⚔37)─4・E─江戸の日本が朱子学を無毒化できたのは中国へのコンプレックスのお陰。~No.162  

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本の儒教と中国や朝鮮の儒教とは別の儒教である。
 それは仏教でも言える事で、日本の仏教は中国仏教・朝鮮仏教とは違う。
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 儒学者は、中華(中国)皇帝と朝鮮国王は正当性の覇者(覇王)で、日本天皇は正統性の王者である事を認めていた。
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 2021年5月号 WiLL「朱子学の毒について
 日本でも朱子学の影響を免れることはできなかった。
 井沢元彦/石平
 等閑視(とうかんし)されていた儒学
 石平 本誌3月号で中国を中心に東アジアに深刻な影響を与えた朱子学について見てきましたが、日本でもその影響は免れませんでした。そもそも日本に儒教儒学)が入ってきたのは、仏教より早かった。
 井沢 そうですね。6世紀ごろだと言われています。
 石平 ところが、当時の日本人は儒教よりも仏教の導入に心血を注ぎました。聖徳太子法隆寺がその最たるものです。以降、江戸時代まで、日本の思想史の中心人物は空海最澄法然親鸞日蓮道元など、仏教関係ばかり。
 井沢 日本人の儒学者で目立った人物はいません。
 石平 江戸時代以降、日本人が儒学を積極的に受け入れるようになった大きな理由は何だったのか。
 井沢 徳川家康朱子学を国教のように扱ったことが大きかったと言えます。それ以前は、日本では朱子学は、それほど研究されていませんでした。中国の文献を詳細に読解できたのが、室町時代の五山文学(鎌倉時代末期から室町時代にかけて禅宗寺院で行われた漢文学)の担い手と言われる人々です。
 石平 義堂周信(1325~88)らがいました。
 井沢 つまり、儒学の書物は禅僧を中心に読まれていたのです。中国文学者、吉川幸次郎氏の『日本の心情』(新潮社)には、日本における儒学の受容史が紹介されています。五山文学の担い手たちの詩文は、本場中国でも通用するほど見事なものだと。
 石平 ほう。
 井沢 時代ごとに漢文の書き下ろしの方法が変わりますが、全然理解されていない場合と、中国語的に正しい場合の二つに分かれるそうです。五山文学の僧侶は中国留学もしていますから、正確な中国語を理解していた。ただ、儒学は最優先課題ではなかったのです。最初に仏典、次に詩文、最後に『こういうものもある』と儒学を紹介したようです。
 石平 そういう距離感だったわけですね。
 井沢 ただ儒学無神論です。無神論の哲学を有神論の仏者が講じる、というても歪(いびつ)な構図が生まれてしまったのです。そこが江戸時代まで続きました。
 石平 江戸時代の代表的な儒学者、藤原惺窩(1561~1619年)も相国寺の禅僧だったでしょう。
 井沢 そうですが、惺窩は僧侶が儒学を説く矛盾に気づいた。だから、惺窩は還俗({げんぞく}一度出家した者がもとの俗人に戻ること)して、儒学を説くことにしたのです。弟子の林羅山(1583~1657年)も似たような考えだったのでしょう。
 家康のトラウマ?
