⚔38)─2・B─徳川家康の対外開放政策と世界市場への自由貿易参入。外交顧問三浦按針(イギリス人)。~No.164 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 徳川秀忠と家光は、対外諸問題を解決する為に鎖国政策で徳川家康が推し進めていた積極的対外政策を潰した。
 徳川幕府の祖法は、徳川家康とは関係なかった。
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 2023年12月17日 NHKスペシャル「実は“国際派”!? 徳川家康の世界戦略に迫る
 NHKスペシャル「家康の世界地図 ~知られざるニッポン“開国”の夢~」
 12月17日(日)[総合]午後9:15 ※放送時間が通常と異なります
 最新研究から明らかになった“国際派・家康”の意外な実像に迫る。“鎖国”とは全く異なる、自由貿易で世界に開かれた日本! 徳川家康の見果てぬ夢とは、何だったのか──。
放送日
 12月17日(日) [総合] 午後9:15
 出演者ほか
 【出演】ウエンツ瑛士,中西良太,【語り】守本奈実
 内容
 最新の歴史研究で明らかになった家康の知られざる一面に迫る。家康が開いた江戸幕府は200年以上“鎖国”したが、晩年の家康が抱いていた日本の将来像は、それとは全く異なるものだった。日本を開き、広く世界の国々と自由貿易を行い、グローバルな国を目指すという壮大な構想だ。番組では、外交顧問ウィリアム・アダムスとのドラマを交え、“国際派・家康”の意外な実像を描き出す。徳川家康の見果てぬ夢とは、何だったのかー。
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 12月24日 YAHOO!JAPANニュース 読売新聞オンライン「チャールズ国王のクリスマス談話、傍らには江戸時代の日本製香炉
 7日、バッキンガム宮殿で、クリスマス談話の収録に臨む英国のチャールズ国王=ロイター
 【ロンドン=尾関航也】クリスマスの25日にテレビ放送される英国のチャールズ国王のクリスマス談話をもり立てる小道具として、江戸時代の日本製の香炉が使われた。英王室が23日に発表した。
 【写真】クリスマスで人前に現れたサンタクロース
 クリスマス談話の小道具に使われた日本製の香炉(Royal CollectionTrust提供。(C)His Majesty King Charles III 2023)
 談話はバッキンガム宮殿で事前収録され、25日午後3時(日本時間26日午前0時)に放送される。国王のそばに置かれた直径20センチほどの容器は、日本製の「ポプリボウル」(香炉)だという。
 本体は黒い漆塗りの木製の器で、上蓋と台座に金色の装飾が施されている。英王室によると、17世紀後半から18世紀に作られ、国王ジョージ4世(1762~1830年)が収集したものとみられる。英王室の発表は、小道具として選んだ理由に触れていない。
 香炉は香をたくのに使われる容器で、西洋でもポプリと呼ばれる花びらの芳香剤などを入れて使われてきた。クリスマス談話は1932年から続く英王室の恒例行事で、英国の重要な問題などについて、国王が国民や英連邦住民に語りかける。
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 ステラnet
 徳川家康の知られざる世界戦略 「德川記念財団蔵」
 「NHKスペシャル」“国際派・徳川家康”の意外な実像を描き出す。家康の見果てぬ夢とは——。
 2023.12.15 ステラnet 編集部
 ドキュメンタリー
 Nスぺ
 大河ドラマ「どうする家康」の最終回の放送直後、12月17日(日)午後9時15分。Nスペでは海外の新史料や最新の歴史研究で明らかになってきた家康の知られざる一面に迫る。家康が開いた江戸幕府は200年以上“鎖国”したが、晩年の家康が抱いていた日本の将来像は、それとは全く異なるものだった。
 家康の外交顧問ウィリアム・アダムス(ウエンツ瑛士)と家康
 「德川記念財団蔵」
