⚔59)─1─崇禎帝はどのようにして死んだのか?1644、明国滅亡。~No.248No.249No.250 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 歴史的事実として、日本の天皇・朝廷は滅びなかったが、中国の歴代王朝・皇帝や朝鮮の歴代王国・国王は数百万人・数千万人を道ずれにして滅んでいた。
 中国や朝鮮の歴史とは、人間の貪欲が渦巻く大量虐殺と強奪の歴史であり、皇帝や国王による自滅の歴史であった。
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 日本を明国の疫病蔓延と明国の滅亡から救ったのが、徳川幕府鎖国策であった。
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 現代の日本人は、昔の日本人と違って民族的歴史能力がないだけに歴史が理解できない。
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 2024年1月号 WiLL「門田隆将と石平の対談 習近平が狙うハマスの電撃作戦 
 ……
 石平 中国では9月、一冊の書籍が販売禁止処分を受けました。タイトルは『勤政的亡国君(勤勉な亡国の王)』。明朝最後の皇帝となった崇禎帝を題材にしたものです。明朝末期、ペストや天然痘などの大流行で1,000万人が死んだとされている。疫病蔓延が原因となり、農民一揆が勃発。農民軍が北京に迫るなか、崇禎帝は紫禁城の裏山で首つり自殺しました。崇禎帝が統治に失敗した原因は、有能な高官を次から次へと粛正したことともいわれている。
 ……」

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 崇禎帝(すうてい‐てい)
 旧権力を一掃し、徐光啓を用いて改革に努めたが、財政難、内乱の続発に苦しんだ。 李自成の北京攻略の時に自殺し、明は滅亡した。
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 崇禎帝,中国の皇帝,山賊李自成に破れ,娘の喉を切り自ら縊死した。
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 毅宗(読み)きそう
 精選版 日本国語大辞典 「毅宗」の意味・読み・例文・類語
 き‐そう【毅宗】
 中国、明朝最後(第一七代)の皇帝(在位一六二七‐四四)。宦官(かんがん)魏忠賢を退け、徐光啓を用いて政治の改革をはかったが、内憂外患があいつぎ、李自成の北京侵入のとき自殺、明は滅びた。崇禎(すうてい)帝。荘烈帝。(一六一〇‐四四)
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 日本大百科全書(ニッポニカ) 「崇禎帝」の意味・わかりやすい解説
 崇禎帝 すうていてい
 (1610―1644)
 中国、明(みん)の第17代皇帝(在位1628~44)。姓名は朱由検。諡(おくりな)は荘烈愍(そうれつみん)皇帝。廟号(びょうごう)は毅宗(きそう)。14代皇帝万暦帝(ばんれきてい)の孫。15代泰昌帝(たいしょうてい)の第5子。16代天啓帝の弟。母は賢妃劉(りゅう)氏。1622年信王に封ぜられ、28年即位。帝は英明で声色を近づけず、衰運の明朝を復興する熱意を示し、前代の奸臣(かんしん)の魏忠賢(ぎちゅうけん)以下を殺し、弾圧されていた東林系の正義派官僚を釈放し、韓(かんこう)、劉鴻訓(りゅうこうくん)、銭龍錫(せんりゅうしゃく)などを入閣させた。また、キリスト教徒で水利や綿作など農政に通じた徐光啓を用いて財政再建を図った。施策にはみるべきものがあり、一時太平を期待させたが、なお内には万暦朝以来の党争の余派が残って官僚間に統一がなく、外には将卒ともに腐敗して軍事力も弱体化していた。