 石平 家康が朱子学を積極的に取り入れた理由は何だったのか。
 井沢 本能寺の変を目の当たりにしたからだと思います。明智光秀という一介の浪人を、織田信長が大名にまで引き上げました。ところが、光秀は信長を裏切り、殺害した。そして、そのを破り、天下を制したのが羽柴(豊臣)秀吉だった。信長は光秀以上に秀吉を取り立てたのです。一介の農民から大名にさせたのですから。ところが、秀吉は信長の息子、信雄・信孝が生きていたにもかかわらず、天下を乗っ取ってしまった。いわば、大恩人である主君の信長を裏切った格好です。
 石平 秀吉は〝忠臣〟の大石内蔵助ではなかった。
 井沢 そういう状況を見て家康は『日本にはモラルがなさすぎる』と思ったのです。
 石平 下剋上の世界に、家康も嫌気が差していたわけですか。どうやって克服するか、日本にとって大きな課題だったと思います。それは家康が秩序を重んじる儒学を導入した理由の一つでしょうが、もう一つの理由は戦国時代にかけて仏教は大きな権力を持ち、家康自身も一向一揆でたびたび悩まされたから、仏教への対抗の意味で儒学を持ち上げたのではないでしょうか。
 井沢 実に激しい宗教一揆が繰り広げられていました。今の感覚からすると信じられませんが、その当時、日本全体が仏教熱に浮かされていたのです。本願寺門徒は『宗主(しゅうす)様のためなら死んでもいい』と思っていた。むしろ、戦って死んだほうが極楽往生できるとまで考えていたのです。イスラム教の自爆テロと変わりません。
 石平 信長の実力を持ってしても、本願寺との戦い(石山合戦)が終わるまで10年もかかっています。
 井沢 信長が比叡山焼き討ちに踏み切ったのも、仏教徒の信仰心を抑えつけるためでもあったのです。そこまでしないと仏教の勢力を削ぐことはできなかった。ともかく日本に道徳規範がなければ、外国から輸入するしかない。当時、二つの思想がありました。一つはキリシタンキリスト教)、もう一つが儒学朱子学)だったのです。
 ところが、キリスト教の場合、神の前では、みな平等となる。身分社会をつくる上では不都合な宗教ですから、家康は排除した。そこで『忠』と『孝』という2本柱を植え付けるのにうってつけの、朱子学を積極的に導入したのです。
 石平 惺窩や林羅山を中心に、武士階級に奨励していった。
 井沢 大名も家来たちが恩知らずの光秀や秀吉になったら困ります。右にならえで、日本中に儒学を教える藩校がつくられていきました。
 石平 湯島聖堂(東京)や閑谷(しずたに)学校(岡山)が、その名残ですね。
 井沢 そういう意味で、家康は実に賢かった。平和な世界を築くために、家康は参勤交代という人質政策を実施しましたが、それだけでは足りない。人の心を変える必要があると。
 石平 それが儒学だった。。ただ、不幸なことに、中国や朝鮮半島でその頃盛んだったのが儒教の変種である原理主義朱子学だった。家康は朱子学の毒に気づくことなく、朱子学を導入してしまう。
 井沢 気づいていれば、どうしたかな。
 忠臣蔵の真実
 石平 そういう経緯があって、江戸時代、朱子学が〝指導的理念〟として奨励、官学化されるわけですが、徐々に、朱子学の毒の影響が出てきます。たとえば、寛政の改革を実行した松平定信は『寛政異学の禁』(朱子学以外の学問を教えることを禁ずる)を発令しました。
 井沢 朱子学原理主義的で、排外的な思想ですから、定信のような人物が出てくるのは当然です。ただ、5代将軍、徳川綱吉は英明な将軍でした。それほど朱子学を信奉していない儒学者室鳩巣(1658~1734年)や荻生徂徠(1666~1728年)を積極的に採用し、朱子学の毒を克服しようとする。新井白石(1657~1725年)もその中から頭角を現したのですが、次ぎの6代将軍、家宣に対して、綱吉のやり方を徹底的に批判したと言われています。原理主義的な人物だった。
 石平 白石は幕府の政策にもかなり口をだすようになっています。