 日本を開き、広く世界の国々と自由貿易を行い、グローバルなプレーヤーになるという、壮大な構想を抱いていたのだ。南蛮貿易を推奨した信長や秀吉に対し、家康はどちらかといえば内向きの政治家のイメージだったが、最新の調査から、アジアからヨーロッパまで、世界13の国や地域に家康が106通もの外交文書を出していたことが判明。
 スペイン国王から家康宛の外交文書
 卓越した外交術で、欧州の強国・スペインやポルトガルと渡り合い、各国を競わせながら、したたかに、日本に有利な貿易体制を作ろうとしていたことも分かってきた。
 スペイン国王から家康への贈呈品(時計)「久能山東照宮博物館蔵」
 番組では、今回撮影が許された家康愛用の「世界地図」を軸に、家康の外交顧問となった三浦按針ことウィリアム・アダムスとのやりとりを一部ドラマ化しながら、“国際派・家康”の意外な実像を描き出す。徳川家康が見た、見果てぬ夢とは、何だったのか——。
 家康の外交顧問 ウィリアム・アダムス(ウエンツ瑛士
 NHKスペシャル「家康の世界地図~知られざるニッポン“開国”の夢」
 【放送予定】2023年12月17日(日) 総合 午後9:15~10:05
 「NHKスペシャル」公式サイトはこちら
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 国立公文書館
 家康の内政・外交
 家康は将軍任官の慶長8年(1603)に、三河国遠江国の諸寺社に対して、数多くの寺領寄進状・社領寄進状を発給します。一方で、畿内近国の諸寺社へも寄進状を発給していることが資料から伺えます。また、慶長20年(1615、元和元年)、豊臣家を滅亡させた直後にも、数多くの寺領寄進状・社領寄進状を発給しています。
 徳川家の天下が確立した後の7月7日には「武家諸法度」、同月17日には「禁中並公家中諸法度」という、武家全体が守る基本法と朝廷統制の要となる法が出されました。
 また、関ヶ原の戦いの翌年、慶長6年(1601)、家康は東アジアから東南アジアへと渡航する商船に朱印状を発給することで、海外貿易の統制に着手します。同年10月には安南国(あんなんこく、ベトナム北部)への返書で、日本に来航する船の安全を保障するとともに、朱印状を所持しない日本商船の安南での交易禁止を求めました。ここに朱印船貿易が開始されます。 こうした外交文書を担当したのは、西笑承兌(さいしょうしょうだい)、三要元佶(さんようげんきつ)、以心崇伝(いしんすうでん)の3人の臨済宗の僧侶でした。
 徳川家判物并朱黒印(とくがわけはんもつならびにしゅこくいん)[請求番号: 特108-0001]
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 好書好日「「ウィリアム・アダムス」 世界情勢伝え「門戸開放」支える 朝日新聞書評から
 評者: 柄谷行人 / 朝⽇新聞掲載:2021年05月29日
 ウィリアム・アダムス 家康に愛された男・三浦按針 (ちくま新書
 著者:フレデリック・クレインス
 出版社:筑摩書房
 ジャンル:新書・選書・ブックレット
 ISBN: 9784480073679
 発売⽇: 2021/02/08
 サイズ: 18cm/300p
 徳川家康の信頼を得て、側近の一人として家康の外交政策に大きな影響を及ぼしたイギリス人航海士ウィリアム・アダムス(三浦按針)。彼は何をなし、どんな晩年を送ったのか。アダムス…
 「ウィリアム・アダムス」 [著]フレデリック・クレインス
 本書は、16世紀末日本に漂着し、徳川家康の家臣(旗本)として仕え、三浦按針という名を与えられたイギリス人ウィリアム・アダムスについて書かれている。家康は、キリスト教を弾圧し鎖国を始めた為政者というイメージが強い。ところが、本書が示す西洋側資料を見ると、まったく逆のように見える。家康は「日本の門戸を西洋人に開いて、積極的な誘致活動まで行った」。そして、彼の見事な外交手腕を可能にしたのが、外交顧問としてのアダムスであった。
 私がこの人物に関心をもつようになったのは、5年前に『憲法の無意識』という本を書いたことがきっかけである。そこで私は、戦後日本の憲法、とりわけ1条と9条は、米占領軍の強制により「明治憲法」を改定して作られた、とされているが、むしろ徳川時代にあった国制(憲法)を回復するものだったと述べた。むろん、意識的にではなく、“無意識”に。以来、私は時折、徳川体制について考えてきたが、本書を読んで、その謎が解けたと感じた。私が漠然と推察していた事柄が明記されていたからだ。