当時、成長しつつあった満州(清(しん))の勢力には、なお十分に対応しえたが、戦費の膨張は万暦の遼餉(りょうしょう)に加えて、勦餉(そうしょう)、練餉(れんしょう)のいわゆる三餉となって納税負担者を苦しめた。明末無藝(むげい)の徴といわれるところである。加えて干魃(かんばつ)、水害など自然災害が相次ぎ、深刻な飢饉(ききん)となり、都市の暴動や農村の反乱が起こった。ことに陝西(せんせい)から起こった李自成(りじせい)の農民軍は軍規も厳格で、「貴賤(きせん)にかかわらず田を均(ひと)しくし、三年間の徴税を免じ、百姓を殺さぬ」という民生安定策が民心を集め、急速に成長して、ついに都北京(ペキン)を攻略した。帝は皇子を落ち延びさせ、皇女を斬(き)り、都の背後の煤山(ばいざん)(万歳山)で首をつった。1644年3月18日であった。
 [川勝 守]
 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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 世界大百科事典 第2版 「崇禎帝」の意味・わかりやすい解説
 すうていてい【崇禎帝 Chóng zhēn dì】
 1610‐44
 中国,明の第17代最後の皇帝。在位1628‐44年。姓名は朱由検。廟号は毅宗,荘烈帝ともいう。泰昌帝の第5子で,天啓帝の弟。1622年(天啓2)信王に封じられ,28年即位した。生れつき英明で,宦官魏忠賢ら前代の奸臣を誅殺し,名臣徐光啓を用いて内政の改革をはかった。しかし諸臣は前代以来の東林,非東林(東林党)の派閥を組み,内には党争が絶えず,外からは清の圧力がますます加わった。これに対処するために万暦の遼餉(りようしよう)に加えて勦餉(そうしよう),練餉など多額の田土付加税を新設したが,徴収は思うにまかせず軍費はかさむ一方であった。
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
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 2023年10月17日 時事通信ニュース「歴史書「亡国の王」、販売禁止に=明最後の皇帝、習氏連想か―中国
 【上海時事】中国で9月に出版された明王朝の最後の皇帝、崇禎帝に関する歴史書が17日までに回収処分となり、事実上の販売禁止となった。出版取次業者は「印刷の問題のため」と説明しているが、書名の「勤政的亡国君(勤勉な亡国の王)」が習近平国家主席を連想させかねないと判断し、禁書扱いにした可能性がある。インターネット上でも書名を検索できなくなった。
 著者は明時代を専門とする歴史家の陳梧桐氏(今年5月に死去)。同書は崇禎帝に焦点を当て、17世紀の明の滅亡に至る過程を描いた。香港紙・明報によれば、同書は2016年に「崇禎往事」の書名で既に出版されていたという。当時は禁書に指定されておらず、再販に当たり変更した書名などが問題視されたようだ。
 崇禎帝は崩壊の危機に直面した王朝の立て直しに熱心に取り組んだが、部下への疑念が強い上に命令や方針が一貫せず、明が滅びる要因をつくったとも言われる。同書は9月の再販に当たり、「愚策に次ぐ愚策、勤勉な王ほど国は滅びる」の宣伝文が付け加えられており、これも当局を刺激したとみられる。 
 [時事通信社
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 ウィキペディア
 崇禎帝は、明の第17代(最後)の皇帝。諱は由検(ゆうけん)。廟号ははじめは思宗、のちに改めて毅宗(以上は南明弘光帝による)、威宗(隆武帝による)、懐宗(清による)。諡号は弘光帝が紹天繹道剛明恪倹揆文奮武敦仁懋孝烈皇帝としたが、清が欽天守道敏毅敦儉弘文襄武體仁致孝懷宗端皇帝、そしてのちに欽天守道敏毅敦儉弘文襄武體仁致孝莊烈愍皇帝と改めた。一般的に清における崇禎帝の諡号を清の2つ目の諡号を略し莊烈愍皇帝とする]。また清は崇禎帝を明朝歴代皇帝と同じ北京昌平山に葬り、陵墓を「思陵」とした。
 生涯