 井沢 ええ、林羅山のときは、いわば文部大臣のような立場でした。ところが、白石の時代になると、儒学者が政治にも絡んできます。……
  ……
 井沢 ……天皇側か、武士側か、正成はどちらにつくか悩み、結局、天皇側についた。
 ですから、正成は武士社会から、いわば組合を裏切り企業側についた汚いヤツだと白い目で見られていたのです。この正成が復権するのが江戸時代、徳川光圀がその立役者でした。
 光圀の影響
 石平 ご存じ黄門様ですが、『大日本史』を編纂し、水戸学の創始者の側面もあります。
 井沢 明から渡ってきた儒学者朱舜水({しゅしゅんすい}1600~82年)を師としており、朱子学の影響を大いに受けました。日本の忠臣は誰かいないかを探したところ、正成にぶち当たったのです。それ以降、正成は幕府に逆らってまで天皇に忠誠を尽くした大忠臣として祭り上げられ、今や皇居前に銅像まで建っています。
 石平 評判が大逆転してしまった。朱舜水の場合、彼は明朝と清朝易姓革命を経験して明の皇帝が滅んだことを目の当たりにしました。そんため、万世一系の日本の皇室の重みと有り難さを日本人以上に分かっているから、いわば『勤皇思想』を光圀に説いたのでしょうね。
 井沢 そのうえで、忠臣蔵の連中を考えると、彼らは果たして忠志だったのか、ということです。中国の思想からすると、忠臣ではないでしょう。
 ……
 石平 同情しつつ、果断な処罰が必要であると。
 井沢 山崎闇斎(1619~82年)の弟子の一人、佐藤直方(1650~1719年)は『幕府の裁定(切腹)は理に当たっており、彼らの志も義に当たっているなどという者がいるが、官裁が理に当たっているというなら、彼らは不義の輩以外の何ものでもないはずである』と手厳しく批判しています。一方で、浅見絅斎(1652~1711年)は『まれな忠臣義士である』と一定の評価を下し、意見が二分していく。こう見てみると、忠臣蔵事件から日本の朱子学は別種のものに変化していきます。
 王者と覇者
 石平 家康は武士社会の秩序をつくり出すために、朱子学を導入しました。でも、そこに一つの大きな落とし穴があった。朱子学の頂点を極めると、世俗の権力の頂点に立つ立つ将軍でも、一つの大きな枠組みの中に組み込まれているに過ぎない。それが『天皇』という存在です。朱子学を突き詰めていくほど、天皇に向かわざるを得ない。
 井沢 それこそが家康の大誤算だったと思います。徳川家に反乱するような輩を抑えつけるために朱子学を学ばせた。しかし、その結果、朱子学を学んだ武士たちは『本当の主君は徳川家ではない。天皇だ』と思うようになったのです。朱子学流に言えば、天皇は『王者』、徳川家は『覇者』に過ぎないと。
 石平 『王者』とは徳をもって世の中を治める理想的な主君、『覇者』とは戦争や陰謀などによって権力を得た君主のことです。
 井沢 ただ、家康自身、自覚はあったと思います。そこで家康は仏教と神道の力を借り、自らを東照大権現であると神格化させました。天上界から乱世の世の中を見かねて降りてきて、人間として苦労を重ねて天下を取り、今は天にお帰りになった。人間界にいるとき、人間の女性と交わり、子孫を残されている。つまり、徳川家は神の子孫であると。
 石平 家康としては、皇室に対抗しているわけですね。
 井沢 天皇も神が人間界に降りてきて、人間の女性と交わり生まれた子供の子孫であるとしています。皇室は天照大御神の子孫。一方、東照は『アズマテラス』。家康は『これまでの日本は天照大御神の子孫である天皇が世を治めてきたけれど、これからは東照の神様の子孫である将軍家が世を治める』としたのです。ですから、家康としては朱子学をたとえ導入したとしても、世の中の価値観がひっくり返るとまでは考えていなかった。
 石平 ただ、征夷大将軍という官位は、天皇からいただくもの。天皇という権威が厳然としてあることを示しています。
