⚔37)─2・B─徳川家康は正統皇室と伝統祭祀が永く存続する事を願っていた。~No.160 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  

 2023年12月19日 YAHOO!JAPANニュース 夕刊フジ「「神」として崇敬され続ける徳川家康 死後も皇室や祭祀が永く存続することを願って…第126代の皇位が継承
 【久野潤「家康の功績と遺産」】
 列強諸国が一様に日本進出、あわよくば侵略をもくろんでいた江戸時代初期において、わが国が経済的にも従属せず生き残れたのは、幕末同様、奇跡に近い。フィリピンやマカオ、台湾などが植民地化されるなか、間隙を縫うように、徳川家康や後継将軍のもと、わが国は独立を保った。
 16世紀の宗教改革により生じた「旧教国と新教国の対立」など、ヨーロッパ情勢の激変も、家康は外交上巧みに利用する。秀吉時代からの連続性としては、文禄・慶長の役(いわゆる朝鮮出兵)で見せた精強な軍事力が、日本侵略への抑止力となっていたことも最大限活用した。
 江戸幕府の実際の国策は「鎖国」というより、現代でいう「選択的関与」であり、それもこの軍事力があって可能となった。
 支倉常長の慶長遣欧使節についても、東北大学田中英道名誉教授は、キリスト教圏への従属化につながりかねなかった天正遣欧少年使節との対比を通して、家康と伊達政宗が共同で「侵略不可の国」と印象づける目的があったことを指摘している。
 家康は、大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼした翌年(1616年=元和2年)に薨去(こうきょ=死去)した。遺言により、久能山静岡市駿河区)次いで、日光(栃木県日光市)で神として祀られた。45(正保2)年、朝廷から宮号宣下があり、「東照宮」と呼ばれるようになる。
 「東照大権現」こと家康は国家の守護神とされ、各大名の城内や社寺境内などに勧請(分霊)された東照宮は全国で700近くを数えた。
 明治天皇の御沙汰により、織田信長豊臣秀吉の功績が再評価され、それぞれを祀る京都の建勲神社豊國神社別格官幣社(=国家への特別な功労があった人物を祀る神社に与えられていたランク、終戦時点で全28社)に列せられた。
 明治政府軍に討伐されたはずの江戸幕府創始者たる家康の東照宮についても、日光は1873(明治6)年、久能山も88(明治21)年に列格した。明治政府、そして近代日本が、家康を否定するどころか、その歴史的功績を仰ぎ続けた証左である。
 自らの死後も、皇室や祭祀(さいし)が永く存続することを願って統治機構を築いた家康が、もし400年前から令和の世へタイムスリップしてきたら、どうであろう。
 わが国の変わりように驚きつつも、第126代の皇位が継承され、神社が参拝者で賑わっているのを見て、「日本」が間違いなく存続し繁栄していると知ることになろう。江戸幕府崩壊後も、自らが神として崇敬されていることに驚きながら…。 =おわり
久野潤(くの・じゅん) 日本経済大学准教授。1980年、大阪府生まれ。慶應義塾大学卒、京都大学大学院修了。政治外交史研究と並行して、全国で戦争経験者や神社の取材・調査を行う。顕彰史研究会代表幹事。単著に『帝国海軍と艦内神社』(祥伝社)、『帝国海軍の航跡』(青林堂)など。共著に『決定版 日本書紀入門』(ビジネス社)、『日米開戦の真因と誤算』(PHP新書)など。
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 12月19日 産経新聞皇位継承議論促進へ 額賀福志郎衆院議長が各党に意見集約要請
 額賀衆院議長=10月20日午後
 額賀福志郎衆院議長は19日、与野党幹部と議長公邸で個別に会談し、安定的な皇位継承策に関する各党の意見集約を進めるよう要請した。今年10月に就任した額賀氏が、政府の有識者会議が令和3年12月にまとめた報告書をめぐる議論を促した形だ。
 額賀氏は公明、立憲民主、日本維新の会、共産、国民民主各党の幹部と面会し、海江田万里副議長が同席した。自民党麻生太郎副総裁とは既に面会を済ませた。
 維新は藤田文武幹事長らが議長公邸を訪問。藤田氏は額賀氏について、記者団に「(次期通常国会に)各党の意見を持ち寄るようなアクションにつなげたいという意向は仰っていた」と説明した。
 有識者会議の報告書は旧皇族の男系男子の復帰案と、内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持できる案を盛り込んだ。
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 エセ保守とリベラル左派と国民の8割以上が、正統な男系父系天皇ではなく正当な女系母系天皇を求めている。