 第15代皇帝泰昌帝の五男として生まれた。天啓2年(1622年)に兄の天啓帝より信王に封じられた。天啓7年(1627年)に天啓帝が急死し、その男子がみな夭折していたため、翌崇禎元年(1628年)に皇位を継ぐことになった。即位してすぐに、兄帝の下で専横を振るった宦官魏忠賢を排除し、名臣として名高い徐光啓を登用するなど国政改革に取り組んだ。
 当時は北に満州族の後金が侵攻し、南では李自成たちの反乱が多発した、まさしく国事多難の時期であり、崇禎帝はこの状況をたった一人で支えようと懸命に努力した。
 崇禎帝は祖父万暦帝や兄天啓帝らと違い、政治に熱心であり、色事にふけるようなこともなく、倹約を心がけていた。しかし猜疑心が強く、臣下を信用できない悪癖を有していた。即位直後から重臣を次々と誅殺し、特に山海関で満州族からの防衛を一手に引き受けていた名将袁崇煥を誅殺したことは致命的であり、明が滅亡した原因として必ず崇禎帝の猜疑心が挙げられる。在位17年の間に、崇禎帝によって誅殺された重臣は総督7名・巡撫11名に上り、その他罷免された者も多数おり、このことが重臣達の著しい士気の低下を招くこととなった。
 崇禎帝は李自成軍に次々と討伐軍を送るが、その討伐軍を組織するため増税を行ったことにより、窮迫した民衆が李自成軍に加わり、まったくの逆効果であった。
 崇禎17年(1644年)、李自成の順軍は北京を包囲し、3月19日に北京は陥落した。前夜から、崇禎帝は息子たちを紫禁城から脱出させ、側室と娘たちを自ら手にかけて殺害し、周皇后の自害を見届けた後、危急を知らせる鐘を鳴らしたが、文武諸官はすべて逃亡し、君側に参じたのは宦官の王承恩ただ一人であった。ここにいたって紫禁城の北にある景山で首を吊って自殺した。享年34。李自成の命令で、皇貴妃田秀英の墓が開かれ、崇禎帝と周皇后が合葬された。
 娘の長平公主を斬るときは「ああ、そなたはどうして皇帝の女に生まれてしまったのか!」と泣いたという。しかし、泣きながら振るった刀が急所をそれたため、公主は左腕に傷を負ったのみで一命をとりとめ、王承恩の機転で紫禁城を抜け出した。
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 世界史の窓
 明
 1368年、朱元璋が建国した漢民族の王朝。靖難の役で実権を握り、1402年に皇帝となった永楽帝の時代、都を南京から北京に遷し、紫禁城を造営し、全盛期となる。皇帝専制体制を作り上げ、経済も発展し、漢民族の文化が隆盛期を迎え、広大な朝貢世界を支配した。15世紀後半からモンゴル人の侵攻を受け、16世紀には北虜南倭に苦しみ、次第に衰退。17世紀には北東から清の侵攻を受け、1644年に李自成の反乱によって滅亡する。
 元末の紅巾の乱の混乱の中から台頭した朱元璋が1368年に南京(金陵)で即位(太祖洪武帝)して建国した、漢民族の王朝。征服王朝である元のモンゴル色を一掃し、漢民族による中国大陸の統一支配を回復した。また、江南に起こった勢力が中国を統一し、江南に統一中国の都がおかれたのも初めてである。1368年8月に明軍は元の大都を攻略し、元の勢力をモンゴル高原に後退させ(北元として残る)、さらに四川地方、雲南地方にも遠征軍を送り、中国本土すべてを服属させ、広大な領土を支配した。 → 元の滅亡
・ページ内の見だしリスト
 (1)皇帝専制政治体制(2)明の時期区分(2)明の滅亡
 明の皇帝専制政治

 明の対外・貿易政策
 海禁策 明では、1371年の洪武帝以来、たびたび海禁令を出し、「海禁」を王朝の対外・貿易政策の基本とした。海禁とは、民間の貿易と、民間人の海外渡航を禁止する政策であり、ねらいは主として倭寇などの海賊行為の取り締まりにあったが、同時に貿易の利益を独占することでもあった。また海禁を厳しく守らせた一方で、外国との朝貢貿易は積極的に進められた。海禁と朝貢とは矛盾することではなく、明朝の対外・貿易政策の二本柱であり表裏の関係をなすせいさくであった。