 井沢 東照大権現という称号も、朝廷から許可を得ています。朝廷からではなく、独自の役職や称号を考え出せば、朝廷の権威を脱することができたかもしれません。
 『権威』と『権力』の違い
 石平 しかし家康は結局、天皇の権威を頂点とした政治秩序の中で幕藩体制をつくり上げるしかんかったのです。そういう意味では、日本の権威のあり方が、中国とはまったく違います。中国人が永遠に理解できないのは、次の一点です。家康は皇室をなぜ潰さなかったのか。
 井沢 中国では皇帝と名乗ればいいのですが、天皇は神の子孫です。たとえ、皇室を潰しても、『神のDNAを受け継いでいるのか』と、その正統性を否定されてしまう。儒学無神論ですから理解することができない迷信なのです。でも、その迷信こそが民主主義を誕生させる原動力になる、という面白い逆説があります。
 石平 『権威』と『権力』の違いを日本は分けています。それは非常に賢明なやり方であって、絶対的な権力者や独裁者が日本から出てこないのです。でも、中国は一緒にしてしまうから、いろんな問題はそこから生じてきています。
 井沢 イエスやアラーを信じるからこそ、神の前には平等だとなる。国王・庶民という身分は存在しないとなるから、フランス革命のように庶民が国王の首をギロチンにかけることができます。ところが、中国では一介の農民が皇帝の首を切っても、次の皇帝になるにすぎない。士農工商という身分制度は、牢固(ろうこ)として動きません。
 石平 中国では、絶対的な権力者である皇帝の下では官僚が『大人』であって民は『草民』であるから、万民は平等であるという意識なんて、絶対に生まれようがない。
 井沢 それこそが朱子学の毒ですが、では、なぜ日本では民主主義が実現できたのか。吉田松陰が『天皇は神の子孫である』という伝統を利用し、天皇の前ではみな平等であるとしたのです。関白だろうが、将軍だろうが、一庶民であろうが、関係ありません。このことを私は『日本型平等主義』と呼んでいます。
 石平 明治以降の近代国家成立にとっても、天皇の存在は不可欠だったのです。
 井沢 そういうことです。戦後、左派の連中は反天皇天皇不要論を口にしています。日本を敗戦に巻き込んだ張本人だと言いたいわけですが、まったく無意味な論説です。明治維新天皇を据えなければ、万民が平等と言える近代国家はできなかった。
 石平 そういう逆説ですね。天皇を頂点に据えたからこそ、明治政府の廃藩置県も上手くいって幕藩体制を打破することができ、万民平等の近代国家をつくり上げたのです。
 井沢 ただ、問題がなきにしも非ずです。ヨーロッパの場合、神という存在を目に見えません。
 ですが、天皇は目の前に存在します。『これは天皇の思し召しである』と軍が勝手に言い出せば、国を操ることだってできてしまう。ここが大日本帝国のアキレス腱だったと言えます。
 田沼政治の是非
 石平 朱子学は官学に祭り上げられ、『格物致知(かくぶつちち)』(物事の道理や本質を追究して理解して、知識や学問を深めること)『誠心誠意』『治国平天下』という思想を武士たちは信奉します。一方で、町人・商人たちを見ると、儒教を受容しても、朱子学派それほど広まっていないように見えます。
 井沢 朱子学は『商人は人間のクズだ』と考えています。松平定信も『商(あきない)は詐(さ)なり』、つまり、商売は賤(いや)しいものだと見ていました。農民とは違い、人が汗水たらしてつくったものを、右から左に流して利益を得る商人は、詐欺のようなものだと見ていました。
 江戸時代、『享保の改革』(徳川吉宗。1716~45年)、『寛政の改革』(松平定信。1787~93年)、『天保の改革』(水野忠邦。1841~43年)という三大改革が実施されましたが、朱子学の影響が色濃い政策です。農業を盛んにして国を豊かにしようとした。
 石平 商工業はまるで無視。