 一般に、日本人の西洋に関する知識は徳川時代の蘭(らん)学者に遡(さかのぼ)るものだと考えられているが、実は、家康自身に始まったというべきである。その外交政策は、当時の世界情勢の認識にもとづいていた。それを与えたのが航海士アダムスである。彼は、命がけの航海の末、オランダ船で関ケ原合戦の5カ月前の日本に漂着し、家康に気に入られた。外交問題だけでなく、世界地理や情勢、造船技術、さらに、数学や諸学問の初歩についても教えた、という。
 家康は、できるだけ多くの国と貿易することを望んでいた。それによって日本が豊かになると考えたからだ。アダムスはそれを支持するとともに、イエズス会と共謀して各国を征服するスペインの策略について警告した。しかし、アダムスはイギリス人であったが、イギリスの利益を第一に考えて動くことは決してなかった。さまざまな国の人と分け隔てなく交流し、日蘭関係の友好のためにも活躍した。家康は、オランダに続いてイギリスとの自由貿易を開始した。したがって、家康が鎖国政策をとったことはない。
 以上からいえるのは、アダムスが文字通りの国際人であったということである。ゆえにまた、彼の判断基準は国家・民族ではなく、個人を優先するものであった。家康との関係についても、それがあてはまる。家康の生前、アダムスは日本を去ることが許されたにもかかわらず、日本に残った。いわば友人のために残ったのではないか。しかし、家康の死後は不遇であった。
    ◇
 Frederik Cryns 1970年、ベルギー生まれ。国際日本文化研究センター教授(日欧交渉史)。著書に『オランダ商館長が見た 江戸の災害』、共著に『明智光秀細川ガラシャ 戦国を生きた父娘の虚像と実像』など。
 柄谷行人(カラタニコウジン)
 哲学者
 1941年兵庫県生まれ。著書に『漱石試論』(群像新人文学賞)『マルクスその可能性の中心』(亀井勝一郎賞)『坂口安吾中上健次』(伊藤整文学賞)『日本近代文学の起源』『隠喩としての建築』『トランスクリティーク』『ネーションと美学』『歴史と反復』『世界史の構造』など。2005年4月より書評委員。
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 草の実堂
 どうする家康, 江戸時代 徳川家康は世界中と貿易しようとしていた 「鎖国とは真逆の外交政策だった」
 どうする家康
 徳川家康は世界中と貿易しようとしていた 「鎖国とは真逆の外交政策だった」
 どうする家康, 江戸時代 コメント: 0 投稿者: rapports 2023/1/17 最終更新:2023/1/18
 目次 [非表示]
 家康が夢見た外交政策
 当時の世界の外交
 家康の外交政策
 重要な人物
 新たなパートナー
 家康が夢見た外交政策
 静岡県伊東市、この地にある戦国時代の英雄のゆかりのものが展示されている。
 それは日本初の洋式帆船「サン・ブエナ・ヴェンツーラ号」の10分の1の模型である。
 徳川家康は世界中と貿易しようとしていた
 イメージ画像 : サン・ブエナ・ヴェンツーラ号 ※Twitter
 今からおよそ400年前、この船を造り太平洋を行き来する貿易を夢見た男が、最終的な戦国時代の覇者・徳川家康(とくがわいえやす)である。
 ヨーロッパの国々がアジアに押し寄せた大航海時代に、家康は世界をまたにかけた国際外交を推し進めた。
 それは江戸幕府を盤石にするための一大事業でもあった。
 この当時、日本国内には外国人商人と共にキリスト教の宣教師たちも数多くいた。
家康は彼らが各地で布教することを許し、キリスト教が広がることも黙認していた。
 更に、イギリス人のウィリアム・アダムスを外交顧問(ブレーン)として抜擢し、このネットワークを通じて最新の世界情勢まで手に入れていた。
 ところが家康は突如「禁教令」を発布し、キリスト教の教会を破壊して宣教師やキリシタンたちを国外追放にしたのである。
 世界に開かれた国を目指していた家康に、一体何が起きたのか?
