苦しすぎるこの人生に救いが欲しい」…多くの日本人が抱える「根源的な悩み」に効く「日本哲学の効用」
藤田正勝
明治維新以降、日本の哲学者たちは悩み続けてきた。「言葉」や「身体」、「自然」、「社会・国家」とは何かを考え続けてきた。そんな先人たちの知的格闘の延長線上に、今日の私たちは立っている。『日本哲学入門』では、日本人が何を考えてきたのか、その本質を紹介している。
※本記事は藤田正勝『日本哲学入門』から抜粋、編集したものです。
「他者」とは何か
本書『日本哲学入門』の第5講では、「自己と他者」について考える。私たちはほんとうに「自己」について知っているのであろうか。むしろ自己自身を見つめるのを避けて生きているのではないだろうか。あるいは、相手の表情の背後にある「他者」そのものを私たちは知っているだろうか。私たちはそもそも「他者そのもの」に迫りうるのであろうか。「他者」と言ったとき、それはすでにかなたに逃れ去ってしまっているのではないだろうか。そうした問題を、井筒俊彦や西谷啓治、森有正、坂部恵、西田幾多郎らの思索を手がかりに考察したい。
哲学では存在や人間は、往々にして意識・知・理性・論理(同一性)の側からとらえられることが多いが、むしろそこからあふれでるもの、それらによって覆い隠されるもの、具体的に言えば、感情や欲望、身体、無意識、環境、差異性といったものが大きな役割を果たしているのではないだろうか。そうした関心から第6講では、三木清の『哲学的人間学』や『構想力の論理』におけるパトス、身体、構想力をめぐる議論を取りあげる。さらに戦後に目を転じ、市川浩の身体論や中村雄二郎の共通感覚論、湯浅泰雄の東洋的身体論の現代的意義について考えてみたい。
日本の哲学の歴史のなかで京都学派が果たした役割は大きい。その思想上の一つの特色として、彼らの多くが「無」について語ったことが挙げられるが、そこでは現実の社会や国家、歴史についてもさかんに論じられた。その議論をリードしたのは、三木清や戸坂潤ら、西田や田辺から教えを受けた若い研究者たちであった。彼らは観念的な思索に傾きがちであった西田や田辺の哲学を批判した。その批判を承けて西田や田辺もまた現実の社会のなかにあるさまざまな問題について論じた。第7講ではとくに田辺元の「種の論理」の特徴、意義、問題点について考察を加えるとともに、西谷啓治や高山岩男、下村寅太郎らが参加した「世界史的立場と日本」と「近代の超克」をめぐる座談会が当時果たした役割、およびそれがいまも私たちに問いかける問題について考えてみたい。
「生と死」という大問題
第8講では「自然」を取りあげる。自然は古代から現代にいたるまで私たちの身近にあったし、ありつづけている。古代の人々はそれを観察し分析するのではなく、共感し、畏怖すべきものとして、自然と一体になって生きた。そうした自然のとらえ方は、たとえば人間がこしらえあげた「法世」ではなく、「自然の世」こそが理想の社会であるという江戸時代の思想家・安藤昌益の主張のなかにも受け継がれている。またいわゆる自然、客観的な存在としての自然ではなく、「志向的」存在である人間との関係のなかで出会われる「風土」こそ私たちの生の「具体的地盤」であるという、日本の倫理学研究の礎を築いた和辻哲郎の「風土」理解のなかにも流れている。和辻から刺激を受け、独自の風土論を作りあげたオギュスタン・ベルクの思想にも言及することにしたい。
第9講では「美」を問題にする。明治の初めに西洋の美学が紹介されて以降、日本でも美をめぐって、あるいは芸術をめぐってさまざまな思索がなされた。フェノロサや岡倉天心、西田幾多郎などが主張したように、人を「高尚に導く」点に美や芸術の意義があるというのも一つの考え方であるが、はたしてそれだけが美や芸術が果たすべき役割なのか、むしろ既成の秩序が支配する世界ではなく別の次元を切り開いていく点にこそそのレゾンデトル(存在意義)があるのではないかというのも、当然問われてよい問題であろう。フェノロサや岡倉は、芸術家とは「世の先覚」であるべきであり、その点において職人や工人から本質的に区別されると考えた。それに対して柳宗悦は、無名の職工人が作る工芸や民芸のなかに、芸術家が作る芸術作品にはない独自の美──柳はそれを「無事の美」とも「尋常の美」とも表現した──があるのではないかということを主張した。この柳の美についての理解も見てみたい。