 井沢 『胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり』と豪語した悪代官、神尾春英(1687~1753年)は、8代将軍、吉宗の部下でした。吉宗は商人から税を取るのは賤しいものだとして取らなかった。その代わりに、百姓から絞れるだけ税を絞ったのです。百姓からすれば、吉宗は悪い将軍ですよ。
 石平 テレビドラマ『暴れん坊将軍』では、吉宗は庶民の味方のように扱われています。
 井沢 吉宗に反攻したのが、尾張徳川藩第7代当主の宗春です。宗春は商業重視で、商業を盛んにすれば、民も豊かになり、幸せになると考えたのです。ですが、当時の江戸時代の常識に従って、商人から税を取ることはなかった。そのため、宗春はばら撒いたものの、結果的に財政破綻に陥ってしまったのです。吉宗にその責任を追及され、隠居に追い込まれ、宗春の政治は潰された。でも、吉宗の享保の改革以降、百姓一揆が頻発するようになっています。
 石平 どの改革も成功したとは到底言えません。
 井沢 吉宗の孫である10代将軍、家治は田沼意次(1719~88年)を採用して、商業重視の政治を始めました。ですから、今の歴史教科書を見ると、『田沼政治』(1767~86)と表記されている。『○○の改革』とはなっていません。
 石平 田沼の改革であると評価していないわけですね。
 井沢 かつては『田沼の悪政』とまで言われるほどでした。
 節約政策ばかり
 石平 これこそ朱子学の悪影響と言えます。三大改革の中身を見ると、反商業主義の節約政策ばかりです。市場経済の毒から武士の精神を守ろうとしていたが、結果的に失敗に終わりました。
 井沢 米は江戸時代、立派な商品です。飢饉のときになれば、米の価格は2倍、3倍と値上がりします。だから、豊作のときは売らず、蔵に入れて管理し、値上がりしたときに売ればいいのに、徳川家の武士は誰もしていません。商人のような真似をしたくないと拒んだのです。
 ……
 石平 江戸時代では武士が商人から借金をするまでになった事実を知ったとき、驚きましたよ。中国だったら、支配階層が下のものから借金することなんてあり得ない。必要であれば奪い取ればいいのですから。
 井沢 日本の武士は、そんなことを考えない。1万両を商人から奪ってしまったら、それは商人の稼ぎを利用したことになる。でも、借りたものであれば返せばいい。商人に依存したことになりません。苦しい言い訳ですが。
 石平 そういう意味で、いわば士農工商身分制度は、別に上の武士階層が一番下の商人階層を抑圧しているイメージではなく、むしろ武士も商人もそれぞれ自分たちの『分』を守って役割分担をしている感じですね。ただ、幕府はオランダとの外交貿易関係を築いていたでしょう。
 井沢 それは家康というご先祖が決めたことだからOKなのです。『祖法(そほう)』と言いますが、これも朱子学の考え方の一つです。祖法を変えることはご先祖様を批判することになる。ただ、オランダとの貿易でも、幕府は儲け主義に走らなかった。オランダ貿易が財政に一度でも寄与したとは気いたことがありません。幕府は賤しい行為はしたくないと、長崎商人に丸投げしていたのです。
 中華すら必要ない
 石平 商人の立場からすると、朱子学は自分たちの商売行為を阻害するものだと考えていたのではないでしょうか。だから、自分たちで儒学を研究するほかなかった。
 井沢 渋沢栄一は、『論語』は商売を決して賤しいものだと蔑(さげす)んでいないと。でも、この考え方は、実は渋沢がオリジナルではなく、伊藤仁斎(1627~1705年)がすでに言及しています。
 石平 仁斎は古義学(こぎがく)を提唱しています。古義学とは朱子学を批判し、朱子を通じての『論語』ではなく、直接、『論語』という原典を読む。さらに徂徠は『論語』より以前の『六経(りくけい)』(儒教の基本的な六つの経典。『易』『書』『詩』『礼』『春秋』『楽』の六つの経書)を重視する。
 井沢 孔子に影響を与えた最古の古典に戻って、そこから始めればいいとした。『古文辞学(こぶんじがく)』と言います。朱子学を無視して原点回帰せよと。このことを漢語で『維新』と言います。