 江戸幕府を開いた当初、家康はどのような国の形を思い描いていたのか?
 今回は家康の外交政策の真相について前編と後編にわたって解説する。
 当時の世界の外交
 16世紀、世界は大航海時代の到来により大きなうねりの中にあった。
 ヨーロッパの人々は、莫大な富と市場を求めて海外に進出した。
 特にスペインとポルトガルが二大強国として世界侵略を始め、両国は競うように勢力を拡大し、アジアでぶつかり合った。
 両国は1529年、争いを避けるためにモルッカ諸島の東側東経144度30分のところに勝手に南北の線を引き、その線の東側がスペイン、西側がポルトガルと決まった。
 日本はその線の間に位置していたため、「スペインの領有権なのか?ポルトガルの領有権なのか?」両国で争うことになってしまう。
 徳川家康は世界中と貿易しようとしていた
 画像 : マルコポーロ
 その昔、マルコ・ポーロが「黄金の国ジパング」と呼んだ日本。
 ヨーロッパ人たちが特に目をつけたのは、山陰地方にある石見銀山を始めとする「銀」であった。
 この頃、銀は世界通貨の役割を果たしていた。
 しかも日本の銀はとても良質で、その産出量はなんと世界の3分の1を誇っていた。
 当時の日本は戦国大名たちが各地で熾烈な戦いを繰り広げていたが、そこに登場したのがヨーロッパからもたらされた鉄砲であった。
 鉄砲は日本の戦に革命をもたらし、戦国大名たちは先を争って鉄砲を手に入れた。
 その鉄砲を最初に日本に持ち込んだのがポルトガル人だった。
 そして、もう一つ日本に大きな影響を与えたのがキリスト教である。
 宣教師たちによって各地に布教され、その中心となったのがイエズス会であった。
 彼らはローマ教皇の精鋭部隊で、全世界にキリスト教を広めることを使命とし、手段を選ばなかったという。
 イエズス会はスペイン・ポルトガルの先兵として世界各地に送り込まれたのである。
 彼らは先住民にキリスト教を布教し、時には侵略の手助けをしていた。
 しかし16世紀後半になると、両国を脅かすイギリスとオランダという国が台頭してきた。
 新旧二つの勢力は宗教的にも対立しており、スペイン・ポルトガルカトリックで、イギリスとオランダはプロテスタントだった。
 ヨーロッパでは、この宗教対立で戦争が起きたほどである。
 1568年、長くスペインの支配下にあったオランダで独立戦争がおきた。
 1588年には無敵艦隊と言われたスペイン艦隊をイギリスが撃破し、世界は新たな時代を迎えようとしていた。
 その頃、日本では戦乱に明け暮れた戦国時代がようやく終わろうとしていた。
 天下人として君臨していた豊臣秀吉が慶長3年(1598年)に死去、その後に天下の実権を握ったのが徳川家康である。
 家康の外交政策
 徳川家康は世界中と貿易しようとしていた
 画像 : 久しぶりに大河の主人公となった徳川家康
 家康は激動する世界を相手に、独自の外交政策を打ち出していった。
 東アジアでは、秀吉が起こした「文禄・慶長の役」の後始末が大きな課題であった。
 明と朝鮮が日本と国交を断絶していたため、家康は両国との貿易を復活させるため、関係修復に努めたのである。
 さらに南蛮貿易にも積極的に関わろうとした。
 当時は九州の諸大名らが南蛮貿易を独占しており、家康は独自の貿易を求めてフィリピンのマニラに使者を送っている。
 家康は、スペイン領のフィリピン・マニラ、太平洋を渡ったスペイン領のメキシコ、江戸湾の入口にある浦賀とを結ぶ、壮大なスペインとの太平洋貿易ルートを開拓しようとしていたのだ。
 家康はマニラのスペイン総督に
 「マニラのスペイン人は、毎年江戸湾浦賀に来航して貿易をすれば良い。日本人もメキシコに赴いて通商をしたい。