 朝貢貿易 朝貢貿易の方は明朝政府が管理し、利益を独占することであり、皇帝の権威を高めるために必要とされ、特に永楽帝の時には鄭和のインド洋方面の諸国への派遣も朝貢貿易の拡大をめざすものであった。また永楽帝の時には明と日本の間の勘合貿易が始まるが、これも朝貢貿易の一種であった。
 倭寇 洪武帝以来、海禁令を度々出したということは、海禁にもかかわらず私貿易・密貿易が盛んに行われていたことを示しており、厳しい取り締まりにもかかわらず倭寇が活動する余地があったことがわかる。
 対モンゴル戦争 明にとって大きな脅威は北方のモンゴルであった。洪武帝永楽帝は積極的に対モンゴル遠征を行い、ほぼその動きを封じることに成功したが、15世紀にはモンゴルの中からオイラトといわれる部族が成長し、エセンに北京を攻撃される事態となった。土木の変では明朝の皇帝がオイラトの捕虜となるという敗北を喫した。16世紀にはタタール(従来のモンゴル)のアルタンが北京を攻撃し、明朝にとっては海岸部での倭寇とともに「北虜南倭」といわれる脅威であった。
 海禁の停止  16世紀にはポルトガル人の来航というまったく新しい問題が出てきた。1557年にポルトガル人のマカオ居住を許し、貿易が始まると、従来の全面的な民間貿易禁止策である海禁は緩和せざるを得なくなり、1567年からの張居正の改革の一環として海関は停止された。

 15世紀後半
 永楽帝の死後、北方のモンゴル人の活動が活発になり、その中のオイラトのエセン=ハンはたびたび北方を侵すと共に明との交易を求めてきた。しかし明の正統帝は交易の要求を拒否し、1449年に軍事制圧を策して出兵したが敗北し、皇帝自らが捕虜となるという土木の変がおこった。その前年には、重税に苦しむ農民が立ち上がった鄧茂七の乱が起き、明の支配体制は大きく揺るぐこととなった。土木の変の後、モンゴルの侵攻は下火となったが、次の憲宗(成化帝)は1474年に長城の改修に着手し、現在の「万里の長城」が出現した。
 銀の流通の増大 この頃、政治は宦官の介入が激しく、不安定な状況が続いていたが、中国社会は大きく変動しようとしていた。特に江南地方では綿織物業・絹織物業・塩業・陶磁器業などの手工業の発達が著しく、新しい商業都市である鎮や市が出現し、商取り引きには銀が用いられるようになった。そのため日本銀が盛んに輸入されるようになった。長江下流域の江浙地方はそれまで穀物生産の中心であったが、手工業の発達を背景に農民は水田での稲作を止め、畑にして綿花や鍬の生産を行うようになった。そのため、穀物生産は長江中流域に移り、このころから「湖広熟すれば天下足る」と言われるようになった。
 16世紀前半
 銀の流通に対応して、明朝政府は税制の改正に乗りだし、唐中期以来の両税法を改め、銀納を認める一条鞭法に転換した(1540年頃から始まり16世紀後半に普及)。商業はますます発展し、山西商人や新安商人(徽州商人)といわれる商人たちが広く活動し、都市に会館・公所を設けていった。しかし一方で農村への銀の流入は、貧富の差を拡大し、農村の矛盾が深刻となり、抗租運動が激しく起こるようになった。またこの時期には科挙に合格した官僚で、地方に戻り、知識人・地主として地方政治や文化を担った人びとを郷紳といった。またこのような社会の変化は、思想界に大きな変化をもたらし、従来の中国を支配していた朱子学に対する批判の動きが起こり、陽明学が生まれた。
 北虜南倭 この時期の明を最も悩ましたことが北虜南倭であった。北虜とはモンゴル人の北方からの侵攻であり、南倭とは後期倭寇の活動であった。このうち15世紀後半から再び活発になったものを後期倭寇と言っている。嘉靖帝の1550年にはモンゴルのアルタンが北京を包囲攻撃、1553年には王直による嘉靖の大倭寇が始まるなど、「北虜南倭」が最も明を苦しめることとなった。これらの外敵の除去のために明朝政府は多大な財政出費を強いられ、国力を次第に消耗していった。
 16世紀後半