 つまり皇位継承において、正統な男系父系は少数派で正当な女系母系は多数派である。
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 マルクス主義の労働組織、メディア業界、教育現場は、数千年前から神の裔として天皇の「神性。昔の御威光=現代の権威」を世俗化して貶しおとしめる的に使う常套句が、組織・団体、会社・現場などの中で暴君・独裁者のように振る舞って暴利を貪り私腹を肥やす強慾な人間を犯罪者のように「~天皇」と蔑称で告発してきた。
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 天皇の御座とは、数万年から受け継いで来た民族神話を正統性な根拠とする神聖不可侵の位である。
 世界に流布している数多くの神話は「死んだ神話」であるが、日本の民族神話は「生きている神話」である。
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 戦後民主主義教育の正義派歴史教育を受けた現代の日本人=日本国民は、江戸時代の日本人=日本民族とは別人のような日本人である。
 現代日本の歴史は、勝者が書いた歴史ではなく、敗戦利得者が占領軍に媚び諂って書いた歪曲、捏造のウソが多い。
 敗戦利得者の最終目的は、反宗教無神論マルクス主義日本民族の消滅と天皇制度・皇室の廃絶であった。
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 歴史的事実として、天皇・皇族・皇室を戦争をして命を捨てても護ろうとした勤皇派・尊皇派・天皇主義者・攘夷論者とは、日本民族であり、学識と知識などの教養を持たない小人的な、身分・地位・家柄・階級・階層が低い、下級武士・野伏せり・悪党、身分低く貧しい庶民(百姓や町人)、差別された賤民(非人・穢多)、部落民(山の民{マタギ}・川の民・海の民)、異形の民(障害者、その他)、異能の民(修験者、山法師、祈祷師、巫女、相撲取り・力士、その他)、芸能の民(歌舞伎役者、旅芸人、瞽女、その他)、その他である。
 日本民族には、天皇への忠誠心を持ち命を犠牲にして天皇を守ろうとした「帰化人」は含まれるが、天皇への忠誠心を拒否し自己益で天皇を殺そうとする「渡来人」は含まれない。
 儒教の学識と知識などの教養を持つ、身分・地位・家柄の高い上級武士・中流武士や豪商・豪農などの富裕層・上流階級には、勤皇派・尊皇派・天皇主義者は極めて少なく、明治維新によって地位を剥奪され領地を没収された彼らは反天皇反政府活動に身を投じ自由民権運動に参加し、中には過激な無政府主義マルクス主義に染まっていった。
 江戸時代、庶民は周期的に伊勢神宮への御陰参りや都の御所巡りを行っていた。
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 同じ儒教価値観で卑賤視され差別される部落民や賤民(非人・穢多・散所{さんじょ}・河原乞食・他)とでは、何故・どういう理由で偏見をもって差別されるかが違う。
 マルクス主義共産主義階級闘争史観やキリスト教最後の審判価値観では、日本の部落民や賤民を解釈できないし説明できない。
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 現代の部落解放運動・同和解放運動が対象とする被差別部落民は、明治後期以降の人々で、それ以前の人々ではない。
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 12月15日 YAHOO!JAPANニュース ZAKZAK「幕末まで日本をまもった精神 皇室への〝政権の務め〟三大改革の根本理念にも…吉宗、慶喜に受け継がれた家康の遺訓
 徳川家康の像
 前回は、現行の歴史教科書における「神社(祭祀)不在」を指摘しながら徳川家康の遺産に言及したが、加えて「皇室(天皇)不在」の問題もある。皇室に興味なさげな多くの教科書執筆者も、重大な事件・事象の説明のために「天皇の名前を出さざるを得ない」と判断したときだけ、しぶしぶ書いているかのようである。
 徳川吉宗の像
家康は将軍就任後、大規模な土木工事の際に石高に応じて大名を動員する「御手伝普請」を定例化させた。これも教科書では、諸大名の財力を削(そ)ぎ、幕府に従属化させる政策だったと強調されるが、禁裏(皇居)などの造営・修復を後代まで継続させた側面を見逃してはならない。これも、室町幕府応仁の乱後に果たさなくなった〝政権の務め〟である。
 農業、特に稲作を国の根本と捉え、質素倹約を勧める家康の姿勢も、まさに皇室が国史上体現してきたことである。江戸時代を通して、その精神は曲がりなりにも生きていた。いわゆる三大改革の根本理念も、そこにあった。