 石平 さらに賀茂真淵(1697~1769年)や本居宣長(1730~1801年)などの国学者が登場してきます。中国の古典さえ通り越して、『古事記』や『万葉集』など日本の古典こそがすべてだと。
 井沢 こういった流れは、日本の中国に対するコンプレックスから来ているのでしょう。山鹿素行(1622~85年)は『中朝事実』という本を書いていますが、〝中朝〟とは日本のことを指す。『中国』と偉そうに言えば、実態はどうか。王朝は次々に交代している。一方で日本は万世一系の国だと。だから、日本こそ世界の中心であるとしたのです。ちょうど明が清に滅ぼされた時期とも重なっていて、中国の伝統は日本が受け継いでいると考えたのです。
 石平 そういうメンタリティが働いていた。
 井沢 さらに神道とも結びつき、天皇が一番偉い存在であるとなれば、日本は中国を越えた〝神州〟であると。
 石平 それでも山鹿素行は『中華』というものに最高の価値を置いて、『日本こそ中華だ』と言っていますが、後の宣長になると、中華(中国思想)すら必要ではなくなります。中華文明が入ってくる以前の純粋な日本の思想に最高の価値を置いた。ところが、明治以降、再び朱子学が息を吹き返してしまう。
 官僚制度の弊害
 井沢 官僚制度を生み出したことが、その元凶ですよ。試験に合格した者が優秀であり、国家の中枢を担うべきだとした。最初の頃は良かったのです。
 それまで『おれは将軍家の家来だから、大名の家来より偉い』『同じ貴族だけれど関白になれる家柄だった』と身分差別が強くあったのですが、試験制度があれば、商人だろうが、農民であろうが、誰にでもチャンスがある。
 石平 まさに科挙制度そのものです。中国では隋から清の時代まで科挙制度が続いていましたが、日本は科挙制度を拒否し続けました。
 ところが、明治になってから見事、科挙社会が生まれてしまったのです。
 井沢 国家公務員上級試験をパスすれば、官僚になれて、しかも出世できる可能性がある。ですが、国家が成熟する段階においては、組織の固定化などの弊害が出てきます。民間の活力を利用すればいいのに、いまだに官僚試験を続けている。大日本帝国でも、その弊害はありました。
 ……
 鍋料理文化の日
 石平 江戸時代の幕藩体制は、朱子学とは最終的に矛盾することになる。つまり、朱子学を突き詰めると、天皇に行き着かざるを得ない。明治の新体制は、この矛盾を解消したのです。
 井沢 四民平等という考え方は、朱子学ではあり得ないことです。朱子学からすると、人間には格差があると考える。徳のあるやつもいれば、ないやつもいる。優秀な人間もいれば、無能な人間もいる。では、どうやって見抜くか。科挙を実施し、ふるいにかける。そうやって選ばれた人間が選ばれなかった人間を指導するのは当然だというわけです。現在の共産主義社会も同じです。選ばれた共産党員が愚かな大衆を指導する。
 ところが、日本の場合は天皇という爆弾を持ってきたため、身分制がすべて破壊された。天皇の前にはみな平等だと、『天皇の赤子(せきし)』という言葉も生まれました。翻っていえば、日本国民は天皇を父としたのです。
 石平 国民全体が家族であると。
 井沢 『忠』と『孝』の問題がここでも問われます。中国の場合は『孝』のほうが『忠』よりも上です。たとえば、天下を左右する戦いに兵士として参加しても、親が病気で重態であれば、『孝』を優先して故郷に帰ってしまう。ですが、日本の場合はそれができない。天皇は父親でもあるから、天皇のために戦うことは『孝』を尽くすことになる。
 石平 『忠孝一致』ですね。
 井沢 だからこそ、日本は近代国家の道を歩めるようになったのです。
 石平 中国ではいまだに『忠』と『孝』の矛盾を克服できていません。皇帝も一つの家ですが、自分たちの家族も一つの家です。公と一族は常に矛盾をはらんでいる。解決の糸口はいまだに見出すことができていません。