 北虜南倭に悩まされながら、宮廷では宦官政治が横行し、政治は停滞した。それに加え、この頃、大航海時代に突入したヨーロッパ人が中国にも盛んに渡来するようになり、まず1557年ごろにはポルトガルマカオ居住を認めた。また、それに伴ってキリスト教宣教師の来訪が相次ぐようになり、特にマテオ=リッチらによって西欧の技術がもたらされることになった。
 張居正の改革 穆宗隆慶帝のもとで1567年に内閣大学士となった張居正は、一条鞭法を効率よく施行するため前提となる土地調査などを実施し、財政収入を回復させることに成功し、また海禁政策を停止して交易を認めたため倭寇の活動の意味が無くなり、またアルタンとの和議を結んでモンゴルとの交易も開始した。次の万暦帝のもとでも実権を握った張居正の改革によって、北虜南倭後の財政危機は回避することができた。
 しかし、16世紀の末、豊臣秀吉朝鮮侵略が起こると、明は宗主国として朝鮮への援軍を派遣、それは明にとっても重い負担となった。
 17世紀前半
 万暦帝の治世の後半、張居正が死去した後は、魏忠賢という宦官が政治の実権を握り、それに反対する科挙官僚の集団である東林派(東林党)との間で激しい党争が繰り広げられるようになった。民衆が重い負担に反発して、都市では民変が、農村では奴変などの暴動が起こった。明がこのような民衆不在の政争に明け暮れている間に、遼東地方(後の満州、現在の東北地方)では女真を統一したヌルハチが、1616年に後金(アイシン)を建国し、明からの独立を宣言、さらに中国本土をうかがう勢いを示し始めた。さらに1636年にはホンタイジが国号を中国風の清に改め、たびたび北京を脅かした。
 李自成の反乱 明は清の侵攻に備える軍備を整えるために重税を課したが、それは民衆の反発を強め、各地に反明の農民蜂起が起こるようになった。その中から、最も有力になった李自成の乱が、ついに1644年、首都の北京を占領し、最後の皇帝崇禎帝が同年に自殺して、明朝は崩壊した。
 その時、明から清に降った武将呉三桂が清軍を先導して山海関を越え、順治帝が北京に入城、清の全中国支配が開始された。それに対して明の遺臣の抵抗が散発的に続いたが、台湾を根拠とした鄭成功が1683年に康煕帝によって平定され、明の遺臣の戦いも完全に終わった。
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 明が滅亡したのはいつ?直接のできごとや原因をわかりやすく解説
 7月 25, 202210月 26, 2022 3分
 明が滅亡したのはなか?
 明は1368年の建国から約280年続いた漢民族の王朝である。明は、皇帝による専制体制を確立し、経済も発展し大規模な朝貢貿易を行っていたが、ヌルハチの台頭や李自成の乱などによって1644年に滅亡したことについて解説する。
 明王朝とは?わかりやすく解説
 明王朝創始者は、貧農出身で乞食僧だった朱元璋(しゅげんしょう)、後の洪武帝(こうぶてい)である。紅巾(こうきん)の乱の指導者として力を発揮した朱元璋は、1368年に南京を都として明を建国したのである。
 洪武帝死後、帝位継承争いの靖難の役(せいなんのえき)によって即位した永楽帝は、北に残っている元の勢力に対抗するために北京に遷都し、モンゴルやベトナムに遠征し領土を拡大して大帝国を作り上げた。また紫禁城を造営したり、鄭和を南方諸国へ派遣したりして最盛期を迎えたのだった。
 しかし、北慮南倭(ほくりょなんわ)と呼ばれる脅威を防ぐための軍事費は、明王朝を苦しめていった。北慮南倭は、明王朝自由貿易を許さなかったために、民間でさかんに行われていた密貿易と実体経済が伴わず争いに発展したものと考えられている。
 1580年、宰相の張居正(ちょうきょせい)が海禁を緩和して貿易を認める政策を行ったので、北慮南倭の脅威は収まったかに見えたが、張居正の死亡により再び悪化してしまった。
 その後政治の乱れと経済の悪化により、農民反乱が頻発するようになって明王朝の滅亡を招いたのだった。
 北慮はモンゴル系遊牧民、南倭は倭寇を意味する。倭寇の実態は武装した民間の密貿易業者であった。

明王朝の政治

 明が滅亡したのはいつ?