 その航海用の帆船を造るために、造船技師や職人を派遣して欲しい」
 といった内容の親書を送っている。
 家康は関ヶ原の戦いに勝利した10日後に、毛利氏から石見銀山を取り上げた。
 そしてその豊富な銀を背景に、積極的な外交政策を推し進めていった。
 家康は東南アジアにも目を向け、タイ・カンボジア・ベトナムなどと朱印船貿易も開始した。
 これらは家康の「全方位外交」と呼ばれる政策であった。
 重要な人物
 関ヶ原の戦いからおよそ5か月前、豊後国の黒島に一隻の西洋帆船が漂着した。
 家康は、その船に乗っていたイギリス人航海士・ウィリアム・アダムスを大坂城に呼び出し、直々に尋問したのである。
 徳川家康は世界中と貿易しようとしていた
 画像 : 「皇帝(大御所徳川家康)の前のウィリアム・アダムズ」
 家康はアダムスから「イギリスがスペインやポルトガルと敵対関係にあること」「アダムスたちの宗教・プロテスタントについて」「船での航海など様々なこと」などを聞き出した。
 実は家康は一貫して「宗教抜きで貿易を活性化したい」と考えていた。
 しかしスペイン国王からは「貿易は良いが、キリスト教の布教を許して欲しい」と言われていた。
 それに対して家康は「日本は神の国であり仏の国でもあるので、宗教抜きに貿易をして欲しい」と返答していたのである。
 そこにアダムスが現れて「イギリスにはそういう宗教観は全くなく、我々は日本に貿易をしにやって来た。日本にとってwinwinのシチュエーションで、お互いが豊かになるような商売をしたい」と家康に伝えたのである。
 アダムスの話は、家康にとって非常に魅力的な話であった。
 慶長10年(1605年)家康の命を受けたアダムスが伊東で造船した帆船「サン・ブエナ・ヴェンツーラ号」が完成した。
 アダムスはこの船で畿内から江戸湾まで航海し、沿岸に沿って測量も行った。
 この船を造った功により、アダムスは三浦郡に250石の領地を与えられた上に旗本に取り立てられ「三浦按針(みうらあんじん)」と名乗るようになった。
 そして家康の外交政策のブレーンとなったのである。
 新たなパートナー
 当時の南蛮貿易で、鉄砲などの武器・弾薬以外で大きなウエートを占めていたのは中国産の生糸であった。
 生糸は高級な絹織物の原料として珍重されていたが、生糸の貿易はポルトガルイエズス会にほぼ独占されており、価格が高騰することも多かった。
 家康は新しい貿易相手が加われば「彼らとの間で自由競争となり生糸の価格が低く抑えられる。そうなれば日本は潤うことができる」と考えていた。
 そこで家康が目をつけたのが、ポルトガルと敵対するオランダであった。
 オランダは1602年に東インド会社を設立し、貿易で世界を席捲しようと各地に船団を送っていた。アジアにも拠点を作り、ポルトガルに代わってアジア貿易を拡大していたのである。
 家康はオランダ人と同じプロテスタントのアダムスを仲介役に起用し、オランダとの交渉にあたらせた。
 画像 : 三浦按針(ウィリアム・アダムス)
 慶長14年(1609年)7月、駿府城にオランダ使節団を招くことになった。
 ところがそこに邪魔が入る、それはイエズス会であった。
 イエズス会の宣教師は家康に
 「オランダ人は反逆者であり海賊でもある。日本にとって重要な貿易を破壊するものである」
 と進言した。
 しかし家康はイエズス会の訴えを退けてオランダに朱印状を授け、オランダ船が日本に渡航してくる際には「日本中どこの港に着岸しても良い」とした。
 オランダはさっそく平戸に商館を設立し、その倉庫には中国産の生糸・鉛・胡椒・象牙などが保管されたという。