最後に第10講では、「生と死」について考える。「生と死」は私たちが生きていく上でもっとも根本的な、そして切実な問題だが、私たちがその問題を正面から論じることは少ない。「死」は悲しみや嘆きと結びつけて文学や宗教のなかでさまざまな形で問題にされてきたが、哲学のなかではほとんど論じられてこなかった。そのような状況のなかで田辺元は例外的に「死」をめぐって深い思索を展開した。普通に考えれば、死によって相手との関わりは終わる。しかし田辺は、死は決して関係の終結ではなく、そこに新たな関わりが生まれうることを、言いかえれば関わりの新たな地平が開かれうることを主張し、その関係を「実存協同」ということばで言い表した。田辺元の弟子であった武内義範もまた「生と死」という論文のなかで光とそれに対抗する闇という比喩を使いながら「死」の問題を巧みに論じた。この論文も取りあげる。
さらに連載記事〈日本でもっとも有名な哲学者はどんな答えに辿りついたのか…私たちの価値観を揺るがす「圧巻の視点」〉では、日本哲学のことをより深く知るための重要ポイントを紹介しています。
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5月6日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「この身体はどこからきて、どこへいくのか…日本の哲学者が苦悩した「西洋と東洋の本質的な違い」
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明治維新以降、日本の哲学者たちは悩み続けてきた。「言葉」や「身体」、「自然」、「社会・国家」とは何かを考え続けてきた。そんな先人たちの知的格闘の延長線上に、今日の私たちは立っている。『日本哲学入門』では、日本人が何を考えてきたのか、その本質を紹介している。
※本記事は藤田正勝『日本哲学入門』から抜粋、編集したものです。
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【画像】日本でもっとも有名な哲学者がたどり着いた「圧巻の視点」
「共通感覚」とは何か
私たちは視覚は視覚、聴覚は聴覚、嗅覚は嗅覚というように、それぞれ独立した感覚であると考えるが、古代ギリシアのアリストテレスはそれらの基層に、共通の感覚能力、つまり「共通感覚(コイネ・アイステーシス)」があると考えた。それによって私たちは砂糖の「白さ」と「甘さ」とを別の感覚として感じ分けることができるし、感覚作用そのものを感じとることもできると考えたのである。
このアリストテレスの「共通感覚」には、戦前にも中井正一や西田幾多郎、西谷啓治らが関心を寄せていたが、戦後とくにそれに注目した人に中村雄二郎がいる。
中村はアリストテレスの「共通感覚」についての理解を踏まえながら、『共通感覚論──知の組みかえのために』(一九七九年)などにおいて独自の思索を展開した。そこには、「知の組みかえのために」という副題が示すように、「理性と論理」によって支えられていた従来の知を「共通感覚と言語」によって組みかえようという意図が込められていた。
中村が「共通感覚」をその思索の軸に据えるに至った一つのきっかけは、木村敏の、さらには木村と交流のあったドイツの精神病理学者ブランケンブルク(Wolfgang Blankenburg, 1928-2002)の精神病理学の立場からの「共通感覚」への注目であった。木村は一九七六年に発表した「離人症」と題した論文において、離人症の患者にとって「世界」が単なる「感官刺激の束」として、言いかえれば「感覚表面に突きささってくるカオス」として受けとられる原因を、人間と世界との根源的な通路づけを可能にする統合的な感受能力である「共通感覚」が十全に機能していないことに求めた。
「基底的構造」を見つめる
感覚や感情、知性といった、世界に対する人間の関与の仕方、さまざまなはたらきの根底に、言わばそれらを統合する感受能力が機能しているという木村の発想を踏まえて、中村もまた「共通感覚」に注目したのである。それは、近代における感覚の理解、つまり視覚を他のすべての感覚を統合するものとして位置づける感覚理解の見なおしにもつながっている。
このような近代において支配的であった視覚中心の感覚理解に対して、中村は諸感覚のもっとも基礎的な統合を、むしろ「体性感覚」的な統合としてとらえている。体性感覚とは触覚や痛覚などの皮膚感覚と、筋肉の動きなどを感知する深部感覚とを指すが、そのような感覚こそが他の諸感覚を統合し、活動する身体を支えるとともに、他の人間や自然との関わりを可能にする「地平」を切り開くと中村は考えたのである。