 井沢 常に家族優先です。
 石平 だから、中国はいつまでたっても近代国家になれないのです。
 井沢 一度だけ、中国史上、『忠』と『孝』の矛盾を克服したことがあります。毛沢東文化大革命時代、紅衛兵の一人が母親の罪を密告し、処刑に追い込んだことがある。それまで考えられなかったことです。瞬間風速的ですが、毛沢東というカリスマの存在が、『孝』という意識を吹き飛ばしてしまった。
 石平 そうですね。中国の伝統社会、特に農村社会は、どれほど王朝が交代しても一族中心に暮らしていました。ところが、毛沢東は農村社会を解体して、人民公社に吸収させた。そのとき、擬制的な一君万民の社会が実現したのです。ですが、その人工的な社会も毛沢東の死去とともに終わってしまった。
 井沢 それに毛沢東時代、人々が幸せだったかというと、そんなことはありません。文化大革命などで何千万人が死んだと言われています。『忠』と『孝』という矛盾に縛られている中国の悲劇性は、とてつもなく大きいと言わざるを得ません。
 石平 その通りです。ところが日本の場合、朱子学が入ろうが、仏教が入ろうが、最終的には日本は日本のまま、という印象を受けます。キリスト教でも同じ。日本の伝統には、外来宗教や文化が変えることのできない強靭さがある。作家の芥川龍之介は短篇『神神の微笑』で、『造り変える力』と言っています。この場合は、キリスト教にしても日本流に造り変えてしまういう意味です。
 井沢 日本の文化は鍋料理と同じです。さまざまな具材が入ってきても、結局、鍋の中でグツグツ煮込んで、一つの料理となってしまう。
 ……
 お人好しの日本人
 石平 ともかく、中国との付き合い方だけは気を付けなければなりません。渋沢は『渋沢栄一「青淵論叢(せいえんろんそう)」』(講談社学術文庫鹿島茂編訳)で『中国と付き合うには敬愛の心が大切だ』『お互いに情愛をもって交際すべき』と言っています。この考え方は現代も引きずっているような気がします。福田康夫元総理は『お友達(中国)の嫌がることをあなたはしますか。国と国の関係も同じ。相手の嫌がることを、あえてする必要はない』なんてことを口にしている。でも、そのために、日本は中国に何度も裏切られてきました。尖閣諸島が脅威にさらさている中、『情愛の心』や『友愛の海』なんていっても相手には通じないでしょう。
 井沢 日本人はお人好しなんです。中国人は海千山千の連中ですから。操ろうなんて、とてもじゃないけど無理な話です。せいぜい利用されて捨てられないようにする。
 石平 日本のビジネスマンが中国で商売をしたいのなら、中国人になり切るほかありません。平気で嘘をつき、人を騙す術(すべ)を身につけたほうがいいかもしれません。しかし、日本そのものは、自らの良さを保っていくべきです。中国の場合、人々が騙し合うのですから社会は、なかなかまとまりません。だから、カリスマ的な独裁者が必要になって独裁者支配の抑圧の社会になってしまいます。そんな社会は、日本はいらない。日本人は天皇を中心に、『天下一家』のような感じで、なんとなく一つの穏やかな社会でまとまっています。ですから、そこは日本人として自信を持つべきでしょう。
 過去、中国の思想に影響を受けてきた日本ではありますが、中国に対して憧れを抱く必要はありません。冷静に、客観的に中国を観察し、適当に対応をするべきです。」
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中韓を滅ぼす儒教の呪縛 (徳間文庫)
なぜ論語は「善」なのに、儒教は「悪」なのか 日本と中韓「道徳格差」の核心 (PHP新書)
朱子学と陽明学 (岩波新書 青版 C-28)
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 飛鳥時代、日本はインドの仏教を受けいれたが中国の儒教は受け入れなかった。