 家康はこうして日本を世界に開いて行ったのである。
 後編では開国政策を行っていた家康が、どのようにして心変わりしていったのかについて解説する。
 関連記事 : 後編~開国路線だった家康は、なぜ心変わりしたのか? 【岡本大八事件
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 ダイヤモンド・プレミアム「家康時代に始まった英王室との交流、400年前に考案された「過酷すぎる航路」とは
 八幡和郎:徳島文理大学教授、評論家
 2023.5.15 3:45
 家康時代に始まった英王室との交流、400年前に考案された「過酷すぎる航路」とは
 Photo:PIXTA
 400年以上前から始まった
 日本とイギリスの交流
 イギリスと日本の交流が、始まったのは1611年のことである。駿府静岡市)にいた大御所・徳川家康の元に、ジェームズ1世から使者がやってきたことに始まり、エリザベス女王も訪日のスピーチで触れられたが、ほとんどの人が知らないだろう。
 さらに、その時に話し合われたのが、イギリスからカナダの北側の北極海ベーリング海峡を通る直行航路を開発する壮大な計画だったのだから驚きである。
 5月7日のNHK大河ドラマ「どうする家康」は、三方ヶ原の戦いで家康が人生最悪の挫折を味わった話だったが、それは少し横に置いて今回は、チャールズ国王の戴冠式がロンドンのウェストミンスター寺院で5月6日に華やかに挙行されたばかりなので、同じ静岡県が舞台だった日英交流事始めを取り上げる。
 あわせて、徳川家康外交政策を論じたい。鎖国は2代将軍秀忠の治世に始まり3代将軍家光の治世に確立したが、もしも家康がもっと長く生きていたら、果たして鎖国を行っていたのかどうかについても考えてみたい。
 オランダが1602年の東インド会社設立に先だって派遣したリーフデ号が1600年、豊後に漂着した。船長のヤコブ・クワッケルナック、航海士のイギリス人ウィリアム・アダムス、オランダ人ヤン・ヨーステンらが乗っていた。
 これがオランダとの交流のきっかけになるのだが、アダムスは三浦按針という名を与えられ、家康の通訳・外交顧問となり、イギリスにも手紙を書いて、家康が通商を望んでいると伝えた。そこで、イギリス東インド会社は、ジェームズ1世の国書を持ったジョン・セーリスを1611年に日本に派遣した。
 その時、イギリスから提案したのは、なんとカナダから北極海ベーリング海峡を経て日本に至る航路を開発することだったのだが、そのあたりは、『英国王室と日本人:華麗なるロイヤルファミリーの物語』(小学館、八幡和郎・篠塚隆)に詳しく紹介している。
 だが、この話をより深く理解するためには、南蛮船がやってきたときからの流れのなかに位置付ける必要がある。
 「イギリス」や「ジャパン」が
 ポルトガル語に由来する理由
 イギリスという日本語は、ポルトガル語イングランドを形容詞でイングレスと呼ぶことに由来する。日本を英語で「ジャパン」というのも、ポルトガル語で「ハポン(JAPON)」と言うのを、英語読みしたものだ。
 どうしてポルトガル語なのかといえば、極東とヨーロッパを結び付けたのがポルトガル人だったからである。大航海時代が始まったのは、オスマン帝国ビザンツ帝国を滅ばしたからでなく、イベリア半島でのイスラム教徒に対するレコンキスタ(国土再征服)がきっかけだ。
 ここは、ゲルマン族の一派である武骨な西ゴート族がトレドを首都とした王国を建てて支配していたが、イスラムが8世紀にアフリカから侵入し、アンダルシア地方を本拠にほとんど全土を支配した。