それとともに中村は「共通感覚」を、「身体を基礎として身体的なもの、感覚的なもの、イメージ的なものを含みつつ、それをことば=理のうちに統合する」ものとしてとらえることによって、従来の言語理解の見なおしをも試みている。中村の「共通感覚」論は、分析的な理性の論理を、そこにおいて排除されたイメージ的、身体的なものを回復した言語によって乗りこえようとする試みでもあったと言うことができる。
西洋的な、あるいは近代的な知においては、言うまでもなく、客観的な知、つまり厳密な観察に基づき、言語によって明確に表現される知が重視されてきた。科学技術は、そのような知を重視するものの見方の上に築かれた。それに対して東洋の知の伝統のなかでは、むしろ非言語的、非対象的な知が問題にされてきた。そのような観点から湯浅泰雄は、東洋の知に、とりわけその身体論に注目した。
湯浅の代表的な著作の一つである『身体──東洋的身心論の試み』(一九七七年)によれば、身体、そして身心の関係は二重の構造をもつ。一方には、大脳皮質を中枢とするいわゆる感覚―運動回路と、それと機能的に結びついた外界知覚と運動感覚、そして思考作用からなる「意識」の領域がある。それに対して他方には、自律神経系に支配される内臓諸器官と、それに機能的に結びついている情動および内臓感覚がある。湯浅は前者を「身心関係の表層的構造」と呼び、後者を「身心関係の基底的構造」と呼んでいる。基底的構造の一部は、感情という形で、意識の領域に現れているが、しかしその大部分は「無意識」の領域に属している。それは通常はその姿を現さないが、たとえば夢や催眠状態において、あるいは神経症、精神病において顕在化することがある(市川浩の言う「錯綜体」と同じものが考えられていると言ってよいであろう)。このような理解を前提にした上で、湯浅は西洋の身心論がたいていの場合「表層的構造」にのみ目を向け、「基底的構造」に対して十分な注意を払わなかったのに対し、東洋の身心論では、むしろ「基底的構造」の方に重点が置かれてきたと主張する。東洋の身体論ないし身心関係論について論じるためには、この身心関係の二重構造、とくにその「基底的構造」に注目する必要があるというのである。
東洋思想の特徴
たとえば東洋の伝統的な宗教においては修行の一つの方法として「瞑想」が重視される。私たちの通常の生活のなかでは大脳皮質およびその機能と結びついた意識活動(身心関係の表層レベルでのはたらき)が中心的な役割を果たしているが、瞑想はそのはたらきをむしろ低下させ、逆に、基層にある身心のはたらきを活発化させようとするものだと考えられる。そのことによって、無意識領域に沈んでいる根本的な情念や情動を表面化させ、解放し、解消すること、そして自己の身心をコントロールすることがめざされている。湯浅によれば、それは、心理療法などでセラピストが用いる治療法にも通じるところがあるが、しかしそれと同じではない。治療では病気の状態から健康状態への復帰がめざされるが、それに対して瞑想においては、情動や情念に動かされる日常のあり方を離れて、その彼方にある本来的自己(仏教であれば「三昧」(samadhi)ということばで表現されるあり方)へと至ることがめざされる。
湯浅は、東洋思想と西洋の哲学とを比較したときに、前者に見いだされる特質をまさにこの瞑想を含む「修行」のなかに見いだしている。つまり東洋思想の独特の性格は、知を、単に対象の分析から理論的に知られるものとしてではなく、自己の身心全体による「体得」ないし「体認」を通して把握されるものとしてとらえる点にあると考える。そのような観点から湯浅は「修行」を、「自己の身心の全体によって真の知を体得しようとする実践的試み」と定義している。
西洋の哲学においてはたいていの場合、身体や欲望、感情などは知から排除されてきたが、東洋の伝統思想の根底には、事柄の真相は知だけでとらえることはできず、むしろ身心全体によってはじめて把握されるという考え方があった。しかも、そのことを単に知るだけでなく、実際に「修行」を通して自分自身のものにすることがめざされてきたと言ってよいであろう。そこに東洋思想の大きな特徴を見いだすことができる。
さらに連載記事〈日本でもっとも有名な哲学者はどんな答えに辿りついたのか…私たちの価値観を揺るがす「圧巻の視点」〉では、日本哲学のことをより深く知るための重要ポイントを紹介しています。
藤田正勝
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YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「あまりに難しすぎて多くの人が挫折した…日本人が書いた初めての哲学書「善の研究」が生まれた「驚きの事情」
