🏯28)─1─外国人武士。中国人の薩摩藩主。~No.52No.53 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 中国人と言っても、中国共産党員・中国軍兵士と一般の中国人は違う。
 中国には、反日や敵日が多数派で、知日は少数派で、親日はいない。
   ・   ・   ・   
 2022年8月22日 産経新聞「歴史の交差点 神田外語大学客員教授 山内昌之
薩摩の中国人藩士
 山内昌之
 幕末に起きた重大事件に、文久2(1862)年の島津久光の率兵上京と寺田屋事件がある。尊攘激派の藩士を粛清した事件の頃に、汾陽次郎右衛門という江戸留守居役が登場する。これは「かわみなみ」と読む。珍しい姓ではないだろうか。
 汾陽は久光の幕政改革など政変構想に消極的だったので、久光の評価は厳しかった。「汾陽にも実に困ったものだ。気質として変わり身が早い。とてもいまの重職は務まらない」(『玉里島津家史料』一)
 松尾千歳(ちとし)氏の新著『秀吉を討て』(新潮新書)を読むと、汾陽家の祖先が郭国安(かくこくあん)だと分かった。明国人だったのである。永禄2(1559)年に京泊(きょうどまり)(現薩摩川内市)にたどり着き、島津義久に仕えている。唐代に汾陽(ふんよう)王に封じられた郭子儀(しぎ)の子孫なので、汾陽理心を名乗り、和名で「かわみなみ・りしん」と読ませたのだろう。620石というから、かなりの高禄である。その子孫の汾陽光東も、土木技術に長(た)けた者たちを束ねたのではないかと、松尾氏は推定している。
 島津家にはかなりの中国人家臣がいたようだ。彼らの中には、豊臣秀吉の進めた不義の朝鮮出兵をやめさせるため、島津家に食い込んだ者もいる。汾陽理心こと郭国安は、明軍と連絡をとり、犠牲の多い合戦を抑える努力をした。郭は、ひそかに秀吉の死を知らせ、日本軍が撤兵を急いでおり、食糧も欠乏する内情を知らせた。これは、島津義弘の意志なしでは進められない。義弘が豊臣政権の撤兵命令が届く前から、自発的に講和と撤兵の交渉を始めたのは、島津家の国際感覚と外交センスの高さを物語る。義弘は、泗川(サチョン)の戦いや露梁(ノリャン)の海戦で明・朝鮮軍を破ったことで知られる。
 もっと重要なのは、明将の茅国器(ぼうこくき)やその部下・史世用(しせいよう)らと連絡を取り合い、国器の弟・茅国科(こくか)を人質にして、朝鮮半島から整然と撤退したことだ。義弘は徳川家康とともに、秀吉による不義の戦いの批判者であった。島津・家康・明の間に秀吉暗殺の密約があったのではないか。
 この推論を紹介するには紙幅が限られているが、日本軍の朝鮮撤退の理由ははっきりしている。情報通で外交力にたけた義弘の力量だというのは、当時の政治家と後世の歴史家に共通する見方である。家康が言うように、無事撤退こそ真の「勝利」であり、外国と日本に類例を見ない軍功にほかならない。
 家康も国際感覚にすぐれていた。しかし貿易については島津と違う考えを持っていた。家康は金印と勘合による国家管理型の貿易を好んだが、島津は自由に東シナ海を往来できる自由貿易を望んだ。松尾氏は興味深いことに、これを「倭寇(わこう)的状況」と呼んでいる。
 もっとも、秀忠・家光の時代になると、交易を明との国家間交流から切り離し、民間レベルの通商に変えた。島津家は幕末の通商条約締結後、幕府の貿易独占に反対して薩摩はじめ諸藩の自由貿易を主張した。そのルーツを知る上でも『秀吉を討て』は有益な書物といえよう。 (やまうち まさゆき)」
   ・   ・   ・