 だが、722年に北部山岳地帯アストリアの騎士がイスラム軍を撃退したことからレコンキスタが始まり、15世紀には、カスティリアアラゴンポルトガルに集約された。カスティリアは最後のイスラム王国グラナダを攻め、アラゴンは地中海でオスマン帝国と戦い、ポルトガルエンリケ航海王子は、イスラムが支配するアフリカのセウタを攻略し、大西洋岸の南下を試みた。
 そして、バーソロミュー・ディアスが喜望峰を発見したのち、バスコ・ダ・ガマ南インドに到達したのが1498年である。さらに、インドのゴア、マラッカと進み、日本にも鉄砲とキリスト教を持ってきてアジア市場を独占した(1540年代)。一方、カスティリアアラゴンが統一されたスペインが、コロンブスを支援して西回りでアメリカ大陸やフィリピンを領有した。
 スペインから独立したオランダはポルトガルの勢力圏を脅かし、海洋王国としての発展期を迎えたイギリスも登場したというのが、関ヶ原の戦い前後の状況だった。
 信長・秀吉と同時代のスペイン王フェリペ2世は、1581年にポルトガル王を兼ね、1584年に「天正遣欧使節」の少年たちを迎えた。
 一方、1609年にメキシコへ向かうフィリピン総督ロドリゴ・デ・ビベロの船が房総半島に漂着したので、駿府にあった徳川家康は帰国を援助し修好を提案した。これを受けたメキシコ副王(スペイン語で「ビレイ」という)ルイス・デ・ベラスコは、日本に感謝の使節を派遣して、フェリペ2世からの贈り物として、1573年にベルギーで製作された金の置き時計(家康の遺品として久能山東照宮にあり重要文化財)をもたらした。
 また、伊達政宗が1613年に派遣した「慶長遣欧使節」は、メキシコ回りでスペインやローマに行った。
 イギリスが日本までの
 北極海回り航路を模索
 このころスペインが東日本の家康や政宗と交流したのは不思議に見えるが、実は、メキシコからマニラへは直行が可能だが、復路では風向きから北回りの大圏航路を通る必要があり、寄港地として東日本の港が欲しかったからである。
 しかし、マニラの商人たちが「日本と中国を結ぶ通商が始まるとマニラが捨てられる」と心配して妨害したので、フェリペ3世の政府は伊達政宗の提案を受けなかった。
 オランダはスペインの領土だったが、プロテスタント弾圧に耐えかねて、1579年にユトレヒト同盟で事実上の独立を宣言した。そのオランダは、東回り航路でポルトガルが持っていた権益を奪取した。日本の鎖国も、ポルトガル船を閉め出してオランダが交易を独占したということだが、その過程で、リーフデ号がやって来たのである。
 こうして、イギリスも日本に興味を持ち、ジェームズ1世使節が日本に来た。しかし、東回り航路はポルトガルやオランダに押さえられていたし、南米最南端のマゼラン海峡周りでは遠すぎた。そこで、北極海回り航路が模索されたのである。
 なぜなら、夏の間だけなら可能なように見えたのである。実際、ロシアは17世紀以前、海への玄関口を持たなかったが、1584年にイワン雷帝北極海につながる白海アルハンゲリスクを開港して、ロンドンと夏の間だけの航路を開いた。ついで、1649年にオホーツク海に進出したが、バルト海黒海への進出は18世紀になってからだったから、それまでは、北極海航路を使っていた。
 東インド会社は、1609年に探検家ハドソンをカナダに派遣して、ハドソン湾を発見し、西へ進もうとしたが、船員たちの反乱で、ハドソンは厳寒のハドソン湾に置き去りにされて行方不明になり、地名だけに名を残し、日本への航路も実現しなかった。
 なお、最近では地球温暖化砕氷船を使わずに航行が可能な時期もあるという報告もあり、もしかすると日欧間の最短航路という徳川家康の希望が正夢になるかもしれない。