藤田正勝
明治維新以降、日本の哲学者たちは悩み続けてきた。「言葉」や「身体」、「自然」、「社会・国家」とは何かを考え続けてきた。そんな先人たちの知的格闘の延長線上に、今日の私たちは立っている。『日本哲学入門』では、日本人が何を考えてきたのか、その本質を紹介している。
※本記事は藤田正勝『日本哲学入門』から抜粋、編集したものです。
伝説の名著「善の研究」
西田幾多郎が一九一一年に出版した『善の研究』のなかでまず問題にしたのは「実在」、つまり真の存在、真の意味で「ある」と言えるものは何かということであった。西田がそれを問題にしたのは、西洋の哲学においてその問いに対して十分な答が出されていないと考えられたからである。『善の研究』には、西洋の哲学との対決という意味が込められていた。西田がなぜそれを問題にし、どう答えたのか、そしてその問いは戦後、どのような形で問題にされたのか。本講ではその点を見ていくことにしたい。
『善の研究』は西田の存命中もくり返し版を重ねたが、戦後も、とくに一九五〇年に岩波文庫版が出て以降、さまざまな人に読まれつづけている。多くの研究書も出され、英語やフランス語、ドイツ語、スペイン語、イタリア語、中国語、韓国語など、多くの言語にも翻訳されている。
なぜ『善の研究』はこのように長く読み継がれ、人々に刺激を与えつづけてきたのであろうか。いくつかの答を挙げることができるであろうが、まず何より、そこにまさに自立した思索の営みがあったからだと言えるであろう。
西田はこの書において、西洋の哲学に正面から向き合い、その議論のなかに身を投じ、十分な解決が与えられていない問題をめぐって、どこまでも思索を深めていった。『善の研究』で問題にされている「実在とは何か」、「善とは何か」、「宗教とは何か」といった問題は、そのような意図に基づいて論じられたものであった。
日本人初で唯一無二の本
そうした問題をめぐる西田の格闘は、当時の人々にも大きな影響を与えた。この書が刊行された翌年にまだ少壮の学者であった高橋里美(のちに東北大学教授)が「意識現象の事実と其意味──西田氏著『善の研究』を読む」と題した論考を発表した。そこで高橋は「本書は恐らく明治以後に邦人のものした最初の、また唯一の哲学書であるまいかと思う。……その思想の内容に関しては、始めてこれに接して驚喜し、再三接するに従って畏敬の念に堪えない」と、この書から受けた感銘を記している。『善の研究』はそれ以後も多くの思想家が自らの思想を形成するための足場とも、道しるべともなった。この書がそのような力を発揮しえたのは、西田がそこで当時の哲学が直面していた問題と真剣に取り組み、彼独自の思想を生みだしていったからであろう。『善の研究』が長く読み継がれている理由はまずそこに求められる。
西田の思想の独自性ということとの関連で、しばしば『善の研究』は東洋の思想、とくに禅の思想を西洋哲学の術語を用いて表現し直したものであると言われることがある。しかし、それは正確な理解ではない。西田はあくまで西洋の哲学と正面から向きあい、それがはらむ問題を見定め、格闘した。
もちろん『善の研究』の本文からも容易に見てとることができるように、西田は東洋の思想、とくに儒教や仏教について深い理解を有していた。しかしそれらについて積極的に論じることはしていない。それはこの書の課題ではなかった。
しかし同時に、「実在とは何か」、「善とは何か」、「宗教とは何か」といった問題を自らの力で考え抜いていこうとするときに、東洋の伝統的な思想もまた、西田にとって大きな手がかりになった。言わばその二つの流れが交差するところで、言い換えれば、西洋と東洋のはざまで西田の思索はなされたと言ってもよい。それまで誰も立ち入らなかった場所に自らを置くことによって、西田は新しい思索の世界を切り開いていった。その試みは現在でも輝きを失っていない。だからこそいまもなお多くの人々の目がそれに注がれているのである。西田の著作が多くの言語に翻訳され、海外でも多くの研究が発表されているのもそのことによる。
さらに連載記事〈ほとんどの日本人が見落としている「重大な事実」…日本哲学が私たちの生活に役立つ「意外すぎる理由」〉では、日本哲学のことをより深く知るための重要ポイントを紹介しています。
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