 曾祖父にあたる家康を崇敬していた8代将軍、徳川吉宗は「諸事権現様(=家康)御掟の通り」と掲げて「享保の改革」を成功させた。吉宗の孫にあたる老中、松平定信は、その吉宗を模範として「寛政の改革」を断行。老中、水野忠邦は「享保寛政之御政事向」の復興を掲げて「天保の改革」を志した。
 忠邦は、定信の子にあたる松代藩主、真田幸貫(ゆきつら)を外様大名でありながら(=原則、譜代大名しか就任できない)老中に抜擢(ばってき)した。仮初(かりそめ)の規則よりも、国体(国のかたち)を護ることを規定した家康の精神継承が重んじられたといえる。
 寛政・天保両改革の頓挫は、政治手法もさることながら、大衆化など社会の変質によるところが大きい。世上で共有されるべき日本精神の綻(ほころ)びが、政情混乱をもたらすことも、歴史の教訓である。
 そして、家康の遺訓は、幕末の重要局面をも動かした。
 皇室尊重の精神は、特に徳川御三家尾張紀伊・水戸)に受け継がれ、水戸徳川家出身である最後の将軍、徳川慶喜も家訓を守るとして、大一番である鳥羽伏見や江戸城で矛を収め、敗戦を甘受した。江戸に向けて進撃する新政府軍に対し、尾張紀州両藩も抵抗しなかった。
 これらをあえて、謎めいて捉えようとする史家も少なくないが、家康の精神継承こそ国を守ることになると信じた指導者の行動を想定すれば、疑問も自ずと解けるはずである。 (日本経済大学准教授)
>国際情勢も見据えた「関ケ原」の戦後処理 現代的問題にも繋がる…家康が西軍に与した島津家の存続許した理由
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 12月14日 YAHOO!JAPANニュース ZAKZAK「伊勢の「神宮式年遷宮」存続を確固とした家康 断絶の危機にひんした国家事業 皇室を支える武家政権としての制度構築
 伊勢神宮、内宮の宇治橋鳥居(三重県伊勢市久野潤氏提供)
 本年は、10年前の第62回神宮式年遷宮から、10年後の第63回への折り返しの年である。この伊勢の神宮式年遷宮も、戦国時代に断絶の危機にひんした国家事業であった。
 応仁の乱後、室町幕府が支えるべき内宮式年遷宮が、120年以上行われないままであった。皇室の先祖にあたる天照大神が国家的に祭祀(さいし)される神宮の衰微は、皇室そして日本そのものの権威失墜を意味する。
 それを室町幕府滅亡後、天下人として莫大(ばくだい)な寄進も行い復興したのは織田信長、そして羽柴秀吉であった。だが、その時々の権力者の意思に左右されるようであってはいけない。
 1603(慶長8)年、征夷大将軍に就任した徳川家康は伊勢に山田奉行を設け、内宮・外宮の造営料として米6万俵を寄進するなど、遷宮費用すべてを幕府が負担することとした。
 歴史教科書には、江戸幕府天領(直轄地)について、「京都・大坂・奈良・長崎・佐渡・山田…」とだけ記されている。受験生時分の筆者も、この「山田」こそ、伊勢の神宮お膝元であることを知る由もなかった(=そもそも、教科書には、日本の神社界の中心的存在である神宮について、創祀や千数百年にわたる護持についてまったく書かれていないのだが…)。
 家康は室町幕府の失敗を踏まえ、皇室を支える武家政権としてふさわしい制度構築を試みた。その中でも最も重要かつ実効を挙げたものが、神宮式年遷宮ではないか。
 実際、第42回=1609(慶長14)年から第54回=1849(嘉永2)年まで、必ず20年に一度、遅滞なく行われている。幕末の国難はあっても、家康による制度化そして江戸時代の安定がこれに寄与したことは間違いない。
 そして、王政復古(明治維新)直後で財政難にあった1869(明治2)年にも、神宮式年遷宮が無事行われた。天皇中心の祭祀復興を掲げた明治新政府にとって、幕府に代わる正統性を確保するためにも、神宮式年遷宮において江戸幕府の後塵(こうじん)を拝するわけにはいかなかっただろう(=その後は、大東亜戦争敗戦直後の4年延引のみ)。
 はるか千数百年前に創祀された伊勢の神宮の現存は、当たり前のことではない。歴史学界で各幕府の比較研究が進展する近年においても、神宮式年遷宮について言及したものはほぼ見当たらない。
 廃絶の危機もあったなかで、400年余り前に家康が今日まで存続する土台を新たに確固と構築したことを忘れてはならない。
 くの・じゅん 日本経済大学准教授。1980年、大阪府生まれ。慶應義塾大学卒、京都大学大学院修了。政治外交史研究と並行して、全国で戦争経験者や神社の取材・調査を行う。顕彰史研究会代表幹事。単著に『帝国海軍と艦内神社』(祥伝社)、『帝国海軍の航跡』(青林堂)など。共著に『決定版 日本書紀入門』(ビジネス社)、『日米開戦の真因と誤算』(PHP新書)など。
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