 東回りについては、長崎県の平戸にイギリス商館が置かれたが、東南アジアで英蘭の対立が激化し、1623年のジャワ島のアンボイナでのオランダによるイギリス人虐殺で東南アジアからイギリスは撤退し、インドでの勢力拡大に専念し、平戸のイギリス商館も閉鎖された。
 その後、ナポレオン戦争の余波でイギリス船フェートン号がオランダ船を追って長崎港に侵入する事件があったが(1808年)、イギリスは中国進出を優先したので、日本との本格交流はペリー来航後になったのである。
 家康が長く生きていたら
 どのような対外政策を行ったか
 それでは、家康の外交構想の全体像だが、その前提として、豊臣秀吉の外交を正しく理解すべきだ。秀吉の大陸遠征については、拙著『令和太閤記 寧々の戦国日記』(ワニブックス)の主要テーマとして論じたことがあるが、中国を本格征服するという計画は、文禄の役において短時間で漢城まで占領できたため、一時的に夢が広がっただけである。
 秀吉が狙ったのは、朝鮮半島南部での領土獲得、朝鮮王府を監督下に置くこと、明との貿易を朝鮮経由でもいいから実現することで、よく似たことを島津氏が徳川家康に支援されて琉球に対し実現したくらいだから、明も受け入れ可能にみえた。
 家康は秀吉の死後、五大老で協議し、朝鮮からいったん撤兵したが、関ヶ原の戦いのあと朝鮮を再出兵で恫喝して、緩やかな朝貢使節である朝鮮通信使の派遣、明との貿易仲介の依頼などで収めた。朝鮮通信使を「対等の関係」と言うのは、戦後に韓国人が主張し始めた政治的歴史観だ(江戸幕府の日朝関係は別の機会に取り上げたい)。
 家康は側近のキリシタンを粛清したり、高山右近を海外追放したりするなど、晩年になってキリシタンを弾圧しているが、それは豊臣方と結ぶことを警戒したためで、最初から敵対的ではなかった。東南アジアと朱印船貿易を進め、財源として重視したが、駿府郊外出身の山田長政がシャムに渡ったのは、家康が大御所だった時代である。
 家康が豊臣滅亡後にどんな対外政策を採ろうとしていたかは、1年後に死んでしまったので分からないが、家康なら鎖国まではしなかっただろう。
 豊臣滅亡で幕府に一時的に財政的に余裕ができたので、通商利益の拡大に興味がなくなったのも鎖国の理由だが、家康ならもっと貪欲だっただろう。
 江戸幕府鎖国を行なった理由の一つは、九州が大規模な貿易により経済発展すると、国の中心が西に傾き、関東に本拠を持つ幕府の国内統治が難しくなるということだ。家康も同じ意識を持っていただろう。だが、後継者とは異なり、東日本の港で貿易をするという前向きの解決を模索したのではないか。
 もっとも、秀忠の時代になっても、大阪城再建時には、将軍がここに住む可能性があることも藤堂高虎は念頭に置いて工事したとか、4代将軍家綱の時代に、鄭成功の救援要請に応えて、紀州徳川頼宣を総大将として大陸に本格派兵する寸前まで行ったこともある。
 200年も将軍が上洛すらせずに東日本にこもるとか、ずっと鎖国するとかいったことは、最初から考えていたわけでない。松平定信の頃に異国船が頻繁に来るようになってから、鎖国は先祖からの祖法で変えてはならぬものだとか勝手に意識され出したようだ。いずれにしても、家康なら松平定信はもちろん、秀忠や家光よりは、前向きで欧州諸国に鎖国までしたとは思えない。
 明との貿易も簡単に諦めたとは思えず、明から清への移行期に派兵したかどうかはともかく、手をこまねいて見ているだけという愚劣なことはしなかっただろうし、どさくさ紛れに朝鮮に関係見直しの圧力もかけたはずだ。
 (徳島文理大学教授、評論家 八幡和郎)
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