 明が滅亡したのは1644年のことである。1644を人無視死滅の明朝という語呂合わせにすると覚えやすいだろう。ここでは明が滅亡することになったできごとについて解説するので、参考にしてほしい。
 女真族ヌルハチ」の台頭
 女真とは満州に居住していたツングース系の民族で、12世紀に金を建国したが元に滅ぼされて元に服属していた。明王朝女真を部族ごとに編成して朝貢させていたが、明代の後半には建州女真、海西女真、野人女真の集団になっていた。
 明軍によって祖父と父を殺されたヌルハチは、1583年に挙兵して女真族を統一し、1616年には後金(こうきん)を建国してハンの位につき、元号を天命と定めて明と対抗したのだった。
 ヌルハチ女真族を統率するために八旗(はっき)を編成した。八旗とは軍事・行政組織で、女真族だけでなく後金に属するモンゴル人や漢人にも適用された。八旗は、後に清朝における軍事力の基盤となっている。
 1618年明に宣戦布告したヌルハチは、撫順城を占領した。明は10万の大軍を送って対抗したが、1619年のサルフの戦いで明は大敗北を喫し、ヌルハチ満州の支配権を固めていった。
 1626年にヌルハチは2度目の対明総攻撃を仕掛けたが、明の火砲(大砲)による攻撃に敗北し、ヌルハチはこの戦いの傷がもとで亡くなったと言われている。ヌルハチの子のホンタイジがハンの位につき、1636年に国号を清としたのである。
 李自成の反乱
 李自成(りじせい)の反乱とは、明の末期に起きた農民反乱のひとつである。当時、明王朝の政治は腐敗し、重税に苦しんでいるところに大飢饉がおき、民衆は各地で暴動や農民反乱を起こすようになっていた。
 李自成は失職したことをきっかけに反乱を起こすと、反乱軍のリーダーとなって各地を転戦していった。1641年に洛陽を攻め落とすと、開封西安も次々に攻め落とし、ついに北京へ進軍。1644年に明最後の皇帝である崇禎帝が自殺し、明は滅亡したのである。
 ところが山海関で清軍と対決していた明の呉三桂(ごさんけい)は、李自成の反乱を機に清軍に投降し、清軍を引き連れて北京へ入城して李自成軍を倒したのだった。これにより清王朝が明を引き継ぐことになったのである。
 明が滅亡した原因
 明が滅亡したのは国の弱体化が原因だが、それは宦官による腐敗と秀吉の朝鮮出兵が大きく影響していると考えられる。
 宦官による腐敗
 史上最悪の宦官とも言われる魏忠賢(ぎちゅうけん)が明の滅亡を早めたと言えるだろう。自ら去勢し宦官となった魏忠賢は、皇子(後の天啓帝)の祖母の食事係を命じられたことがきっかけで、皇子の乳母の客氏と親しくなり夫婦になった。
 皇子は即位して天啓帝となってからも乳母に依存しており、政務はすべて魏忠賢と客氏が握り、官僚たちを粛清していったのだった。魏忠賢に取り入る人は、九千歳と叫んだとされている。皇帝は万歳なので九千歳としたらしい。
 また、魏忠賢は後金との戦においても、ヌルハチの軍に負け続けていることを皇帝に隠し、ワイロを送ってこない人物を粛清していった。そのため、崇禎帝が即位した時にはすでに優秀な人材はなく、どうにもならないほどに崩壊してしまっていた。
 なお、崇禎帝が即位するにあたって、魏忠賢は自殺し、客氏も撲殺された。
 秀吉による朝鮮出兵
 明の弱体化には、1592年に始まった豊臣秀吉朝鮮出兵文禄・慶長の役)が大きく影響していた。
 明の14代皇帝、万暦帝は、寧夏(ねいか)、播州(はしゅう)で起きた乱の鎮圧に加え、朝鮮へ軍を派遣しなければならなかった。朝鮮半島へ援軍を出したのは、明が李氏朝鮮宗主国であり、日本軍が朝鮮を占領するような事態になるのを見過ごすことができなかったとされている。
 朝鮮へは10数万の軍を派遣しており、そのための軍費は明の国庫を圧迫し、民衆に重税を課すことになったのである。万暦帝は私的なことに莫大なお金をつぎ込むようになり、後宮にひきこもって政治に無関心になっていった。
 まとめ
 明は280年間も続いた王朝だ。17人もの皇帝に継承された大国であったが、北慮南倭に対して柔軟に対応できなかったこと、万暦帝以後は農民への重税や凶作に対して無策であったことが滅亡の原因と言えるだろう。
 その結果、農民の反乱を招き、1644年に滅亡したのだ。問題に対する柔軟な対応や民に対する過酷な労働問題は、現在にも通ずることがあるだろう。
 CATEGORY : 歴史
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