 奈良時代、日本は唐の律令制を導入したが隋の科挙(高等官資格試験)などの儒教制度は受け入れなかった。
 何故、日本は儒教より仏教を選んだのか、それは日本民族心神話・血の神話・高天原神話、記紀神話日本書紀古事記)などの神話に拠るところを絶対正統とする皇室・天皇制度を守る為であった。
 中華儒教には、遊牧異民族が軍事力で漢族(中国人)の中華を侵略して暴力で建国した征服王朝中華帝国)の正当性を認める政治理論が含まれていたからである。
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 キリスト教 仏教、イスラム教は一つではなく数多くの宗門宗派が存在する。
 キリスト教には、同じイエス・キリストと聖書であっても、ローマ・カトリック教会プロテスタント東方正教会諸派教会がなど数多く存在する。
 日本仏教は、インドの釈迦が開いた宗教で、同じ経典・お経を学んで唱えても、インド仏教、チベット仏教、中国仏教、朝鮮仏教、その他と全然違う。
 日本儒教は、中国の孔子が開いた儒教であっても中華儒教の中国儒教・朝鮮儒教とは全然違う。
 日本独自の神道ですら、宮中神道神社神道教派神道伊勢神道吉田神道、その他と数多く存在する。
 だが、日本人は物事を深く突き詰めて考える事が苦手な単細胞的単純思考であるだけに、それらの違いを理解するのが面倒臭いから同じモノだと納得し安心している。
 つまり、日本人には宗教の対立・弾圧・戦争が分からない為に無宗教無神論に逃げ込んでいる。
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 徳川家が天皇家に見劣りしない神の子孫となる為に、徳川家康は死後に東照大権現と神格化されて東照宮に祀られた。
 これによって徳川家は神の血を引く一族になり、その神の血筋を正当として日本を統治した。
 日本における神聖不可侵の絶対的正統は天皇・皇室にあって、それ以外は変更可能な正当であった。
 天皇・皇室の正統は、日本神話、民族中心神話、血の神話、高天原神話によって裏打ちされ、それ源流は数万年前の縄文時代の祭祀まで遡る。
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 徳川家は、神の血を引く神の子孫である、それは科学的根拠のない迷信・戯言・作り話である。
 敗者の徳川慶喜は、神の血を受け継ぐ神の子孫であるが故に、たとえ朝敵・賊軍の責任があったとしても処刑される事がなかし、後に恩赦で罪は許され公爵に叙せられ復権した。
 それが、八百万の神々という日本の多神教=日本神道である。
   ・   ・   ・  
 現代日本人は、武士・サムライと縁もゆかりもないがゆえに武士道の本当の意味が分からない、愚かにも、知ったか振りで武士道を論じている。
 真に武士道を論じる資格のある日本人は、心身共に厳しい鍛錬をへ自我を律し天皇と志の為に命を捨てる覚悟のある極一部の日本人だけである。
 マルクス主義史観・共産主義史観やキリスト教史観は無用の長物である。
 武士・サムライ、武士道を語る資格がない日本人とは、左翼・左派・ネットサハなどのマルクス主義者であり、リベラル派・革新派そして一部の保守派やメディア関係者・学者である。右翼・右派・ネットウヨクも同様である。
 彼らには、武士・サムライ、武士道を語る資格がないと同様に百姓・農民や職人を語る資格もなく、日本の歴史、日本民族の歴史で語る資格があるのはごく狭い範囲のみである。
 つまり、彼らが語る日本の歴史、日本民族の歴史には意味がない。
 が、彼らが語る日本の歴史、日本民族の歴史が歴史教育となっている。
 意味のない歴史教育で高得点をとって社会に出てきているのが、高学歴な知的エリートと進歩的インテリそして反天皇反日的日本人達である。
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